あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

レ・フレールの心に残るコンサート

2014-09-27 00:41:06 | インポート

26日に、仙台いのちの電話のチャリティコンサートに出かけてきました。レ・フレールという兄弟デュオ(斎藤守也・斎藤圭土)によるピアノコンサートでした。息の合った二人のすばらしい演奏の迫力に圧倒され、それでいて繊細で心に届く響きに引き込まれた 心に残るコンサートでした。改めてピアノのもつ表現力の豊かさにふれ、レ・フレールのファンになりました。

確かな演奏技術に裏打ちされているからこそ、あれだけ心に残る演奏ができたのだと思いました。曲の演奏の途中に入る会場からのかけ声や拍手、二度のアンコールに応えての演奏の最後には会場の人たちが総立ちで拍手を送りました。音楽に疎い私も、演奏に心を奪われ、思わず足でリズムをとり、拍手をしていました。心の内にまで快く響く演奏だったからなのだと思います。

来年の2月21日(土)には、仙台電力ホールでニューアルバム発売記念ライブが開催される予定とのこと。是非またライブを聞く機会を得たいと思いました。ナマの演奏のすばらしさにふれたことで、また同様の感動を味わいたいものだと思います。

インターネットでレ・フレールを検索すると、ユーチューブでライブでの演奏の様子を視聴することができるようです。是非、その演奏ぶりにふれてみてはいかがでしょうか。

音楽のもつ魅力を改めて体感できたひとときでした。その機会を与えてくれたレ・フレールに心から感謝したいと思います。


ロゴセラピー講演会に参加して

2014-09-22 11:06:15 | インポート

20日に、仙台へ出かけてきました。日本ロゴセラピスト協会事務局長の草野智洋氏を講師に迎えての ロゴセラピー講演会に参加するためです。

案内パンフレットには、ロゴセラピーについて次のように紹介されていました。

『「夜と霧」の著者、V.E.フランクルによって創始された「意味(ロゴス)」を中心として進められる心理療法。ロゴセラピーでは、どのように生きることが意味のあることなのか、今いる状況での課題は何なのか、人生に意味を見出せないで悩んでいる人たちと一緒に、意味のある生き方を探し、癒しの可能性を求めます。「いかなる状況にあっても人生に意味がある、人生にイエスと言うことができる」と考えます。』

フランクルの考え方から自分なりに学んだことを、改めて確かめ・考えなおしてみたいと考え講演会に参加しました。断片的な知識が、ロゴセラピーの考え方の中に整理・統合されていくような感じがし、少しだけ以前よりフランクルの考えが理解できるような気がしました。

講演の中で印象に残った言葉をいくつか書き出し、併せて自分の思いや考えもまとめてみたいと思います。

・ロゴセラピーは、人を変える「技術」ではなく、「生き方」としてあらわれてくるもの。セラピスト自身がロゴセラピー(生きる意味を見出し行動すること)を生きるということ。

 他人ではなく自らの生き方に関わる考え方であるということ。行動の主体は自分であり、その生き方の内にあらわれてくるものであるということ。人生の主役は、その人自身なのですから。

・どんな状況でも人は生きる意味を見出すことができる。

 フランクルは、ユダヤ人であるという理由だけで過酷な運命を生きることになります。家族との別離、死が隣り合わせの収容所生活。番号で呼ばれ、寒さと飢えの中で、強制労働にかりだされる日々。人間であることを否定され、多くの仲間が死んでいく中に在っても、人間としての尊厳を失わずに生きぬいたという事実の上で、語られる言葉です。どんな状況でも と言い切れるところに 体験に基づく言葉のずっしりとした重みを感じます。

・人生の意味を問うのではなく、私たちは人生から問われている存在である。

 ※ 自分ではなくそれ以外のものから、求められ必要とされている。今あなたにできることは何か、あなたがすべきことは何か。その問いの答えを自分で探し、選び、責任をもって行動で応えていく。

 人生の意味を問うことは、自分の世界から発せられた問いであり、それはこだまのように自らに返って来る問いなのかもしれません。自分の世界にいる限り、その問いは繰り返され続けることになるのでしょう。しかし自分から切り離したところに立つならば見方が変わり、人生そのものが自らに語りかける問いになってくるのだと思います。人生そのものがその主役である自分の登場を待っていてくれるのですから。

・良心によって行動する ~自然体の素直な心で行動する。…をしなければならない とか 欲望のまま 行動するという意味ではない。

 良心によって行動するということは、今自分ができること・やれることを 肩をはらず できる範囲で行動していくということなのだと思います。使命感にとらわれすぎず 手の届くところから やれることに手をつけていく。そういった構えが自然体の生き方なのかもしれません。

・人生の三つの価値 

 ○創造価値 ~ 物や作品の創造、仕事などを通して自分の役割を果たすこと

 ○体験価値 ~ 自然や芸術、愛情や友情、人とのつながりを体験

 ○態度価値 ~ 避けることのできない運命に対する態度によって、人生の意味を実現する

 ※ 変えることのできない運命を自分の人生の一部としてしっかりと引き受け、苦悩する。‘それでも人生にイエスと言う’ それが人間としての最高業績。その精神の自由を奪うことは誰にもできない。

 物が満たされても、精神は満たされない。それだけ人間は精神的存在なのだと考えます。だからこそ、人は精神的なものが満たされる三つの価値を求めるのだと思います。その価値にふれることで、生きることの充足感を体感でき、絶望や空虚感にとらわれたときにそこから抜け出す力を見出すことができるのではないかと思います。

 それぞれの価値に気づき、ふれることのできる 日々でありたいものです。辛く苦しい出来事に出合っても、そのことと向き合いながら 苦悩を受け止め、待っている人生の中で明日への一歩を踏み出す 自分でありたいものです。


