あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

聞くことの大切さと難しさ

2011-08-31 09:22:58 | インポート

先日ラジオで,なつかしの北山修氏<亡き加藤和彦氏等とザ・フォーク・クルセダーズを結成し,ミュージシャンとして活躍。現在は精神科医として活躍。>の話を聞くことができました。話は,精神科医としての立場から,心の健康をどう維持していくかという内容だったと思います。

中でも印象的だったのは,「よい精神科医は,よい聞き手を持っている」という言葉でした。

誰でも心にストレスを持っており,それをどこかで発散させる必要がある。その発散が『話す』という行為であり,そのためにはその話を真摯に受け止めてくれる『聞き手』が必要である。よい『聞き手』は,相手の思いを上手に引き出し,受け止める。そのことで,『話し手』はストレスをためこまず,心の健康を維持できる。しかし,そうすることで『聞き手』にもストレスがたまってくる。したがって,その『聞き手』にも話すことでストレスを解消してくれるよい『聞き手』が必要となる。精神科医も,ある意味でよい『聞き手』であるわけだが,そのために身近によい『聞き手』を必要としている。

聞くという行為は,一見受身的な行為のように見えますが,話し手の抱えている悩みや思いを受け止めることで,話し手の心を軽くし癒す能動的な行為でもあると考えます。親しい間柄であればあるほど,お互いに相手を信頼し,相互によい『話し手』となりよい『聞き手』となって,心の健康を維持し合っているのかもしれません。

先日,聞き役になって相手の悩みを聞く機会がありました。その時に感じたのは,聞くことの難しさです。相手の気持ちによりそってという構えで話を聞きながら,その思いを受け止めること以上に,相手の悩みを解決するための方法をあれこれ語っている自分に気づきました。まず大切にしなければならなかったことは,相手のおかれている立場や悩みの深さを真摯に受け止めるということでした。相手が求めていたのは,アドバイスではなく今の自分の気持ちを理解してほしいということだったのではないかと思います。

話すことで,相手が自分なりの解決の方法を見出したり,新たな元気を取り戻すことができるようなよい『聞き手』でありたい。改めて,強く思いました。

人と関わるということは,相手の人間としてのすべてを丸ごと自然に温かく受け止めることなのでは …… 。まずは,よい『聞き手』となって これからも 多くの人と関わっていきたいものです。そして,身近にいるよい『聞き手』に,この思いを伝えていきたいと思います。 


天声人語を読んで

2011-08-29 08:58:23 | インポート

今朝の新聞の天声人語に,生物の献身的な子育てについて書いてあり,筆者が見た,映画「ライフ」の中に登場する生物たちの子育ての様子が,紹介されていました。

 中米に住むイチゴヤドクガエルは,落葉に産んだ数粒がオタマジャクシになると,雌は一匹ずつ背負って木に登る。地上10mの葉の間にできた安全な水たまりに一匹ずつ置き,母ガエルは子が巣立つまでそれぞれの隠れ家を回り,餌となる無精卵を産み落としていく。

 産卵したミズダコは,何も食べずに半年間,ひたすら卵に新鮮な水を送る。泳ぎ出る子を見届けての最期,母ミズダコは幸せそうだ。

 天敵のいない氷原で出産したアザラシ。ブリザードの中,母は風上で子の楯になり,氷雪にまみれる。本能という乾いた言葉では足りない,美しき献身である。

この映画「ライフ」は,『命をつなぐ』をテーマに,動物たちの生への執念を英BBCが6年かけて完成したものだそうです。近日公開ということですので,是非見たいと思っています。

天声人語の結びは,次のように書かれていました。

 

  リボンつけしままに眠れる幼子を 目守り<まもり>つつをり 泪<なみだ>ぐむまで 

                                  大野誠夫<のぶお>作   

  目元にあふれたのは,この子を命がけで守るという気負いだろう。どんな親にも本来,悲しい くらい純な愛が宿る。カエルやタコに教わることではない。

      ………………………………………………………………………………

つい先日も,親の虐待によって亡くなった小学生がいました。親がその手で我が子の命を断つという悲しい出来事は,もう二度と繰り返してほしくないことです。命は,この世に誕生した時点でもうすでにその子のものです。決して親の所有物ではないはずです。この世に生を受けたどの子も,一つのかけがえのない命として,一人のかけがえのない人間として,愛され 大切にされ尊重される存在なのだと思います。

