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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR東金駅~成東駅。その3。街道筋らしい家並み。難解な地名・八街・匝瑳。水路沿いの旧道。公平幼稚園。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-11 21:03:08 | 銚子往還

街道筋らしい家並み。

バス停「東金商業入口」。

「←八街(やちまた)↑匝瑳(そうさ) 山武(さんむ)→国道126号」。

※「八街」、「匝瑳」、「山武」とどう読むのか、難解な地名が出てきます。

角に大きなお屋敷。

「千葉学芸高等学校」。

      

県道から分かれ、左の道に。

ここでも水路沿いに進む。 

           

変わりやすい雲行きに。

昔ながらの家並み。

「真亀川」沿いのレストラン。

kawa no saki」。古民家の店で隠れ家風。

                                          (「食べログ」より)

左奥にあります。

県道に合流する手前に、

キンカンの実がすずなり。

趣のあるおうち。

里山風景。

県道に合流。

「公平幼稚園」。

1974年(昭和49年)4月、旧公平小学校の西半分を使用し、公平幼稚園が開園。園庭は、かつての小学校の校庭の大きさだったのですね。園舎も小学校の校舎のまま?

右手は九十九里浜平野。

小高い森。

バス停「姫島」。「蛇島」伝説とも関わりがあるようです。

南北朝のころ、護良親王が鎌倉に幽閉され、二階堂谷の土牢で最期を遂げた。親王の息女・華蔵姫は、父を慕って京から鎌倉に遠路旅してきたが、辿り着いたときにはすでに親王は淵辺義弘により非業の最期をとげた後だった。

姫は一時泣き崩れたが、さすが猛将といわれた親王の娘、すぐに鎌倉に滞在するのは危険と判断し、南朝の味方の多い上総へと下った。姫の一行は山中たどりながら、目的地の姫島へと到着したという。

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JR東金駅~成東駅。その2。出桁造りの商家。なまこ壁。土蔵造り。看板建築。田間城址。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-10 13:35:39 | 銚子往還

バス停「片貝県道入口」。九十九里浜・片貝に向かう県道。

商家が建ち並ぶ。

             

西北(八街)に向かう県道。

街道の両側に古くて立派な商家造りが続きます。(写真を取りそこねたおうちも多い)

なまこ壁。

「上行寺」山門。

「←東金簡易裁判所」。

立派な土蔵造り。

「村井綿店」。

見事な看板建築。

「田中家具店」。1930年(昭和5年)築。黄金色のモルタル塗り。側面、正面とデザインが見事。

先に進みます。まだまだ古い町家がありそうです。

二軒とも素晴らしい。

       手前が看板建築、奥が出桁造りの商家。

バス停「金半前」。

朱塗りのおうち。

                 軽トラも朱塗り。

一方では洒落たお店も。

                    「SUNNY DAY」。

左手に「田間神社」。

この神社の上が、かつての城址に。

土塁と空堀で区画された主郭と、細長い第二郭が並ぶ直線連郭状の城跡で、現在城山団地となる一帯にも、「山小屋」と呼ばれた腰曲輪が存在していた。そのため、長軸で500メートル、短軸で240メートルが城域と考えられる。南西部は「ガンガン坂」と呼ばれる切り通し道で区切られるが、かつては城域を区切る堀切であった可能性が高い。緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪が回り、堀切や削り落しをもつ支尾根が数多く延びている。

 一説には、土気酒井氏が土気から田間城にいったん移り、城地の狭いことから東金城に移ったというが、裏付ける史料はない。むしろ、縄張りから判断すると、一六世紀半ばころの東金酒井氏領域における東端の「境目の城」として機能し、天正18年(1590)東金城の落城とともに廃城となった可能性が高い。

バス停「田間神社」。

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JR東金駅~成東駅。その1。九十九里鉄道線(廃線)。多田屋本社社屋・店舗。灰吹屋鈴木薬局。新宿。出桁造り。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-09 20:15:47 | 銚子往還

「東金駅」。

駅前の案内板。

今回から、JR東金線「東金駅」から「成東駅」までの報告。

かつて東金駅から九十九里浜まで鉄道が敷かれていました。

      ↑が軌道跡。                                「今昔マップ」より。

九十九里鉄道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。1926年の開業後、成東(なるとう)町(現・山武市)や千葉市への延伸は実現しませんでした。九十九里鉄道では、小さな車体の単端式ガソリンカーが使われていました。客車の前面にフォード社製のエンジンを取り付け、バックができない構造のため、終点で向きを変える必要がありました。廃線間際には、鉄道と並行する未舗装の道路に自社の定期バスも運行し、列車と交互に運行しました。乗客が上総片貝駅で尋ねると、駅員が「列車が速いかバスが速いか」を、案内してくれたといいます。

