進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

新しい日本への道

2010-05-11 19:00:48 | 社会
「海外ニート」というハンドルネームは以前から様々なところで引用されていたので知ってはいたが、ブログを読んだことはなかった。
ひょんなことから彼のブログを読んだのだが、、面白い!
彼の表現はキツイかもしれないが、内容は鋭く本質的だ。
日本的労働慣習に対して、しっかりと要所を突いている。
私は違和感なく読めるし、多くの場合に同調する主張が多い。
話が合うんじゃないかと思いさえする。

ニートの海外就職日記
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/

確かに、彼の主張は偏っているし、長所短所を明らかにした主張ではないから、一方の側からの一方的な見方という批判は可能だろう。
だが、私は彼の意見が非常に有用だと思う。
それは、勝手ではあるが、彼と私の思考の共通性に理由があると考えている。

その共通性とは、私自身、小さい頃からずっと今日に至るまで向き合ってきたテーマでもある。
それは「正義の押付け」、そして、特に日本人の場合に見られる特殊性である「場の親密性の共有を強要する(空気を読むことを強要される)こと」への疑念であろう。

「正義の押付け」はどこにでも見られる行為であるし、それが無条件で悪いというつもりは毛頭ない。
教育だって正義の押付けだし、極論すれば全てが押付けであるからだ。
しかし、正義の押付けは常に偽善との裏表の関係にあることを忘れてはならない。

前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」で少し述べたが、善悪を定義しようとする行為は、同時に偽善を生み出す。
それは、不完全である人間が完全なる善を生み出せないことに由来する。
(人間が不完全かどうかは、機会を改めて説明しよう。ここれでは不完全ということにして欲しい)
不完全な善は、必ず善ではないものを生み出す。
「これが正しい」と言えば、必ずその正しさから漏れるものもある。
「これ」で全てを表現することができないからだ。


だから、これはよく言うのだが、正義というのは自分の外に向かって振りかざすものではなく、自らのふるまいを律するために、自分に振りかざすものなのだ。
前に書いたエントリ「利他とは自己利益のことなり」を参照して欲しい。

繰返すが、私は正義を悪くいうつもりはない。
しかし、正義という相対価値を使っているのだという認識を持つことは重要である。
でなければ、あなたは正義という怪物に食い殺されるだろう。

さて、海外ニート氏が特に問題視するのは、「正義」というよりも、日本人の姿勢に強く出る特徴である「場の親密性の共有の強要」の方であろう。
当Blogで述べ続けて来たことだが、日本人はその歴史的背景から、場の親密性を重んじる人々である。
いわゆる空気のことで、いい例は聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の文化である。
この文化は、問題の解決というより、調整力に非常に秀でている。
「玉虫色の解決」が大得意なのだ。

考えて欲しい「和をもって尊しとなす」ためにはどうすればよいか。
全ての人の利害を合理的に解決することは難しい。
参加者が多くなればなるほど、変数は多くなり、また高度・複雑化する。
人間が容易に解けるレベルを超えていることはよくあることだ。
その場合、どうするか。
「問題をおさめる」のである。
利害調整というのは、問題を解決することだけがゴールではない。
「三方一両損」のような解決を見出すことは理想ではあるものの、問題を先送りすることや、問題をなかったことにすることも一つの方法論として有りなのだ。
「問題を先送り」できることは、ある意味ですばらしいことである。
問題が解決できなければ、その場に留まるしかない時に、非常に有効である場合もあるのだ。
臭いものに蓋をしたい気持ちは誰もが持ったことがあるだろう。

しかし、この文化は良い面ばかりではない。
もちろん、良い面があればこそ、日本人はこの方法論を採用し続けてきたのだが、グローバル化が否応なしに変化をもたらしており、悪い面が際立ってきている。

