おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

白坂宿~白河宿~女石の追分。その3。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-07 22:04:50 | 奥州街道

古い建物を生かした店家などがあります。

北側にはすてきな赤松と土蔵造り。

    
               (11:35)「奈良屋呉服店」。白壁が素晴らしい。

    
                          「新町」解説板。

 江戸から奥州街道をたどり、白河城下の入口にあたる町が新町です。一番町・二番町・七番町・九番町の五つに分けられています。
 江戸時代初期、会津領時代の絵図には「鉄炮(砲)町」とあり、初代白河藩主となった丹羽家時代には「足軽町」とあります。
 このことから、当初は新町が江戸側の防御の役割を担っていたことが推測されます。後に町人が中心の町になっても足軽屋敷が点在していたのは、その名残りと考えられます。
 町名の由来は、「白河風土記」(1805年完成)によれば、新しく取り立てられた町と推測していますが、いつ頃よりこう称されるようになったのかは不明であると記しています。また家数は202軒とあります。
                                                白河市

「国道294号線」が旧街道そのものになっています。


 「一番町」を過ぎて「天神町」交差点を右に直角に曲がります。その角に「月よみの庭」という庭園があります。
    

 石英安山岩質の凝灰岩(火砕流堆積物)の為、色が白く東京・京都の神社仏閣では珍重されたそうで、クッション性に富み、内部に水を含み蒸散作用で足元が涼やかに感じられるそうです。
 何だか割れた石を無造作に置いてあるだけ(建物を取り壊し終わった敷地という印象)という感じで、「月よみの庭」という名称のいわれが知りたくなります。

「関山満願寺」。
 詩人の詠に古への連想床し都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河や
 我が白河の名ぞかおる
 その郷に関の山ぞありける

 西郷村谷地中の道場窪にある笠松より関山を東南東に望む。
 笠松の場所が白河石黒目の産出地である。
 古代は関山の見える処が人の住める処のようです。

 脇の石には「霞が関の名の由来か」とありますが。詳細不明。 

    
         足元にさりげなく置かれた解説プレート。・・・「江戸時代の踏石」。

 奥に樹齢100年、明治中期に植えられた赤松の「優陽の松」があります。
 赤松は白河の市民木。西日に当たると若々しく優しい艶を出すといわれ、北西(北極星)に向かって斜めのラインをもつこの赤松は、「雄飛の松」とも呼ばれているそうです。
    

その右奥には古い建物。

(11:41)「天神町」バス停。国道194号線。

白壁造りのおうちが目立ちます。

    

歴史的風致形成建造物 今井醤油店建造物群
 今井醤油店は、江戸時代末頃に今井清吉氏によって創業された。江戸時代には、当地において魚屋、乾物屋を営んでおり、文政6年(1823)「天神町絵図」には「肴商売武兵衛」、天保年間(1830~44)には「肴屋清吉」と記されている。醤油製造を営むようになったのは、4代目今井清吉代の江戸時代末期と伝えられ、現当主で8代目を数える。
 建造物群は、旧奥州街道に面した漆喰塗りの座敷蔵と切妻・平入りの伝統的町屋建築の店舗が一体となって特徴的な景観を呈している。座敷蔵は、明治26年(1893)に建築されたもので、店舗・主屋は、魚屋を営んでいた江戸時代の建造物を増・改築し、現況の外観は昭和30年代の改修によるものである。
                              白河市

この家も増改築はしてあるが街道筋らしい建物。

その奥には白壁造り。

(11:46)「白河提灯まつり・みこし格納庫」。

白河提灯まつり
 2年に1度(西暦偶数年)開催される「白河提灯まつり」は、新潟県の「弥彦灯篭まつり」、愛知県の「諏訪神社大提灯まつり」と並ぶ日本三大提灯まつりの一つに数えられます。
 神社みこしが町内に繰り出した後を、各町のみこしや提灯が従い、粛々とすり足で進む行列と、宵闇に揺れる幻想的な数千個の提灯が見物客を魅了します。別名「儀式まつり」といわれるほど、武家社会の格式が導入された独特の行事で、伝統文化として白河の地に受け継がれています。

