微妙に違う観点から。
失言が許されるひと
http://getnews.jp/archives/130183
世の中には“失言”をしても許される政治家がいる。たとえば、小泉元首相とか、いまの東京都知事とかがそれにあたる。逆に、失言によって大きな憤激を買う政治家もいる。松本元復興相などがそれに該当するだろう。
なぜ前者の失言が許されるかを考えると、結局のところ、人びとが彼らに対して複数の評価軸を持っているからなのではないか。都知事のケースで言えば、“暴言吐きの石原さん”と“リーダーシップの石原さん”という二つの評価軸がある。なので、いくら暴言を批判されようとも、前者の“石原さん”の評価に回収されてしまい、後者の石原さんの評価にまでは届かない。
逆に、松本元復興相のケースで言えば、ほとんどの人は松本さんがどんな人なのかを知らなかったのではないか。あるいは、同和問題や資産家という属性だけで判断していたのではないか。そこにきて例の恫喝(どうかつ)映像が流れたことで、我々は恫喝(どうかつ)という観点からしか松本さんを評価しようとしなくなった。社会心理学的に言えば、プライミング効果(先行する刺激が後続する刺激に影響を与えること)ということになろうか。
したがって、世論からの支持/不支持により政治家や内閣の命運が左右される現状では、政治家が生き延びようとするなら、どうにかして複数の評価軸を獲得する必要がある。つまり、失言や失策のダメージを引き受けてくれる“もう一人の自分”が必要なのだ。その“自分”を作り出すためには繊細なメディア・イメージのコントロールが必要になるだろう。
私が思う失言が許されるひとの条件。
それは「キャラが確立されている」ということ。
(キャラは利益にもなるし、損失にもなるという点で諸刃の剣である。)
人を見ればわかることだが、人というのは一面的なものではない。
どんな人にも多面性がある。
戦争ドキュメンタリーに涙して「戦争はいけない」と思った直後に、道端ですれ違いざまに肩ぶつけられて「あんなやつ死ねばいい」と思うように。
人の考えや感情も決して一貫しているわけではない。
しかし、人が人を認識するのに、ある一定の枠組みをはめる。
ある場面では非常に几帳面さを発揮する人が、他の部分を強調されて「あの人はいい加減だ。」という評判を得ることもある。
人知れず人道支援活動をやっている人が、日常的な仕事のみを見られて「非人道的なエゴイスト」と言われることもある。
要は、どのようにキャラとして認識されるか、ということが重要だ。
いくつか考え方はあるだろう。
ものすごい信頼されるキャラを確立しているがゆえに失言が許される。
多面性を持ったキャラを確立しているがゆえに、失言しても他の面が相殺して許される。
失言キャラを確立しているがゆえに、失言しても許される。
(ただし不信任フラグが立っていると許されない。)
キャラが確立されていると、その人に関する評価軸が確立されるのだ。
キャラが確立されていないと、その人に関する評価軸がなく「失言」そのものを評価することになる。
それ以外に評価軸がないからだ。
だから、キャラが確立されていない人の失言は、失言問題になりやすい。
ただし、キャラが確立されていても、信任されていない人は、失言問題になりやすい。
逆に言うと、信任されている人は、失言キャラでも許される。
複数の評価軸うんぬんというのは、結局のところ多面性を持ったキャラを確立しているということに他ならない。
と、簡単にぱぱっと考えた結果思う。
失言が許されるひと
http://getnews.jp/archives/130183
世の中には“失言”をしても許される政治家がいる。たとえば、小泉元首相とか、いまの東京都知事とかがそれにあたる。逆に、失言によって大きな憤激を買う政治家もいる。松本元復興相などがそれに該当するだろう。
なぜ前者の失言が許されるかを考えると、結局のところ、人びとが彼らに対して複数の評価軸を持っているからなのではないか。都知事のケースで言えば、“暴言吐きの石原さん”と“リーダーシップの石原さん”という二つの評価軸がある。なので、いくら暴言を批判されようとも、前者の“石原さん”の評価に回収されてしまい、後者の石原さんの評価にまでは届かない。
逆に、松本元復興相のケースで言えば、ほとんどの人は松本さんがどんな人なのかを知らなかったのではないか。あるいは、同和問題や資産家という属性だけで判断していたのではないか。そこにきて例の恫喝(どうかつ)映像が流れたことで、我々は恫喝(どうかつ)という観点からしか松本さんを評価しようとしなくなった。社会心理学的に言えば、プライミング効果(先行する刺激が後続する刺激に影響を与えること)ということになろうか。
したがって、世論からの支持/不支持により政治家や内閣の命運が左右される現状では、政治家が生き延びようとするなら、どうにかして複数の評価軸を獲得する必要がある。つまり、失言や失策のダメージを引き受けてくれる“もう一人の自分”が必要なのだ。その“自分”を作り出すためには繊細なメディア・イメージのコントロールが必要になるだろう。
私が思う失言が許されるひとの条件。
それは「キャラが確立されている」ということ。
(キャラは利益にもなるし、損失にもなるという点で諸刃の剣である。)
人を見ればわかることだが、人というのは一面的なものではない。
どんな人にも多面性がある。
戦争ドキュメンタリーに涙して「戦争はいけない」と思った直後に、道端ですれ違いざまに肩ぶつけられて「あんなやつ死ねばいい」と思うように。
人の考えや感情も決して一貫しているわけではない。
しかし、人が人を認識するのに、ある一定の枠組みをはめる。
ある場面では非常に几帳面さを発揮する人が、他の部分を強調されて「あの人はいい加減だ。」という評判を得ることもある。
人知れず人道支援活動をやっている人が、日常的な仕事のみを見られて「非人道的なエゴイスト」と言われることもある。
要は、どのようにキャラとして認識されるか、ということが重要だ。
いくつか考え方はあるだろう。
ものすごい信頼されるキャラを確立しているがゆえに失言が許される。
多面性を持ったキャラを確立しているがゆえに、失言しても他の面が相殺して許される。
失言キャラを確立しているがゆえに、失言しても許される。
(ただし不信任フラグが立っていると許されない。)
キャラが確立されていると、その人に関する評価軸が確立されるのだ。
キャラが確立されていないと、その人に関する評価軸がなく「失言」そのものを評価することになる。
それ以外に評価軸がないからだ。
だから、キャラが確立されていない人の失言は、失言問題になりやすい。
ただし、キャラが確立されていても、信任されていない人は、失言問題になりやすい。
逆に言うと、信任されている人は、失言キャラでも許される。
複数の評価軸うんぬんというのは、結局のところ多面性を持ったキャラを確立しているということに他ならない。
と、簡単にぱぱっと考えた結果思う。