進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[つぶやき] 自分を決めるもの

2010-05-14 20:59:22 | 恋愛
つぶやきたいだけ・・

ちょっと前に東レの佐々木常夫氏の講演を聴きに行った。
長男が自閉症で妻がうつ病。
壮絶な人生を送られた方で、それでも東レの重役になった。
(現在は東レ経営研究所社長)
著作もベストセラーになり、今では経済雑誌でも人気コーナーを持つカリスマ・ビジネスマンだ。

いつも聞かれるであろう質問を、その日も会場からされていた。
「私のような弱い人間は、どうしたら佐々木さんのように強くなれるのでしょうか?」
「家族の問題、仕事の問題、自分も歳をとり老いていきます。」
「今にも負けそうになることも多いです。」

佐々木氏は妻の3度目の自殺未遂の時、「俺が死にたいよ」と愚痴をこぼしたことを明かした。
その上でこう述べるのだ。
「私が強いのではありません。そうせざるを得ない環境におかれただけです。」
「私も弱い人間です。」
「よく仕事と家庭の両立について驚かれますが、私にとって仕事は息抜きでした。仕事がなければやってこれなかったと思います。」
「リタイヤすることは考えませんでした。自分が決めた道に自分自身で責任を持とうと思っただけです。」

人間に強い弱いなんかない。
(腕っぷしの強さはあるけれど)

よく「立場の違い」というけれど、これは「背負っているものの違い」ともいえる。
何を背負うのかによって、人は変るのだ。
ペルソナだ。
自分が弱いとか強いとかいうことを考える前に、自分というものを決め付ける前に、自分が何を背負っているか考えた方がいい。
背負うものを何も持っていない人が強いわけがない。
逆に、背負っているものが重いなら、下ろせばいい。
自分を決め付ける前に、自分を決めているのが自分だということに気づくべきなんだ。

なぜか金曜日の夜はしんみりしてしまう。
背負いたいものを背負っていないからかもしれない。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ = 自分の最大化

2010-05-14 12:15:13 | 哲学・思想
光の道 テキスト中継ログ #hikari_road
http://www.tarosite.net/blogging/-hikari-road.html

うむ。
やはり孫正義氏は日本における唯一にして最大のビジョナリストだ。
彼の主張が正しいかどうかは、さほど関係がない。
当Blogでいつもいうように、ビジョナリストに求められるのは、そのビジョン(物語)を共有する力があるかないかだ。
それは、何が正しいかといことを保証することは、誰にもできないからだ。
あくまでも、我々にできることは最善(=極限的に相対的な善を追求すること)を考えることだけだ。

坂本龍馬はビジネスマンだったが、孫正義氏は政治家になってほしい。
50代でやるという大勝負が終わったら、次世代育成をするという60代は政治家になってほしい。


孫「100年に1回のパラダイムシフトが国費ゼロでできれば、異論はない、と。ない。もし光の道で国費がかかるとなったら、僕は頭を剃る。国賊と呼んでいい。約束する。もしできないと思うなら、できない理由を数字で、ロジカルに反論すべきだ」


あ、頭を剃る?(笑)
思わず吹き出したが、いい!
新世代の侍だなこの人は。


孫「自分が生まれた国を愛することが、なぜ恥ずかしいんだ。自分が愛するこの国のために、何か少しでも貢献したい、どこにためらう必要があるんだ」


彼の魅力はこれだよね。
「なぜ恥ずかしいんだ。」「どこにためらう必要があるんだ」

ストレートに心の奥の方にぐさっと刺さる。
なぜ彼は他の人にはとれないリスクを取れるのか、それは彼自身が語ったことのある話に表れている。
西郷隆盛の言葉だ。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される山岡鉄舟に関するエピソード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F


慶応4年(1868年)、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。 西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。

その行動力に西郷隆盛はこういったとされる

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。
此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして 国家の大業は成し得られぬなり



「無私」だ。
「私」という自分に内在する最大の相対性を脱却できるかどうか、いや、より正確にいえば、周囲の相対的価値ではなく、より根源的な「私」に近づくことができるかどうか。
私なりの表現でいえば、「私」という最大の相対性を発揮できるかどうか。
そういうことだ。