あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

道は 開かれている

2015-08-31 20:57:07 | 日記
鎌倉図書館のメッセージが、ネットでも話題となったようです。
東京などの小中学校は、今日から2学期がスタートすることになるのでしょうか。
さまざまな理由や事情から 学校の中に居場所を見出せない子どもにとっては、苦痛の始まりなのかもしれません。

そんな子どもたちに向けた メッセージでした。その文面を次に紹介します。

「もうすぐ二学期。
 学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。
 マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。
 9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。」

どこにも居場所のない子どもにとって、そんな逃げ場所もあったのかと気づかせてくれるメッセージなのだと思いました。
八方塞がりの 光の射さない世界に、新たな道が開かれていることを さりげなく示してくれた言葉なのだと思います。

上から目線ではなく 押しつけがましくなく 子どもの抱えている痛みによりそう 温かさ。
言葉の内から 子どもを気遣う温もりが 伝わってくるような気がしました。

私自身が関わっているボランティアも、相手の方にかける言葉の内に 人間としての温もりや 抱えている悩みや痛みに
よりそい、真摯に受け止める 開かれた心が、必要なのだと感じています。

閉じられた心は、温かく開かれた心に向き合うことで、少しずつ開かれていくのだと思います。

閉ざされた心の向こうに 光を感じ 新たな道が見えてくるのかもしれません。

紹介したメッセージには、自分の外の世界に 誰にでも 開かれた扉(図書館)があることを気づかせてくれる心のこもった
温かいメッセージでした。

いつでも 道は開かれ、人の心も開かれている。
そんな学校であり、図書館であり、社会であったら、どこかに 自分の居場所を見つけ、抱えている痛みも少しは楽になって
いくのではないでしょうか。
絶望して命を断とうとしている人も 思いとどまる きっかけを見出すことができるかもしれません。

その一助となるためにも 人の痛みや辛さを 想像できる感性と よりそっていこうとする行動力を身につけることができるよう、
自らの人間力を高めていきたいものだと感じています。








論壇時評を読んで

2015-08-30 17:05:43 | 日記
8/27付の朝日新聞に掲載された 作家:高橋源一郎氏の『「外注」した政治 戦後70年、今取り戻す』を読んで、
共感できるものを強く感じました。

…日本人は、死んだ人間は、故郷の地に集まり、そこから生きている者を見守り、やがて、子孫から敬われ、弔わ
れることで、すべての祖先の霊と合体してゆく、と考えてきた。だが、戦争による夥しい死の中で、子孫をつくる
ことなく、異国で亡くなった魂はどうなるのか。そして、(偉大な民族学者)柳田(国男)は、日本人固有の死生観に
基づき、「国に残った縁あるモット若い人たちが、海の藻屑となったり、ジャングルの奥で野ざらしになった死者の
養子となることで、彼らを先祖にし、その子孫となり、彼らを敬い、弔うようにしてはどうか」という破天荒な政策
を提案した、と 加藤(典洋)は指摘している。(雑誌「すばる」に寄稿したエッセーの中で)
…柳田は、戦争の死者を、ひとりひとりの個人が作る「家」が弔う、という形を提唱することで、「国家」が弔う、
という靖国神社のあり方を、もっとも深いところで批判している。「戦争の死者」が戻りたかったのは、靖国では
なく、彼らの故郷や家族のもとのはずだったから。
同時に、いま柳田を読めば、もっと別の視点を得ることがもできる、とも思った。柳田が憂えたのは、人びとが、
かっては我が手で行ってきた「慰霊」を、国家という「外部」に任せてしまったこと、すなわち、慰霊の「外注」だった
のかもしれない。
 だが、私たちはみんな、少しずつ、「家事」も「教育」も、「外注」するようになったのだ。そのことによって、確かに
私たちは自由になった。その結果、得たものは何だったのだろう。

 戦中において、戦う人々の心にあったのは国家という抽象的なものではなく、守るべき対象となった家族であり、
大切な人々といった 自分と関わりの合った具体的な人々だったのではないでしょうか。だからこそ、亡くなって霊
として帰るべき場所は、かって自分が暮らし愛する人々の住む故郷だったのではないでしょうか。
 靖国に英霊として帰るのではなく、一人の人間として帰るべき場所に。

