おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武伊勢崎線「北越谷駅」~アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。桜並木。武蔵第六天神社。一面、田んぼ。大野島水管橋。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

2024-07-09 20:44:42 | 元荒川

大きく広がる。

      桜並木。

右手は緑濃き、水田。

「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。

川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。

  「夏越の祓」茅の輪がある。

先に進みます。

まだ「岩槻市」のまま。

※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。

田んぼが広がります。               

土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。

振り返る。

久々な経験。

農家の脇に、カボチャ。

                      枝豆。

県道に出ます。

上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。

※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。

         下流方向。

上流方向。

橋を渡り、右岸に。振り返る。                       

上水道管。

「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。

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東武伊勢崎線「北越谷駅」~アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。末田須賀堰(すえだすがせき)。永代橋。キタミソウ(自生地)。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

2024-07-08 20:31:58 | 元荒川

「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。

勢いよく落ちる流れ。

さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。

(この項、「」HPより)                        

          

「永代橋」。

  

                        モニュメント。「人形の岩槻」にちなんだものか。

この付近の今昔。

                            (現在)中央に堰。

   川幅が大きく広がっている。

                            (1880年代)

        現在の堰付近の流れが複雑になっている。

上流方向。

                水面が広がりを見せる。

                       

旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。

   1926(大正15)年の建立。※現在の堰と橋は、1994(平成6)年の建設。

「末田須賀堰竣工記念碑」(平成6年10月建立)。

「須賀用水圦」。

堰の上流。

              「末田須賀溜井」とも。

解説板。

・・・この堰の上流には、農業用水を取り入れる取水口が末田側(右岸)に13カ所 須賀側(左岸)に16カ所あります。取り入れられた水は、白岡町(現白岡市)蓮田市 春日部市 越谷市及び(現岩槻市さいたま市岩槻区)に広がる約3,000ヘクタールの水田の灌漑に使われています。・・・

上流に向かいます。

右手に「つきのきの広場」。

元荒川の水はどこからくるの? 元荒川の起点(熊谷市佐谷田)

元荒川は自流(元荒川上流地域に降った雨)と利根川上流の群馬県沼田市・片品村・川場村・昭和村・みなかみ町及び埼玉県神川町・秩父市・小鹿野町などの地域に降った雨が水源とその水源地を流れ出た水は利根川に入り利根大堰から見沼代用水路に入ります。そして十六間場で分水された水が星川を通って元荒川に入ります。

        絶滅危惧種「幻の花」 キタミソウ(自生地)。

キタミソウは、北海道の北見地方で発見されたことから、「北見草」と名付けられたと言われています。

末田須賀堰の上流や越谷周辺の河川で、昭和25年に発見され、そのご一時絶滅したものと思われていましたが、昭和53年に再発見されました。

シベリヤなど極北に地に故郷をもつ植物で、国内で分布が確認されているのは、熊本県江津湖と埼玉県東部の全国的にも限られた地域のみに生育し、良好な環境のもとで育つ、とても貴重な植物であるため、「幻の花」とも言われています。

末田須賀堰の上流側では、田植えの始まる5月、農業用の水を取るため、堰により水がためられます。稲が実り秋を迎える9月、堰をあげて川の水が落とされると、いままで川の底だった石湿った土が現れます。

キタミソウは、この湿った土の上に芽を出し、10月から12月頃と翌年の3月から4月頃に、およそ2.5㎜程度の小さな白い花を咲かせます。

(「案内板」より)

次のキタミソウの写真はここではありませんが、

・・・

キタミソウの花はたいへん小さく、2ミリメートルほどしかありません。

○が花。


キタミソウの絶滅危惧の理由として、湧水の減少、水辺の環境や水質の変化などの影響が指摘されています。
この小さな希少な花を守るためにも、ポイ捨てをしないなど、自然・環境にやさしい行動をとるように心がけましょう。

(この項、「」HPより)

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あんずとソウタ。そして「向島百花園」のカルガモたち。

2024-07-07 21:01:06 | 向島百花園

暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。

6日には、窓際に。

あんずが窓際に乗ると、ソウタは、

あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。

             

という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。

7月6日。「小暑」の日の午後。

いました! 親が。

親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?

