あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

クウタの一匹言

2013-01-18 20:26:08 | インポート

雪は、雨のように ビッショリぬれないから 好きだよ。積もると、周りが全部真っ白になって、明るくなるし、世界がきれいになった感じがする。自分も白い毛なので、仲間が増えたような気がするんだ。だから何となくうれしくなってしまうんだけれど、飼い主はひどいことを言うんだ。「雪の中でクウタを見ると、白くないのがよく分かるなあ。」なんてね。確かに、灰色や茶色の毛も混じっているから、雪の白さと違う色ではあるけど…でも、なんとなく 雪に比べるときたないなあ なんて言われているような感じがするから、それは認めたくない点でもあるんだ。

でも、寒いのはやっぱり苦手だな。いくら自前の毛皮コートをまとっていても、このごろの寒さは身にこたえる。もう、数え13歳になる(犬の世界では老年期なのかも?)からね。一応、家(犬小屋)に住んでいるものの、玄関扉がないから風はスウスウ入って来るし、雪も吹き込んでくる。昼が長くなって、少しずつ太陽の光を浴びる時間が増えたのは、いいけれどね。それに、このごろはノラネコのシロもやって来なくなったので、安心して食事ができるよ。もう、ごちそうを奪われることも、鼻をひっかかれたりする心配も なくなったからね。でも、ちょっぴり気になるんだ。食べ物はあるのかなって。うらやましいほど 雪と同じ きれいな白い毛並をしているんだもの。

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体罰について

2013-01-18 09:44:20 | インポート

大阪市立桜宮高校バスケットボール部主将が自殺した問題について、マスコミでも盛んに取り上げられるようになりました。体罰が指導上必要なものであるのかどうか、かって巨人軍で活躍した桑田投手も、自分の体験をもとに考えを述ベています。

……私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか?スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。……指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。……今は、コミュニケーションを大事にした新たな指導法が、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば10通りの指導法があっていい。「この子にはこういう声かけをしたら、伸びるか」。そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。……体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、自分でプレーの判断ができません。……私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」という人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。今回の残念な問題が、日本のスポーツ界が変わる契機になってほしいと思います。

                       <1/12付 朝日新聞39面に掲載された記事より引用>

(1/16付)の新聞の21面には、沖縄・興南高校野球部の我喜屋優監督の考えが掲載されていました。

……子供たちに手を出したくなる時は、よくあります。何度言っても、部のルールが守れなかったり、練習での態度が悪かったり。でも、そんな時は、両手を後ろで結び、我慢します。「言い聞かせる」ことが大切。「殴り聞かせる」という言葉はありません。社会に出て、他人を殴ったら、法律違反になります。学校内で認められるわけがありません。しかも選手は無抵抗です。先生が生徒をたたいたら、生徒は暴力を奮う大人になってしまう。……社会人野球の監督だった時、選手を殴ったことがあります。交通事故を起こしたのです。死んだらみんなに迷惑をかけることになるんだぞ、よくぞ生きて帰ってきてくれた、と教えたかった。親の身になって叱ることは必要です。……チームを引っ張る主将は本当に大変です。選手から嫌われたり、監督に怒られたり。チームが負ければ、強く責任も感じます。主将は、監督と選手のパイプ役でもあります。そのパイプがつまることがある。そんな時は、監督が悩みを聞いてあげなければ。……野球部が甲子園に出なくてもいいんです。高校の3年間はあっという間に終わるけれど、人生のスコアボードはずっと続きます。指導者だけでなく、保護者も社会も一緒になって生徒を見守っていかなければ、いけません。

私自身も、担任した子どもに思わず手をあげて叱ったことがありました。どんな理由や事情があったにせよ、体罰は正当化できるものではなく、その罪意識は今でも心に残っています。体罰という言葉を目にするたび、疼くような心の痛みを感じます。桑田さんの語る「体罰に愛を感じたことは一度もありません。」という言葉が重く心に響きます。

部活であれ、教室であれ、教師は教え導くという立場にありながら、子どもに対し権力者としての力も持っています。上下関係のもとで、感情的な思いのまま権力者としての言動を行使することで、子どもは何を学び何を感じることができるのでしょう。指導する側が、指導される子どもを死に追いやり、その未来を奪ってしまったという 痛ましい出来事は、教育に携わる者に深い警鐘を与えているのだと思います。

子ども一人一人の大切な命と未来を預かっているという責任があるということ。子どもの可能性を一緒に信じ、その子自身が自らの力で未来を切り拓いていけるよう指導・支援していくということ。一人一人の個性を重んじ、その子にあった指導・支援を工夫していくということ。絶えず子どもの声に耳を傾け、心によりそう関係を築いていくということ。

我喜屋監督の言葉にあるように、子どもたちの「人生のスコアボードはずっと続きます。」 教育に携わった者として、子どもたちの 人生の ある時期に ある場所で 出会い 共に生きる時間を持つことができたという 喜びを大切にしていきたいと思います。そして、その子の人生の応援者として 出来る限り その歩みを 見守っていけたら と思います。

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