あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

旅立つ娘に

2018-11-12 11:08:52 | 日記
無事 東京での三女の結婚式が終わり、昨夜帰郷しました。

教会での結婚式では、娘と腕を組み入場。
歩き始めた瞬間から、頭の中が真っ白になりました。

歩く距離は そんなに長くないのに、娘と歩調を合わせて進む一歩一歩が
親子としての これまでの人生を 踏みなおしているような印象があり、
とても長く感じました。

前方で待つ新郎の手に 娘の手を委ねる場面になって、改めて 親としての
役割を一つ終えたような実感がありました。 
これからは 二人が主役となって 手を携えて生きていくことになるのだなあ 
と……。

披露宴では、二人がそれぞれの職場で、仲間や先輩の皆さんから信頼され慕わ
れている様子が紹介され、胸が熱くなりました。同時に、こうしてあたたかく
二人を身近で支えて見守ってくださっている仲間の皆さんがいるからこそ、
二人の今があるのだと、心から感謝の思いでいっぱいになりました。

娘が学生時代に所属していたサークルの皆さんの歌声や一緒に歌う姿も、心に
残りました。小学校時代の同級生の皆さんにも参列していただき、これまで出
会った多くの仲間や友人に支えられて 娘が成長してきたことを、感謝の思い
と共に改めて感じました。

二人の門出を祝福してくださった 皆さんの思いや願いに こたえるためにも
二人には 信頼の絆を深めながら、周りの人々まで 幸せで包み込むような
あたたかい家庭を築いていってほしいと思っています。

『ゆずり葉』の詩のように、これまでゆずり受けたものに感謝しながら、
これからは 二人で力を合わせて、いのちあるもの、よいもの、美しいものを
造りながら、幸多い人生を歩んでいってほしいと願っています。

無事終えて ホッとした思いと同時に、
親としての役割を一つ終えたことの さびしさも感じています。



娘の結婚に寄せて

2018-11-09 22:24:31 | 日記
11日に、我が家の三女が結婚式を迎えます。
式場が娘の暮らす東京であるため、式前日の明日に東京に出かける予定です。

結婚式は教会で、披露宴はその近くにある会場で行われます。

教え子や親せきの結婚式には何度か出席したことがあるものの、花嫁の父として
臨むのは今回が初めてです。

娘が三人いるのに、一番末っ子の三女から結婚するのは、順序に合わないわけで
すが、愛する人ができて 新たな幸せの旅に出ることには、心から祝福したいと
思っています。

今は冷静な心境にありますが、当日はどんな心の状態になるのか心配です。

ただ確かなのは、新郎になる人物に寄せる信頼です。
娘が介護職につき、同僚として勤める中で 選んだ相手なのですから、仕事の面
でも 人間的な面でも、頼れる存在であり 支え合える存在なのだと思います。

娘が里帰りした時には、娘と同伴し、栗駒山の須川周辺を娘と彼と私の三人で散策
したことがありました。一緒に歩きながら、その誠実な人柄にふれ、大丈夫二人で
歩んでいけるなあと実感したものです。

三女が、東京で働き始めたころから、こんな日がいつかやってくるのだろうなと
予想はしていました。

その予想通りに、娘は東京で 新たな人生をスタートさせることになりました。
今は、心からその旅立ちと 幸多い未来であることを 祈りたいと思っています。

幸せは 待つのではなく 自らその手を伸ばし つかみとっていくもの
与えられたものではなく 自ら選び つかみとったものだからこそ
大切に 育んでいってほしい

子どもが幸せな時は 親はそれ以上に幸せな時
笑顔あふれる家庭を 二人で力を合わせてつくっていってほしい

離れているので 何かあった時に すぐに駆け付けることはできないけれど
いつも応援し 末長く 二人で歩むこれからの人生を 見守っていたい

幸多い 二人の人生でありますように‼ 




『ゆずり葉』の詩を読む

2018-11-08 23:41:28 | 日記
 先日、河井酔茗さんの詩『ゆずり葉』の読み合わせを終えました。
 
 うれしかったのは、生徒さんの一人の方が 自宅にある語源辞典を使って『ゆずり葉』のことを調べ、
それをまとめた手書きの資料を私に届けてくださったのです。また、この方の家では、新年を迎える時に 
鏡餅の下に ゆずり葉を枝ごと敷いて、お供えしていたそうです。
いただいた資料によると、『…民俗学的にも、新葉と旧葉の交代を、子の成長に伴う世代交代にたとえて
めでたい木として、葉を正月に飾ったり、正月を待ちわびる童謡に詠み込んだりしている…』とのこと。
 詩を通して学びの連帯ができたことに、大きな感動を覚えました。共に学び合う仲間としての絆を 
これからも深めていきたいと思いました。