    

歴史的風致形成建造物松井薬局建造物群
 松井薬局は、江戸時代末期の文久年間(1861~64)に、安田信義氏によって松井薬舗として創業され、明治12年(1870)当地に移転した。2代目安田平助(敬止)氏は、薬種問屋の傍ら大正7年(1918)から11年までの間、白河町長を務めている。
 建造物群は、旧奥州街道に面した店舗と並立する蔵を先頭に4棟の蔵、2棟の倉庫の計6棟の蔵、倉庫群が連担する景観が特徴的である。蔵の建築年次は、手前から明治43年(1910)、明治13年(1180)、明治33年(1900)、明治17年(1184)となっている。また、敷地東側にも大正2年(1913)建築の蔵が配置されている。

                                                白河市
                 

 その先、突き当たりを左折し、すぐ右折します。
                                               振り返って望む。  

     
奥州街道と白河城下
 小峰城跡は、慶長年間頃に 城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代藩主丹羽長重によって屋敷地の拡張が図られるとともに、石垣を多用した城郭に改修されました。
 城郭の改修と合わせて、奥州街道沿いに城下町も形成され、商人や職人が居住して大きな賑わいを見せていました。
 城下町は「通り五町」と呼ばれた天神町・中町・本町・横町・田町を中心とし、これに平衡して南東側に裏町が配置されていました。
 記録によれば寛文年間(1661~73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。福島県内では、会津若松城下に次ぐ規模を誇っていました。
 市街地には、多くの歴史遺産とともに、当時の奥州街道を中心として町割りが非常によく残されており、今も城下町の姿を偲ぶことができます。
                                            白河市教育委員会
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白坂宿~白河宿~女石の追分。その2。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-05 21:57:07 | 奥州街道

 この地は、戊辰戦争の時の白河口古戦場の跡地で、「戊辰の役古戦場碑」や会津藩主松平容保題字の大きな「鎮魂碑」などが建っています。

      

戊辰の役古戦場
 市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応4年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩摩大垣等西軍が大挙して三方から白河を攻めた。
 東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、潤4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、5月1日、再び来襲したので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数しれず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
 戦後両軍は、各戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
 この白河街道の左曲する南側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平松容保の題字の鎮魂碑がある。
                       白河市教育委員会

注:明治新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いを西軍、東軍と言い表しているところにいまだに続く「白河」の気概があるようです。

    

長州大垣藩六人之墓(松並地内)
 慶応4年(1868)閏4月25日、新政府軍が白河を初めて攻めた際に戦死した長州、大垣藩将藩士(3名)と大垣藩士3名の墓である。
 当初は薩摩藩兵7名も埋葬されており、「薩長大垣千戦死十三人之墓」と刻まれていたが、薩摩藩が大正4年(1916)に小峰城東側の丘陵(鎮護神山)に戦死者を合葬したため、現在のの姿となった。
 明治9年6月に明治天皇が、同41年9月には皇太子時代の大正天皇が立ち寄り、戦死者の霊を弔った。
           白河観光物産協会

          

