あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

食べて味わう 秋のよさ 

2011-10-29 20:26:01 | インポート

家の裏にある柿の木に,今年も柿の実が数多くなりました。少し大きめの渋柿は,今年も干し柿として物置につるしました。手の届かない柿はそのまま残してあるので,鳥が餌として食べてくれることと思います。もう一本のあま柿は,畑仕事の合間に私のおやつとして活用していますが,食べる量は限られているので,大半はこれも鳥の餌になることと思います。

ところで,柿のおやつタイムに,今年もうるさい仲間がいます。例の愛犬:クウタです。畑仕事の合間に,私がそのあま柿を食べていると,ほえるのです。「俺にもくれよ!」と言った調子の威勢のいい鳴き声です。私もまた,意地悪をしているわけではないのですが,クウタのそばでおいしそうに柿を食べてみせます。実際,柿好きの私にとっては,心からおいしく味わっているのです。その様子を見て,クウタはほえるのです。クウタには,俺にはくれないで,すごくおいしいものを一人だけで食べているという感じがするのかもしれません。クウタの鳴き声が最高潮に達した頃,しかたないそぶりで私は柿のかけらを放り投げてやります。私が近づくと,クウタは絶対とられてはいけないという感じで,もらった柿を遠くまで運んで,安心したように食べ始めます。そんなやりとりが,今年も続いています。

夕方の5時近くになると,我が家の上空を鳴きながらハクチョウやガンが群れをなして通過します。刈り取りが終わった田んぼの落ち穂を食べた鳥たちが,ねぐらである伊豆沼に帰る光景です。日中は,近くの田んぼで落ち穂をついばむ鳥たちの姿をたくさん見ることができます。

今日は,畑でナンバンと落花生を収穫しました。十分に乾燥させた後に味わう予定です。

夕食では,畑で採れた赤カブ,ミズナ,レタスなどが入ったサラダやコマツナの炒め物を味わいました。

食べて味わう秋のよさ といった感じの 秋の深まるこのごろです。


語るのではなく 語りなおすということの意味と重さ

2011-10-26 12:32:00 | インポート

研修会でいただいたもう一つの資料(哲学者である鷲田清一さんの書いた)には,震災から3カ月たってからの『臨床哲学者』としての思いと考えが書かれていました。

特に心に残ったのは,~ 被災地では,いま,多くの人が「語りなおし」を迫られている。自分という存在,自分たちという存在の語りなおしである。~ という一節でした。語るのではなく,なぜ「語りなおし」なのか,その理由を,原文から引用します。

~子に先立たれた人,回復不能な重い病に冒された人,事業に失敗した人,職を失った人…。かれらがそうした理不尽な事実,納得しがたい事実をまぎれもないこととして受け入れるためには,自分をこれまで編んできた物語を別なかたちで語りなおさなければならない。人生においては,そういう語りなおしが幾度も強いられる。そこでは過去の記憶ですら,語りなおされざるをえない。その意味で,これまでのわたしから別のわたしへの移行は,文字通り命がけである。このたびの震災で,親や子をなくし,家や職を失った人びとは,こうした語りのゼロ点に,否応なく差し戻された。

~こうした語りなおしのプロセスは,もちろん人それぞれに異なっている。そしてその物語は,その人みずからが語りきらなければならない。……

~語りなおしは,苦しいプロセスである。そもそも人はほんとうに苦しいときは押し黙る。……

~語りなおすというのは,自分の苦しみへの関係を変えようとすることだ。だから当事者自らが語りきらねばならない。が,これはひどく苦しい過程なので,できればよき聞き役が要る。マラソンの伴走者のような。

さらに鷲田さんは,この語りなおしをよき聞き役となって聴くための難しさを次のように書いています。

~けれども,語りなおしは沈黙をはさんで訥々としかなされないために,聴く者はひたすら待つということに耐えられず,つい言葉を迎えにゆく。「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」と。……こうして,みずから語りきるはずのそのプロセスが横取りされてしまう。言葉がこぼれ落ちるのを待ち,しかと受けとるはずの者の,その前のめりの聴き方が,やっと出かけた言葉を逸らせてしまうのだ。……

それだけ,ひたすら言葉を待ち続けて聴くのは忍耐を必要とし,マラソンの伴走者のようなよりそう姿勢を持ち続けることが必要とされるのだと思います。

語りなおすことは,これまでの自分からこれからの自分へと旅立つ行為なのだと思います。いま背負っている重いものと真正面から向き合い言葉にすることの辛さ,さらにそこから乗り越え旅立とうとする苦しい胸の内に心をよせ,言葉がこぼれ落ちるのをじっと待つ。そんな聴き方が,求められているのだと思います。