※廃線跡は、用水路や歩道などとして残っているようです。機会を作ってこの路線の廃線跡を歩いてみようと思います。

さて、街道沿いには、歴史的な建築物がたくさんあります。

その一つ。国登録文化財「多田屋本社社屋・店舗」。

多田屋は江戸後期の文化2(1805)年創業の県下で最も古い書店の中の一つです。
 
 

カフェになっている。

店舗。看板建築の一つ。社屋に入る道路の角にあり、昭和初期に建築されたものと推測されます。

腰壁は切石積みですが、溝が入った柱型や持ち送りにより張り出した軒などは石造りを模した木造・モルタル造りで、全体からは古典的な雰囲気が見受けられます。                      

裏手の奥には、  

多田屋本社社屋。元々は「東金税務署」として明治末期ごろに建てられたものです。のちに税務署の移転に伴い多田屋本社の社屋として使われるようになりました。平面はコの字型で、中央には玄関が設けられており、2階のテラス状のスペースと屋根の中央に設けられた三角形の屋根窓が端正な意匠を形づくっています。 

                   

         

この他にも、古い建物が目につきます。

       

              奥に土蔵造りの倉庫。左奥が多田屋本社社屋。

成東駅に向かって銚子往還道を歩きます。

「灰吹屋鈴木薬局」。

                      明治20年代の建築。

初代当主が八日市場(現・匝瑳市)の灰吹屋で修業し、名前を名乗る事を許されたという。
 
灰吹屋の由来は?
 
からを取り出すための灰吹法に由来するらしいが、詳細はよく分からず
 
各地に灰吹屋の屋号を持つ薬種店があることから、薬屋 の代名詞であったようである。
 
バス停「新宿」。
 
出桁造りの建物。
 
     
 
※出桁造りは軒を伸ばすためのしくみで、 屋根裏や 柱から腕木を出して、 その先端に桁(けた)をのせて屋 根を支える。
 
 町家(店舗兼住宅)は、軒を深く前面に張り出した「出桁造」による立派な軒が商店の格を示していた。
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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その5。東金街道。新旧混じった街並み。東金線「東金駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-07 20:13:30 | 銚子往還

「東金」。

東金の(かつての)中心街に入っていきます。

バス停「砂郷入口」。

典型的な商家の建物。

 

「せいがい(出桁)」造り。

この付近の今昔。

                             (1880年代)。

東金街道沿いに町屋がり、東南側は畑地が広がる。

                             (現在)駅を中心に市街地が発展。

※「東上宿」は、かつての宿場としての地名ではなく、街道筋にある「上宿」との関連。

東金市

江戸時代には徳川将軍家徳川家康徳川秀忠)が八鶴湖鷹狩に訪れ、東金御成街道東金御殿などを整備し、宿場町問屋街として栄えた

その後も山武地域(山武郡市)の拠点都市として、農業・商業を中心に発展してきた。

市の中心駅東金駅と県庁所在地の千葉駅東金線-外房線で約35分で結ばれている。また、朝夕は京葉線経由で東京駅発着の通勤快速も運行されている。 バス輸送においても、東京駅千葉駅への直通バスが、東関東自動車道 - 京葉道路 - 千葉東金道路経由で運行されている。

市内に所在する東金インターチェンジ千葉東金道路首都圏中央連絡自動車道(圏央道)双方を連絡するジャンクションを併設しており、国道126号と接続し、2キロメートルほど行くと東金九十九里有料道路台方インターチェンジ)に接続するなど、首都圏九十九里浜(九十九里海岸)方面とを結ぶ交通の要衝となっている。

地名の由来

  • 東金の由来は「鴇が根」に由来するといわれる。当地にある最福寺境内の山嶺が(とき)の頭に似ていることから鴇ヶ峯と称され、トウガネに転訛し東金と言うようになったと伝えられる。
  • 城の名称も『東金町誌』によると「東金城は往古上総介の属館なりしが後年千葉氏の支城となりて鴇ヶ嶺城と云う。後東鐘城と唱へまた鴇ヶ根城と号す。大永元年(1521)東金城と改称せり」とある。
  • 東金では 明細帳に「村名之儀は往古は辺田方と唱申候処、慶長十九甲寅御成之節より東金町と唱申候」とあり、1614年慶長19年)徳川家康がはじめて同地を訪れた折から東金町と称したという 。
  • 同市東岩崎に旧名に由来するとみられる鴇嶺(ときがね)小学校がある。

