人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

何かしら思うことが実現する不思議さ

2016-06-17 06:19:23 | Weblog
 さて、私が今も体験している、これらの事象について書き表すためには、どのような
表現を用いて書けば良いのか、迷いに迷い続けて、いつか書こうと思いながらも、ついに
今まで書くことが出来なかったことである。いつも書きかけて途中で止めてしまうのは
私的な体験であり、誠に表現しがたいことが原因であった。

 この世の中で生ずることの全ては、偶然に見えて全ては必然であること。そのことが
理解できるようになると、自分の身の周りに起きていることが、起こるべくして起きて
いることだと言うことに気付くようになる。

 こうしたことは、書けば書くほどオカルト的にとられかねない一面がある。また誰でもが
体験している事でありながら、あまり取り上げられてこなかったのには何か理由がある。
その理由とは、体験していても、また日常ごく当たり前なことでありながらも気がつかない
ままに過ごしていることが多い。

 私は、今まで自分の身の回りに生ずることに驚きながらも、全ては偶然の出来事だと
思っていた。そうした出来事は、時間を置かずに生ずることもあれば、何日か過ぎて
生ずることもある。

 たとえば、この人に電話しなければとか、一度会って話をしておかなければと思っていた
ようなことがあったとき、偶然のように、その人が現れるようなことも少なくない。
こうした出来事について最初の頃は、偶然くらいに思っていた。そうしたことが生じても
「ああ良かった。電話しないでも来てくれた」くらいに考えていた。

 それがごく当たり前のように度重なるようになると、偶然も偶然ではなくなってくる。
今のような仕事をしていると、計画がなかなか実現しなくて困ってしまう事も少なくない。
そんなとき、思いもしなかったような人が現れて、具体的な提案をしてくれることがある。

 こうしたことで何度助けられたことか分からない。今では当たり前のようになっている。
従って、思い悩むようなことも少なくなった。今では、その内、何とかなるのではない
だろうかと構えている。むろん、私自身もずいぶんと我慢強くなったし、実現できなかった
ことは、今はその時期ではないのだと諦めるようになっている。いつまでも実現できなかった
ことにこだわらなくなった。

 そんな見方や考え方が出来るようになって、私自身の過去を振り返ってみると、全ては
今のためにあったのだと理解できる。あの時、貧乏で進学を諦めたことも、諦めていた
試験に合格して、思わぬ展開が待っていたことも、実は今日現在の自分が、ここに存在する
ために、そうなっていたのではないだろうかと思っている。人は敷かれたレールの上を
走っているだけなのかも知れない。

 近年、引き寄せだとか、「ありがとう」という感謝の心を持っていれば、必ず願うことが
実現するなどと言うことを良く聞くし、現に、その成功事例を著書にしたり語っておられる。
それら全ては事実であろう。

 ただ、心に迷いや疑いの気持ちがあると、決して、これらの現実は見えてこない。事実
私自身もそうであった。あることがきっかけで、耐えがたい現実を受け入れるようになった。
それから次第に私の運命が劇的な変化を始めた。

 そして、あるとき振り返って見ると、全ての過去が今の自分に繋がっていることに気付く
ようになった。過去の全ては今のためにあったのだと理解できるようになった。今まで障害と
なっていたものも、今の自分自身のためにあったのではないかと思えるようになってきた。

 人生は思い悩むほど複雑なものではないのかも知れない。複雑にしているのも、見えなく
しているのも、原因の全ては自分自身にあるのではないだろうか。

 いつも般若心経を持ち出して恐縮だが、全ては自分が作り出した幻想の中にあるような
気がしている。喜ばしい事も打ちひしがれるような苦しみも、自分自身が作り出した幻想なの
ではないのだろうか。

 いやだ、いやだと思えば思うほど悪い方へ流れていく。もうどうにでもなれと諦めたときに
一筋の光が見えてきて、全てが解消される。そんな話を聞く度に、そう思うのである。解決策は
目の前にありながら「いやだ」という気持ちが、自分の心を閉ざしていた。そして、もうどうに
でもなれと開き直った時に、暗雲が一瞬に吹き飛ばされて新しい道に光が差し始める。

