最近、当Blogで扱っているGoogleのビジネスモデルについてのわかりやすい説明。
ただ単にアクセスを集めるだけではなく、どう買い物をするユーザのアクセスを集めるかが主戦場だ。
囲い込み戦術をとる企業は全てGoogleの敵なわけだ。
GoogleとAmazonの競争(経済学101)
http://rionaoki.net/2010/05/4136
これも最近話題にしているビジネスモデルの内容についてのわかりやすい説明。
垂直統合されているものを如何にモジュール化して、解体して、コアとなるモジュールを取れるかが重要。
というのは、利潤は価格支配力があるところに生まれるからで、その支配力は非競争力があるかどうかで決まる。
どんなシステムでもモジュール化されると参入障壁が下がるので、競争しないで利益を上げたければコア部分はモジュール化してはならない、もしくはモジュール化してもインタフェースだけ公開して内部を秘匿する必要がある。
電子書籍はフォーマットとアプリを制したものが勝つ(My Life in MIT Sloan)
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/13f8195b8bcf97e42f9e5a23e7088876
と、わかったように書いているが、実は私は妹尾堅一郎氏の二番煎じ。
この1冊を読めば、今、ビジネスモデル競争の世界で何が起きているのか、だいたいのことは理解できる。
Googleの話は出てこないけれど。
技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか―画期的な新製品が惨敗する理由(妹尾堅一郎)
ただ個人的な経験からすると、この本を読んでも理解できていない人は多数いるようだ。
別に難しいことは書いていないのだが、パラダイムシフトは人々を置き去りにするのが常。
よく例えられるのは、時代の重点が制空権争いに移っている時に大鑑巨砲主義をやり続ける愚だ。
人間は、過去の成功体験を拭い去るのは難しい。
長らく環境変化が激しくなかった状況で生きてきた人類からすると、成功体験を即座に捨て去るのは合理的でなかったからだ。
だから「失敗から学ぶ」これしかない。
第2次世界大戦初期に先進的な戦術を駆使した日本に対し、連合軍は失敗から戦略的前進を遂げ、戦局を変えることに成功した。
失敗の本質―日本軍の組織論的研究
「負けに不思議の負けなし(野村克也)」
これだ。
しかしながら、まず、「勝つ」「負ける」ということの基準を明らかにし、そしてそれを乗越える必要性があると思う。
この時点で思い込みによって相互不理解が発生していると、いかんともしがたいし、実際日本で起きているのはそれだ。
例えば「試合に負けて勝負に勝つ」みたいな言葉がある。
これは「侍魂」を基礎とする精神文化内でかなり支配的な考え方である。
(当Blogでは合理を求めない姿勢を「侍」とするのである)
何をもってして勝ちと言うのか、つまり何に価値基準を置くのか、という問いである。
「利益を上げるために姑息な手は使わない、一体何のためにビジネスをやるのか」といった考えを持つ日本人は多いだろう。
「利益至上主義」などと言っては否定されることがほとんどだ。
※
「ビジネスとは何なのか」これについては様々な議論が可能なので、ここでは深堀しない。
また日を改めよう。
しかし、ビジネスモデルの変革を訴える人々が主張するのは決して「利益至上主義」などではない。
彼らが問いかけているのは「モノ/コトの本質的な意味・価値」である。
もちろん、誰にも使われないが高い技術力を必要とする十文字槍を鍛冶屋が赤字で作り続けることに意味を感じる人もいるだろう。
誰にも見向きもされなくなった古びたオモチャを唯一人コレクトすることに価値を置く人もいるだろう。
それらを否定するものではない。
ただただ「モノ/コトの本質的な意味や価値」を追い求める点では同じことだからだ。
違いは、それを一般化することに意味や価値を見出そうとするかどうかである。
要は、どこに自己を充足し得る意味や価値があると信じるかだ。
そこに善悪も正誤もない。
「道」なのか「到達点」なのか。
前者が侍で、後者がビジネスマンだ。
道には終わりはない。
極まらないのが道。
ゴールを求めるのが到達点。
「到達点」を求める人にとって、「道」を求める人は牧歌的なおめでたい奴だろう。
「道」を求める人にとって、「到達点」を求める人は早急な未熟者に見えるだろう。
両者とも互いに馬鹿にし合っているだけで理解し合おうとしていないように見える。
この両者を橋渡しする広い意味での哲学が求められている
ような気がする。