そもそも、問題を先送りしたり、問題をなかったことにしたりするために、何が必要であろうか。
それは「個人の犠牲」である。
問題が解決されずに困る人々が黙っていなければ、問題の先送りはできない。
個人が個人の権利など主張し始めたら、玉虫色の解決など見出せなくなってしまう。

だから、古来より日本には「個人」というものが存在していなかった。
「和」があるのみである。
「和」に「個人」は溶け込んでおり、「和」と「個人」の境界は曖昧なのだ。
日本において「個人」を定義するような思想は危険思想だったのだ。

これは、よく考えて欲しい。
面白いことがわかるだろう。
日本では、「私」を捨てることを賞賛するような文化が存在する。
これは、人間が利害を超える姿を賞賛しているのではない。
例えば、前回のエントリでも述べた「悟り」。
「滅私」は最上の喜びである。
他にも「侍魂」。
侍は合理を嫌うのである。
だから不合理な理由で切腹を命じられても応じるのだ。

日本で育まれた文化、宗教も含めて、そのほとんどが「個人」を尊重していない。
もちろん、中には、個人の幸福を指向するものもあったが、本流にはなれなかった。
支配者層がそれを嫌ったからだし、民衆も求めはしなかった。
日本では個人の権利を主張して支配層に上り詰めた歴史上の人物はいない。
(豊臣秀吉が一番近いかもしれない)
大陸の歴史を見て欲しい。
例えばナポレオンだ。
彼がなぜ強かったか。
個人の利益を主張したからだ。
民衆が彼に味方したのだ。

では、なぜ日本ではそれが起きなかったのか。
もちろん民衆の放棄は幾つもあっただろう。
しかし、その放棄が革命にいたった試しはない。
長い間、外敵からの侵略がなく平和だったことと、近くに強大な中華帝国が存在したことが原因だろう。
徹底的に日本全体が飢餓状態になることや貧困状態におかれたことがない上、かつ天皇が国家神道のもとに「現人神」になるまで、自分達が正しいということを過信する必要がなかったことに尽きる。
決して日本人が優れているわけでも精神性が高いわけでもない。
歴史的連続性から熟成度は高いといえるかもしれないが、デメリットよりもメリットが上回っていたから、それが一番の理由だ。

ちょっと話がそれてしまったので戻そう。
海外ニート氏の主張に私が同意するのは、日本に特徴的に見られる文化である「場の親密性の共有の強要」は「個人の犠牲」をもとにしたものであり、そのメリットが薄れてきているのであれば、その文化をもとにした生活や商慣習を見直そうという意味で、問題意識を一にするからである。

いつもいうように、日本には「社会」と「個人」が輸入され、我々は無自覚的にそれらと並存している。
私は、我々日本人が抱く現代社会への違和感の多くは、実はこのことによって説明できると考えている。
日本人が古来より熟成してきた文化と、新しい社会的仕組みとの間に歪みが生じていることに、我々はさほど気づいていない。

我々はどうやったら、この壁を乗越えられるのであろうか。
前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」を参考に今後語っていきたいと思う。

なぜ天使は堕落せねばならなかったか

2010-05-11 11:04:22 | スピリチュアル
GW中はネットからもTVからも遠ざかっておりました。
休暇前に買い込んだ書籍を読むこともなく、完全にパープリン状態です。
ただ、休暇前は体調が優れなかったのですが、回復したので意外に社会復帰はスムーズにいきました。
別に原始的生活をしていたわけではありませんが、生活に支障がない限り都市生活環境から離れることで人間が潜在的にもつ自然治癒力が発揮されやすくなるのかなと、しみじみ感じ入りました。

いろいろと書きたいことはあるのですが、まず今朝ふと気になったことから書くことにします。

天使はなぜ堕落するのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51419299.html

ちょっとリンク先のブログの内容を矮小化してしまうかもしれませんが、私は「天使はなぜ堕落するのか」というタイトルにインスパイアされるものがありました。
というのは、私は一時期この問題について、キリスト教を基礎とする組織の方々と神学論争を繰返していたことがあるからです。
NHK「ハーバード白熱教室」のサンデル教授の講義を視聴している関係で、人間の道徳性について注意が向いていることにも少し影響を受けているかもしれません。


近代科学がキリスト教に反抗して生まれたというのは誤解で、むしろ近代科学はキリスト教から生まれたといったほうがいい。宇宙に普遍的な法則が存在するという信念は、キリスト教以外の文明圏にはないもので、現代の科学でも証明されてはいない。今まで観測されたすべての宇宙は物理学で説明できるが、説明のつかない宇宙がどこかに存在する可能性は否定できない。

このような普遍=神への信仰が近代科学を生んだ。加速度運動を初めて数量的に観測したのは、ガリレオでもニュートンでもなく、オクスフォード大学のスコトゥスの弟子だった。彼らはすでに14世紀に、加速度と到達距離の関係を数学的に理解していた。最近のインテリジェント・デザインも主張するように、自然の規則性は神が宇宙を完璧に設計した証拠だったのである。


彼らは言う「神が宇宙を創造した」と。
実は、私と彼らは、この点について認識を共有している。
(宣言することに意味はないが、私は決定論信奉者だ。)
が、違うのはこの続きだ。
その辺の床屋談義でも聞くことのできる話題だ。

神が宇宙を創造した。
で、あるならば、なぜ人間は不完全なのか?
もし神が全知全能なら、どうして人間のような不完全なものを創造する必要があるのか?

誤解を恐れず、この疑問をある1つの質問に集約することにしよう。
サンデル教授ではないが、これ一つで講義ができるほど深い質問だ。
この質問に答えるために、これまで数多くの宗教家や思想家が理屈をこねくり回してきた。
その質問とはこれだ。

「なぜ、この世には悪が存在するのか?」

キリスト教には「最後の審判」という「悪」を裁く概念が存在する。
だから、人間は天国に行くためには「善」でなければならないと。


ここで一つ注意しておく必要がある。
当Blogでは、いつも「善悪は相対的価値であり絶対的価値ではない」と主張している。
その観点からすれば「悪を定義するから悪が存在する」といえるが、ここでいう「悪」とは、キリスト教の観点に乗った上での「悪」である。
キリスト者が「悪」という場合に、ではなぜその悪は存在するのか、という問題意識である。
また、「なぜこれが善なのか」という問いについて、これまでキリスト教会がこねくりまわしてきた理屈の歴史は非常に面白いのだが、ここでは本題ではないので省略する。

「なぜ、悪が存在するのか?」

神が宇宙の創造主であるなら、なぜ後で裁く必要性のある悪を創造したのか。
人が生きて善行を行わねばならぬのなら、なぜ悪を創ったのか。
アダムとイブがリンゴを食べて知恵がついたからなのか。
ではなぜ、リンゴを食べたのか。
悪魔にそそのかされたからなのか。
しかし、その悪魔は何者だ。
神は悪魔などを創ったのか。
組織によっていろいろと理由が異なるのだが、ある一部の組織はこう教える。

「天使が堕落したから」である。

天使は神の使い、つまり部下であるが、これがなんと堕落することによって神を困らせるのである。
堕天使の登場である。
なぜ天使が堕落するのかについては、これを述べると特定の宗教団体を批判することになり兼ねないのでやめておく。(こわいからね。)

もともと善であった天使が、ある理由でひねくれて悪の堕天使になったのである。
おかげで、人間様は神様と堕天使との間で揺れ動く存在になってしまった。
人間は悪の誘惑に耐えて善を行わねばならなくなったのだ。

さて、この議論の限界がどこにあるかわかるだろうか。
池田氏のブログから次の節を引用することにしよう。


しかしスコトゥス学派は、自然の規則性を観測しても、その背後に個物を超えた<実在>が存在することを証明できなかった。神は自然を超えた存在なので、いくら自然を観測しても神には到達できない。それなら、そんな実在(神)は想像の産物ではないのか、と考えたのがオッカムである。この意味で彼はデカルト以降の近代哲学の始まりであり、ヒューム的な懐疑論の元祖でもある。


