おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その4。畔吉の渡場。榎本牧場。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-09 20:14:53 | 荒川を遡る

軽飛行機が大空を。

この先、対岸にある「ホンダ エアポート」から飛び立った飛行機か?

           

草むらの奥に紫色の花がたくさん。

「ハナダイコン」。紫色というとスミレを思いますが。

一面の菜の花。

「畔吉(あぜよし)の渡場跡」解説板。

・・・寛永6年(1629)それまで現在の元荒川の流路をとっていた荒川は、関東郡代伊奈忠治により、熊谷市久下(くげ)地区で和田吉野川、市ノ川筋に瀬替えされた。これに伴い、新しい流路に沿って江戸建米の運送を公許された船問屋の舟運業がはじめられ、河岸場が次々と設けられた。

「新編武蔵風土記稿」に記載された荒川の河岸場は、武鼻(秩父市)、玉作(大里村)、高尾(北本市)、平方(上尾市)、羽倉(浦和市)、地蔵(同)の6ヶ所であるが、幕末には舟運はますます栄え、船問屋を中心とした河岸場は20ヶ所あまりもあったという。しかし、明治16年(1882)高崎線の開通により次第に衰微していった。

上尾市内の河岸場としては、平方河岸と畔吉河岸が知られているが、畔吉村は同時に比企郡へ渡場があったところでもある。畔吉の渡場は、前書「新編武蔵風土記稿」の正保年間中改定図に、畔吉舟渡し21間(約38㍍)と記されている。また「武蔵国郡村誌」には畔吉村の項に「渡し、村の西方荒川の中流にあり渡船2艘馬渡し」とある。

畔吉の本田家は、高瀬舟5艘を所有し、舟運業者として隆盛を誇った。明治11年(1878)、渡賃は持ち荷とも一人3,4厘、馬子とも荷馬2疋8厘という記録もあり、大正末期まで渡しが続けられた。

サイクリングロードは続く。

食堂などの案内板。歩きでは遠い! 

「食事処新道」。(「Googleマップ」より)

荒川の流れ。この辺りで小休止。のどかな草原。

この先には、牧場が。

右手に「榎本牧場」。牛がのんびりと。

榎本牧場(Enomoto Dairyfarm)は埼玉県上尾市の荒川沿いにある乳牛を飼っている酪農の牧場です。

牧場体験や、新鮮牛乳で作ったジェラートアイス・ヨーグルトの販売などをしています。

牧場では60~70頭の白と黒の斑模様の乳用種「ホルスタイン」を飼育していて、仔牛の体重は40~50kg、約2年半で体重600~700kgの成牛となり毎年のように赤ちゃんを産んで牛乳を出します。一頭ずつ電子タグでコンピュータで管理されており、毎日一頭から20~30kgの牛乳が24時間稼働の搾乳ロボットによって自動で搾られており、いつでも見学可能です。

乳牛の他にもニワトリ、チャボ、ミニブタ、ウサギ、モルモットなど多種の動物がくらしており、地元の方々による寄付のおもちゃの自動車や三輪車で遊ぶ事ができます。

荒川の眺めや自然を感じながら、ジェラートを食べてゆったりと。

上尾にあるあなたの知らない小さな北海道、「えのぼく」へ是非お越し下さい。

(この項、「」HPより)

               

この先ものんびりと歩きます。

                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その3。西野橋(冠水橋)。小塚浅間塚。「清明」。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-08 20:32:01 | 荒川を遡る

                 「リバーサイドフェニックスゴルフクラブ」クラブハウス。

「西野(にしや・にしの)橋」。

荒川本流上に架かる冠水橋(潜水橋)である。上尾市道を通す。 荒川本流上の冠水橋としては最も下流側に位置する。 左岸側に立地するクラブハウスと右岸側のゴルフコースを結び、専らゴルフ場の橋として機能している実態であるが、ゴルフ場の関係者以外の誰もが利用できる。