そこから道の向こう側を望む。
 
白河口の戦い
 戊辰戦争における戦いの1つ。戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。
 慶応4年閏4月20日から7月14日(1868年6月10日から8月31日)にかけて、南東北の要地白河小峰城(白河城)を巡る奥羽越列藩同盟側(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩)との戦い。
 仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津藩・庄内藩と提携し新政府と敵対する軍事同盟成立に際し白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取った。ここに戊辰戦争の東北地域での戦闘・東北戦争が勃発した。しかし新政府軍は約700名程度で列藩同盟側約2500名の駐屯していた白河城を奪還した。同盟軍は白河を経由した関東への進軍を意図し約4500名まで増援を行い7回にわたって攻撃したが、新政府軍は劣勢な兵数で白河城を守りきった。
 白河は奥州街道沿いの要地であった。小峰城(白河城)は寛永6年(1629年)に丹羽長重によって改築された城で、仙台藩をはじめとする東北諸藩を仮想敵として設計されていたため、南方は比較的手薄となっていた。
 慶応4年閏4月20日、二本松藩兵が守備していた白河城へ田中玄清の息子左内が率いる会津兵と新選組が侵攻しこれを占領した。
 新政府東山道軍は宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点として確保していた。新政府軍は薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で形成されていた。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。
 25日払暁に新政府軍の先遣隊数百名は白坂口へ奇襲をかけて、会津藩遊撃隊と新選組は新政府軍と激しく交戦をした。
 新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、宇都宮城の戦いでの死闘による疲労と弾薬不足、そして宇都宮からの無理な強行軍の疲労と土地勘の無さも重なり損害を出して芦野へ撤退した。
 新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎたい所だったが、土佐藩は今市の戦いの最中であった。そこで東山道軍に伊地知正治率いる薩摩藩と長州藩と大垣藩と忍藩の部隊を合流させ増員した。兵力は新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2,000から2,500名であった。新政府軍は28日に激しい銃撃戦を展開させて会津兵を撃退させて翌29日に白坂口に本陣を置き、5月1日に白河城の攻略にかかった。
 新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。
 この頃新政府軍は関東を完全に制圧できていなかったため、白河城へ増援する余裕が無く、黒川藩によってわずかに兵力を増強できたに過ぎなかった。一方、列藩同盟軍も連携が悪く兵力の集結や総攻撃の決断ができずに、5月16日から17日に小規模の攻撃を行った程度であった。こういった状況の中、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。
 26日、列藩同盟軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に列藩同盟軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。列藩同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。6月に入ると、新政府軍は5月6日の今市の戦いや15日の上野戦争での勝利によって関東から旧幕府勢力を駆逐できたため戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援された。列藩同盟軍は6月12日にも白河城へ攻撃を仕掛けたが失敗に終わった。
 16日、平潟に新政府軍1500名が上陸。続々と派兵され7月中旬には3000の兵を擁するようになった。平潟の上陸軍に呼応し24日に白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて南東へ出発した。棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し両新政府軍が提携するために確保する必要があったからである。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏した。
 25日、列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗。更に7月1日の攻撃にも失敗し、戦況は新政府へ傾き、8日に庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが列藩同盟から離反したとの報が入ったため、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。また13日、平潟の上陸軍は平城を占領し、以後軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始、三春にて板垣の白河軍と合流した。
 列藩同盟軍の白河城への攻撃は14日が最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り・浜通りが新政府軍の支配下となったため、これに狼狽した列藩同盟軍は会津藩領を経由し白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結した。
 白河口での敗北によって列藩同盟軍は勝機を失い、東北戦争の大勢は決した。

                                   (以上、「Wikipedia」参照) 
大正、昭和初期のようす。



奥州街道と白河城下
 白河宿は、江戸日本橋を起点とする奥州街道の27番目にあたります。
 現在城下を通る街道は、寛永4年(1627)初代白河藩主丹羽長重が、城下町を整備した時の形がほぼ乗っているものです。町境ごとに残る鈎型(かぎがた)は、的の侵入に備えた防備のくふうであり、江戸時代の絵図と現在の街道はそのまま重なります。
 記録によれば、寛文年間(1661~73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。
 ここ松並は白河城下の入口にあたり、絵図を見ると道の両側には土塁が築かれ、直角に曲がって町に入る形になっています。丹羽長重入封以前には、直線だったと推測される城切り口を敵からの防御を重視して長重が作り替えたものです。

