「海外ニート」というハンドルネームは以前から様々なところで引用されていたので知ってはいたが、ブログを読んだことはなかった。
ひょんなことから彼のブログを読んだのだが、、面白い!
彼の表現はキツイかもしれないが、内容は鋭く本質的だ。
日本的労働慣習に対して、しっかりと要所を突いている。
私は違和感なく読めるし、多くの場合に同調する主張が多い。
話が合うんじゃないかと思いさえする。
ニートの海外就職日記
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/
確かに、彼の主張は偏っているし、長所短所を明らかにした主張ではないから、一方の側からの一方的な見方という批判は可能だろう。
だが、私は彼の意見が非常に有用だと思う。
それは、勝手ではあるが、彼と私の思考の共通性に理由があると考えている。
その共通性とは、私自身、小さい頃からずっと今日に至るまで向き合ってきたテーマでもある。
それは「正義の押付け」、そして、特に日本人の場合に見られる特殊性である「場の親密性の共有を強要する(空気を読むことを強要される)こと」への疑念であろう。
「正義の押付け」はどこにでも見られる行為であるし、それが無条件で悪いというつもりは毛頭ない。
教育だって正義の押付けだし、極論すれば全てが押付けであるからだ。
しかし、正義の押付けは常に偽善との裏表の関係にあることを忘れてはならない。
前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」で少し述べたが、善悪を定義しようとする行為は、同時に偽善を生み出す。
それは、不完全である人間が完全なる善を生み出せないことに由来する。
(人間が不完全かどうかは、機会を改めて説明しよう。ここれでは不完全ということにして欲しい)
不完全な善は、必ず善ではないものを生み出す。
「これが正しい」と言えば、必ずその正しさから漏れるものもある。
「これ」で全てを表現することができないからだ。
だから、これはよく言うのだが、正義というのは自分の外に向かって振りかざすものではなく、自らのふるまいを律するために、自分に振りかざすものなのだ。
前に書いたエントリ「利他とは自己利益のことなり」を参照して欲しい。
繰返すが、私は正義を悪くいうつもりはない。
しかし、正義という相対価値を使っているのだという認識を持つことは重要である。
でなければ、あなたは正義という怪物に食い殺されるだろう。
さて、海外ニート氏が特に問題視するのは、「正義」というよりも、日本人の姿勢に強く出る特徴である「場の親密性の共有の強要」の方であろう。
当Blogで述べ続けて来たことだが、日本人はその歴史的背景から、場の親密性を重んじる人々である。
いわゆる空気のことで、いい例は聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の文化である。
この文化は、問題の解決というより、調整力に非常に秀でている。
「玉虫色の解決」が大得意なのだ。
考えて欲しい「和をもって尊しとなす」ためにはどうすればよいか。
全ての人の利害を合理的に解決することは難しい。
参加者が多くなればなるほど、変数は多くなり、また高度・複雑化する。
人間が容易に解けるレベルを超えていることはよくあることだ。
その場合、どうするか。
「問題をおさめる」のである。
利害調整というのは、問題を解決することだけがゴールではない。
「三方一両損」のような解決を見出すことは理想ではあるものの、問題を先送りすることや、問題をなかったことにすることも一つの方法論として有りなのだ。
「問題を先送り」できることは、ある意味ですばらしいことである。
問題が解決できなければ、その場に留まるしかない時に、非常に有効である場合もあるのだ。
臭いものに蓋をしたい気持ちは誰もが持ったことがあるだろう。
しかし、この文化は良い面ばかりではない。
もちろん、良い面があればこそ、日本人はこの方法論を採用し続けてきたのだが、グローバル化が否応なしに変化をもたらしており、悪い面が際立ってきている。
そもそも、問題を先送りしたり、問題をなかったことにしたりするために、何が必要であろうか。
それは「個人の犠牲」である。
問題が解決されずに困る人々が黙っていなければ、問題の先送りはできない。
個人が個人の権利など主張し始めたら、玉虫色の解決など見出せなくなってしまう。
だから、古来より日本には「個人」というものが存在していなかった。
「和」があるのみである。
「和」に「個人」は溶け込んでおり、「和」と「個人」の境界は曖昧なのだ。
日本において「個人」を定義するような思想は危険思想だったのだ。
これは、よく考えて欲しい。
面白いことがわかるだろう。