  ゆずり葉
              河井 酔茗
子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わってふるい葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってー。

子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽の廻るかぎり
ゆずられるものは絶えません。

輝ける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つもってゆかない。
みんなお前たちにゆずっていくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでしょう。

以下、読み合わせの中での主な発問や取り上げた言葉、留意した点について その概要をまとめてみたいと思います。

【1・2連】
〇なぜ、ゆずり葉という名前がついたのでしょうか。
〇2連で こんなに という表現が強調するように二度使われていますが、どんな作者の思いがこめられているので
 しょうか。
 → 風雨にさらされながら それだけ厚く大きい葉になったのに
〇無造作に落ちるとは、どんな落ち方なのでしょうか。
 → 辞書的な意味では「むずかしく考えないで気軽にする様子」とあり、落ちることが
  ごく自然で当然のように
〇何のために 落ちるのでしょうか。
 → 新しい葉にいのちをゆずるために

※古い葉も、昔は生まれたての新しい葉の頃があったのですよね。そうして同じように自分にいのちをゆずって
くれた古い葉があり、そして今度は自分が古い葉になりいのちを譲る側になった。まるでいのちのバトンを受け
渡すように、繰り返し、その受け渡しのリレーが行われてきたのだと思います。

【3連・4連】
〇子供たちがゆずり受けるものには、どんなものがあるのでしょうか。
〇4連の最後に、『子供たちの手は まだ小さいけれど-』 と書かれていますが、おしまいの棒線の代わりに 
 言葉で表現すると、どんな言葉が入るでしょうか。
 → すべてのものを受け取るのには、今はまだ小さい手ではあるけれど、やがて ゆずられた すべてのものを受
  け取ることのできる 大きな手を持つ人(大人)になっていくことでしょう。

【5連】
〇次に5連の場面について考えたいと思います。ここは、ゆずりわたす側に焦点をあてて書かれていますが、世の
お父さん、お母さんたちは、どんなものを どんな気持ちで造っているのでしょうか。

※形あるものだけでなく、目に見えない 子供に注ぐ愛情や いのちの大切さ 美しいものやよいものを感じ取る
豊かな感情も含めて つくり・ゆずり渡しているのでは…
2連にあるように、無造作に落ちるゆずり葉のように 何一つもっていかないのですね。

【6連】
〇6連の最後に「気が付いてきます」とありますが、子供たちはやがてどんなことに気がついてくるのでしょうか。
→ ゆずりうけたものの すばらしさ・よさ・美しさ・大切さ
 ゆずり受けたものを造ってくれた 父母や人々の思いや願い
 ゆずり受けたものを造ってくれたことに対する感謝の思い
 いつかは、自分が譲り渡すものを造る側になるのかもしれない

【7連】
〇子供たちがもう一度ゆずり葉を見る時は、どんな時でしょうか。
→ 自分が 今度は 譲り渡すものを 作る側に立っているのだと 気づいたとき
 ゆずり葉のように、昔から 繰り返し ゆずられる側から ゆずり渡すものを造る側へと その一生の営みを通して 
 受け継がれてきた 大きな流れの中に 今自分が立ち 生きているのだと 感じたとき

※ゆずり渡すもの・ゆずり受けるものは、果たして目に見えるものだけなのでしょうか。
親がわが子にそそぐ愛情も 美しいものを美しいと感じたり、善いものを善いと感じたりする 感情や心の動きも 
子供たちは受け取っているのだと思います。
たくさんのものと一緒に その思いまで 含めた すべてのものが、ゆずり・ゆずられる流れの中で、親から子へ 
大人から子どもたちへと受け継がれてきたのではないでしょうか。
その流れの中に、私たちは 今生きているのかもしれません。
子供のころにはすべてのものをゆずり受け、自分が親や大人になることで ゆずりわたすものを造りながら…

