2017年11月
1868年(慶応4年)2月15日 泉州堺事件
当日、堺港に停泊するフランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、港内の測量を行った。此の間、士官以下数十名のフランス水兵が
上陸し大坂の町を散策、遊びに興じた。夕刻、近隣住民の苦情を受け当地警護を預かる土佐藩八番隊警備隊 長箕浦元章(猪之吉)、
六番隊警備隊長 西村氏同(佐平次)らは、仏水兵に帰艦するよう命じたが言葉が通じず土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとした。
酒の勢いも手伝って仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪った挙句、逃亡しようとしたため土佐藩兵側は咄嗟に発砲。双方銃撃戦の末、仏水兵を射殺または、
海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。遺体は、16日にはフランス側に引き渡しを終えたが、事件の詳細な原因は、相応、食い違っており、
フランス側は何もせぬのに突如銃撃を受けたと主張した。死亡した仏水兵は11名。いずれも20代の若者であった。
『堺事件 ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)』
駐日仏公使レオン・ロッシュ以下、フランス軍艦の艦長、アベル・デュプティ=トゥアールデュプレクス等は、
殺害された仏水兵11名を、駐日イギリス公使ハリー・パークスのほか、オランダ公使ら在阪外交官
立会いのもとに神戸居留地外人墓地に埋葬した。レオン・ラッシュは、此の件において相応の復讐を誓った。
死亡した仏水兵は11名。いずれも20代の若者であった。
シャルル・P・アンドレ・M・ギヨン(第一級見習士官、22歳)
ガブリエル・マリ・ルムール(第一級一等水兵、28歳)
ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ(機関運転手、24歳)
オーギュスト・ルイ・ランジュネ(三等水兵、22歳)
ラザル・マルク・ボベス(三等水兵、22歳)
ピエール・マリ・モデスト(ニ等水兵、27歳)
アルセーヌ・フロミロン・ユメ(三等水兵、23歳)
ジャン・マチュラン・ヌアール(三等水兵、22歳)
ジャック・ラヴィ(三等水兵、22歳)
ヴァンサン・ブラール(三等水兵、20歳)
フランソア・デジレ・コンデット(水兵希望、23歳)
箕浦猪之吉率いる土佐藩八番隊は、鳥羽・伏見の戦い直後の1月7日午後2時に京を出立、淀川を下り淀城に立ち寄り、その足で
仁和寺宮(現 寝屋川市)の警護を予定であったが、当地の警護には既に薩摩藩兵に代わっており、八番隊は当初の目的を失った。
1月11日、八番隊の新たな任務が堺町内の警護に決まった。箕浦猪之吉率いる土佐藩八番隊は、この時点で運命が決まったんだね。
後、箕浦猪之吉の応援要請を受け、京から西村佐平次率いる六番隊が到着したのは2月8日である。彼らも同じく悪い籤を引いたことになる。
当時の堺は、幕府方、大坂町奉行の支配下にあったが、1月7日の大坂開城で大坂町奉行は事実上崩壊し、旧堺奉行所に駐在していた
同心たちも逃亡して無法化の状態だった。急遽、治安担当を勤王がたの土佐藩が受け持ち、其の八番隊、六番隊の土佐藩士が任にあたった。
鳥羽・伏見の戦い(明治元年/慶応4年1月3日 ~6日)(1968年1月27日 ~30日)の直後とあるから、
此の時点で幕府会津藩や新選組は戦に敗れ、京、大坂を捨て、海路、江戸に落ちのびた。
そして、慶応4年2月15日 フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」から上陸した乗組員らと交戦事件が発生した。
『駐日仏公使 レオン・ロッシュ(1865年頃)』
事件発生の報は翌2月16日の朝には京に届いた。山内容堂は、2月19日早朝、たまたま京の土佐藩邸に滞在していた
英公使館員アルジャーノン・ミットフォードに藩士処罰の意向を仏公使に伝えるように依頼した。
