私の住んでいる倉敷周辺には源平合戦の遺跡が実に多い。佐々木盛綱の武勇伝にまつわる載りだし岩、
藤戸の渡し、今は盛綱橋と名付けられた藤戸川に懸かる橋などである。
極めつけは笹無山という山とも言えないような場所だが地名だけは残っている。平家追討に当たって
源氏方に藤戸海峡を渡る浅瀬を教えたばかりに口封じに殺された若き漁師の話である。ことの次第を
知った漁師の母親が悔しがり「佐々木と聞けば笹まで憎し」と辺り一面の笹をむしり取ったと言う話は
あまりにも有名である。
後に佐々木盛綱は罪を悔い、更には合戦で多くの戦死者が出たことを悼み経塚を作り丁重に法要を
行ったと伝えられている。
向かいは四国、屋島が目の前に見える。藤戸、玉島、屋島の合戦を経て、平家は次第に追われ追われて
壇ノ浦に逃れ、ついに滅亡への道を歩むことになる。
これほど、この地方に遺跡が多いのは平氏が西日本地方に広く勢力圏を有していたことにもよる。
そしてその代表的なものは日本三景の一つに数えられている宮島であり厳島神社である。海に向かって
張り出した朱塗りの壮大な建物は見るものを圧倒する。平家が有していた財力を余すところなく今日に
伝えている。
権謀術数渦巻く宮廷内、ここもまた人間の修羅場であった。藤原摂関家の政治が長く続き、武士は
宮廷の番犬として殿上人に飼われていた。未だ武士社会が訪れる前の姿であった。そして保元、平治
の乱を経て、次第に武士が台頭し、ついに武士社会が訪れることになる。
その礎を築いたのが平家であり平清盛とその父であった。清盛は権勢を誇った白川上皇の落とし子
だと言われている。従って、平氏の統領でありながら出自が曖昧である。ともあれ清盛は平家の統領と
なり公家社会を倒し武士社会の礎を築いた。
NHKの大河ドラマ「平清盛」である。源平合戦の断片を知ることはあっても、平家がどうしてとか
源氏がどうなったという詳しいことを知る機会はあまりない。また、当時を伝える「平家物語」は平家
滅亡後に書かれたものであり、平清盛はどちらかというと悪役に仕立てられている。
真の清盛とはどんな人だったのだろうか。興味は尽きない。そんな清盛像の一面をこの大河ドラマから
窺い知ることが出来る。
さて、この大河ドラマ視聴率が低迷しているらしい。視聴率なるものは誠に勝手なもので、さして
気にすべきものではないと思うのだが、民放などは冷やかし半分に報じている。但し、これが当の民放
であれば、そうも言ってはおられないかも知れない。
今の時代にドラマ自体が合わないのか、それとも演出がまずいのか。これだけの俳優陣を有しながら
不思議と言えば不思議である。
確かに兵庫県知事が苦情を呈していたように汚く暗い。もっときれいに写せ、描けと言うのも過去の
きらびやかな大河ドラマからすれば、そうとも言える。
しかし、私はこのリアルに描かれた画面を実に楽しんでいる。繰り返される源平の頃の大河ドラマは
幾つか見てきているが、どのように描こうとも大差はない。しかし、この放送の映像のリアルさは、
まさに当時そのものであり、今までのものとは明らかに異なる。
当時は武士と言えども朝廷の犬と言われたくらいであり、決して雅な暮らしをしていたわけでは
あるまい。薄汚れた着物や体は当たり前のことだったのではあるまいか。昨今のように風呂に入る
習慣もなければ、朝しゃんと称するお出かけ前のシャワーもなかったであろう。
だからこそ宮中においても十二単に香を炊き込めなければ身につけることが出来なかったのでは
あるまいか。長い女性の髪も暇さえあれば梳いていなければシラミが湧いて痒くてたまらなかった
のではあるまいか。
着物に使う綿の大量生産はずっと後のことである。繊維と言えば麻が主流であった。従って今の
ような保温力はなかったはずである。武士も町人も一様に麻の着物を着た切り雀のように身につけて
いたのではあるまいか。
むろん夏は裸同然であったろう。現に江戸時代頃まで庶民の姿は裸に近かった。この方が蒸し暑い
夏場は過ごしやすかったに違いない。
さて、世相は乱れに乱れた時代であった。ある意味、今の時代に通じるものがあるかも知れない。
長く公家の時代が続き、世間は倦んでいた。そして武士の抬頭である。都は相次ぐ戦乱の中で混乱を
極めていた。
今までの価値観が大きく崩れ人心は動揺していた。新しい秩序が出来るまで戦乱の世は続くのである。
そして鎌倉時代から室町時代を経て戦国時代へと長き武士の時代は続く。
今の世をこの時代と重ね合わせてみている。今の世について語るのは次回に譲ることにしたい。
