<国境なければ、世界が滅ぶ>
ワールド・ガヴァメント(世界政府)が存在しないのは何故か?
世界の人口があまりに大量であるのみまらず、世界の文化があまりに多様だからだ…。
加えて、どんなステート(政府)も既存のステート(状態)を確認することからそう遠く離れることができず、そしてステータス・クウォー(現状)は何千年の昔から、ネーション(国民性)を区別することによって成り立ってきたのである。
他方、いかなる国家も、これまた何千年の昔から、インター・ナショナリティ(国際性)を帯びている。
ネーション・ステート(国家)とは、イントラ・ナショナリティ(国内性)と国際性とのあいだの、状況の如何によって伸びたり縮んだりする、ボーダーライン(境界線=国境)のことなのである。
つまり、国内社会へ向けて半ば閉じられつつも、国際社会へ向けて半ば開かれているおぼろげな境界線、それが国家を形成する。
その意味で、鎖国か開国かと問う二者択一くらい国家論に適さない話法もない…。
前世紀末から、各国の経済現象と文化現象は、グローバリズムから身を守るのに不注意であったので、資本主義がグローバリズムの賭場に息せき切って赴いたので、大混乱に見舞われている。
また、デモクラティズム(民主『主義』)というグローバルな普及力をもってイデオロギーに身を譲りすぎたので、大混乱におちいっている…。
このような秩序崩壊から立ち直る方途がありとせば、それは「国家の保護。」という道のほかには考えられないという一事である。
国家保護の路線は、国家間の葛藤を否応もなく強める…。
それを過剰に強めるのは「国粋主義。」という名の誤謬であろうが、国家保護をさらに弱めて「コスモポリタニズム。」(世界連邦主義)の夢想に耽るのは、単なる迷妄である。
リスク(危険)とクライシス(危機)の「小さくない。」国家保護に、長期戦略のグラデュアリズム(漸進主義)で歩を進めていくこと、それ以外に国家をめぐる実践的課題はありそうにない。
そこで引き受けざるを得ない国際的葛藤は、つねにディスピューと(武力衝突に至る前の深刻な紛争)の様相を呈するに違いない…。
つまり、「戦争の可能性。」といった雰囲気からどんな国家も逃れられないのである。
そのことを、ニッポンという国家を特殊な例外として、各国は、少なくともその指導層は、少しずつ気づいているようにみえる…。
ニッポンは、それに気づいて恐怖に戦(おのの)くくらいなら国家意識の「昏睡状態。」をいっそう深めて『眠り』こけたまま死ぬのが『幸せ』、と算段しているのかもしれない。
以上
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