あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

安倍首相 靖国参拝に思うこと

2013-12-28 21:03:32 | インポート

なぜこの時期に、中国や韓国の反発を予想しながら、安倍首相は参拝を強行したのでしょうか。戦没者に対する慰霊の思いは、靖国参拝以外の方法で示すことはできなかったのでしょうか。首相が掲げた積極的平和外交とはどんな外交を指すのでしょうか。靖国参拝がその方策の一つだとしたらあきれてしまいます。同盟国であるはずのアメリカもその行動を失望したととらえ、日本と中国・韓国との対立がより一層深刻化することを憂えています。

少なくとも曲がりなりにも築いてきた戦後の平和外交の土台が、一人の総理大臣の短絡的な行動によって、大きく崩れ去ってしまうような印象があります。アメリカやEUといった日本に好意的だった陣営からも批判される中で、ますます日本の外交は孤立化していくような心配さえしてしまいます。

中国や韓国がなぜ歴史認識を問うのか。そこには侵略の歴史を通した日本という国への不信の思いが根底にあるからなのだと思います。本当に信頼に足りうる国なのかどうか、その疑問を打ち消すために必要なのは、日本が真に平和を希求し、いかに戦争のない世界の平和を目指し努力を続けているかを理解してもらうことなのではないかと思うのです。こういった主張は、中国や韓国に迎合した弱腰外交であるととらえる人もいるかもしれません。しかし、平和憲法を否定し、軍事力を増強し、集団的自衛権の行使という、力には力で対抗するという構えでいる限りは、関係改善の機運は生まれないでしょうし、相互の信頼は閉ざされたままなのではないかと思います。沖縄の問題についても、背景にはアメリカ軍の軍事力に頼る力の論理の肯定があるのではないかと考えます。日本に基地はいらない、軍事力は必要ないのだという 力の論理にくみしない 平和志向の考えがあればと 切実に思います。

ましてや今回の靖国参拝は火に油を注ぐ行為としか言えないでしょう。日本の指導者である首相の行動や発言は、日本という国の意思表示だと諸外国の人々がとらえてしまうほど、重いものなのですから。個人の信条に基づく行動と簡単に見なされるものではないのだと思います。

秘密保護法案の強行採決に見られるように、政権政党である自民党と総理には、数の力でなんでも決められるという驕りがあるように感じられて仕方がありません。アベノミクスによる経済的成果にあぐらをかき、すべての政策が国民の信頼に基づくものだという 錯覚もあるのかもしれません。しかし、現実的には その驕りに気づかせるためには次回の選挙機会しかないのかと考えると、あまりにも時間の遠さを感じてしまいます。そうだとしても、ただ傍観するだけでは国民から離れたところで 決められる政治が独断でどんどん積み重ねられていくことになります。ひとつひとつの政策や政治の流れに疑問を感じるならば、やはりその一つ一つに声をあげていくことが必要なのだと思います。賛成か反対か、いいのか・悪いのか、別の方策はないのかと、この国の主権者としての意識のもとで 自分の考えや意志を示していくことが大切なのだと思います。

日本の未来は、政治家が決めるのではなく、国民一人一人が決めていくものなのですから。

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楽天:田中投手の大リーグ挑戦

2013-12-26 11:56:24 | インポート

新ポスティング制度のもとで、楽天の田中投手が大リーグ挑戦を目指すことになりました。球団が重い腰をあげ、田中投手が夢を叶えることができるよう、挑戦を容認したからです。

新制度では、移籍金として球団が受け取る金額に上限が設けられていることに、球団としては納得できずにいました。そこには、上限額をはるかに超えるだけの市場価値が田中投手にはあり、正当な評価がなされないまま 移籍を認めることになってしまうという 球団としての不満もあったのではないかと思います。しかし、移籍を認めずにいることは夢を実現する機会を奪うことになり、日本一となった球団の印象を悪くすると考えたのでしょうか。7年間、チームの柱として活躍し貢献してきた若者に対する感謝の気持ちと夢を後押ししたいという思いも重なり合って、挑戦を認めたのかもしれません。いずれにしても、球団としての判断は正しかったのではないかと思います。夢に挑戦する機会があるなら、その挑戦を積極的に認め応援していく。そういった立場で、挑戦者を見守り支えていく球団であってほしいと願うからです。

新制度では、移籍金(最高額)に応じたどの球団とも、選手は交渉できるようになり、自分の希望する球団と契約を結ぶことができるようになります。以前の制度では、最高額を提示した一つの球団としか交渉できなかったことを考えると、選手にとっては選択肢が増え、より希望に沿った球団を選べることになります。日程的には、来年の1月末までには、田中投手の夢の舞台となる所属球団が決まるとのこと。田中投手がどの球団に入って、どんな活躍をみせてくれるのか、来年の大リーグがとても楽しみです。ダルビッシュ投手、岩隈投手、黒田投手との日本人投手同士の投げ合いも見られるかもしれません。