親から離れ、自由気ままに泳いでいます。

親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。

    水に潜るのも達者。

そして親子一緒に。

前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは? 気になります。

     半夏生。

                 もみじあおい。

のうぜんかずら。

やぶかんぞう。

やまゆり。

  

              寺島なす。

ぼんやりかすむ「スカイツリー」。

案の定、夕立に見舞われました。7月6日(土)。

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7月6日。小暑。暑中見舞い。鰻・万葉集・平賀源内。ベガ・アルタイル・夏の大三角形。七夕飾り。雨の夜の品定め。

2024-07-06 20:12:08 | 世間世界

小暑」は二十四節気の11番目。夏が本格化する時季。「夏至→小暑→大暑→立秋」とういう移り変わりに。

暑中見舞い」を出す時期は小暑から立秋の前日まで(「大暑」までという説などもあるようですが)。立秋(今年は8月7日)以降は「残暑見舞い」となります。
 
暦の上では、これからが夏本番、とういうか、すでに暑さが厳しくなっています。
 
「小暑」が「大暑」、「大暑」が「猛暑」と言い換えられるくらい。
 
せめて「立秋」くらい暦通りになってほしいものです。
 
東京地方。ここ2,3日は、35℃を超えるほど、気温が上昇。猛暑日。今日も朝から晴れ。あっという間に30℃越え。蒸し暑い! 雷もありそう。まさに「夕立」。
 
この時期は、梅雨の末期で、集中豪雨、最近はゲリラ豪雨と呼ばれる激しい雨が梅雨前線の停滞によって局地的な激しい雨に襲われます。九州地方などで大きな災害を生んでいます。
 
今日は、全国的に晴れ。猛暑になったところも多いようです。ちょっと歩くだけで汗が噴き出るありさま。
 
夕立が来そうな空模様。
 
 
七十二侯でいうと、
 
・初侯 7月6日〜7月11日頃

温風至 あつかぜいたる

雲の間から注ぐ陽がだんだんと強くなる頃。 温風とは湿った空気が山を越え、乾いた温かい風となって吹き降ろすフェーン現象のことを表しているとも言われています。

・次侯 7月12日〜7月16日頃

蓮始開 はすはじめてひらく

蓮がゆっくりと蕾をほどき、花を咲かす頃。 水底から茎を伸ばし、水面に葉を浮かべ、綺麗な花を咲かせる蓮ですが、花が開いてから4日目には散ってしまいます。

 (大賀ハス「千葉公園」にて。)

・末侯 7月17日〜7月21日頃

鷹乃学習 たかすなわちわざをなす

5・6月に孵化した雛が、巣立ちの準備をする頃。 独り立ちができるよう、飛び方を覚え、獲物の捕り方を覚え、「独り」ということを一から学びます。

先日、TVで鷹匠の話題がありました。害鳥を追い払うために活用している、とのこと。見ごたえのある内容でした。

我が家辺りでも小鳥の鳴き声がしきりに聞こえます。巣立ちする雛もいるのでしょう、近所の工場の屋根にはツバメが巣を作っています。

のものとしては

虫 アゲハチョウ

※今日、「向島百花園」でアゲハチョウが1羽飛んでいるのをみかけました。あちこち飛び回っているので、写真には撮れませんでした、残念! 「小暑」の日にタイミングよすぎです。

魚 

鰻の、いい匂いと煙が。

                                  (小見川にて)

野菜 大蒜(にんにく)

行事 祇園祭

(この項、主に「暦生活」HPより)

※「鰻」といえば、今からおよそ1.230年以上昔、『万葉集』にある、大友家持が知人の石麻呂に贈った歌二首が思い浮かびます。

「土用の丑の日(今年は7月23日・大暑)に鰻を食べる」という風習。夏場で売れ行きが落ちた鰻屋から相談された蘭学者で発明家の平賀源内が鰻を売るためのキャッチコピーを店先に掲げたところ大繁盛した、ということから始まった、という説が有名です。が、万葉集の時代から、鰻は夏場の滋養強壮に最適だったようです。

