デンマークに完勝だった。
デンマークは日本に勝たないと決勝トーナメントに進めないため、どうしても攻撃に出ねばならず、状況としては日本に有利だったが、先制点を取れたことで圧倒的に有利になった。
基本的に、攻撃するためにはリスクを犯すわけで、相手にチャンスを与えることを意味するからだ。
戦略の基本セオリーが教える通り、戦いは攻める方が不利なのである。
(もちろん、力の差が圧倒的にある場合、例えば相手がブラジルやアルゼンチンだったら話は変る)
デンマークは得点で日本に先行されたので、集中力を欠いてしまい、組織的で戦術的な動きができなかった。
デンマーク攻撃陣は組織的に良く守る日本デフェンス陣の餌食になった。
よく近代サッカーは戦術性が増したため、つまらなくなったと言われるが、私は最近のサッカーを見るにつけ「組織力とは何か」を自問してしまう。
スーパースターばかりを集めても、戦略的に陳腐なチームは試合には勝てない。
チームを作るフロントや監督は、チームを取巻くあらゆる要素を、試合に勝つために構築していかなければならない。
試合に勝つための最終的な力を、ここではチーム力と呼ぶことにしよう。
チーム力を高めるためには、どんなに優れた選手も要素の一つでしかないのであり、ゆえに、そこにはある種の非人道的なものが入り込む。
勝つためのチーム力を高めることが、チームを経営する側には目的付けされるため、選手は重要な要素とはいえ一つの要素に過ぎないのである。
特定の能力に秀でる人気のある選手が起用されないことは十分に有り得る。
チームにとって重要なのは、チーム力を高めることであって、それは選手の能力に比例するとは限らない。
チーム力を高めるために必要な要素と、その構築方法が主眼点になるのだ。
ただし、この議論が有効なのは「試合に勝つことが目的」である場合だ。
実際には、世界はより複雑で、ただ単に試合に勝つことが目的になることは稀だ。
「どう勝つか」「どう負けるか」も注目されるし、監督の人生も選手の人生も、その試合や大会だけでは終わらないのだ。
「我人生、この試合のためにあり」と言えるようならばよいが、監督も選手もスタッフも、その後の人生は続く。
「"その"試合に勝つことがだけが目的」になることはない。
誰もが一時的かつ短期的に、それを求められるが、情熱は冷めるのが必定である。
こうした実世界の要求は、監督や選手やスタッフに矛盾した要求となって突きつけられる。
"その場"では勝つことが目的となるが、場が変れば目的が変ってしまうのだ。
そういった目的が変更してしまう状況を予測できる場合、人はどう動くのか。
それは結局「名目としてチーム力を高めることが最善でありながら、それとは別に他の価値基準を求める」という形になって表れる。
なかなか人間を管理する役割についてコンピュータが人間にとって変らないのは、この裁量的バランス感覚を、人間がなかなか形式知化できないということにある。
名監督や名選手に条件はないのだ。