楽天の来年の戦いぶりも楽しみです。田中投手、マギー選手、鉄兵選手の姿は見られませんが、活躍が期待される新人選手も多数入団し、マギー選手の代わりにユーキリス選手、鉄兵選手の代わりに後藤選手が新メンバーとして加わります。新メンバーを加えた楽天がどんな戦いを展開していくのか、こちらの方も目が離せません。

夢を夢とすることなかれ (星野監督の言葉)

海を渡った田中投手と新生楽天イーグルスが、新しい年を迎えて 夢をどんな形に紡ぎあげていくのか、ファンの一人として あたたかく見守り、熱く応援していきたいと思います。

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詩「ゆづり葉」を読む

2013-12-25 12:40:30 | インポート

以前紹介しました「ゆづり葉」の詩を、改めて読み直してみました。いのちのバトンを通して続いてきた 譲り・譲られる 人間の普遍的な営み。この詩を読むことで、譲り手である大人たちは(詩の中では、作者も含めた世のお父さんお母さんたちに該当するのでしょうか)、子供たちのために本当に価値あるものを一生懸命造っているのかどうかと、問われているような気がしてきます。同時に、ゆづり葉のように潔く自然な形で、そうして造ってきたものを譲り渡すことができるのだろうかと。

しかし、太陽の廻るかぎり、いのちが譲り・譲られる繰り返しの中で今生きて在るのだと考えた時、すべての疑問が消え去ってしまうような気がします。はるか昔から、いのちはバトンのように親から子へと受け継がれてきました。その中で限りないほどたくさんのものが子供たちのために造られ続け、それを子供たちは受け取ってきました。この詩を読むことで子供たちは、やがて自らが大人となり、親となり、譲られる側から今度は譲る側となって命のバトンを受け渡していくことに気付いていくことでしょう。そうして、どんなものを子供たちのために残していけるかと自問しながら、いのちあるもの・よいもの・美しいものを造り続けていくことでしょう。

時を超え、国境を超え、世代を超えて受け継がれてきた もう一つのサンタクロースとしての役目を 人間は誰でも担っているのかもしれません。

            ゆづり葉

                      河井 酔茗〈1874~1965〉

子供たちよ                  

これは譲り葉の木です

この譲り葉は

新しい葉ができると

入り代って古い葉が落ちてしまうのです

※子供に語りかける出だしとなっています。「子供たち」とすることで、我が子だけではなく多くの子供たちに伝えたいという作者の思いが込められているように感じます。ゆづり葉の姿に託して 譲り・譲られる という普遍的な営みを 子供たちに気付いてほしかったのだと思います。子供にあたるのが新しい葉であり、古い葉は作者を含めた「世のお父さんお母さんたち」。入り代わるは入れ代わると同義。つなぎ言葉の「と」は、その前に書かれていることが誘因となり、その後に書かれていることが結果として引き起こされることを表す働きがありますので、新しい葉ができたことが、古い葉が落ちる誘因となったのでしょう。新しい葉ができたのを見届けて古い葉は落ちてしまうのであり、「入り代わって」とあるので、その様子は自分の席を新しい葉に譲るように落ちるのであろうと想像します。

    こんなに厚い葉

    こんなに大きい葉でも

    新しい葉ができると無造作に落ちる

    新しい葉にいのちを譲って ---

※「こんなに」と強調するところに、古い葉によせる作者の思いを感じます。「厚い葉」や「大きい葉」になる前は、古い葉も生まれたばかりの小さな新しい葉であった時期がありました。1年という時をかけて 譲られたいのちをもとに、葉はこんなに厚く大きい立派な葉に成長してきたのです。それなのに、新しい葉ができたことに気付くと、その体を惜しげもなく「無造作に」落としてしまうのです。自分がつくりあげてきたものに未練も後悔も残さずに潔く落ちる様子を「無造作に」と表現したのではないかと考えます。そんなふうに落ちることができたのは、ゆづられる側からゆづる側になったことに気付いたからなのでしょう。古い葉は、新しい葉にいのちを譲る時が訪れたことを悟ったのだと思います。入り代わって落ちながら、新しい葉がこれから自力で厚く大きな葉に成長していくことを祈ったことでしょう。一方、新しい葉が譲られ受け取ったものは、いのちそのものと古い葉から託された願いです。譲られたいのちを輝かせるように、厚く大きな葉をつくり、やがてその時が来たら、新しい葉にいのちを譲っていくことになるのでしょう。こうしていのちはバトンのように譲り譲られ受け継がれていくものなのだということを、作者は子供たちに伝えたかったのではないかと思います。