~ いま「復興」を外から語る声は,濁流のなかでおぼれかけている人に橋の上からかけるような声のように響く。詩人の和合亮一さんがある対談のなかで,「自分は川の中で一緒におぼれないと何もいえない」というジャーナリストの声を引き,それこそ想像力であり,「川で一緒におぼれるのが詩なんです」と語っていた。濁流に入れなくても,濁流に入り込む想像力はもちうる。その想像力を鍛えておくことが,いまは必要だ。

鷲田さんは,いま,被災した人と被災しなかった人たちの間で,さらには被災した人たちどうしの間で,大きな隔たりが広がっていると感じています。その隔たりを埋めるために何より必要なことが,濁流に入り込んで被災した人たちの思いを想像し,その心によりそうことであると,伝えたかったのではないかと感じました。

語りなおすことの困難さと重さと向き合うことは,新たな人生を生きるために大切で必要なそして尊い行為なのではないかと思います。そのことを理解し,じっと言葉がこぼれ落ちるのを待ち続けて「聴くこと」の大切さについても,深く考えることができたように思います。

「語りなおす」ことと「聴く」ことは,人が人として生きていく上で 必要な どちらもはずすことのできない 大切な両輪なのかもしれません。


聴くということの意味と大切さについて

2011-10-25 10:03:25 | インポート

 ある研修会でいただいた資料に,哲学者である鷲田清一さんの書いた文章がありました。読んでみて改めて,聴くことの難しさと大切さについて考えさせられました。

 一つの資料<聴くという行為 と題する章の一節>には,末期医療の研究者が実施したアンケート調査のことが書かれていました。アンケートの一つに,次のような設問があり,それに対して5つの選択肢がありました。

<設問> 「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者のことばに対して,あなたなら

       どう答えますか。

<選択肢> ① 「そんなこと言わないで,もっと頑張りなさいよ」と励ます。

       ② 「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える。

       ③ 「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。

       ④ 「これだけ痛みがあると,そんな気にもなるね」と同情を示す。

       ⑤ 「もうだめなんだ………とそんな気がするんですね」と返す。

 結果は,精神科医を除く医師と医学生のほとんどが①を,看護師と看護学生の多くが③を選び,精神科医の多くが⑤を選んだとのことです。

 もし私だったら,多分①を選んでいたのではないかと思います。生きようとする強い思いを抱いてほしいと願い,励ます言葉をかけるのではないかと思います。

 しかし,次に書かれてある文章を読んで,考えが変わりました。

 ~ 『聴く』というのは,なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば,ことばを受けとめてもらったという,たしかな出来事である。こうして患者は,口を開きはじめる。得体の知れない不安の実体が何なのか,聞き手の胸を借りながら捜し求める。はっきりと表に出すことができれば,不安は解消できることが多いし,もしそれができないとしても解決の手掛かりは,はっきりとつかめるものである。

 ~ 聴くことが,ことばを受けとめることが他者の自己理解の場を劈(ひら)くということであろう。じっと聴くこと,そのことの力を感じる。

 ~ わたしがここで考えてみたいこと,それがこの『聴く』という行為であり,そしてその力である。語る,諭すという,他者にはたらきかける行為ではなく,論じる,主張するという,他者を前にしての自己表出の行為でもなく,『聴く』という,他者のことばを受けとる行為のもつ意味である。

 聴くという行為が,決して受動的な行為でなく,語り手が心を劈(ひら)く力になるということを知ることで,『聴く』ことの意味と大切さについて深く考えることができたように思いました。相手の心によりそうという行為も,その根本に相手のことばを確かに受けとめるという行為や姿勢が前提にあってできることなのではないかと思いました。

 語るという行為は,ある意味で聴き手の心の扉をたたくという行為であるように思います。そして聴き手は,その段階で自らの扉を全開にして相手のことばや思いを受けとめていく。この扉を開いて受け止めるという行為が,聴くという能動的な行為なのかもしれません。

 身近な家族をはじめとして,自分が接する他人とのかかわりの中で,相手のことばを『聴く』という行為に真摯に取り組んでいけたらと思います。そうすることで,『語る』ことばも,確かな形で相手の心に届いていくのではないかと思います。

 

 


サンタクロースについて

2011-10-22 21:28:00 | インポート

 今年もクリスマスまで2カ月余りとなりました。サンタクロースにとっては,世界中の子どもたちへの贈り物の準備で,すでに大忙しといったところでしょうか。

 今から104年前の,1897年9月のことでした。8歳のアメリカ人の少女バージニアは,友だちとサンタクロースについて話していて,とても悲しくなってしまいました。その友だちは,「バージニアって子どもだなあ。まだサンタクロースを信じているの?」と言って,からかったのです。家に帰ってバージニアは,お父さんにサンタクロースがいるのかどうか聞いてみました。お父さんは,しばらく考えてから,新聞社だったらどんな質問にも答えてくれるだろうから手紙を書いてみるといい と言いました。そこで,バージニアは家で読んでいるサン新聞社宛てに次のような手紙を書きました。

