あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

コンサートを聴いて

2013-06-30 21:18:19 | インポート

今日は、第5回仙台国際音楽コンクール〈3年毎に開催〉のピアノ部門で入賞した 3名のコンサートを聴いてきました。会場は仙台市旭ケ丘にある仙台市青年文化センターで、

第3位のアルテョム・ヤスィンスキイ〈ウクライナ〉

〈曲目はプロコフィエフ作曲:ピアノ協奏曲第3番ハ長調op.26〉、

第2位のソ・ヒョンミン〈韓国〉

〈曲目はチャイコフスキー作曲:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調op.23〉、

第1位のソヌ・イェゴン〈韓国〉

〈曲目はラフマニノフ作曲:ピアノ協奏曲第3番ニ短調op.30〉

の順で、演奏されました。バックの管弦楽は、パスカル・ヴェロ指揮による仙台フィルハーモニー管弦楽団でした。

クラシックコンサートには縁がなく、かろうじて2番目の曲だけは聴いたことのあるものでした。曲想から自分勝手なイメージをつくりあげながら聴くような感じでしたが、三者三様心に響くものがありました。

1番手は力強く迫力ある演奏、2番手は曲想に応じた弾むような演奏、3番手は切れ目のない流れるような演奏ぶりで、選曲にもよるのでしょうが、3人とも確かな演奏技術と表現力を持ち、管弦楽と一体となった すばらしいコンサートを披露してくれたように思います。指揮者の方や楽団員の方の 演奏者への温かい心遣い、観客の これからの活躍の期待と励ましを込めた 温かい拍手、それにこたえて何度も感謝の礼を繰り返す3名の入賞者。一般的なコンサートの雰囲気はわかりませんが、このコンクールを通して すばらしい素質と力量をもった新人を 世界に送り出そうという 雰囲気があふれているような印象がありました。

音楽関係のこれから行事では、仙台ジャズフェスティバルが9/7.8、仙台クラシックフェスティバルが10/4.5.6に予定されています。昨年も、この二つのフェスティバルを見て聴いてきました。杜の都のあちこちに音楽があふれ、町の通りを歩くだけで楽しくなったものです。

音楽の楽しさやすばらしさを、今年も体感できたらと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗駒山の花との出会い

2013-06-28 10:37:38 | インポート

一昨日、友人と栗駒山に出かけ、たくさんの山の花々と出会ってきました。いいですね、山は。今回は、山頂を目指さず、山の花との出会いを目的に、栗駒山の中腹にある竜泉ケ原という湿原を目的地にしました。そこでは、私が学生時代に味わった感動と同様の感動を再度味わうことができました。

岩手県の須川温泉から登山道に沿って登り始め、名残ケ原〈お花畑〉→昭和湖→竜泉ケ原というルートをたどりました。

鮮やかな新緑とナナカマドやノリウツギの白い花々、ウラジロヨウラクの愛らしいピンクの花などをながめながら、名残ケ原というお花畑に出ました。あちこちに白いワタスゲが咲き、風に揺られていました。木道の周りを見ると、小さいながらも凛とした青いタテヤマリンドウ、可憐な白花のヒナザクラ、気品を感じさせるピンクのイワカガミが、咲いていました。これから7月に向かうにつれて、さらにたくさんの花が咲きそろい、山のお花畑にふさわしい景観になるだろうなあと思いました。長く厳しい山の冬を乗り越えて咲き始めた、小さく愛らしい山の花々の姿に、改めて深い感動を覚えました。

名残ケ原を過ぎると、足応えのある上り坂が続きます。左手に硫黄のにおいのする岩だらけの沢、正面にガスに包まれた山頂をながめながら、歩を進めます。息が切れ、日ごろの運動不足を体感しながら、登り続けます。昭和湖にたどりついた時には、たっぷりと汗をかいていました。曇り空だったため、コバルトブルーの湖面に出会うことはできませんでしたが、ゆったりと水をたたえた景観に、疲れが吹き飛ぶような感じがしました。

さて、それからが本番です。登山道を外れ左手に昭和湖を見ながら、今回の目的地である竜泉ケ原に向かいました。途中 斜面に雪渓のあるところに出ると 溶けだした水の流れに沿って、たくさんのミズバショウが群落をなして咲いていました。大小さまざまな 純白な花が 気持ち良さそうに水の中から 顔を出していました。

