あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

素劇『ああ東京行進曲』を見て

2014-08-31 15:07:43 | インポート

昨日は、仙台演劇鑑賞会の8月例会に出かけてきました。これまでの会場とは異なり、市民会館の地下にある小劇場での鑑賞でした。より身近で演技に接することができると期待を持ちました。会場に入るなり驚いたのは、座席の案内をしてくれたのが劇団のメンバーだということでした。事前に観客との生のふれあいを大切にする姿勢に好感を持ちました。

素劇(すげき)という手法は、劇団1980の演出家:関矢幸雄さんが提唱する独自の表現様式で、リアルな部台装置や衣装・メイキャップなどを一切排除し、観客の想像力を喚起することによって物語の真意(ドラマ)を表現していく方法です。この作品では、21個の黒箱と数本の白いロープ、俳優の肉体そのものが、舞台装置となって展開していきました。また、物語の主人公が歌手:佐藤千夜子(さとうちやこ)であるため、当時の流行歌50曲あまりが歌われるのですが、歌はすべてアカペラで、口三味線の伴奏で歌われました。さらに、108名もの登場人物を、俳優17名で演じるという内容でした。

斬新な舞台演出のもと、歌手:佐藤千夜子の一生を描く形で、ストーリーは展開していきます。1897年(明治30年)に山形県天童市で妾の子として生まれた千代は、通弁士(通訳)になるために14才で上京するのですが、やがて日本のレコード歌手第1号として活躍する歌手になります。名前を千代から千夜子と変え、大人気を博した絶頂の時期を迎えます。しかしやがてクラシックの歌手を目指しイタリアに渡るのですが、夢破れ帰国の途につきます。かっての人気は取り戻せず、戦後は歌手の道から足を洗い、さまざまな職業を転々としながら1968年(昭和43年)に、ガンのため71才の生涯を閉じます。

劇のタイトルとなっている東京行進曲は、1929年(昭和4年)に、菊池寛原作の小説「東京行進曲」が映画化された際に、その主題歌として佐藤千夜子が歌い大ヒットし、レコードは25万枚も売れ、不動の人気を博した名曲でした。主人公:千夜子が一番輝いていた時期を象徴する曲でもありました。華やかな一生であると同時に、晩年は歌手ではなく佐藤千代という本来の自分に戻ってこの世を去ります。故郷の教会での讃美歌に心を惹かれ歌手の道を目指し、讃美歌に送られて旅立つというエンディングに、救いを感じました。

休憩なしの2時間余りの劇でしたが、コミカルな演技に笑いながらも、目が離せず、想像力をかきたてられ夢中になって見つめ続けました。17名の演技者が一体となった迫力とチームワーク。当時の流行歌が次々と歌われ著名な歌手や人物たちが登場し続けます。作曲家:中山晋平の歌にかける思い・その思いにこたえる千夜子。大衆に愛される民歌として、歌は受け入れられていきます。歌のもつ力とエネルギーを実感しました。時代を越えて歌は生き、心に在り続ける、そんな思いを強く感じました。

新たな演劇の魅力にふれることのできた、心に残る2時間でした。劇団:1980の他の演劇も是非観たいものだと思いました。


298名の命

2014-08-25 22:28:13 | インポート

298名

航空機が撃墜され、一瞬にして亡くなった命

ミサイルの発射ボタンを押した兵士は

攻撃命令を出した司令官は

飛行機というモノを破壊したのではなく

298名の命と その未来と 家族や友人との絆を 一瞬に断ち切ってしまったのです

戦いの中で 人間の人間たる想像力は失われ

敵と呼ぶ相手の 血の温もりも 命の尊さも 消え去ってしまうのでしょう

モノとしか見えない 相手を破壊することで

モノとなった 自分と向き合う

やがて 平和な時を迎えたとしても

モノとなった人間は 人間にもどることができるのでしょうか

戦いの中で失うものは 相手の命だけではなく 

人間としての自分を 失うことでもあるのだと思います

命の犠牲の上に成り立つ平和は 

命の重さと尊さとをかみしめることでしか守れないような気がします

武器で守る平和が 武器によって破壊されてきた事実は

人類の歴史が 物語っています

武器に頼らず 命の犠牲を伴わない形で 成り立つ平和を 

つくりあげていくことこそ 人類に課せられた課題と言えると思います

 


アゲハの観察

2014-08-25 22:27:36 | インポート

外に出した鉢植えのミカンの木に、アゲハの幼虫を見つけました。観察を続けていると、7/5

の朝にサナギになる準備をはじめました。Photo

夕方にはサナギになりました。

Photo_2

その状態が約2週間続き、7/18の朝には羽の模様が外から見えるようになり、夕方にはいよいよ羽化するのではないかという状態になりました。

Photo_3

Photo_4

そして7/19の朝には、みごと成虫になって飛び立ったようで、サナギの殻だけが残されていました。

Photo_5

残念ながら、羽化する瞬間に立ち会うことはできず、成虫になった姿を見ることはできませんでした。確かなことは、無事巣立つことができたということです。

不思議なことですが、羽化が始まる前日の17日に、さなぎのいるミカンの木の鉢の近くで、アゲハを見ることができました。こんなふうに成虫になるんだよと まるで教えにでも来たような出来事でした。

021

今か今かと、毎日朝と夕方に観察を続けてきたわけですが、成虫になる瞬間に立ち会うことはできなかったものの、この2週間はなんとも言えないワクワクするような楽しみを抱いて過ごすことができたように思います。