                                      白河市教育委員会



稲荷山公園。

 戊辰役古戦場のすぐ先、左側に、戊辰戦争の激戦地だった稲荷山があり、現在は公園となっています。

 「奥州街道」は、古代からの官道として、鎌倉期の源義経、江戸期の芭蕉、さらには「明治維新」(戊辰戦争)と歴史・文化のダイナミックな動きに位置する史跡の豊富な地であったことを実感させられます。

「九番町」に入ると、家屋が並び、次第に市街地となります。
    

 (11:29)「谷津田河」に架かる「南湖橋」を渡って、宿場の中心地へ向かいます。
    

 宿内には、宿場らしい古い建物や史跡が残っています。

つるべ井戸。
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白坂宿~白河宿~女石の追分。その1。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-04 20:22:06 | 奥州街道
 いよいよ「奥州街道」歩きも最終回。夕方から所用があるので、手際よく。ということで、出かけました。

 10月30日(日)。予報ではまずまずの天気、ということでしたが、雲が多く、肌寒い一日でした。「奥州街道」歩きでは、どうもカラッとした晴れには恵まれませんでした。那須もくっきりとは見えず、という具合。

 さて、「白坂」駅には在来線を乗り継いで午前10時少し前に着きました。前回の土曜日よりは駅前の広場には車がたくさん。降りた客は2名でした。元のところへ戻るのはロスタイムになるので、途中省略して駅前の道を直進して、「国道294号」へ出ます。白坂宿からの山間の道をカットしたわけです(ごまかしたわけです)。

 交差点からは「皮籠(革籠=かわご)」地区となります。
       

 この付近から東南にかけての地が上杉軍が家康軍との戦闘のために陣を敷いたところだそうです。

革籠原の防塁跡

 NHKの大河ドラマ『天地人』において、直江兼続が主君上杉景勝とともに、東征してくる徳川軍を迎え撃つための「決戦の場」と定め、慶長5年(1600)に防塁を築いた場所と言われています。
 この地に徳川軍をおびき寄せ、常陸の佐竹義宣とともに側面から攻撃し、徳川家康を討ち取るという用意周到な作戦でした。しかし、家康は栃木県小山より引き返し石田三成との関ヶ原の戦いに臨んだため、革籠原は「幻の白河決戦」の地となりました。
 この防塁跡は、中世の館跡の土塁の一部とも考えられていますが、上杉家の土塁の特徴である二重土塁構造で、堀幅についても上杉家が築いたものと合致するなど似かよる点が多いと考えられています。
 現存しているのは約370メートルですが、江戸時代の軍記物には数キロメートルにもわたって築かれたと記されています。

(以上、HPより)


注:大河ドラマ『天地人』
 2009年1月4日から同年11月22日まで放送されたNHK大河ドラマ第48作。原作・火坂雅志、脚本・小松江里子、音楽・大島ミチル、主演・妻夫木聡。
 主人公は、上杉景勝に仕えた上杉家の家老・直江兼続。
 ひたすら利のみを求める戦国時代に、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続。主君・上杉景勝をはじめ、師と仰ぐ上杉謙信や友人・石田三成との深い係わりを主軸に、同時代に生きた戦国武将や妻・お船をはじめとする女性たちとの人間関係、利を求める社会において発生する格差など現代社会に通じる問題、といった様々なテーマを盛り込みながら、兼続の生涯を描く。(この項、「Wikipedia」参照。)

 上に「愛」の文字を据え付けた「兜」が話題になりました。

(10:18) 左手の角に「(伝)金売吉次三兄弟の墓」案内板。

左に曲り、その先、住宅街の左手に。

 林の中に三基の石塔があります。
    

市指定重要文化財(史跡) (伝)金売吉次兄弟の墓 
 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられています。
 石塔は、白河石(安山岩質凝灰岩)で作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)ですが、後世に積み替えられたため、別種の石造塔の一部が混ざっています。紀年銘などがみられず、明確な製作年代は特定できませんが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されます。
 承安4年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京都を往来する途中、ここで盗賊に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉寺兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。
 石塔の石囲いは、元治元年(1864)7月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「 吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。