※「冠水橋」=洪水時には橋面が水面下になる橋をいう。「沈下橋」。

この先、上流にいくつか架橋されている。

その先で、右手の土手の上に。

                     「県央ふれあいんぐロード」。サイクリングコースになっています。       

土手を下ると、「八塚樋管400m」標識。

「小塚浅間塚」への案内。

解説板。

 浅間塚は、「富士塚」ともいわれ、江戸時代後期から江戸を中心とした地域で造られるようになった。これは当時流行した富士浅間信仰によるもので、富士山参詣が難しいことから、女性や子どもでも簡単に参拝ができるように、富士山を模した塚を造り浅間社を祀ったものである。特に埼玉県東部や群馬県東南部・栃木県南部の一部地方の富士塚では、「初山」と呼ばれる行事が行われる。この行事は、富士山の山開きの日である7月1日に合わせ、生まれて初めてこの日を迎える子どもを連れて参拝し、子どもの健やかな成長を祈願するというものである。
 「小塚浅間塚」は、「おおつか」とも呼ばれ、現在も厚く信仰されている。塚は、高さ約4.6m、1辺が約26mの方形で、塚の東と南の裾部が基盤まで削られているが、全体的に塚の形状がよく保たれている。全体が竹や榊に覆われ、頂上部は平坦で、頂上中央に文化13(1816)年の石祠と明治26(1893)年の「登山大願成就」碑がある。参道は、南西の隅から頂上に向かって一直線に造られていて、上り口に鳥居や講中碑などが建っている。現在も7月1日に初山行事が行われており、市内の富士浅間信仰を考える上で貴重な民俗文化財といえる。

奥に見えるのが「小塚浅間塚」。

しばらく家並みの中を進み、左折します。

再び土手に。

「畔吉河岸跡」の標識。

その先に四阿。休憩(「アッピーお休み処」)。

右、眼下にサクラ。奥は「上尾丸山公園」。

のどかな里山風景が広がる。

荒川側。

階段を下りて左手へ。

道標。「畔吉八幡730m」。

左手からフルートの音色。土手下で練習する人が。

 

広々とした牧草地。

「県央ふれあいんぐロード」・「サイクリングコース」は、まだまだ続きます。

・・・

ところで、4月4日は二十四節気の5番目「清明」。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の「穀雨」(4月20日)前日までの16日間。

以下「ウェザーニュース」より。

「清明」は「清浄明潔(せいじょうめいけつ)」という言葉の略となっています。
「こよみ便覧」(江戸時代に書かれた暦の解説書)の清明の説明部分で登場しており、この時期は、草木を始めとした全ての物が活き活きとしており、清らかで美しいということを伝えています。

中国には清明節(せいめいせつ)という祝日があります。毎年4月の4日前後で、ご先祖様にご加護と平安を祈る日とされています。
清明節は、家族そろって祖先の墓に足を運び、お供えをしたり、お墓の掃除をするという習慣があります。日本でいうお盆のようなものですね。ちなみに、お墓を清めるという意味合いから、別名「掃墓節(そうぼせつ)」とも言われているそうです。

清明祭は、中国のみならず沖縄でも実施されています。「せいめいさい」ではなく「シーミー」と呼ばれ、二十四節気「清明」の期間に行うところがほとんどだそうです。目的は中国と同じくご先祖様の供養。

ただ、シーミーにはちょっと変わった点が。掃除などを済ませた後、お墓の前にレジャーシートを敷いて、お重に入ったごちそうを食べるという習慣があります。「え、お墓の前で?狭くないの…?」なんて思いますが、沖縄のお墓の前は、清明祭のためにきちんとスペースが設けられているようです。家族とワイワイ楽しみながら食事ができるということで、ご先祖様自身も楽しみにしている行事の一つかもしれませんね。

「春を迎えて郊外を散策する日」ということで、清明節は、掃墓節の他に「踏青節(とうせいせつ)」とも言われています。
暖かくなった清明の時期にはまさにピッタリです。

七十二候では、そろそろツバメが渡ってくる時期だと伝えていますから、のんびりと散歩をしている最中にツバメ見かけることも多くなることでしょう。
ツバメに限らず、辺りを見渡せば、草木や生き物が活動を始め、春の訪れを知らせています。

春彼岸でお墓参りには行ったばかりだから…なんて言わずに、清明の時期はご先祖様のもとに足を運び、季節の変化を共有するのもよいかもしれません。

・・・

近所の公団の藤棚。

路傍にはサクラソウ。

                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その2。開平橋。平方河岸。「川岸屋」。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-07 21:15:59 | 荒川を遡る