「思い出のマーニー」を見て

2014-09-15 21:46:06 | インポート

心に残るアニメでした。

もらいっ子である主人公:杏奈の抱えている心の痛み。幼いうちに両親を亡くしたことで、手にすることのできなかった幸せ。新しい両親が差し出す愛情を素直に受け止めることができないほど、痛みは心の奥深くまで浸透していたのです。

その杏奈の頑なな心が、ぜんそくの療養先で過ごした夏の日々の中で解きほぐされていきます。マーニーという女の子との出会いを通して。

自分を心から愛してくれる人を求める二人が、お互いに相手を必要とし、必要される存在となったのです。

マーニーは、杏奈の心がつくりだした愛する友であり、同時に実在した存在でもあったのです。その友と過ごした日々の思い出が、杏奈の閉ざされた心を少しずつ開いていきます。疑いをもって人を見つめる歪んだ心を まっすぐな心に変えていきます。

そして何よりも、自分の出生の秘密を解き明かす手がかりとなったのです。両親の顔も知らないで育った杏奈にとって、自分がどんな経緯で生まれ、マーニーが自分にとってどんなに大切な人であったかが分かることで、自分の存在の意味を確かめることができたのです。

自分がかって愛された存在であり、今でも身近な人々(もらってくれた両親を含め)から愛されている存在であることを実感することができたのです。

心の痛みは、こうして少しずつ解消されていくのでしょう。そうやっていくなかで、内にいた自分が少しずつその境界線を越えて、外にいる人ともふれあっていけるようになるのでしょう。

痛んだ心が マーニーとの出会いと 穏やかな海と洋館と星と月のつくり出す 美しい景色の中で 癒され 新たな生きる力を見出す 心に 変容していく様子が 印象的です。

杏奈のこれからの幸せを 心から応援し見守っていきたいと思いました。


みをつくし料理帖 に 重なる物語

2014-09-15 20:38:31 | インポート

みをつくし料理帖 の著者である 高田郁氏推薦の物語を読みました。著者は中島要氏、物語の主人公は 着物に込められた思いを汲み取り、しみ抜きなどその再生のために心を込めて尽くす 着物始末屋・余一です。

みをつくし料理帖の主人公:澪が、市井の人々が喜んで食の楽しさや喜びを味わうことができるよう旬の素材を生かした料理づくりに専念するように、この物語の主人公:余市も、着物に込めた人々の願いや思いを深く受け止め、古くなり擦り切れた着物に新たな命を吹き込みます。

一つの着物に関わって、さまざまな出来事や事件が生じます。余市は、そういった着物の始末を通して、込められた願いや思いをよみとり、人々の心まで紡いでいきます。

物語の筋にあたるものを縦糸とするならば、この物語が魅力的なのは、横の糸にあたる 余一やお糸など 登場人物たちが 存在感があり、お互いに関わり合う中での心の動きも丁寧に描かれ、奥行きのある物語に仕上げられていることです。その点でも、一人ひとりの登場人物たちが魅力的であった みをつくし料理帖 の物語にも重なるものがあります。

着物の始末屋:余一を主人公とする物語は、これまで3巻が発刊されています。「しのぶ梅」、「藍の糸」、「夢かさね」 と続く シリーズです。

そそっかしい私は、タイトルの魅力に惑わされ、3巻から読み始め、登場人物への説明のなさに違和感を感じながら読み進めてしまいました。それでも、読了した時点で次の巻を読みたいと思い、他の2冊の表紙を見て気づきました。読んだのは3巻だったということに……。以下、1巻・2巻と読み進めることで、読み終えた3巻の内容を改めて深く理解できたような気がしました。これから読む人には、是非1巻から読むことをお勧めしたいと思います……?。

暗い過去をもった主人公の余一が、自らの幸せまで手に入れることができるのかどうか、目を離せない物語との出会いとなりました。新たな物語との出会いを橋渡しして下さった高田郁氏に、心から感謝です。 是非、一読を!


朝日新聞への期待

2014-09-13 18:57:40 | インポート

社長の謝罪と辞任・編集責任者の解任、さらには本日(9/13)付けの朝刊では天声人語と社説欄で、謝罪とこれからの新たな方針が述べられていました。

新聞社としての土台を揺るがす一連の出来事だったわけですが、潔く非を認め謝罪し、今後の報道の在り方について 『反証となる事実や異論に謙虚になるという原点』を心に刻まなけれぱならないという言葉に、新たな信頼をおきたいと思いました。

『……一番重く受け止めなければ指摘〈読者やほかのメディアからの批判〉の一つは、「自分たちの主張に都合の良いように事実を集めたのではないか」だと思います。』  これを防ぐためにも反証の事実の謙虚な受け止めと 池上氏のコメントのような異論に対する寛容な受け止めが大切なのだと社説で述べています。

天声人語の末尾では、『砕け散ったもののかけらを、時間はかかっても拾い集める。そして信頼を一から作りなおしていく。深く自省する中で、朝日新聞が言論の一翼を担っていく気構えには揺らぎがないことも、あわせてお伝えしたい。』 と述べています。

私個人の中でも、これまでたくさんの反省と失敗体験があります。その非を背負いながら痛みとして感じ続けることで、少しはまともな一歩が歩めるのではと考え 今を生きているところがあります。

個と組織では形態や論理が異なるかもしれませんが、新聞社の最前線で活躍する記者の一人ひとりにとっても、今回の騒動は改めて何をよりどころに報道にあたるかという提起になったのではないかと思います。

朝日新聞が信頼される報道機関として、組織としても その組織の主体となる個としても、確かな道を歩んでいかれることを 愛読者の一人として 改めて期待したいと思います。