                     平成十六年 白河市教育委員会


    

    
 石仏が三基と「金売吉次古跡」の標石。           向かいには「二十三夜塔」。

路傍の石塔。遠くに北那須の山々。

(10:35)「一里段」バス停。

 地名から、この付近に「一里塚」があったようですが、現在は不明となっています。右先にコンビニ。

緩やかな坂を下って行きます。

                          稲刈りの終わった田んぼ。
    

「ため池」。  

(10:53)その先、前方が開けてくると、「旧道」は国道から右へ入って行きます。
    

一面、大豆畑。

ススキ。  

小さな集落になっています。

 芦野宿からここまで、「奥州街道」は山あいにある小さな集落を細い線で結びながら進んでいました。旧道を継承した「国道294号線」の整備は、そうした集落を通らず、ほぼ直線的につくったため、国道から外れたかたちで左右に集落が残り、旧道も残っているようです。

(11:11)再び国道に合流します。

旧道を振り返って望む。

すぐに「国道289号線」と交差します。左折すると新幹線の「新白河」駅に進みます。周囲はショッピングモールなど大型店舗が目立つ賑やかな通り。
「国道289号線」。正面が「新白河」駅方向。

奥州街道(「国道294号線」)はまっすぐ進み白河市街地に向かいます。

 (11:11)しばらく進むと、「稲荷山」にぶつかって、旧道は右折します。
 
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40年ぶりの清里ですって。こっちも10年ぶりですわ。皆さんは? (じじばばがゆく。プチ旅編。)

2016-11-02 21:13:59 | じじばばがゆく
 11月1日(火)。雨のち晴。

 今朝の雨でどうなるかと思ったら、こんなに晴れてきて、思いがけず、っていう感じね。
 みんなも行けるのかどうか、って余計な心配だったわ。さすが「俺は、晴れ男」っていう自慢にはいささか食傷気味だけど。

 新宿~小淵沢~清里~佐久平~上野。こうして列車の旅もいいものよね。何となく期待しちゃうわ、って余計なこと考えないでよ。 どうせろくでもない魂胆が見え見えだから。

 へえ、キップは都区内から都区内というんだ。昔の周遊券みたいなのね。

 そんなのとっくになくなっているさって。そうなんだ、そうね、私たちは何だかんだ今は車での旅行が多くなっちゃたし。

 エッ、清里は40年ぶりですって。最初の職場の頃に来ただけなのか。あの頃は、高校の寮とか区の林間保養施設なんかが出来てだんだんと賑やかになってくる頃よね。

 もう今は廃れてしまったんじゃないか、ってそうかもしれないわね。あら、こっちは10年くらい前に来たことがあるわ。車でぐるぐる回ったんだ。車でも東京から意外に近く来られるのよね。

 たまにはこうして列車乗り継ぎの旅っていうのもいいわよね。日帰り出来ちゃうし、新幹線が出来て便利になったわよね。

 その代わり、信越線がなくなって、軽井沢と横川の間は鉄道線路は廃止になっちゃうし、在来線が信濃何とかになって、もうローカル列車の旅も少なくなっちゃうわね。

 この近辺じゃ、「小海線」くらいだ、って。そうかもしれない。「小海線」はつぶれることはないのかな。

 私もだけど、他の人は初めてなんだ。この線に乗るの。

 小淵沢までは特急で、それから鈍行で、帰りは新幹線か。ま、ジジババには楽でいいかも。

 えっ、そちらは「大人の休日倶楽部」でキップ買ったの。何、3割引! けっこう安くなるじゃない。8千円ちょっとか、そりゃお得だわ。

 へえ、あなたも。けっこう宣伝してるからね。条件は、男性65歳以上、女性60歳以上って。女性をターゲットにしている感じね。ついでに男性もって。

 でも、平均寿命でいえば、男性65歳以上、女性70歳以上でいいんじゃないのかな、って、私もそう思うわ。

 私はそんなに旅行に行かないし、入りたいとも思わないけど。そちらは、街道歩きで使っているんでしょ、何回も。

 おたくはよほど暇人だと思うって、私もしっかりそう思うわ。 

 こうしてわいわい賑やかな旅もあと何年続けられるかなって、そんな寂しいことは言わないの、考えないの!