この伝言は淀川を下り夕刻には大坂へ戻ったミットフォードにより、兵庫に滞在する仏公使ロッシュに伝えられた。
ロッシュは、同じく2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。
当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国 摂津国の間にあった。
一方、明治政府の主力軍は、戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦、外国と戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。
明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと
発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、
この状況下、日本側としては無念極まりない要求も新政府と土佐藩は受け入れざるを得なかったものとされる。
『大坂長堀の藩邸(大阪市西区)の稲荷神社』
『『大坂長堀の藩邸(大阪市西区)の稲荷神社』 所在 大阪府大阪市西区北堀江4-9
事件の翌日、任を解かれた土佐藩の6番、8番両隊の73人は、18日に大坂長堀の藩邸(大阪市西区)で藩の警察機関よる聴取を受けた。
当時の堺は外国人遊歩地域として認められていたため無断上陸ということはあり得ず、事件での水兵による土佐藩士への発砲の記録はない。
つまり、土佐6番、8番隊の一方的な銃撃とされた。
従って、賠償金として15万ドル(7~8億円相当)の支払いや発砲にかかわった全員の処刑などを求めてきたんだね。
家老の深尾鼎(かなえ)が見守る中で別室に1人ずつ呼び出し事件当日の射撃の有無を確認したところ、
「発砲した」と供述した隊員は29名にのぼった。詮議でお構いなしとなった他の44人の隊員は土佐に帰藩手配となった。
大坂に留め置かれた29名の武士は、22日、藩主の申しつけとして「朝廷から20名の下手人を差し出すよう」下知があったことを伝えた。
ことの成り行きから隊士たちは、此の事件の責任を取らされて切腹の覚悟の程、腹に決めたようだね。
家老の深尾鼎(かなえ)は、29名の者から20名を選ばねばならず、誰を下手人にしてよいものか解らず苦渋の末、
藩邸の稲荷神社に参り籤(くじ)で決めるほかないと決めた。当時は、判断迷える事案では、此の籤引きをよく用いたようだね。
すでに死罪が決まっている8番隊隊長 箕浦猪之吉、6番隊隊長 西村左平次と小頭2名の計4名以外の
16人の生死を稲荷神社での籤引(くじび)きで25人のうちから選んで決めることになった。
土佐稲荷神社(現在の大阪市立中央図書館の北西隣)は、18世紀初頭、伏見稲荷から神を勧請して藩の蔵屋敷に祭ったのを始まりとする、
まさに藩の守護神といえる存在だった。社殿前に集まった25名は、下横目(役名)の呼び出しに1人ずつ前に出て
大目付の小南五郎右衛門が持つ籤を開いては下横目に渡すといった行為を繰り返して、神なる籤は16名を決めた。
神社は一般にも開放されていたため参道を藩士らが取り囲む中で行われた。厳粛に悲愴感を漂わして在ったのだろうね?
『妙國寺』 所在 大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4
『妙國寺』 所在 大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4
そして箕浦猪之吉ら20名は、翌23日、事件現場近くの日蓮宗寺院、妙國寺にて切腹することと相成った。
23日は晴天だった。20名は藩から出された酒を振舞われた後、用意された駕籠(かご)に乗り込んだ。周囲は、熊本、広島両藩の兵に
護衛されながら堺へ向かった。沿道には、話を聞いて駆けつけた関係者や市民らがいた。大和川を越えて(大和橋の紀州路かな?)
堺に入ると、これまでとは比べようもないほどに多くの人が集まり手を合わせてすすり泣く人もいたとある。
大坂の長堀の土佐藩邸から約8キロの道のりを経て、駕籠は妙國寺の山門前に着いた。現在の山門は寺の北側に建っているが、