そこを通りぬけ、ダケカンバの林に分け入り、竜泉ケ原への道のスタート地点となる沢に向かいました。沢であったところはすっかり雪渓で覆われているので、雪を踏みしめながら登って行きました。かなりの勾配があったので、途中で何度となく息が切れ、小休止を繰り返しながら登って行きました。勾配を登りつめると雪渓が消えて沢が見えました。木の枝が沢を覆い、沢に沿って進むことが困難なので、沢を迂回しながら林の中を進んでいくと、やっと視界が開ける湿原に出ることができました。その湿原にも、たくさんのミズバショウが咲いていました。湿原の先にはなだらかな丘があり、そこも雪渓に覆われていました。その左手の山に沿って、コバイケイソウの花が立ち並んでいました。その手前には、小さな池がありその周りに群れをなすように、ミツガシワの白い花が咲いていました。その中に、一輪の赤紫の可憐な花:ハクサンヂドリを見つけました。雪渓を登り切り、ゆるやかに下っていくと、目の前に広大な湿原が広がっていました。

その湿原が視野に入った時には、「サウンドオブミュージック」の最初の場面に登場するジュリー・アンドリュースのように、両手を高く広げて駆け出したくなりました。学生時代に初めてこの地に足を踏み入れて、その景観に感動を覚えた時の気持ちを思い出しました

そこは、ユートピアとも言える 自然の楽園でした。左右に広がる湿原の中央に、小高い丘があり、そこが雪渓に覆われています。湿原をぬうように雪解け水が流れをつくり、その流れに沿って数え切れないほどたくさんのミズバショウが咲いていました。湿原のあちこちに、大小さまざまな池があり、そこにはイモリが生息し優雅に泳いでいました。

雪渓の中のきれいな雪を掘り出しミルクをかけて食べたこと、雪渓のある丘に山小屋を建て住んでみたいと思ったことなど、学生時代の山の仲間の顔と一緒に、その時のことをなつかしく思い出しました。

風の又三郎を思い出させるような、どっどど どどっと 吹き抜ける風が 湿原に咲く花を揺らし、草を揺らし、山々の木々や緑を揺らし通り抜けていきます。雲の間をぬって降り注ぐおだやかな光が、あたり一面を包みます。

無上のひとときが心をときほぐし、賢治が感じたであろう 幸いなる時を体全体で味わうことができました。登り終えた今でも、その時感じた思いが体内に留まっているような印象があります。

なぜ、山に登るのかと 問われたら、 

「そこに 愛らしい 山の花があり、自然があり、幸いを感じるひとときが あるから 」

と 答えるのかもしれません。

次回は、早池峰山に登って、日本のエーデルワイスと呼ばれる「ハヤチネウスユキソウ」に会いたいと思っています。「コマクサ」の咲く 岩手山か秋田駒ケ岳にも登ってみたいと思っています。

◇ウラジロヨウラク

626_029_2

     ◇イワイチョウ        ◇タテヤマリンドウ ↓                  

     626_051      626_069_2

◇ミズバショウ

626_066_3  

626_064_2

◇サンカヨウ

626_073_2

◇ミズバショウ

626_076

◇ヒナザクラ〈ヒメコザクラ〉

626_090_2

ミツガシワ

626_094_4

◇コバイケイソウ

626_098_2

◇ワタスゲ

626_100_3

◇竜泉ケ原

626_107_4

◇ショウジョウバカマ

626_116_3

◇ミズバショウ

626_126_3

◇ハクサンチドリ

626_130_2

◇イワカガミ

626_134_2

◇モウセンゴケ

626_143_4

◇ミズバショウ

626_146_4

◇ワタスゲ

626_155_2

◇コケモノ

626_157_4

◇マイヅルソウ

626_162_2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風の市兵衛〈風塵〉を読んで

2013-06-18 21:14:04 | インポート

週末に、楽しみにしていた3冊の新刊本を読みました。朗読漫画「花もて語れ」8巻、「居眠り磐音江戸双紙43巻 徒然ノ冬」、「風の市兵衛 風塵上・下」9巻 です。それぞれの感想をまとめてみたいと思っていますが、今回は「風の市兵衛 風塵上・下」を取り上げることにしました。

