あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

このひとときが

2019-06-26 20:05:09 | 日記
農作業をしながら、改めて 吹く風の心地よさを実感しました。

ひと仕事を終え、汗だくになりながら ひと休み。
洋ナシの木がつくってくれる 日陰に、椅子を引っ張り出して
腰を下ろし、汗をぬぐいます。清涼飲料水をゆっくりと飲みながら
耕し終えた畑をながめていると、涼風が通り抜けていきます。

スズメが耕された畑を チョコチョコ歩き回っています。
エサとなる ミミズでも 探し求めているのでしょうか。
モンシロチョウが、私が花と見えたのか、近づいてきてあわてて
飛び去っていきます。
鳥のさえずりが、近くのサクランボの木から聞こえてきます。
ホトトギスの練習中の 「トウキョウ トキョ キョ …… 」
の声も。
その間も、心地よい風が 「お疲れさん」とでも告げるように
吹き抜けていきます。

このひとときが、なんとも愛おしい 生きていることを実感する
ひとときでもあります。

妻は、梅雨の晴れ間のひとときということで、洗濯物や日干しに
大忙し。

平和で その何気ない幸せを 味わうことのできた のどかな
ひとときでした。
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世界谷地の散策

2019-06-13 12:36:47 | 日記
登山の足慣らしを兼ねて、昨日は栗駒山の世界谷地に出かけてきました。

第二湿原から第一湿原を回るコースをたどりました。

湿原への途上にあるブナ林が、いいですね。
悠久の時の流れを感じさせる太い幹、その幹から四方八方に広がる枝々を見上げていると、
鮮やかで瑞々しい新緑の内に包まれているような感動を覚えました。


ブナ林を抜けると、一気に視界が開け、第二湿原に出ました。

最初に目に入ったのが、サラサドウダン。「ようこそ ここへ!」と歓迎の言葉が聞こえてくるようでした。


木道に沿って、ワタスゲも登山者を迎えるように咲きそろっています。






ニッコウキスゲも鮮やかです。



第二湿原を後にして、第一湿原に向かいました。
第一湿原で迎えてくれたのは、鮮やかな鮮紅色の花。またまた「ようこそ」と迎えてもらっているような……



第一湿原は、ワタスゲ、ニッコウキスゲが咲きそろい、ところどころに赤い花が点在し、その三色の組み合わせが 何とも美しい
景色をつくりだしていました。そして、背景には、駒姿(頭部)の雪渓を左にいただいた山容が広がっていました。




いいですね。
こんな雄大な自然をおかずにしながら、のんびりと昼食のおにぎりを味わいました。
吹く風が、心地よく、ぜいたくなひとときを過ごすことができました。



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小説「慈雨」を読んで

2019-06-08 10:21:03 | 日記
〇「慈雨」 神月 裕子 著  集英社文庫
「慈雨」とは、手元の辞書によると【ほどよく うるおいをもたらす雨】のこと。
警察官を退職して四国遍路の旅に出た 主人公神場と妻の香代子との間にあった心の隙間を
埋めるように降る『うるおいの雨』。最後の場面で「慈雨」が二人を包み込みます。
映画の最後のシーンのような 心に残る場面です。

 神場は、16年前に起こった「少女誘拐殺害事件」の捜査を担当していたのですが、容疑者
逮捕の過程で、悔恨の思いを抱え込んでいました。刑事として、人間としての良心が、それで
よかったのかと問いかける心の葛藤でもありました。
 16年後に同様な事件が起こることで、神場は 改めて かっての悔恨の思いと正面から
向き合うことになります。
 妻と遍路の旅を続けながら、妻がこれまで抱えてきた思い、養女として育てた娘への思い、
旅先で出会った人々の思いとも向き合います。
 そして、後輩の刑事や16年前の苦渋を共に味わうことになった同僚との関わりを通しなが
ら、二つの事件の真相を追究していくことになります。

 真相を明らかにすることは、神場にとって 自分の悔恨や当時の警察の不手際を白日のもと
にさらすことになるのですが、同時にそれは自分の心の闇を払しょくすることでもありました。
 そういった神場の姿を通して、後輩刑事は 生涯、被害者や遺族の心によりそう刑事で在り
続けることを誓います。

