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経営の未来 ~未来を変えるための話をしよう~

2012-07-01 23:27:07 | AKB48_経営戦略・組織論系
『従業員』の誕生 ~時代遅れになった経営管理思想~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/3b47570c6eaf0e12ed74bac960e3f2d8

の続き。
今回も参考図書はゲイリー・ハメル『経営の未来』だ。




長いです。
(gooブログの制限ギリ)


◆◆◆◆◆◆



1968年のクリスマス・イブ、アポロ8号の司令船が人工物としては初めて月の軌道を周回した。

地球に向けての帰還飛行中に、地上管制官の幼い息子が父親に尋ねた。

「誰があの宇宙船を動かしているの?」と。

この質問が帰還中のクルーに中継で伝えられると、ビル・アンダース飛行士はこう答えた。

「今はアイザック・ニュートン卿がほとんど動かしていると思うよ。」




実に示唆深い言葉だ。

「誰があなたの会社(組織)を動かしているのですか?」と問われたらなんと答えるだろうか。「CEO」「幹部チーム」「中間管理層の全員」といった答えが思い浮かぶかもしれない。それらの答えは正しいのではあるが、真実のすべてではない。20世紀初頭に「近代」経営管理のルールや慣行を生み出した人びと、当の昔に亡くなった少数の思想家や実務家によって、今現在もほとんど動かされているのだ。

 これらの開祖たちの影響は極めて広く行き渡っているので、経営管理の技術は会社が違ってもごくわずかしか違わない。ほとんどの企業が、ほぼ同じような経営管理の階層を築いているし、似通った管理システムや人事慣行、計画策定プロセスを持ち、似通った報告体系や評価制度に支えられている。CEOが別の会社に移るのがきわめて簡単なのはそのためだ。

 だが、物理学の法則と違って、経営管理の法則は規定のモノでも永遠のモノでもない。そして、それは悪いことでもない。なぜなら、経営管理の仕組みは、今、背負うことを意図されていなかった重荷を背負わされて苦痛にあえいでいるからだ。変化のペースの速さ、束の間で消える優位、既存の技術を駆逐する画期的技術、従来の秩序を破壊する競争相手、細分化された市場、絶大な力を持つ顧客、反逆する株主・・・これら21世紀の挑戦が、世界中の組織の構造上の限界を揺さぶっており、時代についていけないでいる経営管理モデルの限界を顕にしているのである。


■近代経営管理


 経営管理の活気に満ちた革新的な青年期は100年近く前に終わっている。実際、近代経営管理の重要なツールや技法のほとんどは、19世紀の、南北戦争が終わって間もないころに生まれた人々によって発明されたのだ。それらの大胆不敵なパイオニアたちは、規格化された職務マニュアルや作業方法を開発した。生産計画や生産スケジュールの作成手順を生み出した。原価計算や損益分析の複雑な手法をマスターした。例外ベースの報告システムを設け、細かい財務管理の手法を開発した。インセンティブに支えられた報酬体系を編み出し、人事部を創設した。資本予算配分の精巧なツールを生み出し、1930年ごろには事業部制組織の基本構造を築くとともに、ブランド管理の原理を突き止めていた。

 近代経営管理は、その発展の過程で多くの難しい問題をねじ伏せてきた。複雑な作業を小さな反復可能なステップに分解すること、標準的な業務手順に従わせること、コストや利益を1セントに至るまで細かく計算すること、何万人もの社員の活動を調整すること、さらにはグローバル規模で業務をシンクロさせることなどに成功してきた。だが、これらの成功には高い代償が伴った。


■近代経営管理の副作用


 近代経営管理の仕組みは、気ままで独断的で、自由な精神を持つ人間を標準やルールに従わせはするが、それによって莫大な量の想像力と自主性を無駄にする。業務に規律をもたらしはするが、組織の適応力を低下させる。世界中の消費者の購買力は増大させはするが、同時に何百万人もの人々を封建的ともいえる上位下達の組織に隷属させる。おまけに、企業の効率を劇的に高めてきたものの、企業の倫理性を高めてきたという証拠はほとんどないのである。