(この項「Wikipedia」より)

この通りは、「東金御成街道」と重なっています。「東金御成街道」は船橋・津田沼からほぼ一直線の道。かつて歩きました。

 

        

バス停「上宿」。

右折して東金駅に到着。

「東金駅」。

              構内にある孟宗竹の竹灯り。

               ※東金高、東金商業高の生徒の作品。 

今回は、ここまで。 次回は、成東駅までの予定。

附:「東金御成街道」の記録。

 

「東金城址」
 東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)。本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(1454~82)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末~16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の播鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。
 遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえで、貴重な文化財であると言える。

「東金御殿跡」
 東金御殿は、徳川家康による「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝が、慶長18年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次以栢(嶋田治兵衛伊伯)を造営に当たらせました。この御殿は、船橋-東金間に造られた御成街道の終着点にあり、東金辺での「鷹狩り」を行う将軍(大御所)の宿泊施設でした。現在、県立東金高等学校が建てられています。
 東金城があった城山の東麗の敷地(約6,700坪)に玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などの部屋、別棟には鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられました(下絵図)。ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれていますが、家康の所在を明確にしない事情もあり、絵図には記されていません。また、小池の拡張工事も行われ、谷池(御殿前池=八鶴湖)と上池に分けたといわれています。
 寛永7年(1630)の、大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われなくなり、その後、寛文11年(1671)に東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり、御殿は取り壊され、その一部が小西の正法寺(現在の大網白里町)などに移されたとのことです。右絵図と下絵図の大きな違いは、「表御門」と「御裏門」が逆転していることです。元禄4年(1691)の記載がある下絵図の方が当時の状況に近いことから、右絵図は江戸時代後半~明治時代初期と判断されますが、時の経過とともに御殿跡の役割も変わったことがうかがえます。

「東金高校」。れんが造りの正門。

湖畔にある「八鶴亭」。

                         

「ビリヤード棟」など歴史のある料亭。
 八鶴亭(旧八鶴館)は明治期創業の老舗旅館で、東金市を代表する景勝地八鶴湖のほとりに所在することから、北原白秋や伊藤左千夫ら多くの文人墨客が訪れました。
 現存する建物のほとんどが大正から昭和初期に建てられ、そのうち本館・新館・宿泊館・浴室棟・ビリヤード棟5棟が国の登録有形文化財に登録されました。・・・


そこからの「八鶴湖」の眺望。

                   
八鶴湖
 その昔、谷池(ヤツ)と謂う 谷はヤチ(谷地)に通じアイヌ語で草深い湿地の意なり
 慶長18年(1613)家康公 東金御殿を造営されるに、その「御殿前池」として弁天島等を設け整備される
 面積は約1万1千坪(3万6300平方メートル)周囲10町(約1000メートル)
 天保年間、幕末の尊王家、梁川星厳その弟子遠山雲如ら詩人、学者盛んに湖に遊ぶ
 雲如その詩句に八鶴湖と称し天下に紹介される

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その4。東金九十九里有料道路。旧道へ。大きなお屋敷が続く。「第三東金街道踏切」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-06 19:39:11 | 銚子往還

右手に「ヰセキ関東甲信越千葉事務所」。

                       かなり大きな営業所のようです。

左は「旬菜らーめんえむず」。

       地元食材、トマトなどを用いた創作ラーメンがウリ。

バス停「市立西中学校入口」。正面奥は、「東金九十九里有料道路」高架。

下の流れは「北幸谷川」。

                             

高架橋をくぐり、正面の道を進みます。

道路脇の用水路蓋の上を歩きます。

                      水路脇が旧道になっている場合がよくあるようです。

         槙の生垣。

立派なお屋敷が続きます。

               

正面を左に曲がります。

               

東金線の踏切を渡ります。

                      「第三東金街道踏切」。

  

「東金駅」方向。                   「福俵駅」方向。

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その3。旧道? 大網白里市から東金市入り。「なめろう」。蛇島。東金線「福俵駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-04 18:42:48 | 銚子往還

「銚子往還」としての旧道は、国道を渡った正面の道のようですが、左に見える国道脇の道(旧道)に進んでしまいます。

             この道も旧道のようです。

すぐ国道に合流します。

                     

