思い込みとは怖い…
武道の世界での思い込みは危険だと思う。
戦いの時、思い込みにより隙が生じ、攻撃を受けてしまう…
思い込みが、自分の向上心をなくし、間違った納得をしてしまう恐れもある。
しかし、今日はそう言う思い込みではないお話をしたい。
それは、合気道における“閉鎖性”が引き起こす「思い込み」についてである。
この前の稽古で、会員さんから聞いたのだが、合気道家と柔術家が試合(なのか?)をしたそうだ。
まぁ、合気道家と呼ばれていた者が、本当に合気道を修行しているものなのかどうか疑問もあり、他にも多く言いたいことはあるが、ここで書きたい内容とは別の話なので、今回は省略させていただく。
合気道家?(60歳)VSブラジリアン柔術家(32歳)
結果は、合気道家?の惨敗だった。
全くいいところなく、勝負は一瞬で決まってしまった。
この勝負で、負けた合気道家?のHP等を見て、この者が何者なのかを少しだけ調べてみた。(そんなに興味ないので、ホントに少しだけ調べた)
まぁ…
なんと言っていいものか…
シュールで神秘的過ぎて、私にはコメントが出来ない…
合気道の演武は、お互いの呼吸を合わせ、技を表現することだと理解していて、そこには予定調和があるが、技の表現をする上では必ず「実」の部分が存在する。
「うけ」は、自分から飛ぶこともあるだろうし、攻撃も単純に決めたものを予め行うようになっている。
しかし、必ず相手との接点があり、触れることで自分の力を相手に伝える「実」を入れることを無視することはない。
なのに…なのにである!
この合気道家?は、触れずに相手をバシバシ投げまくるのである!
腕をクルクル~
手をヒラヒラ~
すると…
ビックリするくらい、人が飛んでいく!
呆れるくらい、人が崩れていく!
私は、この団体の存在を否定する気はないし、悪意を持って何かをここで伝えようとする気はない。
ただ、あの手の演武を「合気道」といって欲しくはない。
末席ながら、合気道を学び指導する立場として言わせていただくが、あれを合気道とは認めたくはない。
私個人の考えをハッキリ申し上げる!
こんな茶番をやってる武道(健康)団体は、他にもある!
私が聞いた話でも、数件ある。
例えば…
ある団体の先生が、技を掛ける。
初心者はその技にかからない、もしくは、先生の意図した動きに持っていけなかったとする。
すると、その先生は何と言うか…?
「あなたは、また気が出ていない。」
「私の気を感じることが出来ていない」
だから、ダメなんだ!
と言われるらしい!
何がダメなんだよ!
そして、自ら飛ぶ様になると、先生から「あなたも感じるようになって来ましたね!上達していますよ!」とお褒めの言葉。
褒められれば、会員は嬉しいですからね。
自己暗示も含めて、どんどん飛ぶようになる。
そのうちに、本当に「先生の力を感じる」ようになる。(いや、本当はそうなったように感じる)
中には、力をかんじた自分が嬉しくて、笑顔で飛んでいくものもいると言う!(笑)
この話を聞いた時には、笑うしかなかった!
だって、道場の外で襲われて、技が効かなかった場合、その相手に「お前は私の気を感じることが出来ない未熟者だ!出直してこい!」と言うのかな?
そんなんで、自分の身は守れないだろ?
※正規の合気道でも、身を守れるとは断言できないけど。
そして、この手の会員が、口を揃えて言うのが以下のようなセリフ。
「うちの先生は…」
「同じ団体の誰々さんは…」
みたいな話ばかり。
他人の自慢ばかりしないで、自分がそうなれるように稽古に励みなさい!
あなたがその技を使えなくて、何のためにお金まで払って指導を受けてるの?
そして怖いのは、彼らは本気でそう思っているところだろう。
先に書いたような“刷り込み”を指導者から与えられ、武道としてはどんどん実から離れたところに行ってしまう(と思う)。
我々合気道を学ぶ者は、決して忘れてはいけないことがある。
試合がない、型稽古中心で格闘を語る武道であるが故に尚更肝に銘じなくてはならないだろう!