 近代経営管理は多くのモノをもたらしてきたが、それと引き換えに多くのモノを奪ってきた。そろそろこの取引について考え直してもよいころだろう。


■マネジメント2.0


  「世界で最も高名な経営のエキスパート」「当代随一の戦略の大家」「世界屈指の事業戦略家」そう評されるのがゲイリー・ハメル。彼の名前を知らなくても彼の言葉を知っている人は多いだろう。「コア・コンピタンス経営(Competing for the Future)」がそれだ。2009年には、19世紀の南北戦争の終結からまもない時代に生まれた人々(代表格はフレデリック・テイラーやマックス・ウェーバー)の手によって考案された現代経営手法(マネジメント1.0)と別れを告げるべく「マネジメント2.0」を提唱している。

 彼が『経営の未来 マネジメントをイノベーションせよ』(The Future of Management)で主張するのは、まずイノベーションにはいくつかの種類があるというのだ。「経営管理イノベーション」「戦略イノベーション」「製品/サービス・イノベーション」「業務イノベーション」の4つだ。その中でも、彼は究極の優位を創り出す「経営管理イノベーション」の重要性を力説する。競争優位の劇的かつ長期的な変化を生み出す力が、他のイノベーションよりはるかに大きいというのだ。


■軍事力における持続的優位


 この主張は大げさに聞こえるかもしれないが、軍事力における持続的優位の原因を探求してきた軍事評論家たちの研究結果に支えられている。軍事力の場合にも、マネジメント・イノベーションがカギになるようだ。戦争では、ビジネスの場合と同様、ほとんどの勝利が短期間の一時的なものだ。だが、歴史の血塗られたページには、往々にして兵員や物資の面で不利な状態にあるにも関わらず、常に敵を打ち負かしてきた軍事体制が散見される。容易に想像できるように、これらの事例は、ビジネススクールの教授同様、競争優位の根本原因を明らかにすることに関心がある軍事学者にとって、大いに関心をそそるものだ。一部の軍隊が長期にわたって軍事的優位を保持しているのはなぜなのかと、彼らは考える。

 この問いを前にした時、一般の人は優れた兵器のおかげだと考えるのではないだろうか。主な論拠としては、次のような事実が挙げられるかもしれない。
 
・飛距離が長く、恐れられたイチイの木の長弓。14世紀にエドワード3世の軍隊が、この弓でイングランドの敵に何度も手ひどい打撃を加えた。

・15世紀にイベリア人が生み出した操舵性が高くスピーディなキャラベル船(3本マストの小舟帆船)。ポルトガルとスペインに、世界に跨る帝国を築く上で大きな優位を与えた。

・19世紀中ごろに完成された後装式ニードル銃。プロイセンの歩兵に敵国に対する大きな兵的優位を与えた。

・レーザー誘導方式や衛星誘導方式のミサイル。湾岸戦争とイラク戦争で、連合軍がサダム・フセインの軍事施設を正確に破壊することを可能にした。


 だが、マクレガー・ノックスとウィリアムソン・マーレイが『軍事革命とRMAの戦略史』にまとめているような軍事戦略の歴史を詳しく読んでみると、技術的優位はたいてい短期間で失われていたことがわかる。戦争では、一方が他方の武器を奪ったり、さらにはそれらの武器を製造した人間を捕えたりする。大金を積まれて職人が寝返ることもある。外国のスパイが設計図を手に入れることもあれば、同盟国に武器を売却したところ、その国が後に敵になるということもある。優れた戦時指導者が生み出す戦術的・戦略的優位は、技術的優位よりいくらか長持ちするものの、その差はごくわずかである。成功した作戦や新しい陣形は、たいていすぐに模倣されて効力がなくなってしまう。一度の勝利は、優れた技術や戦術の才や他のいくつもの要因のいずれかで説明できるかもしれないが、何度も繰り返される軍事的成功、戦争の大混乱の中から何度も勝利者として立ち現れる能力は、それらの要因では説明できないのである。

 高度な兵器や優れた指揮官ではないとしたら、では、長期的な軍事的優位を生み出すものは何なのか。ノックスとマーレイは、長期的な優位はたいてい軍事ドクトリンや軍事組織の重要な進歩によるもものだと主張している。歴史上の長らく勝ち続けた軍隊のほとんどが、過去に別れを告げて、兵士を鼓舞し、配属し、訓練し、配備する新しい方法を思い描くことのできた軍隊だった。これらの軍隊は、マネジメントのイノベーターだったのである。
 
 次に挙げる3つの事例は、この重要な点を理解する助けになるだろう。
 (かなり省略版)


