かけ算に関して書いたブログに、たくさんのコメントが寄せられています。さまざまな視点から、真摯に問題点をとらえ、意見や質問をいただいたことに感謝したいと思います。読んだ感想も含め、私の考えを改めてまとめることで、コメントに対する答えとさせていただきます。
コメントの中に、なぜ 1あたりの数×いくつ分 の考え方でなければならないのか という質問がありました。その理由は、その考え方でかけ算をとらえると、たし算やひき算とは異なる かけ算のイメージができ、子どもにとっても分かりやすく理解できるからです。また、割り算の理解にも、その考え方を活かすことができ、かけ算から割り算へと一貫した形で学習を進めることができるからです。かけ算や割り算の具体的な指導については、11月のブログに詳しく書きましたので、参考にしていただけたらと思います。
コメントには、問題と思える 算数の教育内容や指導の実際について、いろんな事例の紹介がありました。指導内容や指導手順には細部までこだわりすぎたものや、不必要で子どもの理解の混乱を招くものがあることも確かです。指導の仕方によっては、手段が目的化してしまう場合もあるかもしれないと私も思います。こういったマイナス面の指摘だけではなく、中には、子どもたちが自由に発想し、さまざまな解決方法を見出す授業の取り組みも紹介されていました。子どもたちの思いや考えを大切にした授業は、理想的な授業でもあります。子どもの側に立って、指導内容や授業方法を工夫・改善している教師の授業や実践報告を、私自身も数多く見、目を通してきました。どれも、子どもの自由な考えや発想を大切にし、子ども同士が学び合う授業でした。
バツをつけられた子どもは、どんな気持ちを抱いたのでしょうか。バツになった理由を納得できたのでしょうか。
6×8 も 8×6 も計算上の答えは、確かに同じです。しかし、(1あたりの数<量>)×(いくつ分)の言葉の式にもどって考えると、それぞれの数字が異なった意味を持ってきます。担任は、その理解が不十分と考えてバツをつけたのだと想像しますが、記事とコメントではそこから問題点を指摘しています。一つ目は、言葉の式にとらわれているから順序にこだわりバツをつけたのではないか。二つ目は、順序にこだわることが数学的に正しいと言えるのか。三つ目は、順序のような細かい点にこだわってしまうから、手段が目的化してしまうような指導をしてしまい、子どもの自由な発想や考え方を奪ってしまうのではないか。
一つ目については、先にも書きましたが、言葉の式があることで子どもたちは、かけ算がどんな計算なのかをイメージすることができ、足し算や引き算とは異なるものだということに気づいていけるので、それにしたがって指導していくことは必要だと考えます。また、こういった指導が子どもたちの自由な発想を決して妨げるのではなく、むしろかけ算に対する理解を深め、考える楽しさを広げていく上でも有効であることを実感しています。ただ、大切なのは順序ではなく考え方なのですから、どうしてそう考えたのかと子どもの考えを聞いてみることが必要だったのではないかと思います。その上で、その子が納得できるような説明と配慮が、指導する側には求められるのではないかと思います。
二つ目については、私自身数学者でもなく数学が得意ではなかった方ですから、数学的に正しいかどうかの判断はできません。しかし、かけ算が、1あたりの数といくつ分の数の演算で成り立つ計算であるととらえることについては、間違っていないと思いますし、その理由についても先のブログで説明したつもりです。順序については、1あたりの数が 無数にある(いくつ分) ことで、かけ算が成り立つという考えにも立っていますので、必然的に1あたりの数が先にくると考えています。ただ 順序よりも、1あたりの数と いくつ分の数を 区分し、想定しながら、かけ算をとらえていくことの方が重要な点だとも考えています。
