あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

30年振りの再会

2012-12-28 18:59:39 | インポート

先日、30年振りに教え子と再会し、酒を飲みながら語り合いました。W君は、仙台市内の小学校に勤務していた頃に、3年・4年と担任した子でした。それ以来 会う機会はなかったのですが、妻がある研修会で偶然出会い、それが縁となって今回の再会となりました。今は、教職の道を歩んでいるということで、話も弾みました。

子どもたち一人一人が主役となって活躍する学級をどうつくっていくか、子どもの目線でものごとを考え、実践している様子に、うれしさと同時に頼もしさも感じました。語る時の目の輝きには、かっての教室の中で見た輝きと同じものを感じ、なつかしさも覚えました。本が好きで、豊かな感性とひょうきんさを持ち、チョロョロといろんなところに出没する(?)子どもでした。

話の中で、当時教育実習生としてクラスに来ていたK先生のことが話題になりました。彼には、K先生が研究授業で詩の授業をしたことが、深く心に残っていたようです。教師になってからも、その詩を思い出し、自分でも授業したいと考えたのこと。しかし、いろいろ調べてみたものの詩を見つけることはできなかったということでした。

30年たっても忘れることのできなかった授業。改めて、K先生のすばらしさを想います。授業で扱った詩は、教科書にはのっていない、K先生自身が子どもたちと一緒に読んでみたいと考えた詩でした。詩自体の力もあったのでしょうが、K先生自身の詩への感動が土台にあったからこそ、同じ読み手である子どもたちと 熱く感動を共有できたように思います。K先生は、実習の最後に、子どもたちのためにと 1冊の本を贈ってくれました。「星の王子様」です。かんじんなものを心で探すことのできる すてきな先生になるだろうなあと思ったものでした。その後大学を出てから、故郷:長野県の教師になりました。今は、どんな先生になっているのでしょうか。

その時の詩を次に紹介します。W君にも送ったので、彼がどんな詩の授業を展開するのか楽しみです。

 

                     岩波新書「詩の中にめざめる日本」真壁仁編 より

 

<o:p> </o:p>「便所掃除」<o:p></o:p>

             浜口 国雄<o:p></o:p>

 扉をあけます。<o:p></o:p>

 頭のしんまでくさくなります。<o:p></o:p>

 まともに見ることが出来ません。<o:p></o:p>

 神経までしびれる悲しいよごしかたです。<o:p></o:p>

 澄んだ夜明けの空気もくさくします。<o:p></o:p>

 掃除がいっぺんにいやになります。<o:p></o:p>

 むかつくようなババ糞がかけてあります。<o:p></o:p>

 

どうして落着いてくれないのでしょう。<o:p></o:p>

けつの穴でも曲っているのでしょう。<o:p></o:p>

それともよっぽどあわてたのでしょう。<o:p></o:p>

おこったところで美しくなりません。<o:p></o:p>

美しくするのが僕らの務です。<o:p></o:p>

美しい世の中もこんな所から出発するのでしょう。<o:p></o:p>

 

くちびるを嚙みしめ、戸のさんに足をかけます。<o:p></o:p>

静かに水を流します。<o:p></o:p>

ババ糞に、おそるおそる箒をあてます。<o:p></o:p>

ポトン、ポトン、便壺に落ちます。<o:p></o:p>

ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。<o:p></o:p>

心臓、爪の先までくさくします。<o:p></o:p>

落すたびに糞がはね上って弱ります。<o:p></o:p>

 

かわいた糞はなかなかとれません。<o:p></o:p>

たわしに砂をつけます。<o:p></o:p>

手を突き入れて磨きます。<o:p></o:p>

汚水が顔にかかります。<o:p></o:p>

くちびるにもつきます。<o:p></o:p>

そんなことにかまっていられません。<o:p></o:p>

ゴリゴリ美しくするのが目的です。<o:p></o:p>

その手でエロ文、ぬりつけた糞も落します。<o:p></o:p>

大きな性器も落します。<o:p></o:p>

 

朝風が壺から顔をなぜ上げます。<o:p></o:p>

心も糞になれて来ます。<o:p></o:p>

水を流します。

心に、しみた臭みを流すほど、流します。<o:p></o:p>

雑巾でふきます。

キンカクシのウラまで丁寧にふきます。<o:p></o:p>

社会悪をふきとる思いで、力いっぱいふきます。<o:p></o:p>

 