(1)イギリス軍がインドで、18世紀半ばから200年後に撤退するまで成功し続けたのは、決して高度な兵器のおかげではなかった。インドの兵器はイギリスの兵器と少なくとも同等の性能を持っていた。現にウェリントン公爵は、1800年にインドに駐留していたとき、現地で製造された大砲の質の高さにいたく感心して、それを自分の砲兵隊で使うことにした。イギリスの東南アジア占領は、主として「連隊制の相対的優位」、組織イノベーションのおかげだったのである。
 
連隊制:
 近世以降の陸軍の部隊編制単位のひとつ。連隊は管理・行政用の単位で、そのまま一つの駐屯地・兵営に相当することが多い。

 王や女王は何千マイルも離れたところにいるのだから、連隊は兵士の忠誠心の身近な対象だった。そのうえ、半永続的な組織である連隊は、厳しい戦闘を通じて得た知識、以前は戦争が終わって軍隊が解散した時点でえてして失われていた知識を、次の軍事作戦に活かす理想的なメカニズムだった。


(2)ナポレオンの軍事作戦は世界中の士官学校で今なお分析されているが、彼の成功は主として軍事ドクトリンのイノベーションのおかげだった。フランス革命以前は、フランス軍は君主、はるか遠くにいる、たいていは士気を鼓舞してはくれない人物のために戦っていた。しかし、ナポレオンは革命後のフランスで、ナショナリズムの熱い残り火を煽って戦闘意欲の猛火に変えることに成功したのである。「フランスの栄光のために」は、封建制度では決して引き出せない勇猛さで市民を戦わせることができたようだ。結果は、プロイセンの軍事学者カール・フォン・クラウゼヴィッツが「国民全体の力に支えられた無敵の存在」と呼んだ協力な軍隊だった。


(3)プロイセン軍は、1806年にナポレオン軍に敗れたのち、やがて世界の大規模軍がこぞって模倣することになる一連の組織イノベーションを行った。一つは、何百年もの伝統に悲壮な決意で別れを告げて、将官の任命を厳密に能力主義による方式に変えたことだ。貴族の出だから昇進できるということは、もうなくなったのである。もう一つの重要なイノベーションは、参謀システムの構築だった。プロイセン軍の改革者ゲハルト・フォン・シャルンホルストは、軍隊が一人か二人の将軍の能力に頼りすぎるのは危険だと考えていた。必要なのは、指揮官に独立した立場からアドバイスを提供できる、専門的訓練を受けた、並はずれて優秀な将校の集団だった。こうして、事実上すべての近代企業で実施されてきた組織原理、「現場」と「本部」の概念が生まれたのである。



■余談:トヨタの優位を理解するのに20年もかかったアメリカ自動車産業


 アメリカの自動車メーカーは、20年も努力してきたのに、トヨタの超効率的な製造システムを真似することに、なぜいまだに成功しないのだろうか。とあるメーカーの上級幹部グループの発言からそれを探ってみる。

 財務部門のトップが「わが社はトヨタに関する20回目のベンチマーキング調査を終えたところだ」と言った。そこでこう問うてみた。「19年目にも18年目にも17年目にも、その前にもずっと学ばなかったけれど、20年目には学べるということがあるのですか?」と。気まずい沈黙の後、一人の幹部が口を開いてこう説明した。

 20年前、わが社はトヨタについて研究するために若手社員を日本に派遣するようになった。帰国した彼らはトヨタがどれほど素晴らしいかを説明したが、我々はそれを信じなかった。彼らはゼロを一つどこかに置き忘れてきたんだろうと思った。1台あたりの欠陥がそんなにすくないなんて、あるいはそんなに少ない作業時間しかかからないなんて、それで車が作れるはずがないと、決めつけていたわけだ。トヨタが多くの重要分野で本当にわが社より優れているのだと認めるまでに5年かかった。

 次の5年は、トヨタの優位はすべて文化によるものだと思い込もうとした。「和」や「根回し」など、トヨタが社員との間に築いている日本独自の協力と協議の精神によるものだとね。アメリカの労働者はこうした家族主義的な慣行は決して受け入れないはずだと、我々は思っていた。
 