               行く手の正面に軽飛行機の姿。

路傍には菜の花。

振り返る。

左手を流れる荒川に近づいていきます。

満開のサクラ。

「開平橋」。

橋の下は、すぐ荒川の流れ。

右側は集落になります。

荒川の流れ。久々に近づきます。

「手打うどん 川岸屋」の看板と向こうにお店。

1年前に廃業したようです。自販機も撤去されています。「川岸屋の娘」というTwitter(@FX2ESamjGdzKz6j)があります。その内容・写真を紹介させていただきます。

3月27日投稿の写真。「2021.03.27 桜🌸はまだまだ満開ではありませんが、気持ちの良い日差しでしたね‼︎ 久しぶりに両親、登場です‼︎」

奇しくも同じ日に通りかかったわけです。ビックリ!

1年前の「読売新聞」。「50年続いたお店を閉店する」との記事。

2019年10月の台風19号で大きな被害を受けました。3㍍ほど浸水したようです。その時の写真。

奥が「川岸屋」。翌日のようす。

晴れた日には、富士山も見える、とか。

堤防護岸工事のため、お店もなくなってしまうようです。

「いよいよ本格的に堤防の図面が出来たようです。 堤防の平面図、断面図を見ながら想像してみる…んぅ〜、家全体が堤防の土に中に消えちゃうな…」

サイクリングを楽しむ人たちや川歩きの者にとっては、勿論、地元の方にとっても、食事を楽しめ、飲料水も補給できるお店でした。とても残念です。

Twitteには、これからも訪問させていただきます。

       2021年3月27日10時27分撮影。

「荒川」。

「彩湖」のとき以来です。

下流を望む。「開平橋」。

ここには「平方河岸」がありました。「開平橋」の由来を含め、以下、「Wikipedia」より。

後の開平橋の付近には江戸時代から平方河岸があって、渡船場(平方の渡し)を兼ねていた。この渡し場は平方村にあって上尾宿川越の城下町を結ぶ道にあたっていた。船2艘を有する官渡で、渡船料は徒歩が1人3厘、荷馬が1疋8厘であった。渡船は1883年の橋の開通後に廃止されたが、大水の際に臨時に渡船を運航していた

明治時代になって地元の飯田甚左衛門らが出願して、はじめて橋が架けられた1883年(明治18年)12月16日に完成した開平橋は、全長51間(92.7メートル)、幅9尺(2.73メートル)の舟橋で、杭につないだ10艘の舟の上に板を載せたものであった。橋の位置は今より少し川上にあった。建設の材料と費用は近くの神社(現在の橘神社)の木を伐採して得た。橋の一部である左岸側から2番目の船が旋回橋のように上流側に扇形に6間分開閉して、荒川を通る船が通航できるようになっていた。橋名の由来はこの様子による他、平方村の開拓への思いから付けられたと言われている。有料橋で通行料は5厘であった埼玉県立川の博物館に初代の開平橋の模型があり、橋が開閉する様子が展示されている

最初の開平橋が損傷したため、1890年(明治23年)7月に修繕願いが提出され、大修繕の末1891年(明治24年)6月に新たに舟4艘と橋脚10組(各2本)で支える橋に架けなおされた。長さ62間(約112.7メートル)、幅2間(約3.6メートル)であった。この橋はもはや船の通航を許さず、荒川舟運は手前の平方河岸までとなった。終着点になった平方河岸は、しだいに鉄道に輸送を奪われつつも、最後の繁栄を迎えた。

1910年(明治43年)の大水で再び壊れた開平橋は、1911年(明治44年)頃に架けなおされた。 このときに舟は廃され、橋脚がある板橋になった。また、この橋の開通によって渡船は完全に廃止された。長さ62間(約112.7メートル)、幅12尺(約3.6メートル)であった。橋は平方村が管理した。大水のときに水面下に沈む冠水橋(かんすいきょう)で、水位が上がると橋の板を取り外さなければならなかった。有料橋で通行料は1銭であった。この橋は1932年-1933年頃に破損したが、日中戦争の戦時下にあって架け替えが認められなかった。 なお、1935年(昭和10年)に通行料が廃止されたといわれている