当時は寺の南側にあり、門の脇、土塀に沿って20人分の白木の棺おけが一列に並んでいた。
駕籠はそのまま境内へ入り本堂まで進むとようやくとまり20名は駕籠から降り立った。
しばし時間があるということで20名は境内を散策、「死に場所を見ておこう」と中に入ると、山内家の家紋が入った幕に
囲まれた空間の中、四隅に立てた竹ざおと茅葺(かやぶ)きの屋根でできた簡素な建造物が目にとまった。
地面には、粗いムシロが敷かれ上質の白木綿で覆った2枚の畳、更にその上に毛氈(もうせん)が重ねられ、
傍らには人数分の毛氈が積んであった。(毛氈とは獣毛をフェルト状に加工した織物、敷物)
「此処で死ぬのか」 「戦(いくさ)で死にたかったよ」 言葉少なに思いを語る20名だったが、そうしているうちに
処刑は、午(うま)の刻、つまり正午からと告げられた。最期の時がいよいよ迫った。大坂の土佐藩邸から同行してきた熊本、広島両藩の
藩士から 「準備が整いました」と告げられた20名は妙國寺の本堂前の庭に設けられた刑場へ移動した。
ところが、朝のうち晴れていた空が急に雲に覆われると、にわかに雨が降ってきたため、儀式は雨が止むまで待つことになる。
寺の周囲に集まった多くの人たちは慌ただしく動きまわっていたが、既に銃の発砲を自己申告したときから死を覚悟していた20名の
心に乱れはなかった。雨も約二時間程でやみ、再び準備を整えたころには夕刻が迫っていた。
『妙國寺 本堂』 現在
『妙國寺 本堂』 明治後期撮影 1868年慶応4年当時の姿そのままと思われる
そこに名簿を開いた役人から 「箕浦猪之吉」との声が境内に響き渡った。すっと立ち上がり仲間の衆を見ると一礼し、
「世話になった、お先に参る」 静々と座についた箕浦猪之吉。血の色を目立たせないよう黒い羽織と袴(はかま)姿の箕浦の後ろには
介錯人 馬場桃太郎が刀を構えていた。箕浦(みのうら)は右から着物を緩めて目の前の三方(さんぽう)を引き寄せて、
刃先のみを残して奉書紙で巻かれた短刀を逆手に取ると、前で居並び検分する駐日仏公使レオン・ロッシュ以下、フランス軍艦の艦長、
アベル・デュプティ=トゥアールデュプレクス等を鋭い眼光で睨み付け
「フランス人ども聴けっ。己は汝等のためには死なぬ。国のために死ぬる。日本男子の切腹をよく見て置けっ」と一喝。
左手で左脇腹を3度さすったあと、刃(やいば)を深々と突き刺して横一文字に切り裂いた。衣服がみるみるうちに鮮血で染まった。
つづけざまに 「うーんっ」と唸って返す刃で心の下から臍下まで、むっ、むっと切り下げる。苦痛にゆがむ箕浦の形相、
噴き出る汗の滴垂れ落とし歯を食いしばって、短刀を抜き置き、裂けて血を噴く腹に手を入れるや臓物を掴みだして投げたとある。
鬼神の形相でフランス人を睨みつけたところで、介錯人の馬場桃太郎が 「御免っ」とばかりに、一太刀を首に振り落とす。
しかし、馬場も臆したのか打ち損じて斬り口が浅い。 「馬場君っ・・・どうした、静かに遣れっ」 箕浦猪之吉が血達磨なって
必死の思いで馬場に叫ぶ。一瞬、戸惑いを覚えた馬場桃太郎だったが動揺する心を抑え、再び血だらけのうなじに目がけて刀を振り落とす。
今度は深く入ったが、まだ、死にきれない箕浦猪之吉が目の前にいた。そして荒々しい呼吸をする箕浦に3度目の刃を振り下すと
おびただしい鮮血とともに首が落ちて、体は前のめりに倒れた。8番隊隊長 箕浦猪之吉、行年二十五。
6番隊隊長 西村左平次がそれに続き割腹。佐平次、行年二十四。
これ以外にも、深く切り裂いた口から内臓が外に飛び出すなど、すさまじい切腹の連続だったという。
『泉州堺 土佐十一烈士の墓』 切腹で亡くなった11人は妙國寺の向かいの宝珠院に葬られている
『宝珠院』 の近くには今も11人を顕彰する石碑や道標などが残っている
切腹の起源は、平安時代に遡ってあるが、戦国時代、備中高松(赤松)城の戦いからだといわれてる。秀吉勢の水攻めに
籠城戦で戦う敵の毛利方は物資の補給路を断たれて兵糧米に窮していた。秀吉は本能寺の変で急ぎ畿内に戻らねばならず機を見て毛利がたに
同城主 清水宗治の自害にて和睦の条件とした。宗治は兵は痩せ細り籠城で持ち堪える状況ではないことを覚悟し、
『戦国時代、備中高松(赤松)城の戦い』