 その後、周知の通りトヨタはアメリカに工場を作り始め、アメリカでも日本と同じ結果を出した。そのため、文化云々という我々の言い訳は通用しなくなった。次の5年間は、我々はトヨタの製造プロセスに注目した。ファクトリー・オートメーション、サプライヤーとの関係、ジャストインタイム・システム、とにかく、あらゆるものを研究した。だが、徹底的なベンチマーキングを行ったにも関わらず、わが社の工場では同じ結果は得られそうになかった。トヨタの成功は社員の能力とリーダーの責任についての全く別の原理に支えられているのだということを、我々がようやく自分自身に認めたのは、ここ5年間のことなのだ。

 驚いたことに、アメリカの自動車メーカーがトヨタの優位を理解するには、20年近い歳月がかかったのだ。欧米の自動車メーカーとは異なり、トヨタは現場の社員が、魂のない製造マシンの歯車以上になれることを信じていた。適切なツールと訓練を与えられれば、問題解決者やイノベーターや変革推進者になれることを信じていた。トヨタは労働者の中に、終わりのないハイペースの業務改善に必要な英知を見て取っていたのである。それに対しアメリカの自動車メーカーは、現場の社員がなしうる貢献を見くびるきらいがあり、品質や効率の向上は本社の専門家の仕事としていた。ヘンリー・フォードはかつて「手を貸せと言ったら、どうしていつも頭もついてくるんだ」と、不満げに言ったとされるが、現場労働者の知性を侮る姿勢はそれほどひどかったのだ。

※トヨタは1年間に50万件を超える社員からの改善案を受け取っている


■未来を変えるための話をはじめよう


 まず、変革とか、イノベーションとか、社員参加といった大きな問題を一つ選び、それから10人ないし20人の同僚を集める。集まった同僚に自分が選んだ問題を示し、各人にその問題に関する正しい考えだと思うものを10個、書き出してもらうことにする。ポストイットを使って、1枚に1つずつ書き記してもらう。それから、集めたポストイットを壁に貼って、似通った考えをグループにまとめていく。どのグループにも入らないと思われる考えは、当面、脇に置いておく。最も深く吟味する必要があるのは、多くの人が正しいと思っている考えだ。これらの考えは異論の余地がないように見えるので、検証されることはめったいないからだ。

 あなたが選んだ問題が適応力だと仮定してみよう。あなたは同僚たちに、大企業における変革について、正しいと思う考えを10個、書き出してくれと頼んだ。集めたポストイットをグループ分けしてみると、多くの人が正しいと思っている考えのトップ3は次のモノだ。

1.根本的な変革を起こすためには危機が必要だ
2.変革を推進するためには強力なリーダーが必要である
3.変革はトップから始まる

 あなたはこれらの考えにどのように疑問を投げかけるか。悩ましい問題は、それらが経験的に正しいように思われることだ。大企業を変革するためには通常は確かに危機が必要だし、成功する変革プログラムはたいていトップから、通常は新任のCEOによって推進される。これらが正しいということは誰もが知っている。これらは事実であって、思い込みではない。だから、あなたが同僚たちにこれらの金言は本当に正しいのかと尋ねたら、彼らはずいぶんと戸惑うだろう。重力は本当にあるのか、それともあるとされているだけなのか考えてくれと言われた気分になるだろう。

 従来の思考の束縛から逃れるためには、世界は現在こうであるという考えと、世界は現在こうであり、永遠にこうであるはずだという考えを区別できなければならない。1900年に人間は空を飛べないというのは正しかったが、人間が空を飛ぶことはないと言ったとしたら、それは間違いだったということになる。人類をあれほど長い間、地上に縛り付けていたのは、重力の法則ではなく、才能の才の不足だった。経営管理についても同じことが言えるのだ。

 経営管理慣行で自然の法則に根差しているものはほとんどない。管理職は人間が本来持っているあらゆる行動本能と闘わなければならないが、これは多くの人が思うほど大きな束縛ではない。近代産業が農民や物売りや家事奉公人などをどのようにして従業員に変えたかを思い起こしてみよう。変革のペースと範囲を制限しているのは、人間の本来の性質ではなく、我々の未検証の考えなのだ。これらのことを説明したら、次に進んでもよいだろう。