〈 痩せたる人を嗤咲へる歌二首〉痩せている石麻呂を戯れにからかってみた歌二首

3853: 石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ

石麻呂に申し上げよう。夏痩せに良いというものとして鰻があるそうだ。鰻を捕って召し上がれ。

3854: 痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな

いくら痩せすぎているといっても、生きていればこそのはなし。万々が一、鰻を捕ろうとして川に入って流されるなよ。

さて、明日・7月7日は、「七夕」。「五節句」の1つ。

そして、「東京都知事選」投票日。それぞれの思いを短冊に、ではなく投票用紙に託して、といってもこの暑さじゃ、投票所にも行かない可能性、大。またまた低投票率で終わるか?  

七夕飾り。

(「向島百花園」にて)

※五節句は、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽。

7月7日あるいはその前夜の行事。本来は陰暦で行っていたが、現在は陽暦の7月7日に行う所が多い。東北地方などでは月遅れの8月7日に行っている。七夕は織女祭(しょくじょさい)、星祭(ほしまつり)などともいい、中国伝来の行事と、日本古来の伝承、さらに盆行事の一環としての行事など、さまざまな要素が入り混じって今日に伝承されている。

 歴史的にみると、奈良時代には宮中の行事として、この日中国伝来の乞巧奠(きこうでん)が行われている。桃、梨(なし)、茄子(なす)、瓜(うり)、大豆(だいず)、干鯛(ひだい)、薄鮑(うすあわび)などを清涼殿の東庭に供え、牽牛(けんぎゅう)・織女の二星を祀(まつ)ったという。『延喜式(えんぎしき)』には織部司(おりべのつかさ)の行事として7月7日に織女祭が行われたというが、いずれも宮廷や貴族の習俗であった。室町時代になると七夕に歌を供える風習が入り、7という数にあやかって、7種の遊びを行ったという。さらに江戸時代には武家の年中行事としても定着し、五節供の一つに定められている。笹竹(ささたけ)に五色の紙や糸を吊(つ)るして軒端に立てる風も江戸市中にみられ、今日に近い七夕風景になってきた。

 七夕の名称については、日本では古く神を迎え祀るのに、乙女が水辺の棚に設けた機屋(はたや)にこもり、神の降臨を待って一夜を過ごすという伝承があり、これから棚機女(たなばたつめ)、乙棚機(おとたなばた)、さらに「たなばた」とよぶようになったという折口信夫(おりくちしのぶ)の説がある。七夕には一夜水辺にこもって(みそぎ)を行い、翌朝送り神に託して穢(けがれ)を持ち去ってもらうものであったともいい、現に各地に伝承される水浴の習俗はその名残(なごり)であるという。七夕にはかならず洗髪をするとか、食器類を洗うものだという地域は広くある。観光で有名になっている青森県弘前地方のねぶた行事も七夕の日であり、ねぶたは「佞武多」という字をあてているが、眠りを追い払う行事である。秋の収穫作業を控え、仕事の妨げとなる睡魔、悪霊を追い払う行事だった。

 中国では、この日、牽牛星(わし座のα(アルファ)星アルタイル)と織女星(こと座のα星ベガ)の二星が、天の川を挟んで年に一度相会う日となっている。牽牛は農時を知る基準となり、織女はその名の示すように養蚕や裁縫をつかさどる星とされていた。陰暦7月の初めころは、この二星が北東から南西に横たわる天の川を挟んで、人々の頭上に明るく見えるところから、擬人化して二星の相会う伝説が生まれたものである。この伝説は、日本の口承文芸のなかにも数多く語られている。

(「Wikipedia」より)

 七夕の由来譚(たん)は、室町時代の『天稚彦物語(あめわかひこものがたり)』に、娘が大蛇と結婚する異類婚姻譚となって語られており、現に全国にすこしずつ語り口を変えて伝承されている。その骨子は天人女房の昔話である。