水上に舟を出し、其の場で腹を切り介錯人に首を刎ねさせた。此れが秀吉ら武将に感銘を与え名誉な死に方と伝わったとある。
江戸時代に入って武士の切腹は作法も確立され定着するが、江戸中期には、切腹の儀式は簡略化され切腹人は短刀の代わりに扇子を用い、
切腹の形に倣い、扇子を手にした時点で介錯人が首を落とす方法が一般的になったらしい。
切腹だけでは、それこそ死ぬほどの激痛に苦しんで、其の上、なかなか死ねないらしいね。
出血多量で早く死ぬには腹部大動脈を断ち切らねばならない。しかし、腹部大動脈は背骨の横ほどに深くあって深切りが必要となる。
中途半端に腸を斬ると即死せず便が漏れ出し腹膜炎、敗血症で悲惨な状態で悶え苦しみのたうつような死に様となるらしい。
『戦国武将 柴田勝家』
介錯人なしで切腹する場合は、或る程度、腹を刺し斬り、抜いて喉にもっていき頸動脈を掻き切る手順を踏む作法をとった。
これならば即死に近い状態で死ねる。戦国時代から江戸初期では、このように自力で切腹した者も多く、なかには、
腹を十文字で切り裂く十文字腹、切り裂いて内臓を掴みだす無念腹なんて、そうそう出来ぬことをやった武士もおったようだね。
そのひとり柴田勝家。織田信長、小田信秀の代から仕えた鬼の柴田と異名をとるほどの武勲誉れ高い戦国武将。
「腹の切りようを見よっ」と左手で背骨側に引き付けて切り、返す刀で心の下から臍下まで切り裂いた十文字腹、更に五臓六腑を
掻き出して無念腹、家臣の中村文荷に首を討つよう頼んだという。中村文荷は勝家の首を刎ね、其の刀で腹を切って死んだ。
秀吉に対する無念やるかたなしの怒りの腹切りだったとある。其れらしい記述が残ってるらしいね。
土佐藩8番隊隊長 箕浦猪之吉は、戦国武士の気骨充分な侍だった。十文字に切り裂き十文字腹、臓物を掻き出し無念腹。
異国のケトウの心胆寒からしめて日本男子此処に在り、侍日本の心意気、大和魂恐るべし。
彼等11人の切腹の模様はフランスの検分役を務めた者が、克明に記したものが残っているという。
『戊辰戦争の頃の薩摩藩士 当時の風体が参考になる』
次から次へと残酷この上ない切腹を見なければならないフランス政府関係者も戦慄に震え顔は青ざめていた。
そして12人目の橋詰愛平が刃を腹に当てようとしたところで、「しばし」の声がかかった。
政府関係者とともに立ち会ったフランス軍艦の艦長、アベル・デュプティ=トゥアールが中止を要請したのだ。
この時点で切腹したのは11人。つまり、今回の発砲事件で亡くなったフランス水兵と同数になったところでの要請だった。
「喧嘩(けんか)両成敗」とみたのだろうか。
艦長の武人としての配慮を感じさせなくもないが、酷い切腹の連続にフランス公使がいたたまれず席を立った。
切腹で亡くなった11人は妙國寺の向かいの宝珠院に葬られている。
今も箕浦猪之吉を先頭に一列に並ぶ墓石に刻まれた「慶應四戊辰年二月廿三日」という年月日が生々しい。
一方、生き残った橋詰ら9人は死ぬ覚悟だっただけに、突然の中止は、梯子を外されたような気分だったに違いない。
訳も分からず関係者を問い詰めもしたが、いろんな人の説得で熊本、広島両藩が預かったのち、土佐に戻ることになった。
ただ橋詰は、翌25日、舌をかんで自殺を図ったが傷は浅く大坂の藩邸で医師の手当てを受けている。橋詰は相当に悔しかったのだろう。
明治10(1877)年に死去するまで11人の墓を守り続ける。そして死後は11人の墓の末席に埋葬された。
死刑となった顔ぶれは以下の二十名である。
箕浦猪之吉元章(25歳)
西村佐平次氏同(24歳)
池上弥三吉光則(38歳)
大石甚吉良信(35歳)
杉本広五郎義長(34歳)
勝賀瀬三六稠迅(28歳)
山本哲助利雄(28歳)
森本茂吉重政(39歳)
北代堅助正勝(36歳)
稲田貫之丞楯成(28歳)
柳瀬常七義好(26歳)
以上が切腹した(括弧内は没時の年齢)
橋詰愛平有道
川谷銀太郎重政(恩赦直前の1868年9月5日病死)
金田時治直政
竹内民五郎都栄
岡崎栄兵衛重明
土居八之助盛義
横田辰五郎正輝
垣内徳太郎義行
武内弥三郎栄久
川谷以外は恩赦八士と呼ばれた。
『妙国寺にある泉州堺 土佐十一烈士の供養塔』
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