風の市兵衛は、辻堂魁作〈祥伝社〉のシリーズものです。渡り用人:唐木市兵衛が剣や算盤で雇い人を助け、活躍する物語です。

市兵衛がどんな人物なのか、登場人物や本人が語る言葉を通して紹介したいと思います。

市兵衛の友である弥陀ノ介が、市兵衛の兄〈片岡信正:十人目付筆頭、弥陀ノ介はその配下にある〉に向かって、市兵衛のことを語る場面があります。

『市兵衛は頼まれると、いやとは言えない男なのです。適当にやりすごす、という融通が利きません。節を曲げぬ頑固者のくせに、妙にあまいところがありますな』  『…甘いのではなく、気のいい男なのです。怒らせると恐ろしい嵐になりますが、市兵衛の心底には気のいい風が吹いておるのです。』 

雇い人である奥平家の御年寄に問われて、市兵衛はこう答えます。

『商いは商人同士の信用がなければ成り立ちません。侍は侍という身分が信用を生みます。商人にはそのような身分はありません。約束を守るという信用が信用を生みます。ですから、商人は商いで交わした約束を守るために己を賭けます。侍が主君への忠義に己を賭けるように。どちらも人の道です。』 この答えに対して、御年寄は『侍と商人が同じだと言うのか』と問います。それに対して市兵衛は次のように答えます。『そうではなく、人の道が同じだと言うておるのです。』

市兵衛は、雇う人々に その誠実な人柄ゆえに信用されます。同時に、雇われた以上はその約束を果たすために、己を賭けます。金のためではなく、信用のために全力を尽くします。その生き方や考え方が、主人公:市兵衛の大きな魅力になっているのが、このシリーズの一番の特徴なのかもしれません。

今回の物語では、:市兵衛と同様に心惹かれる人物が4名登場します。雇い人である元老中:奥平純明、10年かけても その命をねらう安宅猪史郎、奥平とかっては夢を共有した仲なのに安宅の志を支えようとする竹村屋雁右衛門、かっては雁右衛門の妻であったお露の方〈今は、奥平の側室となった〉です。

それぞれの思いと運命が交錯する形で、物語は悲しい結末に向かって流れていきます。それぞれが、人としての生き方を貫ぬこうとするために…… 。人がわかり合うことのむずかしさが重く心に残ります。それでも、市兵衛は市兵衛らしく その狭間を乗り越えていきます。

面白さだけではなく、人としての生き方や在り方を問いかけるところが、他の時代小説とは異なる このシリーズの大きな魅力なのかもしれません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なだいなださんのこと

2013-06-12 10:39:21 | インポート

訃報を知り、その死をとても残念に思います

なださんの著書を読み、講演を聴いて、精神科医としての考え方やおおらかな人間観、社会の矛盾を透徹した目で見つめ、問題提起する姿勢に、多くを教えられ大切なことを学ぶことができました。

6/11付の「天声人語」を読み、改めて なださんが訴え伝えようとしたことを再確認できたように思います。

民主党政権が誕生しても、「患者の熱〈政治の惨状〉が一時下がっただけのようなもの」と診立て予見したところに、政治の根本的な病巣はなかなか改善されないものだという考えが込められているように感じました。その意味で、国民の判断と選択をもとにした選挙という注射をすることで、症状が改善していく方向づけ〈治療〉が必要なのだと語っているように思えます。医者としての役目は、政治家ではなく国民が果たすのだというメッセージでもあるのでしょうか。

「理想とは、〈たどりつけるもの〉ではなく、〈見つめるべきもの〉である」 著書「権威と権力」から引用された言葉ですが、とても心に残る言葉です。理想は求める先にあるもの、たどりつこうとしてもはるかに高く、遠くにあって光り輝くもの。その光を見つめることで、意識はしなくてもその光を感じることで、人は前に進んでいけるのかもしれません。生きていく上での心の構えを教えてくれる言葉だと感じます。

アルコール依存症は「治す」のではなく、患者と「つき合う」。かって講演を聴いた時のことを思い出します。門限も設けず、患者が飲みたいと思えば飲みに行ける自由な環境の中で、治療にあたったとのこと。強制的に断酒する環境をつくるのではなく、患者自身が自分の意志で断酒を決断しなければならないと考えるようになるまで「つき合う」ことが治療だという考えでした。患者の意志や人格を尊重し、よりそう すばらしい精神科医でもありました。医師の仕事は「人間というものがよく見えるし、自分自身のいいところ悪いところが鏡のように映る」 それだけ人間的なものを見つめる人間的な医師だったからこそ、人間と人間がつくる社会がよく見えておられたのだと思います。