■さて話はクライマックスへ


「では、根本的な変革を起こすには、なぜ危機が必要なのか。タイムリーな適応を阻む障害は何なのか」と、尋ねよう。

一人が思い切って口を開いて「たいてい現実否認が元凶だ」と言う。

この発言に何人かが「その通りだ」とうなずく。

別のメンバーが割って入って「現実否認は人間の本性だ。我々の誰もがときに現実逃避をすることがある」と言う。

これに対しても同意の声があがる。「それで決まりだ」と。5,6人がほっとしたように椅子の背にもたれかかる。

「そう、それが原因だよ。人間は破壊的な変化に怖気づく。それだけのことだよ」と。



だが、そうではない。

大きな視野でみると、決してそれだけのことではない。正統派理論を解体する作業が本当にはじまるのはここからだ。


次の質問は、多くの人々にとって意外なものになる。

「少量の汚染されたホウレン草から大腸菌が爆発的に広がるように、現実否認は伝染するのだろうか。自己欺瞞のウィルスは社内のすべての人間にとりつくのだろうか。それとも通常は、感染せずにすむ人間、現状しがみつくことの危険性を熟知している人間が何人かいるのだろうか」

これを聞いた人は考え始め、しばらくすると誰かが突然声を上げる。

「そうだよ。通常は危機の前兆に気づく人間がいるんだ。たいてい何人もね。だけど、誰も彼らの言うことに耳を傾けないんだ。」

まもなく、耳を傾けられなかった預言者について、また避けられていたはずなのに避けられなかった惨事について、口々に語りだす。


議論が熱を帯びてくるにつれて、参加者が主導権を握り、彼ら自身の問いを投げかけるようになる。

「預言者がたいてい殉教者になるのはなぜなのか」「未来への改革の志を持つ者たちが、経営陣が行動を起こすのをただ待っていなければいけないのはなぜなのか」「将来ビジョンを持つ人間が、新しいビジネス・モデルを生み出すために行動していなければいけない時に、まだ提案書やブログを書いているのはなぜなのか」というような問いである。



みんなに「なぜ」と問い続けたら、彼らはやがて、大きな変革のためには危機が必要である本当の理由に辿り着くだろう。



(ここから先の答えは自分で出すのだ。さて、あなたの答えは?)


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14 コメント

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自信はありませんが (亜美菜推し)
2012-07-02 19:35:19
なぜかわかりませんが、「炭鉱のカナリア」や「狼少年」の話と類似点があるのではという印象を受けました。

主様の問いを勝手に変換させていただくと、何故「炭鉱のカナリア」が変革(ガス事故予防)のために危機(ガス事故)を結果的に求めてしまうのか?
というすごい逆説的な問いだなと思いました。

返信する
Unknown (ムー)
2012-07-02 23:53:31
詳しい話はきちんと読んで見ないと言えませんが、イノベーションの分類から長期の競争優位との関係が論理の飛躍がありますね。イノベーションには種類があるのはたしかで、日本語の技術革新では製品へのイノベーションのイメージが付きやす過ぎると思っています。しかし、なにが最も重要かについては一定のロジックが必要です。どうもそこが抜けているように感じます。

一方で製品に関するイノベーション以外は非常に分かりづらい。それが組織体系によるものなのか、統治のやり方なのか、たんに魅力的な誰かがいるためなのか。数値が使えない場合が多く説得力にかけるのです。そのせいもあってか、イノベーションの研究は製品に関わることが多いようですね。そういう立場に立つとマネジメントのイノベーションを認めつつも、それらは製品に関するイノベーションを支えるものとする人が多い印象があります。
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それでも人間に判断を委ねるべきなのか (advanced_future)
2012-07-03 10:20:01
>亜美菜推しさん
コメントありがとうございます。

>炭鉱のカナリア

なるほど。
「炭鉱のカナリア」の話は絶妙ですね。
仰りたいことはわかる気がします。

「炭鉱のカナリア」で喩えるのはかなり高度なテクニックが必要だと思うのですが、私の考えを述べることに挑戦してみます。

カナリアがガスを検知して危機を知らせなければならないのは、人間にはガスを検知することができないからです。
そして、人間はカナリアがガスを検知してくれることを期待しています。
(ガスを検知するとカナリアがおかしくなる)

しかし、「カナリアがガスを検知した」と判断するのは人間です。
仮に、カナリアのガスの検知方法が非常にわかりにくい(明らかにそれとわからない)場合、「何かカナリアが変だな」と思っても、「でもまだ大丈夫か」などといって人間は判断を誤ってしまう可能性があります。

これが私の提起した問題です。

もしカナリアにガス検知能力と判断能力があったとしても、それでもカナリアは判断を人間に委ねるべきなのか?

だとしたら、それはなぜ?