この付近の今昔。

                             (現在)現在も旧道として残されている。

                             (1880年代)新堀地区への道が旧道。

朽ちたバス停。 東金市へ。

九十九里浜らしい広告。「なめろう」。

イワシやハマグリなど海の恵みが豊かな千葉県ですが、千葉の海産物といえばやっぱりアジが代表的ですよね。千葉では昔からアジが豊漁で、なめろうは千葉の代表的な郷土料理として広く知られています。

あまりのおいしさに、ついお皿まで舐め尽くしてしまいたく──というのが由来の「なめろう」。

なめろうは、アジやイワシ、サンマなどの青魚を薬味や味噌などと一緒に包丁で叩いて作ります。味噌など塩気を含む調味料と一緒に叩くことで粘りが出て、魚の旨みや食感を存分に楽しめるのが特徴です。

千葉県では居酒屋などの定番メニューですが、実は自宅で簡単に作れるので、ぜひ自家製なめろうで楽しい晩酌タイムを過ごしてください。

オーソドックスななめろうに冷やしなめろう、さんが焼き。どれも簡単に作れますから、おうちで手軽に再現できます。夕食のおかずに、お酒のおともに、ぜひ千葉の豊かな海の恵みをご自宅でご堪能ください!

                

(この項「」HPより)

ここからは、海は見えませんが。

「高齢者向け住宅はまゆうの里・東金」。

本龍寺の杜。

大きなお屋敷が続く。

              

                             門前にバス停「蛇島」。

南北朝のころ、護良親王が鎌倉に幽閉され、二階堂谷の土牢で最期を遂げた。親王の息女・華蔵姫は、父を慕って京から鎌倉に遠路旅してきたが、辿り着いたときにはすでに親王は淵辺義弘により非業の最期をとげた後だった。

姫は一時泣き崩れたが、さすが猛将といわれた親王の娘、すぐに鎌倉に滞在するのは危険と判断し、南朝の味方の多い上総へと下った。姫の一行は山中たどりながら、目的地の姫島へと到着したという。

ところで、鎌倉二階堂谷には永く棲みついた大蛇がいた。大蛇は父宮幽閉の土牢を見にきた華蔵姫のことを忘れられず、姫を慕って後を追ったのだという。慣れない長道中鱗がはがれ、傷だらけになり、精根尽きはて、大蛇は福俵村の田んぼの中で死んでしまった。

部落の人々は大蛇の死骸に驚き、祟りを恐れてお坊さんに頼んで供養してもらった。さらに、華蔵姫を追ってきたのだということを知った人々は、改めて墓地塚を築いて供養をした。これを蛇塚といい、田の中に島のように見えることから蛇島と呼ぶようになったという。今はもう塚がどこにあったのかは知れない。

東金市教育委員会『東金の昔ばなし』(NTT)より要約

東金周辺にはこの護良親王の娘という華蔵姫(けぞうひめ)の伝説が色濃い。姫島というのは今も大字だが、山武市の東金市隣接地にある。東金側には家之子(いえのこ)という大字があるが、これが姫にちなむ地名といい、そこの妙宣寺や、かつて家之子にあったという圓福寺が縁故の寺であったという。

しかし、半ばから出てくる蛇は一体何なのかという不思議な話だ。福俵は今も大字としてあり(駅もあるが)、内に確かに蛇島というバス停名が見える。最終的に蛇は全く姫に影響を与えていないということになると、どういう話の型なのかというのも難しいところだ。

(この項、「蛇島の地名の由来(千葉県東金市) - 龍鱗」HPより)。

   

「ふくたわら動物病院」。

この先、左奥に東金線「福俵駅」があります。

福俵(ふくたわら)

地名は「ふけ(湿地)・た(処)・はら(原)」の転訛で湿地の広い平地という意味か。または水田地を指したものか。

「東金市トウガネの地名由来 | 未知の駅 總フサ」HPより)

※「福俵」は、縁起のいい漢字のようです。

日本人の主食である米が詰まった米俵は古くから富の象徴とされてきました。「五穀豊穣」「商売繁盛」などの意味があると言われています。

 (「」HPより)

東金線がこの道の先にあります。

右側(東側)。はるか遠くに「九十九里浜」。

東金線「成東」行き電車。

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その2。看板建築。下宿。2か所の金尺手。田園地帯。南白亀川(なばきがわ)。(国道128号線。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-02 18:22:22 | 銚子往還

年季の入ったおうち。

        看板建築風。

バス停「大網下宿」。 

大きく右折します。

その先を左折。

                   「曲尺手(桝形)」。

宿場を抜けて田園地帯へ。

              

田畑が広がる。

「かえもん・ジョブファーム直売所」。

                       

