いま想うことをダラダラと。
人間というのは、理解することや処理することの難しい状況に直面すると、
たとえば矛盾的状況を目の前にすると、「正当化」という行為を行います。
「正当化」というのは「不確実性(計算不能)をリスク(計算可能)に置き換える作業」で、知識を総動員してこれを行います。
あらん限りの理屈を持ち出して、眼の前の矛盾を論理的に解決しようとするわけです。
【補足】
よく「費用対効果をよくしよう!」と言うが、世の中には測定できないものが2つある。
人の幸福感、社会的価値、共同体的価値など数量化、定量化できないものだ。
もう一つ測定できないものは、確率論ではあらわせない不確実性なこと。
確率によって予測できる「リスク」と、確率的事象ではない「不確実性」とがある。
生物にとって「よくわからない状況」というのは、生命を維持するのによろしくない状況なので、
その状況が危険なのか、安全なのかを見極めようと、もしくは回避行動を取ろうとします。
「よくわからない状況」に「不安」や「恐怖」と感じるようにできている、というわけです。
いま安全が危ぶまれる状況だと判断すれば「恐怖」を感じ緊急回避行動(つまり逃げる)をとりますし、
安全が確保されているものの排除できない事物である場合には「不安」を「安心」に変換するために「正当化」を行います。
(排除可能と思えば「排除行動」にとる場合もあります。)
「正当化」は必要です。
「正当化」がなければ、毎日を生きていけないと思いますし、「正当化」する能力のある人は仕事ができます。
(「習慣」も1つの正当化です。)
ですが、よくわからないものに出会った時に、直観で嫌いと判断した場合、その「嫌い」を「正当化」しようとする癖にもある、ということです。
これはよく見かける光景ではないでしょうか。
しかし、これはまだよい方で、「正当化」に失敗すると、今度は「現実否認」をします。
精神科医エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』に、有名な「死の受容プロセス:悲しみや悲劇を受容するまでの5段階」というものがあります。
以下、Wikipediaからの抜粋です。
第1段階 「否認」
患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった部分的否認の形をとる場合もある。
第2段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
第3段階 「取引」
延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。
第4段階 「抑うつ」
取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
第5段階 「受容」
部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。「デカセクシス(Decathexis)」とロスが呼んだ状態である。この状態で最期の言葉を残すことが多い(例:ゲーテ「もっと光を」、夏目漱石「もう泣いてもいいよ」)。
ただ、キューブラー・ロスは否認を否定的に捉えるのではなく、むしろ非常に困難な状況に対処するための健全な手段とみなしいてます。
「否認は予期しない衝撃的な知らせに対する、緩衝材としての役割を果たす。否認によって患者は気持ちを立て直し、それほど過激ではない他の自己防衛策を取れるようにする。」
ただし、こうしたことが当てはまるのは、結果が避けられないもので、またどれほど現実を直視しようとしてもそれが変えられない時だけです。
当Blogでは、これまで「現実否認」について幾つかエントリを書いておりますので、お時間ありましたらご覧ください。
現実否認と夢 そして愛
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/20573f10f72f22c159495a6aee7bffdd
なぜ自覚もプロ意識もあるのに問題を起こすのか ~現実否認~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/21c1c45068b71e99a133525be25eaebc
AKB48運営は失敗を認められるか ~危機管理の模範的教材:タイレノール事件~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0a80eca62b4d07869cc1780d4e713a0c
率直に真実を語る重要性 ~コカコーラの失敗:カンザス計画~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0b5d472b756e70b5561866829b4abed0
このようにして、人間というのは「正当化」と「現実否認」を繰り返し、いつかは「受容(悟り)」の境地に達するのだと思います。
ただ、この「正当化」→「現実否認」の流れを遮る勇気の存在、というものも私は認めたい、と思うわけであります。
少年少女よ嘘をつけ!!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/1a4534769840e97713e977324b0abc3e
否認の魅力が、魔力ほどに強いのは、短期的にはそれでうまくいくことがあるからだ。
だが、否認によって長期的にうまくいく可能性はほとんどない。
状況が実態よりも良いようなフリをすることは、最終的にはほぼ確実に破滅的な状況に繋がる。
「夢」が真に有用なものとなるのは、現実を否認するのではなく、現実に対峙することを決めた時だ。
【追記】
しっくりこなかったので表題を変えました。
人間というのは、理解することや処理することの難しい状況に直面すると、