 天女が水浴びをしていると、若者がかいまみて、一人の天女の羽衣を隠してしまう。羽衣のない天女は天に帰ることができず男の妻となる。子供が生まれ、その子供の歌から羽衣が穀物倉に隠してあることを知り、天女は羽衣をつけ、子供を連れて天に飛び去ってしまう。天女は別れるとき、瓜の種を残してゆく。男はこの瓜のつるを登って天上へ行く。天帝の難題を天女の援助によって解決するが、禁じられていた瓜を縦に割ってしまい、瓜から流れた水が大洪水となり、男は流されてしまう。この川が天の川で、天女は流されてゆく男に、7日7日に会おうといったのに、男は7月7日と聞き違え、年に一度7月7日にしか会えないようになってしまった。

 七夕行事には、盆行事の一環としての要素も多い。この日盆道(ぼんみち)作りをするとか、盆の市(いち)が開かれるなどというもので、7月の満月の盆に対し、朔日(ついたち)との中間、7日ごろを目安として日を設定したもので、これに他の七夕の要素が複合して今日のような形式となったものであろう。中国伝来の乞巧奠は当初貴族に伝わり、それはこの日晴天を祈る星祭となり、乾燥文化圏の行事に属し、一方、日本古来の農神としての七夕は、民間に流布し盆行事とも結合して穢を祓う習俗となり、したがって雨天を望む湿潤文化圏の行事の要素をもっている。七夕はこの二つの複合習俗といえよう。

[鎌田久子](この項、「コトバンク」HPより)

ちなみに、「七夕」は本来、旧暦7月7日の行事ですから、立秋のころ。そのため俳句では秋の季語になっています。

「おり姫星」はこと座の「べガ」のことで、「ひこ星」はわし座の「アルタイル」のこと。

ベガ、アルタイルと、はくちょう座のデネブの三つの一等星を結んだのが「夏の大三角形」。

東の空に、明るいベガとアルタイルを見つけることができます。都会では間を流れる天の川を見ることができませんが、ベガとアルタイルはすぐにわかることでしょう。

夏の大三角形

源氏物語「帚木」の巻・「雨の夜の品定め」。

五月雨(梅雨時)の夜、17歳になった光源氏のもとに、義兄の頭中将が訪ねてくる。さらに左馬頭と藤式部丞も交えて、4人で女性談義をすることになる。

この中で、「七夕」にかこつけた話題が出てきます。

「・・・はかなきあだ事をもまことの大事をも、 言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、 織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」
とて、(左馬頭は)いとあはれと思ひ出でたり。(頭)中将、
「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、難き世とは定めかねたるぞや」
と、言ひはやしたまふ。

「・・・風流なことでも実生活のことでも、話し合うかいがあり、龍田姫といってもいいほど染色の技能もあり、織姫にも劣らないほど、裁縫の腕も兼ね備え、たいした女であった」と言って、左馬頭は(あっという間に亡くなった)その女をしみじみと思い出している。頭中将は、「その織女のような裁縫の腕はさし置いても、(せめて七夕の)長い契りにあやかりたいものだ。本当に、その龍田姫の錦(染め)以上のものはいないでしょう。それほどでもない花紅葉にしても、折々の季節の色合いとが悪く、はかばかしくないのは、まったく露のごとくあっという間に消えるようなつまらないものだ。そう思うと、良き妻を選ぶのは難しく、決めかねるものだね」と言いはやす。

・・・

この方ともお別れです。

次の二十四節気「大暑(猛暑)」は、7月22日(月)

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東武伊勢崎線「北越谷駅」~アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。ネムノキ。大砂橋。田畑が広がる。三野宮橋。さいたま市に入る。みずおとの小道。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

2024-07-04 20:38:30 | 元荒川

「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。

こちら側にも農地が。

ここにもネムノキの大木。  

上流に「大砂橋」が見えてきます。

            「元荒川緑道(上流部)散策案内」。

  「大砂橋」を振り返る。

けっこう緑が深い。

路傍に何体かの古仏。

元荒川の流れ。

農地が続きます。菊の栽培。

左手には畑作地が広がる。

イチゴ。

        サツマイモ。

咲き始めている菊。

川沿いから離れて進みます。右手灌木の向こうが、元荒川。

一面、青々とした田んぼ。

「三野宮橋」。

上流方向。橋を渡り、左岸へ。

「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。

      「補修境界」」。

      ←さいたま市北部建設事務所 →越谷県土整備事務所」。

さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?

