2003年の第27回ユネスコ世界遺産委員会パリ会議において、文化遺産に登録された「パナマ・ビエホ」の古建築群。同じパナマシティ内にあるカスコ・ビエホが1997年に文化遺産として登録されたことを受け、あわせて再登録されました。
現在、古建築群が立地ないし埋蔵されている280,000m²にも及ぶ広大な地域は、歴史公園として管理されています。
主な建物群として主要なものだけでも8つの宗教施設が残されています。
公園の中央を自動車道路が通っていて、その左右にさまざま石組みの建築物が点在しています。基盤だけのものが多く、その上部は焼けただれ、戦乱によって焼失させれたことが分かります。車をゆっくりと走らせながら(といっても、ただの渋滞ですが)、そのようすを見物しました。
道路の右側は波打ち際です。
写真は、大聖堂(Catedral)と鐘楼。南北55m、東西最大35mの規模を持つ町の象徴的建物。ここには車から降りて立ち寄りました。
ここは、パナマの町が最初に造られたころの中心地(広場)。
町の設立当初、16世紀初頭には小規模な木造建物でしたが、1619年に現存の石組み建物が建設されたという。建物は南北方向に長く南に祭壇があり、左右に付属礼拝堂。また、祭壇の右奥に高さ33mの鐘楼(Torre)が敷設されています。鐘楼は2006年4月に修復5ヵ年計画が完了し、本来内部は吹き抜けだが階段を設置して展望台として一般に公開されていました。
女子修道院(Las Monjas de Concepción)
貯水タンク(Aljibe)
コンパニア・デ・ヘスース修道院(Compañía de Jesús)
オスピタル・デ・サン・フアン・デ・ディオス病院(Hospital de San Juan de Dio)
サン・フランシスコ会修道院(Convento de San Francisco)
テリン邸跡(Casas Terrín)
司教館(Casa del Obispo)
西の建物群(Casas Oeste)
サント・ドミンゴ修道院(Convento de Santo Domingo)
ジェノバ人の家(Los Genoveses)
統治府(Casas Reales)
町議会棟(El Cabildo)
メルセー修道院(Convento de La Merced)
マタデーロ橋(Puente del Matadero)
クリスマス砦(Fuerte de la Natividad)
王の橋(Puente del Rey)
サン・ホセ修道院(Convento de San José)
これらの建物群が保存されています。
パナマの町が成立したのは、1513年に若きスペイン人探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが現在のパナマ東部ダリエン地域からパナマ地峡を横断し、現在のダリエン県都ラ・パルマがあるサン・ミゲル湾で太平洋を「発見」したことに端を発します。
一説によると、その後1515年に現代のパナマ・ビエホ地区を訪れたアントニオ・グスマンという探険家が、砂浜で出会った青年漁師に地名を問うたところ「パナマ」と答えたことからその沿岸地域一帯をスペイン領パナマと命名したといいます。
後になってパナマとは現地インディヘナの言葉で「海産物が豊かに取れる場所」という意味であることが分かっています。
その後1519年8月15日にスペイン王室からパナマ地方の総監兼総督に任命されたペドロ・アリアス・デ・アビラ によって、現在のパナマ・ビエホに太平洋沿岸で最初のスペイン植民都市が成立しました。
16世紀初頭は300人程度のスペイン人のみを抱える都市として始まりましたが、17世紀後半の海賊襲撃時には人口は12,000人にも膨れ上がりました。当時から友好的なインディヘナたちをキリスト教化しながら、また一方ではスペイン人統治に反対する者には黄金輸送などの強制労働などを課した。混血も早い時期から進み、町の人口増加に拍車をかけました。
パナマの町は、成立初期はバルボアの部下としてパナマにやってきたフランシスコ・ピサロが、現地インディヘナたちの情報を元にパナマから3艘の船に乗って南米のインカ帝国を滅亡させるなど、政治的にもより多くの黄金獲得と植民都市成立のために中米や南米諸国に探検家たちを旅立たせる拠点としての役割も担い、その後、南米からの大量の黄金やボリビアのポトシ銀山の銀を海路で、また陸路でカリブ海へ運ぶ中継地点として栄えてきました。
1671年1月28日、町に侵入したイギリスの海賊ヘンリー・モーガン一味は当時、黄金交易でにぎわっていたパナマの町に火を放って(諸本によると、パナマの総督が逃げ失せるために自ら町に火を放った)、黄金を略奪しました。