みをつくし料理帖・完結編を読んで

2014-08-25 22:26:36 | インポート

次号の発刊を毎回楽しみにしていた「みをつくし料理帖」も、ついに完結となりました。

主人公:澪の心に影を落としていたさまざまな難題も、解決の方向へと導かれ、新たな道が開かれていきます。自分を支え、深い関わりがあった親しい人々の幸せを見据えながら、澪自身も自らの幸せを求めての一歩を踏み出します。

まだ読んでいない方もいらっしゃるでしょうから、ストーリーに沿った感想は省きますが、安堵の思いで最後のベージを読み終えることができました。

「天の梯〈かけはし〉」というタイトルは、澪自身と登場人物たちがこれから描いていくであろう未来を象徴する意味合いもあるのでしょうか。一歩ずつ天に向かって梯を登り続けていく姿が目に見えるようです。

『食は天なり』 自らの使命を悟った澪は、故郷である大阪で 新たな店「澪つくし」に 集う人々が食の喜びを体感し、天の恵みを体と心で味わうことができる 料理を創り続けていくことでしょう。迷い道に立った時には、そばによりそう愛する人が、何よりの心の支えとなってくれることでしょう。


永続敗戦論を読んで

2014-08-25 22:25:51 | インポート

新聞の広告を見て是非読んでみたいと思った本が、白井聡氏の書いた「永続敗戦論」でした。

読んでみての率直な感想は、自分の中で整理しきれないものが、筋の通った一つの思考の道にすっきりと収まったような印象がありました。

敗戦の責任を明確にしないできた戦後の歩みが、現在の日本の危機的状況をつくりだしている要因であり、福島原発事故が人為的事故であるにもかかわらず、誰も責任を認めない状況にあるのも、非を認めず責任をあいまいにしてきた体質が変わらず継続している何よりの証拠である……永続敗戦論は、戦後から現在に至るまでの負の歴史を明快に語っています。

原発事故の問題を、戦後から引き続いてきた負の流れが一気に顕在化した問題だととらえるところに、白井氏の卓越した着眼を感じました。事故を想定外とすることで、その原因や責任の所在が明確にされずに、原発の再稼働が押し進められる現在は、まさに戦争の責任をあいまいにして続いてきた戦後の流れの一つの到達点でもあったのかもしれません。

終戦記念日の首相挨拶の中に、今年も過去の戦争における加害責任についてふれる言葉はありませんでした。

終戦という言葉の内に、敗戦の事実を包み隠してしまうように……。多くの尊い命を奪い去った侵略戦争が、まるでなかったかのように……。多くの国民を戦争に駆り立て、犠牲を強い、尊い命が失われたという責任。侵略した国々への謝罪と反省、犠牲になった人々への悼み という責任。敗戦を受け入れることが、こういった責任意識を持つことにつながっていたのに、それをしないで歩んできたのが戦後の歴史だったのではないか…

靖国神社への参拝を強行するのはなぜでしょうか。

戦犯とされた人々も戦争の犠牲者である。そうとらえることの内に、戦争責任をあいまいにしようとする考え方が内在し、敗戦を認めようとしない思いが流れている……。

本書を読むことで、領土問題についても、敗戦という事実の中で結んだ条約や約束が、敗戦という事実を受け入れない考え方の中で、いつの間にか都合のいい自国領土としての主張に変わり、現在のような対立状況が生まれているように感じました。

敗戦という事実の中で、変わらなければならなかったものが、変わらないまま受け継がれ流れてきたのが戦後の歴史だったのではないかと思います。責任を明確にせず、そこで背負わなければならないものを背負わず、歩み続けてきたのではないかと感じます。

同じ敗戦国でありながら、ドイツは敗戦の事実を真摯に受け止め、戦争責任を明確にし、負の歴史を背負いながら戦後の歩みを続けてきたからこそ、世界から認められる国になっているのではないでしょうか。

日本はどうでしょうか。韓国からも中国からも慰安婦問題を含め歴史認識や戦争責任を問われ続け、火に油を注ぐような対立関係にあります。敗戦という事実に真に向き合い、過去の戦争責任を明確にし、加害責任を認めることから出発しなければ、友好関係の土台は築かれないのではないかと思います。

集団的自衛権の行使容認は、日本が武力の行使を辞さないという方向に進むことになり、かっての戦争で侵略を受けた国にとっては、脅威になります。同時に、やはり日本は過去の戦争の過ちを認めない危険な国だという思いを抱かせることになるのではないでしょうか。

平和国家としての道しるべとなる 憲法の改正、特定秘密保護法案の強行採決、そして集団的自衛権の行使容認など、その先にあるものは何でしょうか。そういった一連の動きも、戦中から戦後へと変わらずに受け継がれてきた流れと一貫しているような気がします。

被爆地広島と長崎の願いは、すべての核兵器の廃絶と戦争のない世界の恒久平和であり、それはまた、力に頼る平和ではなく、平和への願いに基づく相互の信頼関係の中でつくりだされていく平和なのではないかと考えます。原発でつくられるプルトニウムは、核兵器への転用も可能です。力に頼る平和への幻想がある限り、原発から核兵器の開発という方向へも踏み出しかねません。その意味でも、核兵器の廃絶と原発の廃絶とは 平和な世界を志向する上で願いや目的を共有できるものと考えます。求めることは、核の恐怖におびえることなく、世界の誰もが安全で安心な生活をおくることのできる平和な未来なのではないかと思うのです。

白井氏は、あとがきの中でガンジーの言葉を引用しています。

『 あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである 』

自分が変えられないようにするためには、たとえ無意味であっても自分がしなければならないことをやり通すことが大切なのかもしれません。そのためにも、世界をしっかりと見つめ続けることのできる目を持ちたいと思います。本書からは、その一つの視点を与えてもらったような気がします。