 人間は、生まれたときは純真無垢な姿、それから自我に目覚め、幾多の経験が人格を作り
心を形作っていく。その過程で、生まれたままの純真無垢な姿は次第に消えてしまい、思い悩み
恐れや怒りなど、あってはならない気持ちが心の中を支配するようになる。

 そうなると、行動は自ずと手かせ足かせがはめられたようになってしまい、心も体も自由を
失ってしまう。子どもの頃は、あれほどおおらかで自由闊達に出来ていたことが出来なくなって
しまう。こうして大人になればなるほど心も体も自由度を失っていく。

 心が晴れ晴れとすることがなくなってしまう。この心の自由さを取り戻すためには何が必要か。
この世の中は、自分がコントロール出来るほど単純なものではない。まずは目の前の事実を
事実として認める。その上で出来ない事は出来ない事なので、いつまでも固執しない。
また出来ないと思っていることも見方や考え方を変えれば、意外に簡単に解決することも
少なくない。

 また、身の回りに生ずることの全てに意味がある。意味もなく生じていることは何もない。
人と人の出会いも、良い人も悪い人も含めて何か意味がある。そう考えるようになると
全ての出来事が興味深く見えるようになってくる。

 また、他人と比較してはいけない。他人は他人、全ての人は自分だけの人生を生きている。
初めから線路が異なっている。他人を見て、羨ましがることも嫉妬する必要もない。嫉妬する
事など、もっとも愚かなことなのだ。比較するから見えるものが見えなくなってしまう。
全ての人がそれぞれの人生を生きている。それこそが曼荼羅の世界なのではないだろうか。

 そうしたことも、般若心経の一説に書かれている「色即是空」を理解すれば分かってくる。
全ては泡沫(うたかた)のごとく、瞬時に消えてしまうものなのだ。人間は誰しも長く生きても
たかだか百年、宇宙の輪廻を考えれば一瞬の出来事に過ぎない。また人間一個の存在も宇宙の
チリにも満たない存在だ。何も大袈裟に考えることはない。淡々と生き、淡々と死んでいけば
良いことなのだ。

 私たちは、輪廻転生の中で、必ず次の世界に生きることになる。人間という宇宙服を着ての
この世の人生は、たかだか百年だけのもの。次の世界では、どこでどんな人生が待っているか
分からない。

 おまけに私の体験から一言。行動を起こす前に良く考えなさいと言う。確かに思慮深いことは
大切なことだ。しかし、考えすぎて次の行動が起こせなくなると、次の展開は見られない。
そういう時は、たいてい失敗か、中途半端に終わることが少なくない。

 直感を信ずる方が良い。と言うのが私の体験から言えることだ。直感は猪突猛進ではない。
背景には、過去の自分の体験の裏付けがある。そして、ある程度まで努力したら、その後は
天に任せる。成り行きに任せる。そして、必ず全ては旨く行くと信ずることが大切だ。

 この世は不思議なことで満たされている。その証拠に宇宙のことについては何も分かっていない。
自然の有り様についても何も分かっていない。分かっているような気がしているだけの事なのだ。
誰もが分かっていないことだらけなので、自分自身を卑下することもないし、むろん思い上がる
必要もない。偉そうな顔をしている人もみんな同じなのだ。

 みんな宇宙のチリから作られたものであり、ほんの一瞬を生きている小さな小さな存在に
過ぎない。この世を去れば肉体という宇宙服は土に帰り、また宇宙のチリに帰って行く。
人は、裸で生まれ裸でこの世を去って行く。

追加

 こんな体験はないだろうか。失敗した後で気がつくことなのだが、そう言えばあの時
何かしらひっかかるものがあって、スムーズに事が進まなくて、失敗してしまった。
うまく行かなかった。それは予感というもので、このまま進まない方が良いですよと
注意を促されている事なのです。

コメント
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