三つ目については、同感できるところとそうでないところがあります。学校の主役は子どもです。学校は、子どもが本来持っている豊かな感性や想像力(創造力)を伸ばし育む場所であって、それを妨げる場所であってはならないと思います。算数の学習の場においても同様です。細かい手順や約束事、行き過ぎた指導内容や指導によって、子どもの自由な発想や考えを束縛し奪ってしまうような側面があるのも事実だと思います。具体的な指導内容や指導法についても、教科書や指導書にあるから取り扱うのではなく、子どもにとって必要なものであり、分かりやすく、考えやすいものであるかを考えながら、指導していく努力が求められていると思います。学校五日制の中で多忙化する職場の中で、そういった努力を続けている教師をたくさん私は見てきました。子どもたちが自由に発想し、考えや解決方法を出し合う 授業も見てきました。バツをつけた教師だけではなく、こういった努力や取り組みをしている教師たちにも焦点をあて 学校の外からだけではなく、内側から見た 算数・数学の指導の現状にもふれてほしいと思いました。
子どもにとってどうなのかと考えることは、教育の内容や質を高めていく上で、大切な問いかけだと思います。寄せられたたくさんのコメントを通して、算数の指導内容をとらえなおし、これまでの授業を振り返りながら、反省点や課題もたくさん見出すことができましたことに、改めて感謝したいと思います。
先のコメントで言及した、抽象化に関してどのようにお考えでしょうか?
個々が非常に大切な部分です。
1つ分の数 と いくつ分の数
この区別は、本質的には不可能だと思います。
区別して考えた方が考えやすいのであれば、それでも構いません。
区別して教えた方が教えやすいのであれば、それでも構いません。
抽象的考えを獲得して、区別がないとしてしまっている人に区別を要求する意味は全くないと思います。
等分除的問題も包含除的問題も、同じ事だと思っていても何の問題もないし、むしろ逐一区別しないことの方が有用だと思います。
私自身、小学生の時に、「あれ割り算って2種類あるな。20に5がいくつあるのか、というのも、20を5等分するのも、どっちも20÷5だ」と思ったのですが、「そうか、5に何を掛けたら20になるのか、ということだから、結局同じ事だ」とすぐに自分の誤りに気づき、以来、違いを気にすることはありませんでした。詳細は↓に書きました。
割り算の「複数の意味」
http://suugaku.at.webry.info/201102/article_17.html
区別しても構いませんが、「区別しないと駄目」は誤りだと思います。
足し算の合併・増加、引き算の求残・求補・求差についても、算数教育界全般が、区別させるという抽象化否定の方向にいってしまっているのが問題だと思います。
学校図書の指導書より
http://userimg.teacup.com/userimg/8254.teacup.com/kakezannojunjo/img/bbs/0002174.jpg
増加と合併の場面の違いについて
「半具体物の操作を通して、・・・」という部分だけ聞けば、それはいいことだと思ってしまいがちですが、結局、「合併はこうやって操作する」「増加はこうやって操作する」「求残は・・・」などとなっています。
熱心な人ほど、指導書や指南書、研究会などで教わった方法を実践しようとするようです。
>三つ目については、同感できるところとそうでないところがあります。
>こういった努力や取り組みをしている教師たちにも焦点をあて 学校の外からだけではなく、内側から見た 算数・数学の指導の現状にもふれてほしいと思いました。
誰に対するどういう批判でしょうか?記事に対する批判でしょうか?
色々な教師がいるでしょうし、立派な授業をされている教師もいるでしょう。
でもあの記事は、現場の教師がけしからんとかそういうことではなくて、そもそも教科書会社の記述がこうなっていて、それでこういう教え方がなされている。それは何でなのか?
ということだと思います。
限られたスペースで、おそらく色んなケースがあるであろう実際の授業のことまで伝えるのは無理だと思いませんか?