先生を信じるなと言うことではなく、盲信しないで欲しいと言いたいのである。
現代の武道教育には「戦う強さ」だけが求められている訳ではないし、合気道の試合をなくし「和する精神」は素晴らしい事だと思っている。
しかし、故・大山倍達総裁も仰っていた言葉をどうしても思い出ださざるを得ない。
「実践なくして証明なし、証明なくして信頼なし、信頼なくして尊敬なし」
このプロセスがないと、どうしても歪んだ神格化現象が起きてしまう。
それが、今回の“異種格闘技戦”で惨敗した合気道?家の結末に通じてしまったのではないだろうか?
合気道は素晴らしい武道だと思います。
気でもなく、触れずに投げるでもなく、しっかりとした理合の元に、体捌きや技が作られている。
その理想や技の組み立ては素晴らしいと思う。
ただ、実際に動いている人にその技を綺麗に決めるのは簡単ではない。
故に、自由組手や試合を導入して、この素晴らしい合気道の理合を使えるように模索することは必要で重要な稽古である。
私の属している団体、「合気道S.A.」は、そのような試みを導入している団体である。
故に、型だけで会員をごまかすことは出来ない。
私も指導をしていて、技が思ったように決められず、悔しい思いをすることがある。
また、たまに言うのだが…
「私は、誰よりも強い訳ではない。しかし、合気道の技術や素晴らしいものが多くある。合気道の動きは一般格闘技にはない動きを求められることもあり、それが自分の成長のヒントになることもあるでしょう。私は指導員として、そういうところを伝えていきたい。そして当然、合気道が使える武道として身に付けてもらう方法を模索していきたい」
だから、私の指導の時には、私自身が会員からいい攻撃をもらってしまうこともある。
だけど、しっかり吸収させてもらって、次回の組手では反映させていただいてるけどね!(笑)
でも、私はK-1とかプライド参戦はしないよ!
あそこに出ている人たちは、格闘技界でも一握り選ばれた人達よ!
まず、選ばれないだろうし(笑)
そして、今の私の実力では絶対に勝てないから…
あと、あそこで勝つことが実践性の証明とも思っていないし。
我々の団体では、こういう「盲信者]が出てこないことを祈るしかない。
私も、当団体の代表である櫻井文夫代表師範を尊敬している。
しかし、櫻井先生を神格化して宗教的に敬うことはしていない。
ある種の天才肌の先生であると思うが、「稀代の天才合気道家」といって持ち上げる気もない。
櫻井先生も、今でも発展途上でまだまだ進化していると仰っていた。
であれば、現段階で神格化してしまうのは、危険極まりない。
あえて「発展途上」と言うところに、逆に櫻井代表師範の自信が伺える。
そういうところが、私にとって櫻井先生を敬える一要因でもあるのだ。。
むやみやたらに持ち上げ、自分達の団体を無駄にアピールするのは武道精神としても違うと思うし、それでその団体のトップは喜ぶのだろうか?
逆に失礼に当たるのではないだろうか?
私は、先の合気道家の二の轍を踏まぬよう、常に自問自答し、稽古をフィードバックしながら取り組み、指導をしていきたいと思う。
そういう活動を地道にでも行うことで、合気道が与える負のイメージを少しでも変える事が出来たら嬉しい。
武道の世界での思い込みは危険だと思う。
戦いの時、思い込みにより隙が生じ、攻撃を受けてしまう…
思い込みが、自分の向上心をなくし、間違った納得をしてしまう恐れもある。
しかし、今日はそう言う思い込みではないお話をしたい。
それは、合気道における“閉鎖性”が引き起こす「思い込み」についてである。
この前の稽古で、会員さんから聞いたのだが、合気道家と柔術家が試合(なのか?)をしたそうだ。
まぁ、合気道家と呼ばれていた者が、本当に合気道を修行しているものなのかどうか疑問もあり、他にも多く言いたいことはあるが、ここで書きたい内容とは別の話なので、今回は省略させていただく。
合気道家?(60歳)VSブラジリアン柔術家(32歳)
結果は、合気道家?の惨敗だった。
全くいいところなく、勝負は一瞬で決まってしまった。
この勝負で、負けた合気道家?のHP等を見て、この者が何者なのかを少しだけ調べてみた。(そんなに興味ないので、ホントに少しだけ調べた)
まぁ…
なんと言っていいものか…
シュールで神秘的過ぎて、私にはコメントが出来ない…
合気道の演武は、お互いの呼吸を合わせ、技を表現することだと理解していて、そこには予定調和があるが、技の表現をする上では必ず「実」の部分が存在する。
「うけ」は、自分から飛ぶこともあるだろうし、攻撃も単純に決めたものを予め行うようになっている。
しかし、必ず相手との接点があり、触れることで自分の力を相手に伝える「実」を入れることを無視することはない。
なのに…なのにである!
この合気道家?は、触れずに相手をバシバシ投げまくるのである!
腕をクルクル~
手をヒラヒラ~
すると…
ビックリするくらい、人が飛んでいく!
呆れるくらい、人が崩れていく!
私は、この団体の存在を否定する気はないし、悪意を持って何かをここで伝えようとする気はない。
ただ、あの手の演武を「合気道」といって欲しくはない。
末席ながら、合気道を学び指導する立場として言わせていただくが、あれを合気道とは認めたくはない。
私個人の考えをハッキリ申し上げる!
こんな茶番をやってる武道(健康)団体は、他にもある!
私が聞いた話でも、数件ある。
例えば…
ある団体の先生が、技を掛ける。
初心者はその技にかからない、もしくは、先生の意図した動きに持っていけなかったとする。
すると、その先生は何と言うか…?
「あなたは、また気が出ていない。」
「私の気を感じることが出来ていない」
だから、ダメなんだ!
と言われるらしい!
何がダメなんだよ!
そして、自ら飛ぶ様になると、先生から「あなたも感じるようになって来ましたね!上達していますよ!」とお褒めの言葉。
褒められれば、会員は嬉しいですからね。
自己暗示も含めて、どんどん飛ぶようになる。
そのうちに、本当に「先生の力を感じる」ようになる。(いや、本当はそうなったように感じる)
中には、力をかんじた自分が嬉しくて、笑顔で飛んでいくものもいると言う!(笑)
この話を聞いた時には、笑うしかなかった!
だって、道場の外で襲われて、技が効かなかった場合、その相手に「お前は私の気を感じることが出来ない未熟者だ!出直してこい!」と言うのかな?
そんなんで、自分の身は守れないだろ?
※正規の合気道でも、身を守れるとは断言できないけど。
そして、この手の会員が、口を揃えて言うのが以下のようなセリフ。
「うちの先生は…」
「同じ団体の誰々さんは…」
みたいな話ばかり。
他人の自慢ばかりしないで、自分がそうなれるように稽古に励みなさい!
あなたがその技を使えなくて、何のためにお金まで払って指導を受けてるの?
そして怖いのは、彼らは本気でそう思っているところだろう。
先に書いたような“刷り込み”を指導者から与えられ、武道としてはどんどん実から離れたところに行ってしまう(と思う)。
我々合気道を学ぶ者は、決して忘れてはいけないことがある。
試合がない、型稽古中心で格闘を語る武道であるが故に尚更肝に銘じなくてはならないだろう!
先生を信じるなと言うことではなく、盲信しないで欲しいと言いたいのである。
現代の武道教育には「戦う強さ」だけが求められている訳ではないし、合気道の試合をなくし「和する精神」は素晴らしい事だと思っている。
しかし、故・大山倍達総裁も仰っていた言葉をどうしても思い出ださざるを得ない。
「実践なくして証明なし、証明なくして信頼なし、信頼なくして尊敬なし」
このプロセスがないと、どうしても歪んだ神格化現象が起きてしまう。
それが、今回の“異種格闘技戦”で惨敗した合気道?家の結末に通じてしまったのではないだろうか?
合気道は素晴らしい武道だと思います。
気でもなく、触れずに投げるでもなく、しっかりとした理合の元に、体捌きや技が作られている。
その理想や技の組み立ては素晴らしいと思う。
ただ、実際に動いている人にその技を綺麗に決めるのは簡単ではない。
故に、自由組手や試合を導入して、この素晴らしい合気道の理合を使えるように模索することは必要で重要な稽古である。
私の属している団体、「合気道S.A.」は、そのような試みを導入している団体である。
故に、型だけで会員をごまかすことは出来ない。
私も指導をしていて、技が思ったように決められず、悔しい思いをすることがある。
また、たまに言うのだが…
「私は、誰よりも強い訳ではない。しかし、合気道の技術や素晴らしいものが多くある。合気道の動きは一般格闘技にはない動きを求められることもあり、それが自分の成長のヒントになることもあるでしょう。私は指導員として、そういうところを伝えていきたい。そして当然、合気道が使える武道として身に付けてもらう方法を模索していきたい」
だから、私の指導の時には、私自身が会員からいい攻撃をもらってしまうこともある。
だけど、しっかり吸収させてもらって、次回の組手では反映させていただいてるけどね!(笑)
でも、私はK-1とかプライド参戦はしないよ!
あそこに出ている人たちは、格闘技界でも一握り選ばれた人達よ!
まず、選ばれないだろうし(笑)
そして、今の私の実力では絶対に勝てないから…
あと、あそこで勝つことが実践性の証明とも思っていないし。
我々の団体では、こういう「盲信者]が出てこないことを祈るしかない。
私も、当団体の代表である櫻井文夫代表師範を尊敬している。
しかし、櫻井先生を神格化して宗教的に敬うことはしていない。
ある種の天才肌の先生であると思うが、「稀代の天才合気道家」といって持ち上げる気もない。
櫻井先生も、今でも発展途上でまだまだ進化していると仰っていた。
であれば、現段階で神格化してしまうのは、危険極まりない。
あえて「発展途上」と言うところに、逆に櫻井代表師範の自信が伺える。
そういうところが、私にとって櫻井先生を敬える一要因でもあるのだ。。
むやみやたらに持ち上げ、自分達の団体を無駄にアピールするのは武道精神としても違うと思うし、それでその団体のトップは喜ぶのだろうか?
逆に失礼に当たるのではないだろうか?
私は、先の合気道家の二の轍を踏まぬよう、常に自問自答し、稽古をフィードバックしながら取り組み、指導をしていきたいと思う。
そういう活動を地道にでも行うことで、合気道が与える負のイメージを少しでも変える事が出来たら嬉しい。
コメントありがとうございます。
まぁ、少し書きすぎた感もありますが、健康体操や、形骸化したものであったとしても、合気道を学ぶのであれば「武」の側面は残し、意識した方が良いと考えています。
そうなんですよ!
素人の反応って、稽古に慣れた我々の反応とは違うんですよ!
当教室で言えば、ごりらさんなどはそうですかね?
純粋に、私の技が決まるかどうかを見ている。(若干、疑いのまなざしを交えて… 笑)
私にとってもいい経験になります。
しかし、その「ごりらさん」は、最近お忙しいようで、稽古に来れないようですが…
あと、おもちゃ屋さんの仰るとおり、人との関わりの中でもそうですよね。
“実”に身を投じ、受け入れる事をしなければ、温室育ちの世間知らずになってしまいますものね。
私も初めて間もない頃は、相手の受けが悪いと技が掛けにくいと思っていたのですが、組み手をやり始め、そして試合などをしてみると、いかに相手が思うようにならない、と言うことを実感いたします。そして、実戦的な視点から見ると、受けのうまい人よりも、少々下手な人と型稽古をする方が勉強になるような気もいたします。
これは、合気道に限らず、人との関わり総てにも置き換えられる言だとおもいますが。