ということです。
返信する
結果としてのイノベーション論 (advanced_future)
2012-07-03 10:41:05
>ムーさん
コメントありがとうございます。


>イノベーションの分類から長期の競争優位との関係が論理の飛躍

なぜなら、省略しているからです(笑)
適切なご指摘だと思います。
ありがとうございます。

どこまで書くかという問題と、あとは文字数の問題もあります。
論理的整合性を重視するか、お話としての面白さや読みやすさを重視するか、バランスの難しいところでありますが、当Blogの想定読者層を鑑みてその都度配分を決めています。
(学術的な内容を主張したいというよりも、学術的な見識を巧く使いながら自分の主張したいことを書くという感じでしょうか。)

まぁしかし、私のまとめ方が下手という可能性は多いにあることは否定しません(汗)


>数値が使えない場合が多く説得力にかける

宇宙の究極理論が解明されない限り、数値を使うことは不可能に近いと思います。
実際、多くの論文でも事例ベースの分析にとどまるとおもいます。
(人間の思考すら十分に解析できない現在の人類には見果てぬ夢のような話かもしれませんね。)

例えば、ジェームズ・C・コリンズは『ビジョナリー・カンパニー』の中で、ビジョナリー・カンパニーにまつわる様々な指標を分析しても「共通点を見つけることはできなかった。」と結論づけています。(「ただ一つだけ共通点がある。理念があることである。」と重要なことを述べていますね。)


>マネジメントのイノベーションを認めつつも、それらは製品に関するイノベーションを支えるものとする人が多い印象

ただ、その製品に関するイノベーションを生み続ける組織と、そうでない組織があることもまた事実であると思います。
また、それは理論で説明することは難しくても、人間ならなんとなくわかることであることが多いです。

それは何なのかを突き詰めていくと、論理的な話ではなく観念的な話になっていきます。
人間が論理的かつ観念的な生き物だからです。

それが多くの人がマネジメント・イノベーションを遠ざける理由になっているのもまた事実ですね。



実のところ便宜上「イノベーション」という言葉を使っておりますが、「イノベーション」は結果論だと思うのです。
それをイノベーションと名付けるかどうかの問題で、事前のものとしてイノベーションを起こそうと思って努力するのは誤りだと個人的には思います。
顧客価値を追求することが、結果としてイノベーションになるのだと考えます。
このあたりは、コンテキストを共有していないと説明が難しいところですが・・


田野しいやつらが引き起こす創造的摩擦 ~イノベーションのジレンマを超えるバリュープロポジション~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/cfdd89f383a05dfda9d5ac8a934d4b7c
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Unknown (ムー)
2012-07-03 15:23:39
>理論で説明することは難しくても、人間ならなんとなくわかることであることが多い。

個人的な考えとしてこの考えが最もマネジメントについての研究を厄介としているところだと思います。

まず私の経営学に関する考えを述べておきます。経営について100必要なことがあるとすると、30は理論的に説明でき、70は理論では説明できない範囲のことです。これは個別の要件や外部性のともなう問題は常に発生するからです。つまり、学問的にあるいは共通要件として扱うことができるのはほんの少しで、間違っていることを指摘できるようになるまでが限界だと思っています。

翻って感覚的にわかるといった際、そのことがこの理論としてつまり共通項としてつかえることなのか、そうでないのか判別がつかないという点に問題があります。つまり、応用性がないのです。読み物として面白いものは多いのですが、いざ実用するとなると実用性に欠けることになってしまいます。そのため、ブルーオーシャン戦略・オープンイノベーション等つぎつぎと新しい言葉が生まれてしまうのです。たとえば、先行優位の是非については前々から考えられていた問題なのに、ブルーオーシャンと名前がつけられています。

さらに、究極的には何をもって優れた経営というかという哲学的な要素もかかわってきてしまうのも難しくしている要因かもしれません。たとえば生産性高いと評価されている企業であったとしても、サービス残業が当たり前の労働基準法を違反していたとしたらどうでしょうか。労働基準法違反について外部からは分からないので、他に要因を探ることになります。結果として外から見るとマネジメントが優れており、従業員のやる気が違うという風に見えてしまうかもしれません。(一種の風刺なので整合性は薄いのですが)

>顧客価値
この言葉も厄介な言葉ですよね。「マーケティングマイオピア」が有名ですが、こうなると定義付けをどうするかでいくらでも変わってしまうのではないかという気がします。