 事件の真相も印象的ですが、主人公や妻の心の動きが丁寧に描かれ、登場人物一人一人に、
リアルな存在感を感じます。
 そういった描き方が、夫婦としての信頼関係を取り戻す 最後の感動的な場面に結びついて
いるようにも感じます。
 
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演劇『百鬼丸』を観て

2019-06-03 10:15:24 | 日記
 手塚治虫の漫画『どろろ』を基にした演劇です。
「芝居でないと描けない描き方で書くのだ」とは、脚本と演出を担当した横内謙介さんのメッセージ。
 そのアプローチの一つして、日本の伝統芸術・浄瑠璃を取り入れたとのこと。

  地獄の闇と川に浮く 旅人が名は百鬼丸
  諸行無常と流れゆく 行きて戻らぬ 定め川
  夢の灯火便りにて この世の岸に着きにけり

 冒頭の義太夫の一節。芝居の展開をつなぐように、一節一節が挿入され、物語を重厚なものに方向づけていきます。


 父が天下を取るという野望を抱き、それを叶えるために 生まれてくる我が子の身体を、48匹の魔物に与えてしまいます。
そうして生まれたのが のっぺら坊の百鬼丸(母が守り刀として与えた刀の名でもある)で、失った身体を取り戻し母のもとに戻りたいと願い、
どろろという人間の力を借りながら魔物と闘う旅を続けるという物語です。

 漫画の記憶は定かではなく、この芝居を観ることと脚本を読み直すことで、改めて「どろろ」の持つテーマを見出すことができたように思います。
 原作の漫画もじっくり読み直してみたいと感じました。

 劇中では、登場人物のセリフに、心打たれるものがいくつかありました。(脚本から抜粋)

 気落ちした百鬼丸に語った言葉。母に会えるまでは代わりになって百鬼丸を抱いて守ると約束した みお(村が襲われ女郎とされた)に裏切られた時のこと。
 
  どろろ  つまりね、カラダが傷つき痛えのも、汗だくで苦しいのも、恋しい女を抱いてうれしいのも、人と別れて悲しいのも、全部カラダに流れる
       赤い血が教えてくれるンでさァ。若様のその身にも赤い血が流れ始めりゃ、人間てのがもう少しわかってきまさァ。

 すべての事情を知った母が語る言葉。我が子を手にかけ殺そうとした愚かさを悔い、夫の野望のために犠牲となった我が子の苦しい胸の内を思いやり、

  阿佐比  手もない、足もない、目もない、口もない、耳もない・・・景光様(夫) 、それは我らの姿でござりました。カタチばかりの目はあれど、
       我らには大切なものが何も見えていなかった。口はあれども、事実を語らず、耳には、偽りばかりを聞き、何一つまことの宝はこの手に
       掴めず、自らの足で、行くべきところに歩んでいくことも出来なかった。我らこそ、のっぺら坊でございました。

 百鬼丸を救おうと犠牲になったどろろに会うため、百鬼丸の心が冥界に行きます。その時にどろろが語った言葉。

  どろろ  せっかく立派なカラダが出来ても、その中に、肝心の心が入ってなくちゃ、しょうがねえです。だからしっかりと、あのカラダに張り付
       いてて下せえよ。こんなことしてる場合じゃねえです。早く飛んでって、カラダの手綱をしっかりと握って下せえ。カラダが言うことを
       聞かねえ時には、鞭を持って、ひっぱたいてやって下せえ。百鬼丸が、ただ一つこの世に持って生まれてきた、一番大事なお心を、なく
       しちまってどうすんですかい!


 のっぺら坊で心しか持たない百鬼丸と 妻子を助けられなかったことを悔やみ心を失っていたどろろが 出会い,魔物との闘いの旅を続ける中で、
失っていたカラダと心を取り戻す ストーリーと言えそうです。また、生きることの意味やその尊さについても、問いかけ考えさせる劇でもありました。
その意味で、特にどろろを演じた俳優の演技力や存在感が秀逸でした。刀(百鬼丸)に脅され、いやいやながら供をしながらも、次第にその心によりそい、
カラダを通して人間の心の内を伝えていく中で、自らの心を取り戻していく姿を巧みに演じていました。
 舞台も、左右に櫓を組み、その上で対立する場面や状況を象徴的に表す演出が、印象的でした。


「これは、未来へ届けるべき普遍の物語です」と語る 横内さんの言葉に、深い共感を覚えた演劇でした。
 
        

     
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