もう一度水をかけます。<o:p></o:p>

雑巾で仕上げをいたします。<o:p></o:p>

クレゾール液をまきます。<o:p></o:p>

白い乳液から新鮮な一瞬が流れます。<o:p></o:p>

静かな、うれしい気持ですわってみます。<o:p></o:p>

朝の光が便器に反射します。<o:p></o:p>

クレゾール液が、糞壺の中から、七色の光で照します。<o:p></o:p>

 

便所を美しくする娘は、<o:p></o:p>

美しい子供をうむ、といった母を思い出します。<o:p></o:p>

僕は男です。<o:p></o:p>

美しい妻に会えるかも知れません。<o:p></o:p>

 

最後の四行に込められた 作者の願いは、叶えられたのでしょうか。<o:p></o:p>

外見の美しさではなく、心の美しさを身につけた 真に美しい女性と 出会えたことと思います。

汚れたものを 美しくすることは 目に見える汚れを落としながら、目に見えない 社会の汚れ

や 自分の心の内側まで 磨き上げることなのかもしれません。

磨き上げた後の爽快感は、汚れに立ち向かった人だからこそ感じとれるものなのでしょう。

美しいものは それを磨き上げる人に支えられているからこそ 美しいのかもしれません。

見えないところで 見える美しさを つくり 支えている人のいることを 

感じとることのできる 人間でありたいものです。

 

<o:p> </o:p>

 

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松井選手の引退表明

2012-12-28 15:53:01 | インポート

かって 巨人の長嶋選手が引退表明をした時には、これで一つの時代は終わったなあと感じたものです。野球が大好きだった私にとっては、小さい頃から背番号3は憧れの存在でありヒーローで在り続けていました。そのヒーローが球場で活躍する姿をもう見れなくなるということで、失恋にも似た悲しくさびしい思いでいっぱいになりました。

その長嶋選手に代わるヒーローが、私にとっては松井秀喜選手でした。新たなヒーローとなる松井選手が巨人軍に入団することを運命づけたのは、当時の巨人軍監督であった長嶋監督でした。ドラフト会議で指名権獲得のくじを引いたのです。私にはそのことも運命的なつながりのようなものに感じました。

以来、巨人軍時代の10年、大リーグで活躍した10年と、松井選手を応援してきました。ヤンキースが大リーグで優勝し、MVP(最優秀選手)に輝いた時には、さすがスーパーヒーローと心からその活躍を喜んだものです。

しかし、ゴジラと親しまれた強健な体力にも衰えが見られ、相次ぐケガもあり、思うように体が動かず『結果が出せなくなった』ことで、引退を決意したとのことでした。

いつかその時期はやってくるだろう と思ってはいたのですが、突然のニュースで驚いてしまいました。また一人の大切な心のヒーローを失うことになったのですから、とても残念に思います。

松井選手は、練習熱心で 勝負強く 野球選手としてはもちろん、礼儀正しく 穏やかな性格から 人間としても 選手や監督から 厚く信頼される存在だったようです。

朝日新聞のスポーツ欄には、松井選手のこれまでの活躍を振りかえる記事が掲載されていました。星稜高校でチームメートとして喜怒哀楽を共にした記者が書いたとのことで、友としての思いも込められていた 心を打つ内容でした。その末尾は、次のようにまとめられていました。

『 ~ 高校時代、松井の部屋の机には1枚の色紙が飾られていた。「努力できることが、才能である」。父・昌男さんから贈られた言葉。恵まれた体格におごらず、最後までその教えを貫きとおした打者だった。 』 

いい言葉ですね。才能は特別な人に特別に与えられたものではない。誰でも、努力はでき、その努力を続けることが、才能である。その才能さえあれば、道は開ける。…… お父さんの色紙に励まされながら、松井選手は日々努力を積み重ね、偉大な選手としての道を歩み続けたのではないかと思います。

常に試合の前の準備や練習をおこたらず、素振りの練習も欠かさず続けていた 松井選手。努力を続けても結果が出せないことに 力の限界を感じると共に チームやファンに対して申し訳ないという思いから、 潔く 引退という道を選んだのではないかと思います。

