HARD HEAD

旅行 社寺

郡山城

2014-11-05 09:33:23 | 
 2014.10.28 広島バスセンターを7:45に発ち国道54号線(出雲街道)を今夏、土砂災害のあった

       安佐南区の土砂崩れの山肌を眺めながら約44KM北上します。一時間ほど走り峠を

       上りきると今まで南に流れていた川が今度は北東に流れ始めました。分水嶺を身近に

       感じたのは初めてです。温度も6度周囲の山々は雲海で幻想的です。

       安芸高田市役所前に9:19到着しました。



  郡山城遠景 標高390mの郡山山頂を中心に、今も多数の曲輪跡が存在しています。



  御蔵屋敷跡から見た二の丸と本丸跡



  郡山城 国指定史跡 日本百名城 戦国武将毛利元就の居城。吉田盆地を見渡す可愛川と

      多治比川の合流点の北側に築かれ、戦国期最大級(東西1.1km、南北0.9km)の

      山城です。



  安芸高田市歴史民俗博物館 毛利氏や郡山城に関する貴重な資料を展示。

ここでスタンプを押し、案内図、資料を貰いコースの説明も親切にして頂きました。





  郡山城 模型



  案内図



  毛利元就公像 安芸国の国人領主であった毛利氏を一代で

西日本最大の戦国大名へとのし上げた。



  伝元就火葬場跡 元就は1571年75歳で病没、初7日の法会後に、

          嘯岳鼑虎禅師(しょうがくていこぜんじ)を導師に火葬された。



  大通院谷遺跡 郡山城の西に当たる、発掘調査の結果薬研掘、屋敷跡などの遺構や

大量の遺物が検出された。現在9:53ですがこの写真の奥、

今朝バスで通って来た山にも雲海が少し写っています。



  同上 薬研堀跡 V字型の堀で約100m検出された。郡山全山城郭化以後に造られた。





  毛利隆元墓所 元就の長男 1563年41歳で急死。



  青光井山尼子陣所跡(郡山合戦) 





  毛利元就.一族墓所(洞春寺跡) 1571年、元就は75歳の生涯を閉じた。翌年菩提寺洞春寺が

       建立され、境内に墓が建てられた。下段には、先祖の合墓と、元就の兄興元、

       興元の長子幸松丸、隆元夫人の墓が並ぶ。



  百万一心碑 元就の「百万一心」の伝説を記念して、1931年に元就墓所境内に建立された。

        共同一致の精神を示す。



  御蔵屋敷跡 面積600㎡の郭で、兵糧蔵跡。

幕命により江戸初期に崩された石垣がそのまま残る。



  石垣、土塁跡。





  二の丸跡 周囲を高さ50cm幅1mの石塁や石垣で、27mと15mの方形に区画され、

       実用面積は約400㎡です。







  本丸及び櫓台跡 元就による拡張後の中心地。城主の館があったと思われ、

          北端の山頂部には櫓台が残る。





  三の丸跡  城内最大の曲輪(1400㎡)で、ここは土塁や削出し等で四段に分かれている。



  三の丸石塁跡  中心部は輝元時代の改修により整備された。





  厩(うまや)の壇  三の丸の東から東南方にのびる約400mの尾根の基部で、

            壇の下に馬場がある。





  勢溜(せだまり)の壇  御蔵屋敷跡の下段を、堀切で区画して独立させた、

              大小10段からなる大型曲輪です。



  本丸から200m下りてきました、郡山公園(興禅寺跡)まで800m。





  尾崎丸  旧本城との間を三条の堀切でへだてた、独立的な曲輪群にあり、

       その中では最大の所で隆元の居所であったと考えられます。





展望台より城下を眺める。



  郡山公園(興禅寺跡)  



  清(すが)神社  毛利氏郡山の鎮守社。この神社には毛利氏が吉田庄に土着する以前の

           1325年からの棟札が16枚もあり、県重要文化財に指定されている。

           現在の社殿は1694年建立で、市指定文化財です。



  三矢の訓跡碑  毛利元就の有名な「三本の矢」の逸話から伝御里屋敷跡に建立されている。

      バスにて広島に戻り次に広島城に向かう。    

  


  

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