里山風景が広がる。

   クラフト工房。

「国道128号線」を越えて進むのが、旧道。

※「国道128号線」は、「伊南房州通往還(房総東往還)」歩きのときに何度も出会い、歩きました。明治に入り、「伊南房州通往還」をなぞってつくられた道路で、千葉市内から房総半島を横断する幹線道路(「房総横断道路」)。

銚子往還でもしばらくは利用することになります。

「南白亀川」を渡ります。

       

南白亀川(なばきがわ)

千葉県房総半島東部九十九里平野を流れる二級河川。南白亀川水系の本流である。

地理・環境

大網白里市小西付近の丘陵面に源を発し東流する。間もなく両総用水を越えて、東金市との境界を南下する。東金線を越えると川幅が広がり、多くの支流を集めながら東へ進む。周囲は水田と畑が混ざって分布しており、複数の頭首工によ取水されている。東金市との境界で再び南へ折れ、小中川を合わせると茂原市に入る。赤目川を合わせると今度は長生郡白子町に入り、観音堂橋・白子町役場付近で東へ折れる。古所の九十九里浜太平洋に注ぐ。流路延長21.7kmのうち、東金線橋梁より下流17.5kmが二級河川に指定されている。中下流部には遊歩道が両岸に整備され、桜が植えられている。

河川名の由来は、白子町内流路上にある白子神社の白亀・白蛇伝承による。平安時代、白子の海岸に白い亀が南方から白蛇を背にして渡来し、これを見た潮汲みの翁が柄杓を差し出すと白蛇がそこに昇った。その白蛇を翁が自宅近くの小社に祀ったという伝承であり、白蛇は白子神社の御神体となっている。

茂原市内、河口から7.7kmの地点に清水堰があり、そこを境に上流が堰湛水区間、下流が感潮区間である。前者は季節により水量・景観が異なる。川面にはアズマネザサススキが繁茂し、コイギンブナが生息する。それに対し後者はヨシが繁茂し、シマイサキボラマハゼなどが見られる。潮の流れを利用し、毎年7月には「南白亀川イカダのぼり大会」が開催されている。かつてはハゼ漁などが盛んに行われたが、現在は南白亀川漁業協同組合が漁業権を持ち、捕獲量はわずか。河口部は、千葉県のレッドデータブックで最重要保護生物に指定されているアカウミガメの産卵地になっている

(この項、「Wikipedia」より)           

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JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その1。房総往還・房総東往還に続き、銚子往還へ。大網宿。曲尺手。「本宿」バス停。(「銚子往還を行く」。第1日目)

2024-03-01 20:10:53 | 銚子往還

:房総往還(JR「内房線」)、:房総東往還(「外房線」)。今回から:「銚子往還(街道)」歩きの報告。

大網~銚子、約63㌔の道のり。

成東までは、JR「東金線」、成東からは「房総本線」を利用しての歩きとなります。

このところ、九十九里浜の東方沖では群発地震が起こっています。はたしてこの先どうなるか? 歩いている最中に大きな地震に遭遇したら・・・もちろん地元の方々の不安・心配は大きいものですが。

第1日目 2月9日。晴れ時々曇り。

手始めに「大網」から「東金」までを歩くことに。北風が冷たく、体感的には寒い。温暖な南房総歩きとは、けっこう異なるようです。

※「大網白里市」歴史は古く、江戸時代から「大網宿」として知られ、九十九里(浜)と縁のある「百里」から漢字の「一」を抜いた「白里」が地名の由来とされている。

「大網」には旧大網駅など見所も多いようですが、別の機会に譲ることとして街道歩きを。

「大網駅」。右は「東金線」。

「駒込」交差点。

ここをスタート地点とします。

右(南)に進むのが「伊南房州通往還(房総東往還)」、左(北)に進むのが「銚子往還」。

   

 (右折する道)               (左折する道)=「銚子往還」。

「外房線」のガードをくぐります。

            「落合橋」から「小中川」上流。

                 「南白亀川(なばきがわ)」の支流。

下流方向。

大網白里市のマンホール。

             太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。    

旧市街地を進む。  

バス停「市役所入口」。町時代の「役場入口」というバス停も。

房総半島独特の小山。

宿場らしい家並み。

バス停「本宿」。

       

               上部は看板建築仕立て。

この先を右折します。

大きなお屋敷。

来た道を振り返る。

「曲尺手(桝形)」?

      「←白里海岸」。

                  (下方)北上する道を進みます。

街道筋には、まだ町家が続きます。

                 バス停「新宿」。   

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