命が命をはぐくむことの 貴い営みの中に 日々の生活があることを 改めて感じます。

 先日の雨のおかげで,ハクサイやキャベツの苗たちもすっかり元気を取り戻し,ポットからはみ出すように葉を広げ,その生き生きとした緑にみずみずしい生命力を感じます。昨日は,その一部を畑に植え付けました。『おいしい野菜になって,食卓をにぎやかにしてくれますように!』と念じながら,一つ一つを植えました。ナスとトマトは今でも毎日収穫でき,さまざまな料理に姿を変えて食卓を華やかにしてくれます。種から育てるということを目標に,いろんな野菜作りに挑戦してきましたが,育った野菜は我が子のように愛しい存在となっています。でも,土,肥料,害虫,雑草,天候等に応じた管理が不十分で,うまく育たなかったり枯れてしまったりといった失敗もたくさんあります。子育てと同様に,手間と時間を惜しまず愛情込めて関わっていくことが大切なのだと感じています。


放射能汚染という不安を抱えて

2011-08-26 08:59:40 | インポート

昨日,畑に使う地元栗原産の有機肥料を求めて,近くの店に出かけました。畑を耕した後に,いつも元肥として使っていた物を買おうと思ったのですが,売り場には置いてありませんでした。店の人に尋ねると,放射能汚染のために置いていないとのことでした。震災以降も使っていた肥料でしたので,果たしてそれは大丈夫だったのかと心配になりました。汚染された状態のものを使っていたとすれば,畑そのものの土壌も汚染されたことになります。大なり小なり,畑も原発の影響による汚染はまぬがれないものと思っていましたが,改めて不安になりました。

スーパーに行くと,生鮮食料品については産地を表示するシールが目につくようになりました。北海道や九州地方の県名などを目にするたびに,原発の影響を受けない地域で生産された安全な品物ですよと宣伝しているように感じます。

重苦しいものが,心の中にわだかまりのようなものとなって存在していて,それが具体的な出来事や物に出会うと不安という形で表に出てくるような気がします。震災と原発事故の後遺症のようなものなのでしょうか。

今朝散歩をしていて,緑の美しさをしみじみと感じました。雨に洗われた緑の,鮮やかで多様な色合いに心を奪われてしまいました。一つ一つ同じ緑なのに,濃淡や明るさが異なり,葉の形や全体の立ち姿も微妙に違います。金子みすずの詩の一節「……みんなちがって みんないい……」を思い出します。

そんな草原に,マツヨイグサの黄色い花が灯台の灯のように点在し,その下の方にはツユクサの鮮やかな青が顔を出しています。草原の向こうには,稲穂の波が見えます。

こんな美しい風景をうっすらと覆うように,放射能に対する不安があります。

原発事故のために,故郷を追われるように去らなければならなかった人々の心には,どんな故郷の風景が見えているのでしょうか。

くもりなく 美しいものを ゆったりとながめることのできる 平穏な日々が 一日も早く訪れることを 心から 願います。


みをつくし料理帖 ~心星一つ~ を読んで

2011-08-23 00:10:49 | インポート

待ち望んでいた高田郁さんの「みをつくし料理帖」の最新刊『心星一つ』<ハルキ文庫>が,発刊されました。今回の物語は,主人公澪の新たな旅立ちとも言える展開となっています。人生の岐路に立った澪が,悩みながら選んだ道は……。料理人としてどう生きるか。愛する人への思いをどうするのか。心優しいが故に,自分のこと以上に周りの人の幸せを考える澪。その気持ちが手に取るように分かるからこそ,周りの人々は澪の幸せを第一に考えます。

物語の後半に,悩んだ主人公の澪が,医師の源斉先生に尋ねる場面があります。

  「道が枝分かれして,迷いに迷った時,源斉先生なら,どうされますか。」

その問いに対して,源斉先生は次のように答えます。

  「私なら心星を探します。……悩み,迷い,思考が堂々巡りしている時でも,きっと自身の中

   には揺るぎないものが 潜んでいるはずです。これだけは譲れない,というものが。それこ

   そが,そのひとの生きる標(しるべ)となる心星でしょう。」

いい言葉ですね。私にとっても,人生の指針となる言葉です。

同じ時期に,北方謙三さんの「楊令伝」の3巻<集英社文庫>も発刊されました。主人公の楊令がいよいよ梁山泊軍の頭領として表舞台に登場し,亡き宋江から託された『替天行道』の旗を掲げ,新たな戦いの一歩を踏み出します。『替天行道』こそ,梁山泊に集まった戦士たちの道標であり,心星であり,志<こころざし>なのではないかと思いました。