さいたま市 

埼玉県の県央部に位置する。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多政令指定都市の一つ。また財政力指数は政令市の中では3番目である。

2001年に旧県庁所在地である浦和市(当時の人口約48万人)と、大宮市(同約45万人)、与野市(同約8万人)が合併して誕生し、2005年には岩槻市(同約10万人)を編入した。政令指定都市のうち、第二次世界大戦後に合併によって誕生した基礎自治体は当市と福岡県北九州市静岡県静岡市のみ。

都市雇用圏における東京都市圏中心都市の一つであり、10区の行政区を持つ。県内唯一の人口百万人都市でもあり日本の市で9番目の人口を有しており、21県の総人口を上回っている。(この項、「Wikipedia」より)

※指定都市とは、地方自治法で「政令で指定する人口50万以上の市」と規定されている都市のことです。

「政令指定都市」、「政令市」、「指定市」などといわれることもありますが、ここでは地方自治法にしたがって、「指定都市」という名称を使っています。

わが国には、792(2022年10月1日現在)の市がありますが、指定都市は道府県と同等の行財政能力などを有していることが求められていることから、現在、概ね人口70万人以上の20の都市が政令による指定を受けており、その居住人口は全人口の約2割を占めています。

指定都市は、地方自治法の中の「大都市に関する特例」という規定によって、一般の市では都道府県が行っている事務のうち、児童福祉・生活保護・母子保健・食品衛生・結核予防など市民の健康や福祉に関する事務や、都市計画や区画整理事業に関する事務を担っています。

また、市域を複数の行政区に分けて区役所を設置しているのも指定都市の特徴です。区役所では住民票の交付や国民健康保険、地域振興など、日常生活に密着した多くの行政サービスを提供しています。

(この項、「」HPより)

※政令指定都市一覧

札幌市 仙台市 さいたま市 千葉市 横浜市 川崎市 相模原市 新潟市 静岡市 浜松市 名古屋市 京都市

大阪市 堺市 神戸市 岡山市 広島市 北九州市 福岡市 熊本市 

右手のようす。

            

元荒川。

               

旧家らしい趣。                

  「みずおとの小道」。

須賀用水路沿いの園路は、みずおとを聞きながら散歩が楽しめます。園路の途中には、水上四阿があり憩いの場として利用でき、周辺の緑豊かな田園風景や美しい屋敷林等を眺めることができます。モニュメントのナマズ・竜神・カッパは元荒川の守り神です。

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東武伊勢崎線「北越谷駅」~アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。「元荒川橋」・国道4号線(現日光街道)バイパス。「〆切橋」(人道橋)。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

2024-07-03 21:20:52 | 元荒川

「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.

              

元荒川橋から下流を望む。

川沿いには歩道がないので、県道を進みます。

                      この標識板には、「↑越谷 国道4号線 →春日部 ←上野」とあります。

左手に「元荒川」。

「〆切橋」(人道橋)。

越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年昭和12年)竣工RC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。 老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。 元荒川はかつて〆切橋の上流で大きく北に蛇行するルートで流れていたが、屈曲していることにより大きな水害を発生させていた。そのことから1706年(宝永3年)に伊奈氏の治水事業により現在の流路に変更し、古い流路を締め切ったことから、荻島村の南部は「〆切の地」と呼ばれるようになった。そして橋が架橋されると「〆切橋」と呼ばれるようになったことが由来となっている。