 新宿発9:00「特急あずさ」。おしゃべりを楽しみながら、小淵沢まで。
 途中ですっかり雨も上がって、甲府盆地付近からうっすらと雪化粧した南アルプスの山々、鳳凰三山、この前、初冠雪を迎えた富士山とかがくっきりと見え始めます。
 平日なのでサラリーマンが多い中、けっこうジジババ団体様ご一行も乗っていて、賑やかな車中です。
 駅の階段を上って下りて小海線にお乗り換え。見知らぬ年寄り同士、「すっかり雨が上がりましたね」「晴れてきましたね」「紅葉がきれいですね」「空がホントに澄んで青い」と会話も弾みます。
 目の前に「平山郁夫シルクロード美術館」がある「甲斐小泉」。

 美術館がこんな所にあるんだ!

 こうして「清里」へ。

    
                標高1,274米694

 空気がヒンヤリ。でも、それほどの寒さは思ったほど感じないわね。

 清々しい、だなんて、もうすっかり忘れ去った表現なんかしないでくれる。ま、照れてなんかいないわよ。



 駅舎も駅前も様変わりしているって、40年間ていうのはずいぶん長い時の流れよ。人のこと言えないわよ、私たちだってさ。

 かつての田舎駅の雰囲気はまるでナシ、って。でも、どこかさびれた感じだわね、。いっときの賑わいは過去のモノかしら?



 SLも何だか存在感がなさそう。いっそのこと、SL復活で高原列車の旅というのもいいと思うけど。

 「清里ピクニックバス」。なかなかクラシックな雰囲気ね。このバスで行くのね。さあ、みんな乗りましたか? 騒がないのよ、他のお客さんもいるんだから。あらそう、お昼に清泉寮に着くので、そこでランチにするわけね。そこまではぐるっと清里観光はこのバスで、というわけね。

    

 「清里高原ホテル」か、ここに泊まりたい、星空がきれいだ、って。ハイハイ。貴方一人、勝手にしなさい。

 「美しの森」って、懐かしいところなんだ。歩いてここまで来て、上は目の前には八ヶ岳、振り向くと富士山が見えるのか、フ~ン。

やっと着いたわ。富士山がくっきり。

「清泉寮」か。昔の雰囲気が残っているわね。

 草原が広がって、向こうには富士山。心が和みますわ。すっかり開放された気分。

    

 何にしますか。まずはBeerで乾杯ですか。さて、私は「清泉寮カレーライスセット」にするわ。サラダとデザート、食後のコーヒーもついているみたいよ。「パンはいらないから」「カレーにはおつけしておりません」「あら、いやだ。そうだったわね」

 当たり前でしょ、ご飯がついているんだからって、ハイハイ。分かっているわよ。「ご飯は少なめに御願いします」。

 さてこれからどうしますか? 「清里」からは3時半頃の列車で「佐久平」に向かうんでしょ、ぶらぶら歩きながら戻りましょうよ、下り坂でしょ。それに乗り遅れたら大変だから。

 そのときは泊まっていけばいいって。ハイハイ。あなたの御勝手にね。他の人は忙しいんだから。今日中には帰らないとね。

                       

 しばらく草原を眺めながらぼんやりと時を過ごし、清里駅に向かいました。途中も紅葉の真っ盛り。

    