個人的には論理的裏付けもなしに学問っぽくしている経営の考えは好きになれませんね。限界を理解したうえでどう取り組むのか、その足跡が聞こえるものでないと、居酒屋で酔っ払いが言っている愚痴と実は大差ないのではないかと思えます。
返信する
経営学って何? (亜美菜推し)
2012-07-03 17:32:05
なんかすごい難しい話に見えてしまいます。
経営学をかじっていない学生ならなおさら・・
初歩的ですいませんが、いくつか疑問点があるので質問させていただきます。

① 経営学の学問としての目的は一体何か?
(例えば、生物学の目的は無生物から人工的に生物をつくること)

② いわゆる経営理論は一体何に立脚しているのか?(法学、経済学、心理学、哲学・・・)

このような疑問が湧いたのは、主様とムー様の間に経営学の捉え方のズレがあると感じましたからです。(あって当たり前ですが)

このズレが一体何によるのか興味があります。単なる個人の考えのちがいなのか、経営学特有のものなのか・・・

乱文失礼しました。
返信する
なかなかいい話になってきました。 (advanced_future)
2012-07-03 19:51:37
>ムーさん
コメントありがとうございます。

なかなか深い議論になってきましたね!
ムーさんお詳しいな~。
では、私の意見を述べます。


>経営について100必要なことがあるとすると、30は理論的に説明でき、70は理論では説明できない範囲のことです。

仰る通りだと思います。
私も同じ想いです。


>応用性がない

これも仰る通りです。
しかし、それは組織の能力を裏付けるために必要不可欠なものでもあります。
「模倣困難性」は競争優位を維持するための重要な要素だからです。
そして、その模倣困難性はある一つの要因によって生まれるのではなく、システム全体で成立するものであることが多いです。
マイケル・E・ポーターのバリューチェーン(だいぶ意訳解釈してますが)しかり、最近なら楠木建さんの『ストーリーとしての競争戦略』しかりです。
(このあたりはシステム論的な話になってしまいますが)

哲学的には、要素還元論からオープンシステムへの移行が起きていると思います。

ビジネス生態系全体(システム全体)を理解することは人間には不可能でありますから、何らかの形で論理の単純化をしなければなりません。
そして、その単純化がうまくはまれば、ある程度実用性のある理論だと言えるし、失敗すればベストプラクティス論の落とし穴にはまったと言われるわけです。

物理学のような理論の構築は非常に難しいと思いますが、ある程度に、実用的なレベルに戦略の精度を上げていくことはできると思います。
(戦略家の出来が闘いの勝敗を大きく左右することは古今東西変わらないと思います。)
ただし、理論通りいくことは滅多になく、ほとんどは失敗を繰り返しながら叩き上げていくことによって成功を勝ち取ることになります。
(叩き上げのプロセスだとか、アジャイルだとかイテレイティブと言われるものですね)
ジョン・マリンズとランディコミサーの『プランB 破壊的イノベーションの法則』なんかもこの手の話になっています。
(最初からうまくいくやつなんていないよという話)


いろいろ述べておいて何ですが、最後はセンスの問題だと思うのです。
「センス」で説明する何かなのですが、人間が無意識的に行っている複雑な計算の正体が何かわかっていないので、それしか申し上げられません。

誤解を招かないために念のために言っておきますが、総じてムーさんの仰ることに同意かつ踏まえて、それを前提としてさらにという感じで意見を述べています。


>究極的には何をもって優れた経営というかという哲学的な要素もかかわってきてしまう

幸せに答えがないように、理想の経営にも答えがないように思います。
ただ、マズローの欲求段階説や「衣食住足りて礼節を知る」という言葉があるように、最低限満たしておくべき要件というのはあってしかるべきだと思います。
それが「持続的な利益」ですね。
(持続性のない短期的な利益を目的としてはならないと考えています。)


>マーケティングマイオピア

私の「顧客価値」の捉え方について説明が足りていませんでした。
「顧客価値」は永遠に再定義・再構成するものだと考えています。
視点は常にアップデートして研ぎ澄ましていくものだと思います。


>論理的裏付けもなしに学問っぽくしている経営の考え

私には、経営学者を擁護する気はないのですが、たぶん誤解もあると思うのです。
学問っぽくしている人もいるかもしれませんが、ほとんどの人が限界を受け入れていると思います。
経営学者が「私は学者」だと言っていたら、説得力もないですし。
単純に知的探究心と、人の役に立ちたいと言う想いが中心ではないかと思いますです。