1952年(昭和27年)に新しい開平橋がやや下流側に架けられ、2月16日に開通式が行われた。着工は1951年10月で、架設には県費500万円が投じられた。これは長さ91メートル、幅4.5メートルの木橋であった。水位が上がると冠水する冠水橋であることは前と同じであったが、バスやトラックの通行が可能であった。1958年9月に流失した。

・・・以後、1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリートの橋脚に、1977年(昭和52年)4月1日に、今までの橋より川下の位置に総工費14億5655円をかけて現在の永久橋が架けられた。

・・・

この付近の今昔。(「歴史的農業環境システム」より)

                                                         

1880年代のようす。                2010年代のようす。中央が「開平橋」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その1。川越線。上江橋。河川敷の集落。農道。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-06 22:14:35 | 荒川を遡る

                 「荒川」に向かう「川越線(埼京線)」の電車。

「荒川を遡る」第3日目。3月27日(土)。晴れ。

「指扇」駅を出て、西に向かいます。高校生達がジャージ姿で土手方向へ。あっという間に姿を見失った。

これから上流を目指して歩き始めます。

「海まで44㎞」ポスト。

「川越線」踏切。単線とは思いませんでした。

サイクリング道路の案内板。長い区間にわたって整備されています。

「上江橋」をくぐります。関東をぐるりと回る幹線道路の「国道16号線」にここでお目にかかりました。この付近、西方向では「川越街道」を歩いた時、川越の手前で遭遇。東方向では「中山道」の時に大宮付近で。街道歩きではけっこう縁がある国道。

そういえば、「房総往還」歩きのとき、富津で、「16号線」の千葉側最終地点に。

土手の上を歩きます。

右下は指扇の街並み。畑もあってのどかな風景。

左下には「大宮国際カントリークラブ」そしてグランドが広がります。

       向こうにはゴルフ場。

横堤がここにも。

                      

左下には、田畑や家も。

車も通っているので、下りてみようかと思いましたが、芝を造成中で立入禁止。そのまま堤の上を歩きます。

振り返る。

「海まで46㎞」ポスト。

新しい標識が。踏切から2㎞も歩いてきた? 

荒川の流れは、はるか向こう。

「さいたま市西部環境センター」の煙突が右手先に。

「埼玉自動車教習所」。

荒川河畔のゴルフ場と今歩いている堤防との間には小さな集落があるようです。公民館や馬頭観音なども。

「Googleマップ」をよく見ると、ゴルフ場沿いには道路があります。「上江橋」をくぐったら、すぐ左折し、そこに通じる道を歩けばよかった! 

またあった「横堤」の脇を下って、「宝来運動公園」方向へ。

 

堤防の向こうに「さいたま市西部環境センター」。

耕作を待つ田畑。

                     (「歴史的農業環境システム」より)2010年代のようす。グランド脇の道から周囲に田畑が広がる農道を進みます。左上に荒川の流れ。

 

・・・春は堤のサクラや菜の花だけではなく、我が家にも。4/06。

  モッコウバラ

      スイートアリッサム

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「西浦和」駅~「指扇」駅。その4。「大宮けんぽグラウンド」。治水橋。びん沼・川。(「荒川」を遡る。第2日目。)

2021-04-05 20:40:33 | 荒川を遡る

広々とした河川敷。振り返る。

右手にラグビーグランド。奥の並木がすばらしい。野球場やテニスコートも何面も。「大宮けんぽグラウンド」。

広大な敷地にさまざまなグランドやテニスコート。

     

当運動場はさいたま市の北西部荒川治水橋下左岸河川敷に位置し、主に業種別健康保険組合、民間企業が共同で運営する総合運動場です。
広さ約23万坪を誇り、この広大な敷地に野球場52面、テニスコート106面その他サッカー・ラグビー場等様々な施設を有し、会員団体を始め、一般の方々にも広くご利用いただいております。

(この項、「大宮けんぽグラウンド」HPより)

遠くに「治水(じすい)橋」。

         

荒川が現在の位置を通るようになったのは1926年大正15年)5月17日のことである。明治時代から続いた河川改修の一環で、直線化で取り残された旧川の曲線部はびん沼(今のびん沼川)となり、新しい川には渡船場が置かれ有料の賃渡船が運行されたが1927年(昭和2年)に県営化された。渡船場は「馬宮の渡し」と呼ばれ、治水橋とほぼ同じ場所に位置していた治水橋の開通により渡船場は1934年(昭和9年)に廃止された。(「Wikipedia」より)