途中で論点が摩り替わった気もするが、たぶん気のせいだろう。
ただ単にアクセスを集めるだけではなく、どう買い物をするユーザのアクセスを集めるかが主戦場だ。
囲い込み戦術をとる企業は全てGoogleの敵なわけだ。
GoogleとAmazonの競争(経済学101)
http://rionaoki.net/2010/05/4136
これも最近話題にしているビジネスモデルの内容についてのわかりやすい説明。
垂直統合されているものを如何にモジュール化して、解体して、コアとなるモジュールを取れるかが重要。
というのは、利潤は価格支配力があるところに生まれるからで、その支配力は非競争力があるかどうかで決まる。
どんなシステムでもモジュール化されると参入障壁が下がるので、競争しないで利益を上げたければコア部分はモジュール化してはならない、もしくはモジュール化してもインタフェースだけ公開して内部を秘匿する必要がある。
電子書籍はフォーマットとアプリを制したものが勝つ(My Life in MIT Sloan)
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/13f8195b8bcf97e42f9e5a23e7088876
と、わかったように書いているが、実は私は妹尾堅一郎氏の二番煎じ。
この1冊を読めば、今、ビジネスモデル競争の世界で何が起きているのか、だいたいのことは理解できる。
Googleの話は出てこないけれど。
技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか―画期的な新製品が惨敗する理由(妹尾堅一郎)
ただ個人的な経験からすると、この本を読んでも理解できていない人は多数いるようだ。
別に難しいことは書いていないのだが、パラダイムシフトは人々を置き去りにするのが常。
よく例えられるのは、時代の重点が制空権争いに移っている時に大鑑巨砲主義をやり続ける愚だ。
人間は、過去の成功体験を拭い去るのは難しい。
長らく環境変化が激しくなかった状況で生きてきた人類からすると、成功体験を即座に捨て去るのは合理的でなかったからだ。
だから「失敗から学ぶ」これしかない。
第2次世界大戦初期に先進的な戦術を駆使した日本に対し、連合軍は失敗から戦略的前進を遂げ、戦局を変えることに成功した。
失敗の本質―日本軍の組織論的研究
「負けに不思議の負けなし(野村克也)」
これだ。
しかしながら、まず、「勝つ」「負ける」ということの基準を明らかにし、そしてそれを乗越える必要性があると思う。
この時点で思い込みによって相互不理解が発生していると、いかんともしがたいし、実際日本で起きているのはそれだ。
例えば「試合に負けて勝負に勝つ」みたいな言葉がある。
これは「侍魂」を基礎とする精神文化内でかなり支配的な考え方である。
(当Blogでは合理を求めない姿勢を「侍」とするのである)
何をもってして勝ちと言うのか、つまり何に価値基準を置くのか、という問いである。
「利益を上げるために姑息な手は使わない、一体何のためにビジネスをやるのか」といった考えを持つ日本人は多いだろう。
「利益至上主義」などと言っては否定されることがほとんどだ。
※
「ビジネスとは何なのか」これについては様々な議論が可能なので、ここでは深堀しない。
また日を改めよう。
しかし、ビジネスモデルの変革を訴える人々が主張するのは決して「利益至上主義」などではない。
彼らが問いかけているのは「モノ/コトの本質的な意味・価値」である。
もちろん、誰にも使われないが高い技術力を必要とする十文字槍を鍛冶屋が赤字で作り続けることに意味を感じる人もいるだろう。
誰にも見向きもされなくなった古びたオモチャを唯一人コレクトすることに価値を置く人もいるだろう。
それらを否定するものではない。
ただただ「モノ/コトの本質的な意味や価値」を追い求める点では同じことだからだ。
違いは、それを一般化することに意味や価値を見出そうとするかどうかである。
要は、どこに自己を充足し得る意味や価値があると信じるかだ。
そこに善悪も正誤もない。
「道」なのか「到達点」なのか。
前者が侍で、後者がビジネスマンだ。
道には終わりはない。
極まらないのが道。
ゴールを求めるのが到達点。
「到達点」を求める人にとって、「道」を求める人は牧歌的なおめでたい奴だろう。
「道」を求める人にとって、「到達点」を求める人は早急な未熟者に見えるだろう。
両者とも互いに馬鹿にし合っているだけで理解し合おうとしていないように見える。
この両者を橋渡しする広い意味での哲学が求められている
ような気がする。
途中で論点が摩り替わった気もするが、たぶん気のせいだろう。