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昭和のプロレス:まるでリングの解体屋

2018-04-20 06:29:29 | 日記
直前の変身

 昭和の時代、「まだ見ぬ強豪」の来日がファン最大の関心事でした。
未来日の超王者を馬場や猪木が迎え撃つ一戦は、ファンの憧れでした。
日本プロレスもそんな声を無視できず次々とまだ見ぬ強豪を招聘しましたが、
縁が無かったのかとうとうこの男は姿を見せませんでした。

 毎週金曜日は「甦れ!金曜8時の昭和のプロレス」です。
現在のテーマは世界各国の王者の活躍です。
今週登場するのは、オーストラリアでIWA世界ヘビー級チャンピオンに
輝いたマーク・ルーインです。

 漸く初来日したのは1973年3月でしたが、この頃には日プロは崩壊
していました。
 馬場率いる全日本プロレスのチャンピオンカーニバルに登場したルーインは、
いきなり決勝まで勝ち進みます。
噂にたがわぬ活躍でしたが、実はファンは戸惑っていました。
前評判では優れたテクニシャンの筈だったのに、実物は反則を繰り返す暴れん坊。
 凶器を振り回すだけでは飽き足らず、消火器をぶちまけ挙句の果てには
リングを囲むロープを固定する金具まで外してしまう始末。
毎試合の様に宙ぶらりんになったぶっといロープで馬場の首を締め上げ、
業師の面影は欠片も見せません。
 それもその筈長年続けて来た正統派に飽きたのか、ルーインは来日前に
がらりとモデルチェンジをして狂乱ファイターに変身していたのでした。

しみじみ後悔

 チャンピオンカーニバルの優勝は馬場に譲りましたが、その狂乱ファイト
は観客動員におおいに役立ちました。
第2回と3回のカーニバルにも連続して招かれています。
 その後も82年までの間に合計9回の来日を果たしますが、全て全日マット。
猪木率いる新日とは縁が無く、とうとう両者の対決は実現しませんでした。

 意外な日本人選手と戦ったのはルーイン47歳の時でした。
従来のプロレスのスタイルを否定し、若者から圧倒的に支持されていたUWF
のリングに84年に登場したのです。
対戦相手は弱冠22歳の高田延彦。
 打撃技と関節技を主体にしたUWFの最大の目的はプロレスの変革です。
無名でも実力があれば勝つ格闘技ぽさを目指していました。
とは言え根本は従来通り、当然試合前に勝敗が決められていました。
 若手選手にあっさり負ける役を命じられ、抗う事無くルーインはそれに従います。
後日雑誌のインタビューに「若手を輝かせる為」と殊勝な答えをしましたが、
果たして本心はどうだったのでしょう?
 プロだから求められた仕事をするのは当然、でも心の内は複雑だったのでは。
「過激なスタイルを標榜するおかしな団体に来ちまったゼ、怪我しない様に
無理は禁物」、そしてしみじみ後悔したのでは。
「馬場との契約が切れた時に、猪木の所を選べば良かったなあ。」

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