また、かつて河岸場として1711年(宝永8年)より設けられた「〆切河岸」があった

老朽化により、2021年令和3年)5月1日午前10時から通行禁止となった。交通量が多く危険であるが、400メートル下流側に架かる国道4号バイパスの元荒川橋か、600メートル上流側に架かる大砂橋へ迂回を要請してたが、歩行者の負担が増していた。付近は河川改修が計画されており、橋の架け替え、もしくは廃止時期については未定であったが、その後橋を補修することが決定し、2023年(令和5年)度より補修工事が行なわれていた。同年7月12日午前10時に補修工事が完了し、通行止めは解除された。復旧後も復旧前と同様、人道橋として供されており、バイク等は引き続き迂回を要請している。

                

下流方向。 上流方向。

市内に架かる元荒川の人道橋として文教大学前に架かる出津橋などがある

なお、直線で西へ約6.8 ㎞離れた場所を流れる見沼代用水東縁埼玉県道214号新方須賀さいたま線の交差地点には、同音異字の締切橋が架かっている。こちらも江戸期に同地点で新田開発のため見沼を締め切った過去があった。

                               (現在)↓が「〆切橋」。上流に「大砂橋」、下流に「元荒川橋」。

                                (1880年代)上下流に「〆切橋」以外の橋は、ない。

※元荒川には人道橋がけっこう架設されています。かつては耕作地との関わり、現在では、市民の通行の便利のためだからでしょうか? 

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東武伊勢崎線「北越谷駅」~アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。「宮内庁埼玉鴨場」。ネムノキ。梅林公園。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

2024-07-02 18:22:32 | 元荒川

元荒川歩き、2日目。

往復とも東武線内の乗り降りです。

北越谷駅西口。              

「元荒川」土手。

前回に続き、左岸を歩くことに。

森の脇に進みます。

                     (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

      中央に「宮内庁埼玉鴨場」。

現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。

鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。

埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。

我が国では、古くから網や鷹を使って鴨を捕獲していました。一方、鴨場で行われている技法は、元溜(もとだまり)と呼ばれる12,000平方メートル(約3,600坪)の池に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使い引堀に誘導し、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を用いて鴨が飛びたつところを捕獲するものです。この技法は、江戸時代に将軍家や大名家に伝わっていたものを明治以降、皇室が継承して今日に至っています。

鴨場は、内外の賓客接遇の場としても用いており、毎年11月15日から翌年2月15日までの狩猟期間に招かれた閣僚、国会議員、最高裁判所判事や各国の外交使節団の長等がこの独特の技法で自ら鴨を捕獲します。

なお、捕獲した鴨は、国際鳥類標識調査に協力して種類、性別などを記録し、標識(足環)をつけ、すべて放鳥しています。猟期外には地元住民の施設見学会を行うなど、鴨場は市民の自然保護観察の場としても貴重なものとなっています。

(この項「宮内庁」HPより)

※明治時代になると、越谷を含む 地域が、皇室専用の御猟場として指定され た。 明治41年に、都内の浜離宮に飛来する鴨が 少なくなってきたことや、交通のアクセスも良かったことから、現在の越谷市の大林に埼玉鴨場を開設したとされている。

日光街道歩きのときにその脇を通っています。

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道なりに進むと、すぐ目の前は「元荒川」に面した「北越谷第五公園」となります。

    

 路傍には、「道標」と二基の石塔。道標の正面には「青面金剛」、左面には「右 のしま」とあります。


       

 この先に「宮内庁埼玉鴨場」があります。 

        

                                     (1880年代)まだ「鴨場」はありません。右端の道が「日光街道」。
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野球場。左手の森が「鴨場」。

土手に「ネムノキ」。

                     

この木は?    

対岸(右岸)の住宅地。

鴨場をのぞき見るところはなさそうです。竹林。 

        

対岸・左敷田ポンプ場からの流入口(落とし)。  

「梅林公園」が右手に。

 

梅の実がいっぱい。 

               

橋が見えてきます。

           「元荒川橋」。同名の橋がいくつかあるようです。 ※これで二つ目。         

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