心からご冥福をお祈りしたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レオ・レオニの絵本展

2013-06-07 21:15:40 | インポート

かっての教え子から 手紙と一緒に すてきなプレゼントが届きました。6/22~8/4 まで開催される 『 レオ・レオニ 絵本のしごと 』 展の 招待券が 2枚同封されていたのです。私の大好きな絵本作家だということを覚えていてくれて、送ってくれたようです。担任していた頃に、「フレデリック」や「スイミー」の絵本を紹介したように記憶しています。そのことを思い出してくれたことに、とてもうれしくなりました。

以前のブログでも、レオ・レオニの絵本を紹介したことがありますが、改めて私の好きな理由も含めてその魅力について書いてみたいと思います。絵本ではありますが、大人が読んでも共感でき、人間にとって大切なことを気づかせてくれる内容であり主題となっている作品です。

教科書教材としても掲載されたことのある「スイミー」は、レオ・レオニの作品の中でも、一番知られていて、愛読されている作品かもしれません。小さな魚たちが大きな魚から身を守るために、スイミーを中心にみんなで集まって、さらに大きな魚の形をつくって追い払う場面の 爽快感は、格別です。一人ひとりが小さくても、みんなで力を合わせれば 誰にも負けない 大きな力になることの すばらしさに 気づかせてくれます。

「あいうえおの木」 では、一枚一枚のお気に入りの葉に住みついた文字たちが、嵐に飛ばされないように 手をつないで単語をつくり、文をつくります。そして一番大事なことを文にして、大統領に伝えるという ストーリーです。一人ひとりが 手をつなぎ みんなの思いを込めて文をつくりあげることの すばらしさと その思いを伝えることの意味について 深く考えさせられる作品です。

一人の人間として、自らの内面を豊かにすることの大切さについて、気づかせてくれる作品もあります。「フレデリック」は、野ネズミですが、ちょっと変わったネズミです。みんなが長い冬を乗り切るためにせっせとえさ集めをしているのに、光や色や言葉を集めることをしていたからです。やがて冬になり、食べ物も話題も尽きかけていたころに、野ネズミたちはフレデリックが集めていたものを思い出します。そこで、フレデリックは 集めた お日様の光や 黄色い麦・赤いけし・野イチゴの緑など 集めた色、そして 詩人のように集めた言葉を 語ります。その話を聞きながら野ネズミたちは、幸せなときを過ごします。生きていく上で必要なのは、食べ物はもちろんですが光や色や言葉も・またそれを受け止め感じる感性も 大切なのだということを考えさせてくれる作品です。

「ペツェッティーノ」は、自分が何であるかを見出す作品です。自分は何かの部分品ではないかと考えたペツェッティーノは、自分の正体を知るための旅に出ます。いろんな出会いがあるものの、その答えを見いだせません。しかし、山で転んで自分のかけらを見つけた時に、悟ります。自分は、部分品ではなく自分であるということを。世界に一つしかない、自分であるということを。大きさや見かけに関係なく、確かに自分は自分であるということ。一人ひとり、一つ一つが、この世界にとって限りなく大切な一人であり、一つであることを気づかせてくれる作品です。

一人ひとりがこの地球にとって、かけがえのない 大切な存在であるということ。そんな一人ひとりが、力を合わせて生きていくことの大切さや尊さを教えてくれたのが、レオ・レオニの絵本だったように思います。そして、その中から学んだことが私自身の内に今でも生きています。

「あいうえおの木」で、文字たちが 大事なこととして つくりあげたメッセージは、何だったでしょうか。

『 ちきゅうに へいわを すべての ひとびとに やさしさを せんそうは もう まっぴら 』

このメッセージは、今でも私の中で 作者: レオ・レオニからの 大切なメッセージとして 生き続けています。

※ 『 レオ・レオニ 絵本のしごと 』 展

   期日:  平成15年6月22日〈土〉 ~ 8月4日〈日〉  

   場所: 渋谷・東京本店横  Bunkamura  ザ・ミュージアム

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする