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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
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なでしこ旋風批判がまったく的外れな件について

2011-07-19 21:08:07 | 社会
ふぅ、またしても釣りタイトルで書かねばならないようだ。

「なでしこ」旋風に対する肯定意見と否定意見が百花繚乱という感じだ。

サッカー語れとか、ナショナリズム煽るなとか、願望を託すなとか、自分の功績じゃないだろとか、知ったかぶりするなとか、せっかくの功績を消費するなとか、タダのりすんなとか、騒ぎすぎとか、etc...

しかし、どれも的を外している。
(もちろん、批判の全てを見たわけではないので、あくまで私が知っている範囲内という前提だが。)


勘違いして欲しくないのは、私は「どれも間違っている」と言いたいわけではない。
そういう側面もあるが、それが全てではないし、またそれが本質的な問題でもないと言いたい。
的を外しているということだ。

どう的を外しているのか。

「なでしこ旋風批判」は、AKB48総選挙を批判するくらいに的を外している。
実は、構図が非常に似ている。

過去のエントリを参照いただきたい。

AKB48総選挙 これは祭りです。


当Blogでは過去にも説明したことがある話題なのだが、日本社会には古来より地域的なコミュニティに「祭り」というイベントがビルトインされていた。
細かいことは面倒なので説明しないが、祭りの元は五穀豊穣を祈る神事で、特別な意味合いを持っていた。
祭りの日は日常とは異なり特別なのである。
人々は日常から離れ、人が変わった様に祭りにのめり込むのだ。

それが戦後の近代化の中で、職業の工業化と、何よりも都市化により人の移動が促進されると、祭りはその姿を変えていった。
若者が労働力として都市部に移動することによって「故郷=祭り」を持たない世代が生まれたが、高度成長期の会社社会では「飲み会」という祭りが生まれた。
(今も少し残っている)

故郷から移動してきた人たちによって構築された町には祭りが存在しなかった。
これを憂う人々によって町内会や自治体によっては急ごしらえながら祭りがつくられたが、神事を元にする伝統を持たないがために形骸化することが多く、世代間で受け継がれる祭りはそう多くはない。

現代社会の若者世代は、祭りを知らない世代といえる。
そんな若者たちがどこへ向かったか。

それが「サッカーワールドカップ」や「ワールドベースボールクラシックス」、「オリンピック」、「ロックフェスタ」や「クラブ」むかしは「ディスコ」だった。
ワールドカップになると人が変わったように熱中する若者は、高齢者の目には異様に映ったかもしれない。
その時だけ妙にナショナリズムに煽られる若者の姿は。
しかし、それは若者にとっての「祭り」だからである。
彼ら「伝統的な祭り」を知らない世代が、「新しい祭り」を見出したのだ。

ここで一つの提案がある。
次の問いについて考察して欲しい。

「祭りとは現実か?」

祭りの場において「お前、大人なんだから現実に戻れ!」という言葉を言い放つことが、どれだけ無意味か、よくわかるだろう。

「大人だから祭る」のである。
子供よりも大人だから祭りの必要性は増すのである。

「祭り」の時に「現実」か「仮想」かなどどうでもよいことである。
重要なことは、それが日常とは違う「祭り」であるということだ。


祭りは日常と違わねばならない。
この「なでしこ旋風」は現代人にとっての祭りなのである。
祭りで騒いでいたら「お前ら頭大丈夫か?」と言われたと。

「は?何言ってんの?だって祭りじゃん。」

と言って話はおしまいである。

えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々