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 実存(エクジステンス):チャンネル桜・瓦版、第3次世界大戦は本当に起こるのか?

2015-03-28 20:26:32 | 哲学

   <学問(6)。実存(エクジステンス)>

  ◇、自分がいかなる『根拠』で、存在しているか?を問うということ

  人間の現実的な存在は、日常生活の「仕組み。」につながれており、社会の『制度』に制約されており、時代のイデオロギー(『観念』体系)に影響されている。

  それは実際的で、硬直的で、安定的な心身の在り方である。

  その在り方に距離をおいて、つまり既成のものが「立脚(ジステーレ)しているところの外(エクス)へ。」出ることによって、できるだけ虚心坦懐に自分自身を「眺めて。」みれば、そこに何が見えてくるか?

  既存の仕組み・制度・体系に閉じ込められていた自分の在り方の限界、その在り方における自分の感性や理性の構造、それらの仕組み・制度・体系の抱えている危機、その危機に呼応して生じるであろう自分の『構造』の危機、とりわけ『死』を予期せざるを得ないという不安の意識において(意義を成り立たせている)言葉の意味に訪れる危機、「その危機を乗り越えよう。」とする際に浮かんでくるであろう物事の『本質』にかんする直感や『歴史』の伝統にかんする思念や超越、『神仏』にかんする良心の働き、そうした『実存』(エクジステンス)が自分という『主体』の奥底にみえてくる。

  つまりエクジステンス(実存)の(思想を構造化するものとしての)哲学は、パスカル・キルケゴール、ニーチェ、ディルタイ、フッサール、ヤスパース、ハイデガーといった(それぞれ微妙に変異した)系譜において、「合理主義。」という近代に主流の哲学を、排斥するものではなく、その「前提・枠組み・方向。」を『問う』という形で、解析しつつ解体せんとしたのである。

  その「意識を意識する。」というやり方は、下手すると「主観性の出血状態。」(ウェーバー)となって、病的に先鋭な「個人主義。」に落ち込んでいく恐れなしとしない。 

  しかし、意識の意識化にかかわってきた思想の歴史を『解釈』するという手続きを踏めば、そして人間の現実的存在の総体ともいうべき『状況』と対決するという姿勢で臨めば、自己意識の中に『幽閉』されるという恐れを回避することができる。

 それが、いわゆる「解釈学。」の立場であろうと思われる。

  つまり、実存哲学は、解釈学のための「根本思想。」となることによって、人間の現実的存在に奉仕する(合理主義をはじめとする)一切の思想が「似非の哲学。」にもとづいていることを暴露できるのである。

  話の要点は、簡単である。 自分の意識が「いかなる『根拠』。」で存立しているかを、問えということだ。

  それを問うてみれば、意識の垂直線の情報に『超越』が、その下方に(死にゆくものとしての)『身体』が浮かんでくる。 

  そしてその水平線については、その左方に『歴史』が、そして右方に『状況』が浮かんでくる。

 こういうことに思いを致さずに、すでに『惰性』と化している意識で、自分とその環境を『分析』するのは精神の「技術化。」である、「単一思考パターンへの『馴化』。」である。

  その意味で、実存哲学は、思想の「治療法。」でありつづけている。

 だが、そんな精神療法が「あった。」ことは、この半世紀間ですっかり『忘れ』られている。

 そうであればこそ、その哲学が『敵』とみなした(技術主義へと突き進む)「大衆社会。」があろうことが、大半の知識人によって弁護され『歓迎』されているのである。 

                  以上

 

 


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