 「ああ、東沢大橋」に行くのを忘れた! あそこは絶好の紅葉名所という話なんだけど。どうする? 戻るのも面倒だし、・・・。

     
                                        雲の向こうは八ヶ岳。 


 こうして清里駅まで戻って来ました。駅前は閑散としていて見るところもなく、営業していた喫茶店でお茶して「小諸」行きを待ちます。

白樺林。

建物の向こうに富士山(↓)。

 こっちの指、ここ、血行が悪くて腫れている感じなのよ。だからもむといいんですって。別に頼んでいるわけじゃないのよ。また変な魂胆起こさないでね。それと足の付け根。だんだんあちこちにがたが来ているのかな。

 明日から息子夫婦とか娘夫婦とか孫を引き連れてやってくるのよ。いきなり3世帯分。食事の準備が大変よ。毎日、せわしせわし、という感じかな。ま、なんだかんだいっても、こうして元気なうちが華よね。

 皆さんのところもやっぱり似たり寄ったりね、お互いに。でも、こういう機会も大事にしないとね、時には。

 あれ、留守電が入っている。この人嫌いなのよね。自分の好き勝手なときに電話してくる、夜の10時とかさ。


 日が落ち始めると、とたんに肌寒くなってきます。そんな中、ホームにはたくさんの人が集まってきました。若い方、お年寄り、圧倒的に女性の方々。


 へえ、この人達も私たちと同じようにするのかな。それにしても寒くなってきたわね。



 こうして清里15:31発小諸行きの列車に乗り込みます。けっこうお客さんでいっぱい。車中からは紅葉した景色が右に左に展開します。そのうち、JR線鉄道最高地点を通過して、「野辺山」駅に。すると、先ほど乗り込んだ人達がいっせいに降りていきます。「・・・ツーリズム・・・」の旗を持った添乗員の姿も。ここで泊まるのでしょう。

 ここも泊まるといいところだよ、って。ハイハイ。

野辺山駅。 標高1,345米67。


 こうして「佐久平」までの小海線高原列車。車窓から山あいのすばらしい紅葉を追いながらの旅。途中からは「千曲川」沿いになります。右に左にカーブしながら千曲川を渡って行きます。渓谷美もすばらしい。残念ながらうまい写真は撮れませんでしたが。
 途中からは学校帰りの高校生が乗り込んできます。ジャージ姿やズボン姿も女子高校生の姿も。けっこう車内もにぎやかになって「佐久平」駅に着きます。
 佐久平に進む途中、右手、ほんのり夕日を浴びている浅間山の勇姿には感動! 


 「中山道」では浅間山には恵まれなかったようだわね。来た甲斐があったというわけね。よかったわね。

 「岩村田」か。今度はこの駅から中山道を続けるって、へえ。どうぞお一人でここで泊まって行ってみたら。私たちはもう帰れますから。

 そう言うなよって。冗談よ、冗談。 


 こうして「佐久平」から新幹線で上野まで。さてと飯でも食いますか、と。西郷さんの下にあるビルの3階。鹿児島料理の店に入って、乾杯! 今朝からぐるっと一回りしてきた《都区内から都区内への旅》を締めくくりました。


 また次の機会を楽しみしていますわ。京都なんかのお寺の紅葉よりも、今回のように車窓から次々と変化する自然のままの紅葉を眺めながら旅をするというのもいいよね。

 幹事さん、企画立案、ご苦労様でした。いろいろとご配慮ありがとう。感謝します。意外にまめなのには驚きましたわ。これで変な魂胆を持っていなければ、最高なのにね。


《補足》

行き損ねた「東沢大橋」の写真。HPより)

「JR・鉄道最高地点」。(南牧村HPより)

 JR路線のなかで標高の一番高い1,375mという地点。清里と野辺山との中間地点の旧国道と交差する踏切にあたります。最高地点を示す木製の標柱が立ち、線路をはさんで反対側にも日本鉄道最高地点の石碑があり、周辺には、食事処やみやげ物店、高原野菜などを販売する直売店もあります。

小海線

    (写真は、「Wikipedia」より。)
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