物語の中に,もう一つ心に残る言葉がありました。

料理の本道を歩む者から,澪は次のように言われます。

「ひとは与えられた器より大きくなることは難しい。あなたがつる家の料理人である限り,あなたの料理はそこまでだ。」

悩んだ末に澪は,こう答えます。

「与えられた器が小さいのであれば,自身のこの手で大きくする努力をします。……… 」

自分の器の小ささを自覚するからこそ,大きくなりたいと願うのかもしれません。一生を終える時までには,今より少しは大きな器の中で生きる自分でありたいものです。一日一日が,学びの場であり,努力の場であり,自分の器を広げていく大切な時間なのかもしれません。

主人公の澪が,さらにこれからどんなふうに自らの器を広げて生きていくのか,とても楽しみです。ただ作者の高田さんは,半年に1作のペースで書いていくようですので,次号が読めるのは来年の1月頃になりそうですが……。


「ゆずり葉」の詩を読みながら

2011-08-19 09:43:08 | インポート

     ゆずり葉

                     河井 酔茗

子供たちよ。

これはゆずり葉の木です。

このゆずり葉は

新しい葉が出来ると

入り代わってふるい葉が落ちてしまうのです。

   こんなに厚い葉

   こんなに大きい葉でも

   新しい葉が出来ると無造作に落ちる

   新しい葉にいのちをゆずって……。

      子供たちよ。

      お前たちは何を欲しがらないでも

      すべてのものがお前たちにゆずられるのです。

      太陽の廻るかぎり

      ゆずられるものは絶えません。

         輝ける大都会も

         そっくりお前たちがゆずり受けるのです。

         読みきれないほどの書物も

         みんなお前たちの手に受取るのです。

         幸福なる子供たちよ

         お前たちの手はまだ小さいけれど……。

            世のお父さん,お母さんはたちは

            何一つ持ってゆかない。

            みんなお前たちにゆずっていくために

            いのちあるもの,よいもの,美しいものを,

            一生懸命に造っています。

               今,お前たちは気が付かないけれど

               ひとりでにいのちは延びる。

               鳥のようにうたい,花のように笑っている間に

               気が付いてきます。

                  そしたら子供たちよ。

                  もう一度ゆずり葉の木の下に立って

                  ゆずり葉を見る時が来るでしょう。

                         ………………

 「コクリコ坂から」についてのブログを書きながら,思い出した詩が「ゆずり葉」です。父から子へ,母から子へと受け継がれていくものを考えていて,思い出した詩です。

 主人公の海と俊は,『いのちあるもの,よいもの,うつくしいもの』を父母からゆずり受け,新たな『いのちあるもの,よいもの,うつくしいもの』を二人で造っていくのでしょう。宮崎吾朗さんも父の駿さんが造り続けたものをゆずり受け,新たな映画作品を造っていくのでしょう。 そうして造りあげたものを次の世代の子供たちがまたゆずり受け,新たなものが造られていく。

 世代を超えて受け継がれ(ゆずられ)新たなものが造られていく人間としての営み。その流れの中に今自分も身を置いているのだということを強く感じます。

 新聞によれば,福島県の子ども約1150人を対象にした甲状腺の内部被曝検査で,45%の子どもに被曝が確認されたとのことです。政府担当者は,問題のないレベルだと説明したそうですが,親にとっては我が子の将来を通して不安は消えることがないのではないかと思います。政府の担当者に宛てた福島の子どもの手紙に「何さいまで生きられますか?」という切実な思いが綴られていたとのこと。七夕飾りの短冊に「がんにならないように」と書いた子どももいました。

 子どもたちにゆずられるものは,『いのちあるもの,よいもの,うつくしいもの』であるべきです。決して「いのちを危うくするもの,悪いもの,汚染されたもの」であってはならないと思います。

 内部被曝した子どもたちの健康を継続的に見守り,万全な医療的ケアが受けられるような対応を強く願います。

 同時に,『いのちあるもの,よいもの,うつくしいもの』をしっかりと子どもたちにゆずることのできる,一人の親であり人間でありたいと思います。

 もう一度 子どもたちが,ゆずり葉の木を 希望に満ちて見上げることができるように…。