今は、まず ゆっくりと体を休めてほしいと思います。

「 ありがとう 松井選手。20年間、ご苦労さまでした! 」

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聖なる夜に

2012-12-24 22:29:39 | インポート

空から まいおりる 白い小人たちが

道をつつみ 家々の屋根をつつみ 町をつつみます

野原も 森も 山も 白一色の 世界に 生まれ変わり

新しい一日が始まります

  昨日の繰り返しではなく

  昨日の続きでもない 真っ白なページが用意され

  あなたが 主役となる 新たな物語が始まるのです

    聖なる夜は すべてを つつみこむことで

    人の心の中まで 透き通るような 白さで 染め上げるのです

      忘れていいことは 忘れ

      背負っている荷物は 下ろし

      本当に 見つめたいものを 見つめ

      大切にしたいものを 大切にして

      物語を 始められるようにと

        そんな特別の夜が 

        今日 12月24日なのかもしれません

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サンタクロース追跡プロジェクト

2012-12-23 18:36:35 | インポート

明日は、クリスマス・イブですね。サンタクロースにとっては、一日中てんてこ舞いの忙しさなのではないかと思います。新聞によると、北米防衛局司令部(NORAD)は、24日に毎年恒例のサンタを追跡するプロジェクトを実施するとのこと。

クリスマスブレゼントを配るために世界中を移動するサンタを追跡し、その様子を24日未明からNORADのウェブサイトで、日本語を含む8カ国語で紹介するそうです。

担当者によると、『……サンタはものすごい速さで移動するのですが、私たちの人工衛星は、トナカイの鼻からでる赤外線を探知して、サンタを追跡できるのです。』 だそうです。サンタが実在するかどうかについては、『50年以上にわたる我々追跡から導き出された結論は、サンタが世界中の子供の心の中に実在し、愛されているということだ』 とのことです。

読みながら、心の中までホンワカとあたたかくなり、思わず笑ってしまいました。でも、私も、導き出された結論には、心から同感です。

読み終わった後には、サンタの存在について、手紙を書いて新聞社に問い合わせた少女のことを思い出しました。新聞社では、その幼い読者の質問を真摯に受け止め、大きく紙面を割き社説として紙上に掲載します。人間の想像力のすばらしさ、そしてそこから生まれた妖精などの存在が、どんなに人間の世界に豊かさと潤いを与えてくれているのかを語りながら、サンタクロースは確かにいるのです と 結論づける 内容でした。

~ この少女の手紙と新聞社の社説を載せた本:「サンタクロースはほんとにいるの」や 少女のその後の人生を紹介する本:「サンタの友だちバージニア」が 出されています。 ~

『かんじんなものは目では見えない。心でさがさないと…。』 星の王子様の一節にあるように、こころでさがすことで、大人にもサンタが見えてくるのかもしれません。そんなすてきな大人たちだからこそ、子供の心の中に実在するサンタが見えているのだと思います。そして、子どもたちといっしょになって、サンタをさがしてみたいと考えるのだと思います。

星の王子様の序文には、次のような一節も書かれています。

『…… おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかしそのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)……』

子どもだったころの心を忘れずに持ち続けている大人の心の中にも、サンタは確かに実在し、愛される存在として生き続けているのだと思います。 

クリスマスを前にして、そんな一人の大人で在り続けることができたら と願います。

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かそこじぞう

2012-12-22 13:46:18 | インポート

妻からの依頼もあって、岩手県の花泉に在る 6人の「地蔵さま」の写真を撮りました。その地蔵さまは、この地域に伝わる昔話発祥の地として、昭和58年につくられたものです。

小学校2年の国語の教科書に、むかし話の教材として 岩崎京子:文 「かさこじぞう」があります。写真は、その学習の補助的資料として使いたいとのことでした。

残念ながら、雪の降り積もった状態での撮影とはならなかったのですが、5体の地蔵さまには笠が、1体の地蔵さまには手ぬぐいがかぶせてあり、昔話の世界が再現されているかのような風情です。赤いマフラーとピンクのはんてんは、昔話の中には登場しませんが、地蔵さまのお世話をしている近くの人々が、寒さを気遣って身に着けさせたものなのでしょう。

