細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

「評価」 (すいません、愚痴です。)

2011-05-30 21:56:14 | 職場のこと

この記事の内容は、もう少し時期が経ってから、書こうと思います。どう書いてもネガティブな内容になりそうなので、書かなくてもいいのですが、時が経って忘れるといやなのでメモがてら。

世の中、「評価」がはやっていますが、意味がどこまであるのやら。

4/20に都市イノベーションのキックオフイベントにて、講演をしました。都市イノベーションの所属教員としては唯一の講演。もう一人、外部で講演した方がいたのですが、合計で2名。そのイベントに対してアンケートがあったようです。アンケートの実施時期もイベントの直後ではなく、聴講者によっては講演の内容もすっかりお忘れになった時期のアンケートだったようです。

それで、学生に対するアンケートの結果が、しかもアンケートの生データそのものが、講演者2名に送られてきました。メールで。

前提条件として述べておきますが、私自身はこの手の評価をあまり気にしないタイプです。もちろん、いい評価を受ければ気持ちがいいし、悪い評価を受ければ気分が悪い。だからといって、ある意味で無責任なこのような評価を受けて、自分の行動が変わることはあり得ない。そのレベルの低レベルの行動を普段から取っているつもりはありません。それが基本スタンス。

「評価」が何のためのものなのか、実施する方々が考えているのでしょうか。私の講演に対しては、ざっくり言うと7割程度好意的、1割辛辣、2割無関心。どう受け取るかは受け取り手次第ですが、「評価」って何の意味があるのでしょうか。対等な立場でのディスカッションはいくらでも受けて立つし、意義を感じます。無記名で辛辣な意見を書いて、それを生データで送ってくるセンスはいかに。

まともに相手するのが大人気ないのかもしれません。だから、記事の冒頭に書いたように、時期が経ってから風化してからの方がいいようにも思いました。ですが、「評価」という名の行為のほとんどはこの類なんだ。「評価」することは簡単だけど、クリエイティブな仕事をすることの大変さを分かってますか?

何のためにやってるの?顧客のニーズの調査であれば、もっと違うやり方があるはずです。少なくとも違う活用の仕方があるはずです。

無記名の批判は少なくともやめていただきたい。また、最前線に立とうとしない方が評価するのもあってはならない。最前線で闘う人はそれなりの覚悟があってやってますので、対等のディスカッションのみお受けします。

最前線でやろうとしている人の士気を阻害するような「評価」って何の意味があるんでしょうか。

その「評価」っていう、意味があるかどうかも分からない行為に、学生も借り出され、事務職員も借り出され、・・・。意味がなけりゃやめりゃいいんじゃない?意味があるなら、活用法をもっと考えてください。(もちろん、適切な「評価」には大きな意味があるし、やるべきと思います。)

申し訳ありませんが、講演した私自身は、ごく一部の意見に非常に不快を感じました。そのご意見をいただいた方々は素直な意見だと思うし、そのように感じさせた私の不徳の致すところだと思いますが、結局、こうやって何人かが嫌な思いをするのは、不要な「評価」のせいでないのでしょうか。

書いてみてやっぱりネガティブにしかならないので、この辺りで(すでに言いたいこと言ったかもしれませんが)、やめときます。

私の、「ラディカルな」「専門分野に独りよがりな」「政治的なコメントも多く含む」プレゼンに、多くの好意的なご意見をいただき、非常に感謝いたします。今後も変わらず、私のできることをやっていきたいと思います。皆さんも、ご自身のやるべきことを実施してください。