 国家があって国民があるのではなく、国民があって国家が成り立つ。
 国があって個人があるのではなく、個人があって国がつくられる。
 その順序が逆になってしまうと、国家や国の前に個人の存在が消されてしまい、国家のために国のためにという考
えが優先されてしまうのではないでしょうか。かけがえのない個人の命も、国家という抽象的なイメージの前では単
なる道具になってしまうのではないでしょうか。
 そういった国家という縛りから解放されたところから、個人の存在の重さをイメージすることで、民主的な国のあ
りようは見えてくるのではないでしょうか。
 高橋氏の言葉を借りるならば、外注することは個人の思いや考えはもちろんのこと存在や命そのものまでを、国家
や自分以外の者に預けてしまうことでもあるのだと思います。
 安保法案の論議の場で、政治家は国民の生命・財産を守るために必要だと力説します。しかし、なぜかそこで表現
される言葉は抽象的過ぎて、その国民の一人が自分なのだと実感できない軽さを感じてしまいます。
 その違和感こそ、そこで生き暮らしている人々が日々感じている 具体的な生活感から来る確かな思いなのではな
いかと思えるのです。
 高橋氏は、若い女の子向け雑誌や女性週刊誌のなかで、憲法や安保法案が取り上げられるようになったのは、
「平穏に見えた彼女たちの周りにも、危機が忍び寄っていることを敏感に感じとるようになったのかもしれない」
「いや、そのことによって、政治家や専門家に外注していた政治や社会を、自らの手に取り戻すことが必要だ、と思え
るようになってきたからなのだろうか」と述べています。
 そして結論として、
「政治や社会について違和を感じたなら、誰でも疑問の声をあげ、行動してもいいのだ。そんな当たり前のことが、いま
おこりつつある」 とまとめています。 

 今日は、安保法案に反対するデモが、日本各地で行われたようです。それぞれが個人として感じた違和感や危機館が、
行動の原動力になっていたのでしょうか。
 外注した政治や社会を自らの手に取り戻すためにも、できることから行動につなげていくのが いまなのかもしれません。


 

学力調査について思うこと

2015-08-28 07:46:25 | 日記
文科省から、小学校6年と中学校3年を対象にした「全国学力調査」の結果が公表されました。
国語、算数・数学、理科(3年ぶりに実施)について調査した結果です。

民主党政権時代に、全国一斉ではなく抽出校調査という形式に変わったものの、自民党政権になり
以前と同様すべての小中学校を対象とした調査にもどったという経緯があります。

学力の定着の傾向を知ることと その結果から児童や生徒の実態に応じた指導法改善に努めるという目的があったのだと思い
ますが、数値だけが独り歩きして 平均点をあげることが目的となっているような印象があります。

そもそも学力とは何でしょうか。ペーパーテストの点数で推し量れるものなのでしょうか。
また、テスト自体が、どれだけ学力を客観的にみることのできる設問になっていると言えるのでしょうか。

目に見えるものだけを学力と見なすならば、確かに点数はその尺度となることでしょう。
しかし、子どもの持っているさまざまな可能性や能力を推し量る 一つの尺度となるものの その子のトータルとして持って
いる可能性や能力、人間性のすべてを判断するものではないはずです。

ところが、その結果が公表されると、その数値で学校、都道府県が評価され、全国平均に満たない学校や都道府県は教育力の
弱い学校や都道府県として見られるようになり、学校間や都道府県間の格差が強調されてしまいます。
それがさらに競争原理となって、学力向上に重点を置いた指導をあおる結果を招いてしまいます。
いかにして点数をあげるか、そのことだけが目標となると、個々の子どもの豊かな学びをつくる方向から、テスト対策のための
学びを優先させる方向に転じていき、自由な教育からきゅうくつで味気ない教育が展開するような気がしてなりません。

一人ひとりの子どもの可能性や能力、個性や人間性を見つめながら、その子に合った指導や関わり方を推し進めていくゆとりが
失われ、教育現場は外から求められる課題に性急に応えていかなければならなくなっていきます。

どの子にも確かな学力を身につけさせたい、お互いに認め合い助け合い信頼し合う学級や学校をつくりたい、
それは どの教師にも共通する願いでもあると思います。

その願いを実現できるようにサポートし、よいよい教育環境つくるのが、教育行政の役割であると考えます。
学校間や地域間に いたずらな競争意識や格差意識をつくってしまう 学力テストなどは不要です。

たくさんの国費をかけ、学校間の競争をあおるより、ペーパーテストの学力を見るのでしたら抽出校だけの取り組みで十分なの
ではないかと考えます。

学校は、さまざまな課題を与えられ、それに応えることが求められがちです。

学力テストの結果が悪ければ学力向上が課題となり、いじめの問題が起こればいじめ対策が求められます。そして、その成果が
性急に目に見える結果になることが求められます。

その結果、点数をあげることや子ども相互のふれあいの中で生じるトラブル対策に重点が置かれ、地道に学力の向上を図り、ゆ
ったりと子どもの成長を見守ることが、軽視されがちになってしまいます。

