(秋山氏の伝説)
むかし、春山の霞男と秋山の下氷男が出石大神の娘、伊豆志処女を得んとして争った。その下氷男の後裔が秋山氏という。
〈秋山氏の由来〉
秋山氏は清和源氏にして、八幡太郎源義家の弟で笙の名手、新羅三郎義光(甲斐源氏の祖)の曾孫、太郎光朝が甲斐国巨摩郡秋山村に住居したのに始まる。
〈秋山姓の著名人〉
秋山太郎光朝(あきやま・たろう・みつとも)
秋山氏の始祖。新羅三郎義光の孫の逸見の荘の黒源太清光の二男加賀美二郎遠光の長男。治承四年四月、源頼朝挙兵のさい九郎義経の指揮下に加わり、屋島、壇ノ浦の合戦に参加。西上遠征の途中、平重盛の娘を妻に迎える。平家滅亡後、鎌倉に加賀美一党の館を構え、頼朝警護の役職に就くも、勢力拡大を恐れる頼朝に疎まれ、謀反の罪で鎌倉において処刑される。
秋山伯耆守信友(あきやま・ほうきのかみ・のぶとも)
武田二十四将の一。若年の頃より武勇をもって知られたが、美濃国恵那郡岩村城の篭城で織田軍に捕われ、岐阜、長良川の河原で逆さ磔に処せられる。
秋山要助正武(あきやま・ようすけ・まさたけ)
名は、一に正勝。号、雷角斎入道。安永元年十一月二十五日、武州埼玉郡箱田村の農民の子として生まれた。初代・戸賀崎熊太郎暉芳、および二代胤芳の門に学び、十九歳で神道無念流の印可を得た。後また岡田十松吉利・鈴木斧八郎重明・逸見太四郎らに学ぶ。儒学は太田錦城の門人であった。神道無念流を大川平兵衛英勝に継がせて、自分は武州飯能に道場扶桑館を開き、扶桑念流の流名を起こした。晩年、身を持ち崩して博徒の群に投じ、赤尾の林蔵の用心棒などをした。喧嘩勝負で三十余回の血闘をし、「鬼秋山」の仇名で世間に恐れられたという。天保四年八月十五日、野州佐野で客死した。六十二歳。興福寺に葬る。
秋山 多吉郎(あきやま・ たきちろう)
1845年9月30日(弘化2年8月29日) - 1934年(昭和9年)2月2日)は、日本の武士、剣術家、柔術家。流派は鏡新明智流剣術、真道弥生流柔術、天神真楊流柔術。称号は大日本武徳会剣道範士、柔道教士。旧姓は桃井。
秋山真之(あきやま・さねゆき)
海軍中将。愛媛県人。陸軍大将秋山好古(よしふる)の弟。日露戦争に東郷大将の幕僚。日本海海戦に、「舷々相摩す」「天気晴朗なれども波高し」などの語を作る。
秋山定輔(あきやま・ていすけ)
政治家。岡山県人。黎明期の労働運動を助けた。のち孫文の革命運動を支援。
秋山秋紅蓼(あきやま・しゅうこうりょう)
俳人(自由律俳句)。山梨県生れ。本名鉄雄。荻原井泉水門の重鎮。句集に『夜の富士』『梅花無限』など。代表句は〈虫一つ鳴けり鳴きつづく虫ら〉。
秋山牧車(あきやま・ぼくしゃ)
俳人。熊本県生れ。本名邦雄。戦時中は軍人として大本営陸軍報道部長より南方総軍報道部長に転出、比島戦線に転戦。昭和48年第五回清山賞を受賞。句集に『山岳州』。代表句は〈砲弾の合間の鵙を聞きにけり〉。
秋山夏樹(あきやま・なつき)
俳人。明治四十五年、東京は浅草鳥越の生れ。本名正一。石田波郷門。「鶴」同人。下町俳句会を主宰。昭和五十三年朝日新聞社より下町文化賞を受賞。代表句は〈浅草に生きる限りの祭り馬鹿〉。
秋山徳蔵(あきやま・とくぞう)
1888年生れ。1974年没。華族会館・ブラジル公使館・築地精養軒などを経て大正元年に三田東洋軒本店の料理長。その後25歳で宮内省主厨長に就任、昭和天皇の料理番と呼ばれた。
秋山白兎(あきやま・はくと)
俳句愛好者。昭和22年3月7日静岡県安倍郡美和村大字内牧字門村小字和田(現・静岡市葵区内牧)の貧農に生まれる。
本名は忠義(ただよし)、字は維新(いしん)、樵翁(しょうおう)、閏斎(うるうさい)などと号す。