日本では、「私」を捨てることを賞賛するような文化が存在する。
これは、人間が利害を超える姿を賞賛しているのではない。
例えば、前回のエントリでも述べた「悟り」。
「滅私」は最上の喜びである。
他にも「侍魂」。
侍は合理を嫌うのである。
だから不合理な理由で切腹を命じられても応じるのだ。
日本で育まれた文化、宗教も含めて、そのほとんどが「個人」を尊重していない。
もちろん、中には、個人の幸福を指向するものもあったが、本流にはなれなかった。
支配者層がそれを嫌ったからだし、民衆も求めはしなかった。
日本では個人の権利を主張して支配層に上り詰めた歴史上の人物はいない。
(豊臣秀吉が一番近いかもしれない)
大陸の歴史を見て欲しい。
例えばナポレオンだ。
彼がなぜ強かったか。
個人の利益を主張したからだ。
民衆が彼に味方したのだ。
では、なぜ日本ではそれが起きなかったのか。
もちろん民衆の放棄は幾つもあっただろう。
しかし、その放棄が革命にいたった試しはない。
長い間、外敵からの侵略がなく平和だったことと、近くに強大な中華帝国が存在したことが原因だろう。
徹底的に日本全体が飢餓状態になることや貧困状態におかれたことがない上、かつ天皇が国家神道のもとに「現人神」になるまで、自分達が正しいということを過信する必要がなかったことに尽きる。
決して日本人が優れているわけでも精神性が高いわけでもない。
歴史的連続性から熟成度は高いといえるかもしれないが、デメリットよりもメリットが上回っていたから、それが一番の理由だ。
ちょっと話がそれてしまったので戻そう。
海外ニート氏の主張に私が同意するのは、日本に特徴的に見られる文化である「場の親密性の共有の強要」は「個人の犠牲」をもとにしたものであり、そのメリットが薄れてきているのであれば、その文化をもとにした生活や商慣習を見直そうという意味で、問題意識を一にするからである。
いつもいうように、日本には「社会」と「個人」が輸入され、我々は無自覚的にそれらと並存している。
私は、我々日本人が抱く現代社会への違和感の多くは、実はこのことによって説明できると考えている。
日本人が古来より熟成してきた文化と、新しい社会的仕組みとの間に歪みが生じていることに、我々はさほど気づいていない。
我々はどうやったら、この壁を乗越えられるのであろうか。
前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」を参考に今後語っていきたいと思う。
ひょんなことから彼のブログを読んだのだが、、面白い!
彼の表現はキツイかもしれないが、内容は鋭く本質的だ。
日本的労働慣習に対して、しっかりと要所を突いている。
私は違和感なく読めるし、多くの場合に同調する主張が多い。
話が合うんじゃないかと思いさえする。
ニートの海外就職日記
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/
確かに、彼の主張は偏っているし、長所短所を明らかにした主張ではないから、一方の側からの一方的な見方という批判は可能だろう。
だが、私は彼の意見が非常に有用だと思う。
それは、勝手ではあるが、彼と私の思考の共通性に理由があると考えている。
その共通性とは、私自身、小さい頃からずっと今日に至るまで向き合ってきたテーマでもある。
それは「正義の押付け」、そして、特に日本人の場合に見られる特殊性である「場の親密性の共有を強要する(空気を読むことを強要される)こと」への疑念であろう。
「正義の押付け」はどこにでも見られる行為であるし、それが無条件で悪いというつもりは毛頭ない。
教育だって正義の押付けだし、極論すれば全てが押付けであるからだ。
しかし、正義の押付けは常に偽善との裏表の関係にあることを忘れてはならない。
前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」で少し述べたが、善悪を定義しようとする行為は、同時に偽善を生み出す。
それは、不完全である人間が完全なる善を生み出せないことに由来する。
(人間が不完全かどうかは、機会を改めて説明しよう。ここれでは不完全ということにして欲しい)
不完全な善は、必ず善ではないものを生み出す。
「これが正しい」と言えば、必ずその正しさから漏れるものもある。
「これ」で全てを表現することができないからだ。
だから、これはよく言うのだが、正義というのは自分の外に向かって振りかざすものではなく、自らのふるまいを律するために、自分に振りかざすものなのだ。
前に書いたエントリ「利他とは自己利益のことなり」を参照して欲しい。
繰返すが、私は正義を悪くいうつもりはない。
しかし、正義という相対価値を使っているのだという認識を持つことは重要である。
でなければ、あなたは正義という怪物に食い殺されるだろう。