         子供たちよ

         お前たちは何を欲しがらないでも

         凡てのものがお前たちに譲られるのです

         太陽の廻るかぎり

         譲られるものは絶えません

※この第3連から、ゆづり葉の世界が人間の世界に置き換わります。欲しがらないでも、すべてのものが子供たちに譲られ、譲られるものには限りがありません。「太陽の廻るかぎり」ですから、人間が誕生して以来のこれまでの期間も、また太陽が廻り続けるこれからも 譲られるものは絶えることなく造り続けられ、子供たちは受け取っていくのでしょう。いのちのバトンという視点で考えるなら、太陽の廻り始めた頃に誕生したいのちの始まりから受け継がれきたものの延長戦上にある 人間としての営みととらえることができるのかもしれません。それはまた、人間だけではなく この地球上に在る すべてのいのちあるものが、子として生まれ親として生きることで繰り返されてきた営みとしてとらえられるのかもしれません。

              輝ける大都会も

              そっくりお前たちが譲り受けるのです

              読み切れないほどの書物も

              みんなお前たちの手に受取るのです

              幸福なる子供たちよ

              お前たちの手はまだ小さいけれど---

※どんなものが譲られるのでしょうか。 ・ 輝ける大都会…人間の手で造られたすべてのものの象徴、建物も交通網も、社会環境や都市文化・文明も含め すべての造られたものや環境をそっくり譲り受けます。輝けるとあるので、受け取るに値する よりよいもの・価値あるものが譲られるのでしょう。 ・ 読み切れないほどの書物…目に見える形あるものだけなく 人間としての自分を豊かに育ててくれる書物も読み切れないほどたくさん譲り受けます。読めるとしても、その一部だけしか目を通せないほど、膨大な書物。それだけたくさんのものを譲り受ける子供たちは、幸福です。それをすべて受け止めるには、まだ手は小さく、その幸せを感じるにはまだ幼いかもしれないけれど、限りないほどたくさんのものが譲られるものとして、子供たちの目の前に用意されているのです。

                   世のお父さんお母さんたちは

                   何一つ持ってゆかない

                   みんなお前たちに譲ってゆくために

                   命あるもの、よいもの、美しいものを

                   一生懸命に造っています

※この連は、譲り手の側に立って書かれています。世のお父さんお母さんたちは、ゆづり葉が落ちるように、何一つ持ってゆきません。ゆづり葉が厚く大きい葉をつくるように、子供たちに譲ってゆくために、命あるもの、よいもの、美しいものを一生懸命に造っているのです。今のこの瞬間も、受け取ってくれる子供たちのために 心を込めて造り続けているのです。

                        今、お前たちは気が付かないけれど

                        ひとりでにいのちは伸びる

                        鳥のようにうたい

                        花のように笑っている間に

                        気が付いてきます

※この連は、譲り受ける子供によせて書かれています。今は、たくさんの譲られるものやそれを造り続ける譲り手の気持ちに気付くことができなくても、やがては 受け止めることのできる手の大きさになり、譲られることの幸福を感じることができるようになることでしょう。子供でいられる今は、ただ 鳥のようにうたい 花のように笑いながら 自由に 健やかに いのちの伸びる時間を過ごしてほしいのです。そんなふうに過ごしていく中で 気が付く時が必ずやってくるのですから。

                             そしたら子供たちよ

                             もう一度譲り葉の木の下に立って

                             ゆづり葉を見る時がくるでしょう

※そしたら=その時(気付く)がきたら、子供たちはゆづり葉を見て確かめることができるのでしょう。自分が譲られるものがどんなにすばらしく尊いものであるか、それを造ってくれた世のお父さんやお母さんたちがどんなに一生懸命につくってくれたものであるのか ということに。そして、いのちのバトンを通して 受け継がれてきた 譲り・譲られる人間としての営みの中に、自分が生きているのだということに気付いていくのでしょう。そうして、やがては自らが親となって子供のために命あるもの・よいもの・美しいものをつくり譲っていくのだということにも…。「もう一度」とあるので、その前に見た時は受け取るには小さな手だったので、気付けなかったということなのでしょうか。さらにもう一度見るときには、譲る時が来たことを自ら悟った時なのかもしれません。

どんなものをどんな形で子供たちに残していくべきか、子供たちにとって本当に必要としているもの、大切なもの、かけがえのないものを譲ることのできる 父であり・母であり・大人でありたいものだと改めて思います。

 

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白銀の世界と フランクル

2013-12-14 11:35:38 | インポート

昨日、今日と雪が降り、朝に白銀の世界をながめることができました。日中には、雪も溶けてしまうでしょうが、すがすがしい気持ちで一日を迎えることができます。

白は、すべての色の始まり。ゼロからの出発を意味するように感じられるからでしょうか。一夜にして世界が白一色に染まることで、これまでの汚れを無にしてくれるからでしょうか。これからの新たなステージを、どんな色でどうつくり変えていくのか。清新な思いで主体的に生きることを求められているような そんな気持ちになるからでしょうか。