この詩も 86年前に河合酔名さんが造り、私たちがゆずり受けたものの一つでもあるのですね。

未来に生きる子供たちに、どんなものを造りゆずり渡していくのか、改めて造り手の立場で考えてみたいと思います。
また同時に、ゆずられたもののすべてを受け取ることはできませんが、少しでも多くのものを受け取ることのできる 
大きな手を持ちたいものです。潔く無造作に葉を落とすまでに、まだ時間がありそうなので…。




秋は二度目の春

2018-11-05 19:50:58 | 日記
先日の天声人語に、アルベール・カミュの
「秋は二度目の春であり、すべての葉が花になる」という言葉が、引用されていました。

秋の深まりと共に、色鮮やかに紅葉する木々の姿は、まさに満開の花そのものとも 形容
できそうです。

やがて 花が散るように 落葉し、木々は冬越しの準備を始めます。
そして、冬になると 三度目の春を 目にすることになります。
枝々に降り積もった雪が、満開の 純白の花となって咲きそろう景色を見ることができる
のですから。

夏の日差しを受けて鮮やかに輝く 緑葉も、緑の花とも言えそうです。

そう考えると、四季折々に 花咲くさまざまな春を 味わっているような気がしてきます。

移り行く季節の 美しい彩りを 見逃さないようにしていきたいものです。

 

新聞の投書欄の言葉

2018-11-04 23:04:47 | 日記
投書欄を開いて、目に入った言葉。
「これからが、これまでを決める」

それまで山歩きを趣味にするなど、健康な生活をおくってきた79歳の
加藤さんが寄せた投書のタイトルでした。
今年の四月に心筋梗塞の予兆があり、救急車で搬送され、バイパス手術
を受けたものの、以後閉そく性動脈硬化症を発症し、足指の先端が壊死
し、6本を切断したとのこと。

半年に及ぶ入院生活を送り、どう生きていったらいいのか思い悩む日が
続いたときに、出会ったのが 数学者・藤原正彦氏のエッセーであり、
その中の言葉「これからが、これまでを決める」という言葉。
著者の藤原氏は、近所のお寺の掲示板で その言葉と出会ったとのこと。

「これまでが、これからを決める」という欧米型世界観と正反対の東洋
の哲学にふれ、これからの生き方次第でこれまでの人生の意味が違って
くるという言葉は、加藤さんに大きな感動を与えたようです。

病み上がりで不安におびえる加藤さんにとって、その言葉はすっと頭に
入り、暗くて見えなかった前方に、光明を見出す思いがしたとのことで
す。

「これまでが、これからを決める」という考え方は、これまで積み重ね
てきた努力が、これからの(未来の)扉を開くという 考えに結びついて
いくのでしょうか。これまでの努力や苦労が、これからの人生において
きっと報われ実を結ぶという考え方も、とても大切な考え方だと理解で
きます。

しかし、その考え方を突き詰めていけば、これまでの生き方や努力が
未来を決定づけるということに結びつき、極端な考え方をすれば、過去
が未来を決定づけるという考え方につながっていくのかもしれません。

一方「これからが、これまでを決める」という考え方に立つと、これま
でに縛られず、これからの歩みや努力が これまでの人生の意義や価値
を意味あるものに変えていくという 考え方に結びついていくような気
がします。

ユダヤ人を迫害したナチスによる 過酷な収容所生活をおくる中で 
フランクルは、死と隣合わせの絶望の淵にありながらも、それでも人生は
あなたを待っているという考えにたどりつきます。

この考え方と「これからが、これまでを決める」という考え方とが、私
には どこかつながっているように感じます。

いつでも、人生は リセットでき、新たなスタートラインに立つことが
できる。これまで以上に これからの歩みが、人生の価値を決定づけてい
くのだろうから。

これまでの人生を否定するわけではありませんが、いたずらにこれまで
に縛られずに、今できること・今したいこと・今必要とされることに、
取り組むことで、新たに見えてくるこれからもあるのではないでしょうか。

「これからが、これまでを決める」
その言葉の重みを感じながら、今という時間を大切に過ごしていきたいもの
だと思います。