さて、海外ニート氏が特に問題視するのは、「正義」というよりも、日本人の姿勢に強く出る特徴である「場の親密性の共有の強要」の方であろう。
当Blogで述べ続けて来たことだが、日本人はその歴史的背景から、場の親密性を重んじる人々である。
いわゆる空気のことで、いい例は聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の文化である。
この文化は、問題の解決というより、調整力に非常に秀でている。
「玉虫色の解決」が大得意なのだ。
考えて欲しい「和をもって尊しとなす」ためにはどうすればよいか。
全ての人の利害を合理的に解決することは難しい。
参加者が多くなればなるほど、変数は多くなり、また高度・複雑化する。
人間が容易に解けるレベルを超えていることはよくあることだ。
その場合、どうするか。
「問題をおさめる」のである。
利害調整というのは、問題を解決することだけがゴールではない。
「三方一両損」のような解決を見出すことは理想ではあるものの、問題を先送りすることや、問題をなかったことにすることも一つの方法論として有りなのだ。
「問題を先送り」できることは、ある意味ですばらしいことである。
問題が解決できなければ、その場に留まるしかない時に、非常に有効である場合もあるのだ。
臭いものに蓋をしたい気持ちは誰もが持ったことがあるだろう。
しかし、この文化は良い面ばかりではない。
もちろん、良い面があればこそ、日本人はこの方法論を採用し続けてきたのだが、グローバル化が否応なしに変化をもたらしており、悪い面が際立ってきている。
そもそも、問題を先送りしたり、問題をなかったことにしたりするために、何が必要であろうか。
それは「個人の犠牲」である。
問題が解決されずに困る人々が黙っていなければ、問題の先送りはできない。
個人が個人の権利など主張し始めたら、玉虫色の解決など見出せなくなってしまう。
だから、古来より日本には「個人」というものが存在していなかった。
「和」があるのみである。
「和」に「個人」は溶け込んでおり、「和」と「個人」の境界は曖昧なのだ。
日本において「個人」を定義するような思想は危険思想だったのだ。
これは、よく考えて欲しい。
面白いことがわかるだろう。
日本では、「私」を捨てることを賞賛するような文化が存在する。
これは、人間が利害を超える姿を賞賛しているのではない。
例えば、前回のエントリでも述べた「悟り」。
「滅私」は最上の喜びである。
他にも「侍魂」。
侍は合理を嫌うのである。
だから不合理な理由で切腹を命じられても応じるのだ。
日本で育まれた文化、宗教も含めて、そのほとんどが「個人」を尊重していない。
もちろん、中には、個人の幸福を指向するものもあったが、本流にはなれなかった。
支配者層がそれを嫌ったからだし、民衆も求めはしなかった。
日本では個人の権利を主張して支配層に上り詰めた歴史上の人物はいない。
(豊臣秀吉が一番近いかもしれない)
大陸の歴史を見て欲しい。
例えばナポレオンだ。
彼がなぜ強かったか。
個人の利益を主張したからだ。
民衆が彼に味方したのだ。
では、なぜ日本ではそれが起きなかったのか。
もちろん民衆の放棄は幾つもあっただろう。
しかし、その放棄が革命にいたった試しはない。
長い間、外敵からの侵略がなく平和だったことと、近くに強大な中華帝国が存在したことが原因だろう。
徹底的に日本全体が飢餓状態になることや貧困状態におかれたことがない上、かつ天皇が国家神道のもとに「現人神」になるまで、自分達が正しいということを過信する必要がなかったことに尽きる。
決して日本人が優れているわけでも精神性が高いわけでもない。
歴史的連続性から熟成度は高いといえるかもしれないが、デメリットよりもメリットが上回っていたから、それが一番の理由だ。
ちょっと話がそれてしまったので戻そう。
海外ニート氏の主張に私が同意するのは、日本に特徴的に見られる文化である「場の親密性の共有の強要」は「個人の犠牲」をもとにしたものであり、そのメリットが薄れてきているのであれば、その文化をもとにした生活や商慣習を見直そうという意味で、問題意識を一にするからである。
いつもいうように、日本には「社会」と「個人」が輸入され、我々は無自覚的にそれらと並存している。
私は、我々日本人が抱く現代社会への違和感の多くは、実はこのことによって説明できると考えている。
日本人が古来より熟成してきた文化と、新しい社会的仕組みとの間に歪みが生じていることに、我々はさほど気づいていない。
我々はどうやったら、この壁を乗越えられるのであろうか。
前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」を参考に今後語っていきたいと思う。