死と隣り合わせの収容所生活をおくったフランクルが、著書『夜と霧』〈池田香代子訳 みすず書房〉の中で 美しい自然との出会いを次のように語る一節があります。

……到底信じられないような光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルンにある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂がまさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルグの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに……あるいはだからこそ……何年もの間目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。……

また、労働で死ぬほど疲れ果て、わずかのスープの椀を手にむき出しの土の床にへたり込んでいる時に、突然収容所仲間が飛び込んできて、とにかく外へ出てこいと急きたてる場面があります。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。

……そしてわたしたちは、暗く燃え上がる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄〈くろがね〉色から血のように輝く赤まで、この世のものとは思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。

「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

絶望の淵にあっても、自然の美しさに魅了され、その美しさに心を奪われる人間としての姿に、心を打たれます。フランクルは、被収容者の内面が深まることで、芸術や自然に接することが、(現実の)世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてもあまりあるほど圧倒的だったと語っています。人間であることを否定され、付けられた番号で区分され、ある者はガス室へ送られ、ある者は過酷な労働の中で生死の境をさまよう、生きる希望を見出すことができず生き長らえることのみの 収容所生活の中にあっても、自然と向き合いその美しさに心を震わせる人間でありえたという事実に、深い感動を覚えます。同時に、何の不自由もなく自由に自然と接することのできる自分が、こんなふうに自然と向き合う機会があったのだろうかと自問してしまいます。

改めて その日の朝の雪景色に、一輪の花に、夕方の空に、飛ぶ鳥の姿に向き合いながら、自然と対話するひとときを大切に味わっていけたらと思います。

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サンタクロースの出番の季節を迎えて

2013-12-12 20:15:55 | インポート

今年も娘さんのためにサンタ役を依頼する 教え子からの手紙を受け取りました。私の役目は、青空サンタとなって、メッセージカードを送ることです。プレゼントは母親が用意します。今年もその役目を果たせることをとてもうれしく思いました。どんなメッセージを書こうかなと さっそく同封された 娘さんからの青空サンタ宛ての手紙を ワクワクしながら読みました。

例年ですと、欲しいプレゼントのことが書かれていたのですが、今年は具体的な物についてはふれていなかったので戸惑ってしまいました。でも、読みながら実感したのは、娘さんの成長振りです。五味太郎さんの絵本『クリスマスにはおくりもの』に登場するサンタのように 「なんとすてきな娘になったものだ!」と心から思いました。

手紙には、欲しいものがないけれど、プレゼントがないと少しさびしい。だから娘さんの心の中をのぞいて、本当に必要な物があったら、それを届けてほしい。必要な物がないということだったら、発展途上国や東北の人々に 夢や希望そして幸せを届けてほしい。その人々が幸せになるならばとてもうれしいし、そのことが私の夢でもあります。…… といった内容が書いてありました。

絵本「サンタクロースってほんとにいるの」の中に、『子どものほしがっているものがわかる人だけが、サンタになれる』という一節があります。サンタたるもの、子どもが、何を願い 何を必要としているのかを 感じて受け止めることのできる感性が求められているのだと思います。そのためには、具体的な欲しいものをはるかに超えた子どもに対する深い理解と愛が必要とされます。だからこそ、一番サンタにふさわしい適役は、いつも身近で我が子と接している親なのだと思います。そして、親はサンタクロースという存在に託して、子どものほしがるプレゼントを用意し、思いを込めて贈るのでしょう。

手紙を読みながら、プレゼントがないと少しさびしいという子どもらしい気持ちに思わずほほ笑んでしまいました。でも、その子の心の中をのぞいて、本当に必要なものを見つけ出す困難さを感じました。でも、きっと身近にいる母親サンタがその答えを見つけ出し、形あるプレゼントにしてくれることと思います……。サンタとしての役目の重さを改めて感じることができました。

幸せを受け取る立場から、幸せをおくることのできる立場に立って広く考えることができるようになった娘さんに、人間としての豊かな成長を感じました。発展途上国の人々や震災の被災者の方々に寄せる 温かく心やさしい想い。そこで暮らす人々の苦しさや辛さが少しでも癒され、夢や希望の持てる生活をおくることができ、幸せになってほしい。その願いが太陽のように温かく心に伝わってきました。幸せを願う気持ちは、サンタの心に通じる思いでもあります。

サンタに宛てた手紙は、はじめの頃はかわいい絵が中心だったのですが、文字を覚えてから字も書きこまれるようになり、今では自分の思いや考えを表現することができるようになりました。

サンタの役目を通して、こういった成長を見守り続けることができたことは、何よりの私の大きな喜びでもあります。1年後には、さらにすてきな女の子に成長していることでしょう。

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