これまでのやりとりを通じて、ムーさんと私との間に基本的なところに関する認識の差異はあまりないと思いました。
ただ、捉え方が若干違うのかなという感じがします。
可能性を信じているか、信じていないかの違いですね。
返信する
違いはないと思います。 (advanced_future)
2012-07-03 20:10:08
>亜美菜推しさん
コメントありがとうございます。

ムーさんへの返信で書いたのですが、私は、基本的にムーさんと私の間に差異はないと思っています。
ムーさんの指摘については理解しているつもりでして、実は日常的に批判を受けている内容でもあります。
(念のため言っておきますが私は学者ではありません。ただその知識を基にコトを進めようとしていろんな壁にぶつかっている状況です。)

ただ仰る通り、捉え方に違いがると思います。
どちらが経営学を信じているかの違いです。



>① 経営学の学問としての目的は一体何か?

私が説明してよい内容の質問なのかわかりませんが、私の意見を述べたいと思います。

応えは人によって変わると思います。
競争戦略論の中では「持続的な利益」と言われることが多いように思います。
組織論的にも様々な考え方がありますが、たとえば「従業員満足度」や「モチベーション」が生産性に与える影響が高いことから、そのことを目的とするものもあります。

著名な経営学者であるP.F.ドラッカーは「企業の目的の定義は1つしかない。それは顧客を創造することである。」「イノベーションとは、新しい顧客満足を生み出すことである。」と言っています。

私個人としてはドラッカーと同じで「顧客価値の創造」としています。
なぜなら「顧客価値」のない企業活動は持続的には存続できないと考えるからです。
社会価値、株主価値、従業員価値、経済価値、あらゆるものが顧客価値なしでは存在できないと私は考えます。


>② いわゆる経営理論は一体何に立脚しているのか?(法学、経済学、心理学、哲学・・・)

これは専門家に聞けば気の利いた答えを出してくれると思いますが、ここでも私の意見を述べたいと思います。

ズルい回答かもしれませんが、私は「あらゆるものに立脚している」と答えたいです。
「利用できるものは何でも利用する」これが基本だと思っています。

「科学じゃない」と批判されますが、私は経営学が科学である必要があるとは思っていません。
そうではなく利用できるものなら科学でも疑似科学でも利用するというのが経営学だと思います。
なぜなら、確かなものも未来を約束してくれるものもない中で、それでも走り続ける人々を補佐するものが経営学だと思うからです。
この狡賢さが嫌われる原因なのかもしれません。
学者ではない私がこのようなことを言ってもどうしようもないですが、学問的地位など必要ないというのが私の立場です。
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Unknown (Unknown)
2012-07-04 01:15:51
おっしゃる通り、経営学について同じようにとらえていてそれをどうするかによって生まれている違いですね。私は経営学、特にイノベーションを中心とした経営戦略について学んでいたので、学問サイドに立脚している点が近いと思います。
つまり、社会科学の一つである経営学という学問である以上、一定の論理がある必要があるという立場です。そして、それは理論として応用性があるものが望ましいとしています。それこそが社会科学の価値だと思っているわけです。

したがって、ある素晴らしい企業があり、マネジメントが優れているという風に書いてあったとしましょう。なるほどAがBとなりCとなるとかいてあり一見論理性に富んでいます。しかし、いざ応用しようと議論していくと、第一にそのまま応用してどこでも成功するのか、第二に成否に分かれるのならその原因は何なのかという限界にあたってしまうわけです。
もちろんこれは学問によっている考えで社会人として働いている以上はそんな風に確実性にとらわれる必要はないと思います。とんでもないことにならないように注意しながら、とりあえず試してみてあうあわないはそれから試行錯誤を繰り返せばよい。どうせ常に悩んでいるのだから選択肢として行動できるようにすればよい、というのは理にかなっています。

もしかしたら経営学と経営哲学が混ざった形で経営学としてとらえられている点に不満があるのかもしれません。
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名前が (ムー)
2012-07-04 01:48:55
↑のUNKNOWNですがムーです。名前を書き忘れていました。それに文章も汚いですね。ところどころとびとび。
要約すると、経営学を社会科学としてとらえているという一点に尽きるのでしょうか。学問として信じているからこそ、「後はお前らがんばれ」的な結論になってしまうのがどうも嫌なのです。もちろん限界があることも感じているのですが・・・。
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