これに関しても、指導書などがまずくて、努力の方向性が間違っていると思われるケースが多々あります。
極端な例えで申し訳ないのですが、アジアを侵略した日本軍の個々の兵士の中には、「アジアを植民地支配から解放する」といった理念に共感して、真面目で熱心な人もいたと思います。
そのことで、やった行為が正当化されると言うものでもないと思います。
話を算数に戻すと、色々調べていくと、算数教育界の中枢が間違った方針を持っていてそれが問題だと分かってきました。
そこを追求している状況で、熱心で一生懸命やっている教師がいると言う事実があったとしても、そもそもの算数教育界中枢の間違いが正当化されると言うことにはなりません。
それから、水道方式について勉強されたようですが、以前も、数教協で勉強会をしていた方とブログでやりとりをしたことがあります。
http://ts.way-nifty.com/makura/2009/07/post-4df6.html
いい人なんでしょうけど、はっきり言って、全然駄目だと思います。
>次に添加。
「えきに電車が5台あります。あとで3台きました。えきには何台電車がありますか。」
などの問題です。
これは、5+3ですが、3+5、とはなりません。
3台の側に視点を持てば、3に5が加わったと見えます。
>たし算の魔法なんですよね。
どういう言葉で書かれてくる問題がたし算に、
またあるときは引き算になるか、、、
を、しっかりと見ていくためには国語の力によるのですが、、、
「合併、添加、増加」は子どもにとって明らかに違う文法なのです。
大人にとっては同じ足し算だけど、子供にとってはそうとは限らないので、丁寧に教える必要がある
ということなら理解できますが、増加と添加と合併は異なるものであると絶対的に信じ込んでしまっていて、子供もそう認識するはず、認識しなければならないと思い込んでいます。
青空人さんはどう思われるでしょうか?
>しかし、(1あたりの数<量>)×(いくつ分)の言葉の式にもどって考えると、それぞれの数字が異なった意味を持ってきます。
これについても、疑問点があるので後ほどコメントします。とりあえず仕事に息ます。
■ 抽象化が分かっていらっしゃらないように見えます。
■ 教え方・手段と、目的が混乱しているようです。
>6×8 も 8×6 も計算上の答えは、確かに同じです。しかし、(1あたりの数<量>)×(いくつ分)の言葉の式にもどって考えると、それぞれの数字が異なった意味を持ってきます。
(1あたりの数<量>)×(いくつ分)というのは、かけ算導入時の便宜的なものに過ぎません。目的ではありません。手段です。
水道方式や数教協では「1あたり量」というのを重視する傾向があるようですが、そんな概念がなくても何も困りません。
私自身、そんなもの意識しなくても物理・数学を理解してきました。全く不要な概念です。
そういう概念を使うことで理解しやすい、教えやすい かどうかについては、私ははなはだ疑問ですが、あくまで教え方に関する話としては、そういう意見もあると受け止めることは出来ます。
しかし、そんな概念が必須かといわれたら、断じて否です。
交換法則は計算上のことだけと思われていらっしゃるかもしれませんが、そうであれば、交換法則が成り立つというのがなぜなのかをどのように理解されているのでしょうか?
1つ分の数 と いくつ分は 視点の違いで逆転する。
ここに気づけば、交換法則が成り立つのは当然のこととして理解できます。
そうすれば、3×4 と 4×3 に意味の違いはなくなります。
各自がもらう蜜柑の個数×人数 の順にする
という、ローカルルールを設定すれば、3×4 と 4×3は異なる状況を表すとも言えますが、単に 1つ分の数×いくつ分の数 と言うだけでは、
前者は3個ずつ4人、後者は4個ずつ3人 という意味
とはとうてい言えません。
>むしろかけ算に対する理解を深め、考える楽しさを広げていく上でも有効であることを実感しています。
青空人さんご自身はちゃんとかけ算を理解されいるのでしょうか?ちゃんと理解していれば、1つ分といくつ分の区別は出来ないことが分かるはずです。
また、割り算に関しても、等分除と包含序の区別はないことは当然のことと理解できるはずです。
1つ分 いくつ分 この区別があるという前提で話を展開しているように思えるのですが、私の誤解でしょうか?