一人ひとりの子どものさまざまな成長や変化に目を向け、教師がゆったりと子どもたちに向き合うゆとりが、真の学力の向上と
いじめのない学校づくりを進める何よりのよりどころとなるのではないでしょうか。

外からのさまざまな要求や課題に応えるために、学校の多忙化は解消されない状況にあります。
むしろ 私が現役だった頃より 多忙化は進んでいるのかもしれません。

教師一人ひとりが子どもたちとゆったりと向き合い、一人ひとりの人間的成長(心身両面や学力の面でも)を支え、子どもたちの
心によりそうことのできる 本来の教育現場を取り戻すことこそ 今は必要なのではないかと痛感します。

たかが 学力テスト。そこに現れた点数に一喜一憂することなく、子どもの側に立った教育の展開を求めたいものです。


感動的なスイカとの出会い

2015-08-23 18:08:32 | 日記
以前のブログにも書きましたが、その後多くのスイカを収穫したものの、切ってみて 後悔することがたびたびありました。

どうか 中身が最高の状態でありますように! と祈りながら 包丁をあてます。
その緊張感が 切った瞬間に喜怒哀楽に変わります。

まだ種が白く未熟なものとわかった時の落胆。
 もう少し待ってあげたら、最高の状態で味わえたのに……。
収穫時期が一歩遅れ、熟れすぎた果肉を目にした時の失望感。
 もう少し早めに取っていれば、完熟した実を味わえたのに……。
雨があがって収穫に出かけた折に、実の割れたスイカに出会った時の後悔。
 もっと前に気づいてあげたらよかったのに……。

こんな失敗を繰り返しながらも、実を切らずに 完熟状態を外から見分ける術は身に付かないようです。
切る時の緊張感とその後の喜怒哀楽だけは、変わりなく体感できるのですが…。

今日は、2個のスイカを収穫しました。
一つは小ぶりの児玉スイカ。もう一つはその四倍ほどの大きさの中玉スイカ。
音よりも、実の重さから 収穫することにしました。

きれいに水洗いしてまな板に並べ、大きい方から切ることにしました。
おいしいスイカでありますように!祈りを込めて包丁をあて、切りました。
刃が入った瞬間に、中からビシビシと実のはじけるような音がし、真っ赤な果肉が見えました。
二つに割った断面を見ると、種も黒く水分を十分に含んだ完熟したみずみずしい果肉でした。
さっそくはじを切り取り味わってみると、しゃきしゃきした果肉の歯ごたえとジューシーな甘さが口の中いっぱいに広がり、
今年一番のおいしさでした。
これで気をよくし、児玉スイカも切ってみることにしました。
包丁の刃をさっとあてただけで、実にひびが入りました。
ちょうど食べごろの時期だったようです。中はレモン色。種も黒くなっていました。
これもさっそく試食してみたのですが、皮のすぐ近くまで甘さが浸透し、格別の味わいでした。
赤肉のスイカと比べると甘さは控えめですが、品のあるみずみずしい甘さです。

夏の終わりを飾るにふさわしい 美味なスイカとの出会いに 感激したひとときでした。

総理の失言

2015-08-21 23:12:58 | 日記
国会審議の場であるにもかかわらず 自席でヤジを飛ばす総理。
一度あることは二度あるとは言うものの、またの失言。

「いいじゃん、そんなこと。」

安保法案については、丁寧に国民に説明していく。
と語りながら、なぜこんな軽率で品位のないヤジが発せられるのか。
驕りと幼稚な人間性を またも露出した言動だったのではないかと あきれてしまいます。

それはまた、民主党の議員に対してだけではなく、国民を軽視した本音の発言なのかもしれません。

議長の注意に従い、話した言葉を撤回したようですが、それだけで済むような言動なのでしょうか。

ソフトな語り口で 安保法案が 万が一に備えた 平和を守るための法案なのだと力説する反面、
こういった軽率なヤジを発する人が提起する法案は 果たして 国民のための法案と言えるのでしょ
うか。

どんなに美辞麗句を並べ立てても、納得して受け取めることのできない 総理への不信を新たに実感
する出来事だったのではないかと思います。

一国の代表となる 総理大臣足りえない 器の小ささを感じてしかたがありません。

日本の未来を託すには 人間が余りにも小さすぎます。

主張する内容も大切ですが、それ以上に品位の欠ける言動には閉口してしまいます。

驕りの背景には、先の選挙での圧勝と 圧倒的な議員の数によるものがあるのでしょう。

それはまた、国民の選択の誤りが増長させる結果を招いた とも言えるのかもしれません。

安保法案に対してNOと語ることで、今の政治状況を変えることは可能です。

品性を欠く政治家に、日本の未来は託せない。

そんな世論が沸き起こることを期待したいと思います。