                                                                          2010年代のようす。蛇行している川が元の荒川の流れ(「びん沼(川)」。左下の流れは、「新河岸川」。中央の橋が「治水橋」。(「歴史的農業環境システム」より)

「治水橋」に関わることを紹介。(以下、「荒川上流河川事務所」HPより)

びん沼は、荒川の河川改修で取り残された旧荒川の一部です。荒川の河川改修は大正期から1945(昭和20)年代にかけて、洪水対策として蛇行していた川筋を直線化する形で実施されました。そして、その河川改修、治水事業を推進したのは、旧荒川(びん沼)のほとりに実家のあった斎藤祐美です。

斎藤祐美(さいとうゆうび・1866(慶応2)~1943(昭和18)年)

現在さいたま市西区となっている北足立郡馬宮(まみや)村飯田新田で代々続く外科医の次男として生まれました。
家業を継ぐべく医学生として勉学に励んでいた1890(明治23)年、荒川の氾濫で自宅周辺が水没するのを目の当たりにし、病気や怪我以前に水害で命の危機に曝されている故郷を安全な地とすべく、新聞記者を経て政治家となりました。
明治の終わりから大正時代を経て昭和の始めまで、通算7期27年間埼玉県議会議員を務め、途中副議長を1期、議長を3期歴任しています。
利根川・荒川の両河川の洪水にしばしば見舞われていた埼玉県では、1910(明治43)年の大水害を期に埼玉治水会が結成されました。斎藤祐美は両河川の改修を県議会活動を通じて埼玉県だけでなく、帝都・東京府や国をも動かし、特に荒川の直線化・拡幅および放水路建設等の推進に中心となって尽力をつくしました。
斎藤祐美は「治水翁」呼ばれ、荒川に架かる治水橋(治水翁に因む)のたもとには功績をたたえる彰功碑が建っています。

「横堤」の一部が残っている。

サクラソウの自生地。

「治水橋」。荒川を越す橋脚はどこも見上げるほど高い。

サイクリングロード。

          振り返る。

 

「西遊馬公園」を過ぎ、右手の土手に上がる。

眼下に指扇の街並み。

この先を右に下って行くと、JR「指扇」駅に。

     「丸堀」。

「埼玉栄高校野球グラウンド」が広がる。

「埼玉栄高校」といえば、相撲部が有名。豪栄道・貴景勝・妙義龍・北勝富士などの出身校。

野球部も強豪チーム。

ここを下ってJR川越線「指扇」駅へ。

今回は、ここまで。結局、最後まで荒川の流れは見えませんでしたが、けっこう変化に富んだ歩きでした。「サクラソウの自生地」はもう一度訪問したいところです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「西浦和」駅~「指扇」駅。その3。モーターパラグライダー。ラジコン飛行機。(「荒川」を遡る。第2日目。)

2021-04-02 21:04:36 | 荒川を遡る

           左奥に荒川本体の堤防。工事中の区間。立入禁止。

          大がかりな堤防・護岸工事。

  木立が続く。

  

歩道と土手の間は、濁った流れが。

右手に多目的の大きな広場。

歩いた時は、「緊急事態宣言」が発出中だったので、家族連れなど少ない。それでも、思い思いのスポーツ、くつろぎ方を楽しんでいる様子。

「羽根倉橋」が近づいてきます。

                        右手は「ピクニックの森」。

ここまでが「秋ヶ瀬公園」。キャンプ場、運動広場、森などけっこう楽しめそうな公園のようです。

駐車場もトイレなど、各所に。 

橋をくぐった先は、大きく迂回することに。

   「横堤」?