  サン新聞社さま…… 私は8歳です。私の友だちに「サンタクロースなんているもんか」ってい

  っている子がいます。パパは,「サン新聞に聞いてごらん。サン新聞のいうことが正しいだろう

  よ」 と,いっています。どうか,ほんとうのことを教えてください。サンタクロースって,いるん

  でしょうか。                          バージニア・オハンロン より 

 

 この質問に対して,サン新聞は9月21日付の新聞で記事を組み,その答えを掲載します。この記事については日本語訳の本も出版されていますので,もうすでにご存知の方もたくさんいらっしゃるのではないかと思います。

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 この記事の中で,「そう,バージニア,サンタクロースはいるのです。」と語られます。

 …目に見えるものしか信じようとしない人は,サンタクロースがいることを疑ってしまいます。

 …サンタクロースがいなかったら,すなおに信じる心も,詩も,夢のような物語もなく,人生はちっともたのしくないでしょう。わたしたちが,喜びを感じるのも,見たりさわったり聞いたりできるものだけになってしまいます。そして,子どもたちが世界中にともした永遠の光も,消えてしまうことでしょう。

 …サンタクロースを見た人は,だれもいません。でも,だからといって,サンタクロースがいない,といえるでしょうか。この世の中でいちばんたしかでほんとうのもの,それはおとなの目にも,子どもの目にも見えないのです。

 …目に見えない世界は,一枚のカーテンでおおわれていて,どんな力持ちでも,そのカーテンを引きさくことはできません。そのカーテンを開けることができるのは,信じる心,詩,愛,夢見る気持ちだけなのです。そういう心さえあれば,カーテンの向こうにひろがる,美しく,きらきらした輝かしい世界をみることができるのです。

 …今から1千年たっても,いえその百倍の月日が流れても,サンタクロースは子どもたちの心の喜びとして,ずっとずっと生きつづけることでしょう。

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  『星の王子様』にも,「 かんじんなものは目では見えない,心でさがさないと… 」という一節があります。

 見えないものを見ようとすることで,世界は大きく広がって来るのではないでしょうか。その広がりの中に,サンタクロースの姿が見え,子どもたちが幸せな時が世界が幸せな時と考えるサンタのハートまで見えてくるような気がします。

 サンタクロースのことを考えるだけで,楽しく幸せな気持ちになります。

 なぜサンタの服は,赤いのか。青空色の服も似合うのでは……。なぜサンタは,おじいさんなのか。おばあさんサンタや子どもサンタがいてもいい……。世界を回るのには,トナカイのソリよりはロケットに乗った方がずっと速いのでは……。いやいや,どこでもドアの方が便利なのでは…?  新たなサンタ物語がつくれそうな気がしてきました。  


かみさまへのてがみ

2011-10-20 09:30:06 | インポート

『かみさまへのてがみ』<谷川俊太郎:訳,葉祥明:絵,サンリオ:刊>を久しぶりに手にとって読みました。思わずほほえんでしまうような手紙に,心が温かくなりました。

この本は,アメリカの子どもたちがかみさまに向けて書いた手紙を収録したものです。子どもたちの手書きの英文も日本語訳と一緒に掲載されており,幼いアルファベットの文字一つ一つに子どもたちの思いが込められているような感じがします。谷川俊太郎さんの訳,葉祥明さんの絵も手紙の内容にピッタリです。

大人以上に子どもたちは神様を近い存在と考え,まるで親しい友達のように思っているようです。宗教的な思いに関係なく,子どもたちの自由な想像力,素直で飾らない心にふれることのできる手紙集です。手紙というより詩のような感じもしますので,子ども詩集といった方が適切かもしれません。収録されているいくつかを次に紹介します。

☆ かみさま どうして よる おひさまを どけてしまうのですか? いちばん ひつような ときなのに。  <バーバラ>

☆ ゆきが すごく つもって,がっこうが やすみに なったときのこと おぼえていますか? また あんなふうに してもらえないかなあ。   <ガイ>

☆ あなたは どうして じぶんが かみさまだって わかったんですか?<シャーリーン>

☆ かみさま あなたは きりんを ほんとに あんなふうに つくりたかったの?それとも あれは なにかの まちがいですか?  <ノーマ>

☆ かみさま あなたは てんしたちに しごとは みんな やらせるの? ママは わたしたちは ママの てんしだって いうの。 そいで わたしたちに ようじを ぜんぶ いいつけるの。   <マリア>

☆ かみさま こどもに おかあさんと おとうさんが ひとりずつ いるっていうのは とても いいね。 それを おもいつくのに,ずいぶん じかんが かかりましたか?  <グレン>

どのてがみも,ほほえましく 心が洗われるような 感じがします。レオ・レオニの『フレデリック』ではありませんが,「 きみって 詩人じゃないか !」 と 子どもたちに 伝えたくなります。

曇りのない目で,物事を見つめ・感じ・受け止める やわらかなハートを, 子どもの心にかえって 取り戻したくなりました。