「神は自然を超えた存在なので、いくら自然を観測しても神には到達できない。」の部分が重要である。
人間が神や善悪を定義する行為そのものが、神を肯定する立場からして矛盾しているのだ。
神が宇宙の創造主で、神が宇宙(自然)に対して超越的な存在であるなら、神は宇宙の住人である人間の範疇を遥かに超えているはずだ。
人間が神や、その善悪を定義しようとすれば、当然ながら、不完全なものになる。
不完全なものが完全なものを表現し切ることはできないからだ。

ここに宗教的組織が抱える内部矛盾が存在するのだ。
私は善悪を認識しようとすること、それ自体は尊いものだと考えている。
しかし、認識するために善悪を定義しようとすれば、その善悪は嘘になる。
これを当Blogでは「相対性の悪魔」と呼んでいる。
相対性を用いて絶対性を表現することはできない。
相対的な宇宙にいて、絶対的な神を表現できるわけがない。
我々に出来ることは無限に相対性を用いて絶対に極限的に近づくことだけだ。

これは、偶像崇拝を禁止している宗教組織が存在している理由でもある。
神や善悪は定義できるものではないことがわかっているからだ。

では、どうすればよいのか。
東洋においては、この矛盾を乗越える方法として「悟り」という概念が存在する。
悟りとは、あらゆるシガラミから解脱することよって至る。
この意味は、あらゆる相対性から脱却することで、絶対性に至るという意味である。
例えば、仏というのはわかりやすい。
人間は生きている限り、無数の物理的な相対性の束縛を受ける。
が、もし生きていなければ、物理的な制約から解放される。
これによって絶対性に近づけるわけだ。
このような発想を実現する方法論としては「禅」が有名だろう。
「私」というものは自分の中に潜む最大の相対的価値だから、「無私」は悟りに至る大きな一歩である。

おっと、話が深みにはまる前に話を戻そう。
最近、流行った「スピリチュアル」というのは多義的な言葉ではあるものの、そもそもは上記で説明した「悟り」、神道でいうならば「かん(神)ながらの道」の方法論である。
占いや自己啓発的なものとして捉えられがちなものではあるが、本来は、相対性と絶対性への理解を前提に、相対性の有効活用が主旨であると個人的には理解している。
「霊性」というのも、人間が生きる上で囚われがちな相対的価値を絶対視せずに生きるための「観点」を提供しているのだ。
我々が社会的に、また道徳的に信じている価値が、実は相対的価値なのであり、絶対的価値などではないという視座を提供するものがスピリチュアルの本懐なのである。

これは政治の世界において何よりも重要な考え方でなければならない。
「法律をどう策定せねばならないか」などという問題はまさに相対的価値の問題であるからだ。

そういう意味で、神が、天使が、善が、悪が、という前に、自分達を束縛している価値観を考え直してみようという発想が重要だといいたいのである。
とてもありきたりな言葉に帰着してしまったのだが、そういうものなのである。
終わりに次の文章を引用して終わりにすることとしよう。


普遍論争は唯名論の勝利に終わったと思われているが、現代的にみて興味あるのは実在論のほうである。クーン以降の科学哲学(これはオッカムの直系だ)が明らかにしたように、科学と宗教に本質的な違いがないとすれば、人々が特定の宗教(あるいは理論)を信じるのはなぜなのか。それは単なる慣習ではなく、何かの必然性があるのではないか。パースは「アブダクション」と名づけた発見の論理の元祖をスコトゥスに求めたが、それは今も科学哲学のフロンティアなのである。


実は必然性はあるのである。
これについては、物語にしかならないが、いつか語ろうと思う。