「ピクニックの森」方向。

荒川流域内であることに変わりない。警告案内。

右手は、自動車教習所、サーキット、グランド。左手は河川敷の大きなゴルフ場。

                 

しばらくゴルフ場脇の道を進む。

                    

ゴルフ場の土手にサクラソウが。

こんな木立の中の道も。

上空にエンジン音。モーターパラグライダーが。

モーターパラグライダーは、大きな扇風機の様なプロペラ付きのエンジンを背負い、それを動力にして飛ぶアクティビティ。パラグライダーと比較して飛ぶ場所の制約が少ないため「大空を自由に飛びたい」という夢を手軽に叶えられます。

また、動力のないパラグライダーでは山の斜面で助走を取ることが多いですが、モーターパラグライダーは平地から飛び立つことができるので、ジョギングができる程度の体力があればどなたでも手軽に空中散歩を楽しめるのもポイントです。

(この項、「」HPより)

     悠々と大空を。

同好の士が集まって飛んでいるのか? 

右手奥に「横堤」の一部? 

様子を見ながら小休憩。左はゴルフ場。

その先、大きく広がる田畑。

遠くにモーターパラグライダーの姿。

と、別の小さなエンジン音が聞こえてきます。

こちらは何面もある「サッカーグランド」。

再び、広がる田畑へ。

その先で、エンジン付きのラジコン飛行機の手入れしている人たち。ここから飛ばしていたのですね。

意外と大きい機体。

サイクリング車がけっこう行き交う「サイクリングロード」ですが、楽しみながら歩いてきます。

激しかった2年前の水害のようすを残しているところも。    

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「西浦和」駅~「指扇」駅。その2。桜草公園。秋ヶ瀬公園。(「荒川」を遡る。第2日目。)

2021-04-01 18:39:25 | 荒川を遡る

                    青空の下、一面に広がる

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。

                     1880年代のようす。荒川沿いに茅や草地、畑。                     

もともとは湿地帯好みの草花が多いのでしょうか、乾燥した地肌が目立ってきて、管理の難しさを。しかし、地元の方々の自然保護の取り組みが熱心に行われています。

。2019年10月の令和元年東日本台風(台風19号)により、大きな被害を受けたのかも知れません。荒川流域は増水による被害が多かったようです。

野焼き。

3/24サクラソウ。

(「」HPより)

足元に、ノウルシ。

              ツクシ。

西側は広い公園になっています。

                 

サクラソウ自生地を望む。

名残惜しいですが、上流に向かって出発。

多目的広場では、子供達が球技。

「秋ヶ瀬橋」。

左手の広場では何組も楽器演奏中。

1970年代に、埼玉の学生たちが荒川の河川敷に広がる田島ヶ原で「ウッドストック」をモデルにした伝説の「野外ロックイベント」が催された、とか。

秋ヶ瀬橋」をくぐって「秋ヶ瀬公園」方向へ。

              左手はゴルフ練習場。

      

公園に沿って進みます。

「羽根倉橋」までけっこう長く続く公園。

さいたま市の西の端を流れる荒川の河川敷で、秋ヶ瀬橋からその上流約3km、羽根倉橋までの区間に位置する公園です。
昭和41年、都市の拡大による公園緑地の不足に対処するため計画され、昭和46年に開設されました。
野球場、サッカー場、テニスコート等のスポーツ施設と、芝生広場、子供の森、ピクニックの森等の緑あふれる自然エリアの調和した、広大な緑地公園です。

交通案内図。(この項、「埼玉県」HPより)

※秋ヶ瀬公園は「荒川第一調節池」の範囲(「彩湖」などと同様)に含まれており、荒川が増水した際の遊水地貯水池として機能する2019年10月の令和元年東日本台風(台風19号)により、当公園も冠水。復旧に時間がかかった。

 

歩道が再整備され、歩きやすい。左奥に「荒川」。

両側は竹や雑木林に覆われている。

        水害の跡らしき箇所も。

西側を流れる「荒川」には「秋ヶ瀬取水堰」があるのですが、見ること出来ず。

(「Googleマップ」より)

荒川で最も下流にある堰で河口から約35キロに位置する。この堰より下流の荒川は汽水域(感潮域)であり塩水くさび潮汐が発生するほか、「東日本大震災」では津波がこの堰に到達した利根川から武蔵水路を通って荒川に導かれた水を東京都水道局朝霞浄水場及び三園浄水場、並びに埼玉県営大久保浄水場へ送水する役目を担っているほか、新河岸川及び隅田川の浄化用水も供給する。(以上、「Wikipedia」より)

「武蔵水路」は、「日光千人同心街道」(八王子~佐野)歩きの時に通過しました。

(「利根導水総合事業所」HPより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする