人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

すべては脳に帰す

2009-01-18 15:56:24 | Weblog
 今、生じている周辺の出来事の全ては過去の何かに繋がっている。
そう感じ始めて久しい。若かった頃は目先の事だけしか見えなくて
気付かなかった事が多い。会社と言う日々何かに負われるような生活
を離れ一個人に戻ってみると、今まで気付かなかったことがたくさん
見えてきた。

 今、人生の締めくくりである時期に生じていることの多くが過去に
始まっている。たぐり寄せれば幼少期の記憶に繋がるものが多い。
無類の植物が好きだったことは、集大成として植物について他の人に
講義するようになってきた。

 その具体的な現れは趣味としての農園芸であり、環境問題である。
そうしたいと考えてやって来たことではない。自然に水が低きに流れる
ように、いつの間にか望むことが実現するようになってきた。

 最近では、この人に会いたいと思っていると、その人が目前にいると
言ったことも珍しいことではなくなった。人との繋がりも同じではない
だろうか。恐らくは、出会うべくして出会った人ばかりだと思うので
ある。また、多くの出会いの中には、偶然とは思えないような出会いも
少なくない。

 人間はこうあらねばならないとか、こうしなければと思わない方が
良いのかも知れない。何かを強く意識すればするほど現実は遠のいて
いくように思えてならない。全ての出来事は過去からの約束事では
ないかというのが、私の経験を通して感じられる事である。

 ある人は、こうしたことを、このように話している。忘れている人が
大半なのだが、みんなこの世に生を受けるとき自ら選んで生を受けて
いる。自分の人生は自分で選択し、この世に生まれてきたと言うので
ある。

 従って、我が身に生じる出来事の全ては誰の責任でもなく、自らが
選択したことであり、この世に生を受けたときから始まっていると言う
のである。そう言われてみればなるほどと思われる方も多いのでは
ないだろうか。

 だから、人の上下や職業の貴賤はない。全ては比較の中から生じて
くる迷いごとであって、人をうらやむことも、ましてや我が人生を悔やむ
ことも恨むこともないのである。

 また、人と人との結びつきも、この世に生を受ける時の約束事では
ないだろうか。昨今の悲しむべき事件を見ていると、とても実の親子
とは思えないような出来事も少なくない。反対に血縁関係はなくても、
かけがえのない親友がいるものである。

 DNAレベルでは親子であっても、この世における仮の結びつきでは
ないかとも思える。縁あってこの世に誕生し、共にこの世を生きている
もっとも近しい関係が親子であり、兄弟であり、夫婦ではないだろうか。
例え親子であっても仲の良い友人であっても魂は個々のものである。
とは言え、親が子の行く末を心配するのは人情である。

 怒り、喜び、悲しみ、寂しさ、いずれも人間なら誰でも感じる感情
であるが、これら全ては他人から強制されたものではない。自分の感情
である。自分の心の中にあるものである。人間は五感を持っている。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚である。

 赤ちゃんは味覚から目覚める。何でも口に持っていき、それが何で
あるのか確かめようとしている。私は動物が獲得した最初の感覚では
ないかと思っている。動物は口から餌になるものを取り入れてエネルギー
源としている。動物が動物として生きていくためには欠かせない営み
である。未熟なまま生まれてくる人間は、その原始的形態を受け継いで
いるのではないだろうか。成長するに連れ、そのような行為はなく
なっていく。他の感覚器官による情報に置き換わるからだろう。

 人間は五感から取り込んだ様々な情報を電気信号に換え脳に伝えて
いる。電気信号を伝えているのが神経である。人間の脳は微弱な電流
がめまぐるしく交差している。取り込んだ情報を処理し、しかるべき
指示を下すためである。指示されたことは言葉になり行動になっている。

 人間に恐怖や重圧という感情がなくなれば、驚異的な運動能力が
発揮されるに違いない。スポーツ選手は常に重圧や恐怖と闘っている。
その感情がある限り、記録は限定されたものとなるのはやむを得ない。
実に不思議なものである。

 かくゆう私も今まで様々な軋轢や苦しみの中で生きてきた。しかし、
昨今、全ての事柄が自分の感情という脳の働きから始まっているもの
だと気付くようになった。そして今は、自分の頭上にある厚い雲が
切れたような気分になっている。実は神も仏も自分自身なのである。
如何に自分の感情をコントロールするかに尽きるのではないだろうか。

 脳は電気とは全く縁のない臓器に見える。しかし、外見とは裏腹に
その中身はコンピュータに勝るとも劣らない精巧な電気回路である。
微弱とは言え電気が常に脳の中を行き来している。

 この宇宙を作っているのが原子核や電子であることを考えると、人と
宇宙は一体のものだと見ることが出来る。光を介して見ている形ある
物体もミクロの目で見ると境のない一体のものとしか見えない。

 最近、人の魂は宇宙のどこかに繋がっているという話を本で読んだ
ことがある。宇宙のどこかに繋がっているのではなく、私たち自身が
宇宙の一部だと考えれば、魂のよりどころはこの宇宙そのものなのかも
知れないと思うのである。

 私たちの喜びや悲しみは脳が感じている事である。美味しいと思う
ことも美しいと思うことも、快楽や苦痛も全ては脳が感じていること
である。当たり前だと言ってしまえばそれまでだが何だか不思議な
ことである。

 何だかまとまりのない文章になってしまった。やむを得ない。全ては
現在進行形であり結論を得ていない。未完成の事ばかりである。機会
があれば続きを書きたいと思う。

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