藤戸の渡し、今は盛綱橋と名付けられた藤戸川に懸かる橋などである。
極めつけは笹無山という山とも言えないような場所だが地名だけは残っている。平家追討に当たって
源氏方に藤戸海峡を渡る浅瀬を教えたばかりに口封じに殺された若き漁師の話である。ことの次第を
知った漁師の母親が悔しがり「佐々木と聞けば笹まで憎し」と辺り一面の笹をむしり取ったと言う話は
あまりにも有名である。
後に佐々木盛綱は罪を悔い、更には合戦で多くの戦死者が出たことを悼み経塚を作り丁重に法要を
行ったと伝えられている。
向かいは四国、屋島が目の前に見える。藤戸、玉島、屋島の合戦を経て、平家は次第に追われ追われて
壇ノ浦に逃れ、ついに滅亡への道を歩むことになる。
これほど、この地方に遺跡が多いのは平氏が西日本地方に広く勢力圏を有していたことにもよる。
そしてその代表的なものは日本三景の一つに数えられている宮島であり厳島神社である。海に向かって
張り出した朱塗りの壮大な建物は見るものを圧倒する。平家が有していた財力を余すところなく今日に
伝えている。
権謀術数渦巻く宮廷内、ここもまた人間の修羅場であった。藤原摂関家の政治が長く続き、武士は
宮廷の番犬として殿上人に飼われていた。未だ武士社会が訪れる前の姿であった。そして保元、平治
の乱を経て、次第に武士が台頭し、ついに武士社会が訪れることになる。
その礎を築いたのが平家であり平清盛とその父であった。清盛は権勢を誇った白川上皇の落とし子
だと言われている。従って、平氏の統領でありながら出自が曖昧である。ともあれ清盛は平家の統領と
なり公家社会を倒し武士社会の礎を築いた。
NHKの大河ドラマ「平清盛」である。源平合戦の断片を知ることはあっても、平家がどうしてとか
源氏がどうなったという詳しいことを知る機会はあまりない。また、当時を伝える「平家物語」は平家
滅亡後に書かれたものであり、平清盛はどちらかというと悪役に仕立てられている。
真の清盛とはどんな人だったのだろうか。興味は尽きない。そんな清盛像の一面をこの大河ドラマから
窺い知ることが出来る。
さて、この大河ドラマ視聴率が低迷しているらしい。視聴率なるものは誠に勝手なもので、さして
気にすべきものではないと思うのだが、民放などは冷やかし半分に報じている。但し、これが当の民放
であれば、そうも言ってはおられないかも知れない。
今の時代にドラマ自体が合わないのか、それとも演出がまずいのか。これだけの俳優陣を有しながら
不思議と言えば不思議である。
確かに兵庫県知事が苦情を呈していたように汚く暗い。もっときれいに写せ、描けと言うのも過去の
きらびやかな大河ドラマからすれば、そうとも言える。
しかし、私はこのリアルに描かれた画面を実に楽しんでいる。繰り返される源平の頃の大河ドラマは
幾つか見てきているが、どのように描こうとも大差はない。しかし、この放送の映像のリアルさは、
まさに当時そのものであり、今までのものとは明らかに異なる。
当時は武士と言えども朝廷の犬と言われたくらいであり、決して雅な暮らしをしていたわけでは
あるまい。薄汚れた着物や体は当たり前のことだったのではあるまいか。昨今のように風呂に入る
習慣もなければ、朝しゃんと称するお出かけ前のシャワーもなかったであろう。
だからこそ宮中においても十二単に香を炊き込めなければ身につけることが出来なかったのでは
あるまいか。長い女性の髪も暇さえあれば梳いていなければシラミが湧いて痒くてたまらなかった
のではあるまいか。
着物に使う綿の大量生産はずっと後のことである。繊維と言えば麻が主流であった。従って今の
ような保温力はなかったはずである。武士も町人も一様に麻の着物を着た切り雀のように身につけて
いたのではあるまいか。
むろん夏は裸同然であったろう。現に江戸時代頃まで庶民の姿は裸に近かった。この方が蒸し暑い
夏場は過ごしやすかったに違いない。
さて、世相は乱れに乱れた時代であった。ある意味、今の時代に通じるものがあるかも知れない。
長く公家の時代が続き、世間は倦んでいた。そして武士の抬頭である。都は相次ぐ戦乱の中で混乱を
極めていた。
今までの価値観が大きく崩れ人心は動揺していた。新しい秩序が出来るまで戦乱の世は続くのである。
そして鎌倉時代から室町時代を経て戦国時代へと長き武士の時代は続く。
今の世をこの時代と重ね合わせてみている。今の世について語るのは次回に譲ることにしたい。
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