「かさこじぞう」の話は、ご存知のように、じいさまとばあさまの心やさしい無償の行為が、幸せを招くというお話です。

なんといっても、この話の山場は、じいさまがかさと手ぬぐいを地蔵さまに かぶせる場面です。

せっかくつくったかさが売れず、もちこももたないで帰ることになったじいさまは、日もくれかけた道をとんぼりとんぼり帰ります。村のはずれの野っ原までくると、風が出てきて、ひどいふぶきになります。じいさまは、そこでふきっさらしの中 かたがわだけ雪にうもれている 六人のじぞうさまを見かけます。じいさまにも、風雪が激しくあたっていることでしょう。それでも、じいさまは家路を急ぐのではなく、「おお、お気のどくにな。さぞつめたかろうのう。」と思い、じぞうさまのおつむの雪を『かきおとし』、『ほおべたにしみをこさえたり』『はなからつつらを下げてござらっしゃる』じぞうさまのせなやらかたやらを なでます。この行為の内に、じぞうさまを子どもの守り神様として親しみを込めて敬う じいさまの思いを汲み取ることができるように思います。しかし、雪をかきおとしても、次々に雪は吹きつけじぞうさまを埋めてしまいます。そこでじいさまは、売り物のかさを持っていることに気づき、かさをかぶせることにします。風でとばぬよう、しっかりあごのところでむすんであげました。ところが、かさこは5つで どうしても 一つ足りません。考えに考えたあげく、自分のつきはぎの手ぬぐいをとると、『おらのでわりがこらえてくだされ』と、さいごのじぞうさまにかぶせました。『これでええ、これでええ。』そこで、じいさまはやっと安心してうちに帰りました。

じぞうさまを見かけるまでのじいさまのとんぼりとんぼりとした足取りは、かさと手ぬぐいをかぶせて帰る時には、どんな足取りになっていたのでしょう。じいさまの表情は、どう変わっていったのでしょう。雪にうもれた地蔵さまを見つけた時の表情、雪をかきおとしたりかたやらせなをなでてあげる時の表情、かさをかぶせることを思いついた時の表情、かぶせる時の表情、傘が足りずに困っている時の表情、つぎはぎのてぬぐいをかぶせる時の表情、かさと手ぬぐいをかぶった6人の地蔵さまを見た時の表情。じいさまの表情の変化を通して、じいさまの心情を推し量ることができるように思います。じいさまの行為からも心情を読み取ることができます。かきおとしたりなでたりした時のじいさまの指先はどうなっていたでしょう。かさのひもをしばる時、手ぬぐいをかぶせる時は、どうだったでしょう。ふぶきは続き、風も雪もじいさまにも激しく吹きつけていたことでしょう。吹きっさらしの野っぱらですから、じいさまの指先にも、せなやらかたやらにも、手ぬぐいをかぶせた後には頭にも耳にも、雪が降り積もっていたかもしれません。それでも、じいさまの足取りは、決して重くはなかったことでしょう。むしろ晴れ晴れとしたすがすがしい気持ちになっていたことと思います。

家に帰ったじいさまは、いろりの上にかぶさるようにして、冷えた体をああたためました。いいことをしたものの、体はどんなにつめたく冷えたことでしょう。もちこも持たずに帰ったじいさまが、地蔵さまにかさこをかぶせてきたことを話すと、ばあさまはいやな顔ひとつしないで、『おお、それはええことをしなすった。じぞうさまもこの雪じゃさぞ冷たかろうもん。』と語ります。願いや思いを共有する信頼という絆で結ばれたじいさまとばあさまだからこそ、たいそう貧乏でもあっても明るく生きてこられたのだと思います。その晩、もちつきのまねをし、つけなかみかみお湯をのんでやすんだじいさまとばあさまの家に、もちこなどを積んだそりを引く地蔵さまたちがやってきます。『六人のじぞうさ、かさことってかぶせた じさまのうちは どこだ ばさまのうちは どこだ』という歌が聞こえます。歌の中には、地蔵さまに会ってはいないはずのばあさまも登場します。じいさまと同じ心をもっているばあさまことを、ちゃんとわかっていたのです。地蔵さまがとどけてくれたもので、じいさまとばあさまはよいお正月を迎えることができました。きっと、二人は、もちのお供えなどをもって、吹きっさらしの野っぱらの地蔵さまたちのところにお礼にいったことと思います。

お地蔵さまたちは、昔話版のサンタクロースとも言えそうですね。

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