たとえば矛盾的状況を目の前にすると、「正当化」という行為を行います。
「正当化」というのは「不確実性(計算不能)をリスク(計算可能)に置き換える作業」で、知識を総動員してこれを行います。
あらん限りの理屈を持ち出して、眼の前の矛盾を論理的に解決しようとするわけです。
【補足】
よく「費用対効果をよくしよう!」と言うが、世の中には測定できないものが2つある。
人の幸福感、社会的価値、共同体的価値など数量化、定量化できないものだ。
もう一つ測定できないものは、確率論ではあらわせない不確実性なこと。
確率によって予測できる「リスク」と、確率的事象ではない「不確実性」とがある。
生物にとって「よくわからない状況」というのは、生命を維持するのによろしくない状況なので、
その状況が危険なのか、安全なのかを見極めようと、もしくは回避行動を取ろうとします。
「よくわからない状況」に「不安」や「恐怖」と感じるようにできている、というわけです。
いま安全が危ぶまれる状況だと判断すれば「恐怖」を感じ緊急回避行動(つまり逃げる)をとりますし、
安全が確保されているものの排除できない事物である場合には「不安」を「安心」に変換するために「正当化」を行います。
(排除可能と思えば「排除行動」にとる場合もあります。)
「正当化」は必要です。
「正当化」がなければ、毎日を生きていけないと思いますし、「正当化」する能力のある人は仕事ができます。
(「習慣」も1つの正当化です。)
ですが、よくわからないものに出会った時に、直観で嫌いと判断した場合、その「嫌い」を「正当化」しようとする癖にもある、ということです。
これはよく見かける光景ではないでしょうか。
しかし、これはまだよい方で、「正当化」に失敗すると、今度は「現実否認」をします。
精神科医エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』に、有名な「死の受容プロセス:悲しみや悲劇を受容するまでの5段階」というものがあります。
以下、Wikipediaからの抜粋です。
第1段階 「否認」
患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった部分的否認の形をとる場合もある。
第2段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
第3段階 「取引」
延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。
第4段階 「抑うつ」
取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
第5段階 「受容」
部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。「デカセクシス(Decathexis)」とロスが呼んだ状態である。この状態で最期の言葉を残すことが多い(例:ゲーテ「もっと光を」、夏目漱石「もう泣いてもいいよ」)。
ただ、キューブラー・ロスは否認を否定的に捉えるのではなく、むしろ非常に困難な状況に対処するための健全な手段とみなしいてます。
「否認は予期しない衝撃的な知らせに対する、緩衝材としての役割を果たす。否認によって患者は気持ちを立て直し、それほど過激ではない他の自己防衛策を取れるようにする。」
ただし、こうしたことが当てはまるのは、結果が避けられないもので、またどれほど現実を直視しようとしてもそれが変えられない時だけです。
当Blogでは、これまで「現実否認」について幾つかエントリを書いておりますので、お時間ありましたらご覧ください。
現実否認と夢 そして愛
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/20573f10f72f22c159495a6aee7bffdd
なぜ自覚もプロ意識もあるのに問題を起こすのか ~現実否認~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/21c1c45068b71e99a133525be25eaebc
AKB48運営は失敗を認められるか ~危機管理の模範的教材:タイレノール事件~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0a80eca62b4d07869cc1780d4e713a0c
率直に真実を語る重要性 ~コカコーラの失敗:カンザス計画~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0b5d472b756e70b5561866829b4abed0
このようにして、人間というのは「正当化」と「現実否認」を繰り返し、いつかは「受容(悟り)」の境地に達するのだと思います。
ただ、この「正当化」→「現実否認」の流れを遮る勇気の存在、というものも私は認めたい、と思うわけであります。
少年少女よ嘘をつけ!!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/1a4534769840e97713e977324b0abc3e
否認の魅力が、魔力ほどに強いのは、短期的にはそれでうまくいくことがあるからだ。
だが、否認によって長期的にうまくいく可能性はほとんどない。
状況が実態よりも良いようなフリをすることは、最終的にはほぼ確実に破滅的な状況に繋がる。
「夢」が真に有用なものとなるのは、現実を否認するのではなく、現実に対峙することを決めた時だ。
【追記】
しっくりこなかったので表題を変えました。
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