海岸線に建物がひしめき合うように立地するパナマの町は、殆ど防御施設を持たなかったために2月24日まで(現地をみた他の海賊の証言では4週間以上)町全体が火に包まれたとの記録が残っています。
その後、町は復興されることなく、2年後に高台で以前から移転計画のあった西に約11km離れた現在のカスコ・ビエホ地区に町の機能をすべて移転させました。このときに焼け残った公共建物や宗教施設で使用されていた石材が持ち運びだされ、再利用されています。
現在でも見られるものとして、西端に位置するメルセー教会正面の彫刻が施された化粧石、大聖堂の正面壁面の石材などがあります。 町の再建が断念された理由としては海賊の襲撃が致命的であったこと。しかし、それ以前の1621年にパナマを襲った地震の被害が甚大であり、復旧を援助してもらうためにスペイン王室に費用負担を申し出る書類が確認されています。
再建が断念されたかつての町は、後に各宗派が新しい町での施設再建のために残存建物から建築部材を切り出す作業に従事するインディヘナたちの居住地となりました。危険を伴う作業であったために解体石材の下敷きになる事故が多発しました。切り出された部材は満潮時に近くの海岸から筏に乗せられて運ばれました。一連の工事が終了した後は、パナマ建国までのおよそ300年間、スペイン人がやってくる前の状態に戻っていきました。
(以上、ウィキペディアによる)
鐘楼。
雨期のせいか、一日に一度は雨が降ります。じきに雨模様になりました。けっこう激しい雨です。
海岸沿いの遺跡。遠くに見えるのは、パナマ国際空港に向かう高速道路。翌日の帰り。高速道路から鐘楼が思いがけず身近に見えました。
ホテルからのけしき。対岸にカスコ・ビエホの街並みが見えます。教会の尖塔を中心に赤茶色の瓦屋根が続き、南欧的な雰囲気の町です。
パナマの新市街地。高層ビルが建ち並んでいます。工事中のビルも目立つ反面、廃墟となったような建物も目立つ、新旧ごちゃごちゃの町です。海岸際にはスラムも。
パナマ・ビエホ付近にもスラム街があって、昼間でも外国人観光客は単独ではけっして足を踏み入れてはならないところもあるとのこと。貧富の差は激しい。
日本にもあるようなショッピングモール。ヨーロッパのブランド店も多く出店していました。
現在、古建築群が立地ないし埋蔵されている280,000m²にも及ぶ広大な地域は、歴史公園として管理されています。
主な建物群として主要なものだけでも8つの宗教施設が残されています。
公園の中央を自動車道路が通っていて、その左右にさまざま石組みの建築物が点在しています。基盤だけのものが多く、その上部は焼けただれ、戦乱によって焼失させれたことが分かります。車をゆっくりと走らせながら(といっても、ただの渋滞ですが)、そのようすを見物しました。
道路の右側は波打ち際です。
写真は、大聖堂(Catedral)と鐘楼。南北55m、東西最大35mの規模を持つ町の象徴的建物。ここには車から降りて立ち寄りました。
ここは、パナマの町が最初に造られたころの中心地(広場)。
町の設立当初、16世紀初頭には小規模な木造建物でしたが、1619年に現存の石組み建物が建設されたという。建物は南北方向に長く南に祭壇があり、左右に付属礼拝堂。また、祭壇の右奥に高さ33mの鐘楼(Torre)が敷設されています。鐘楼は2006年4月に修復5ヵ年計画が完了し、本来内部は吹き抜けだが階段を設置して展望台として一般に公開されていました。
女子修道院(Las Monjas de Concepción)
貯水タンク(Aljibe)
コンパニア・デ・ヘスース修道院(Compañía de Jesús)
オスピタル・デ・サン・フアン・デ・ディオス病院(Hospital de San Juan de Dio)
サン・フランシスコ会修道院(Convento de San Francisco)
テリン邸跡(Casas Terrín)
司教館(Casa del Obispo)
西の建物群(Casas Oeste)
サント・ドミンゴ修道院(Convento de Santo Domingo)
ジェノバ人の家(Los Genoveses)
統治府(Casas Reales)
町議会棟(El Cabildo)
メルセー修道院(Convento de La Merced)
マタデーロ橋(Puente del Matadero)
クリスマス砦(Fuerte de la Natividad)
王の橋(Puente del Rey)
サン・ホセ修道院(Convento de San José)
これらの建物群が保存されています。
パナマの町が成立したのは、1513年に若きスペイン人探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが現在のパナマ東部ダリエン地域からパナマ地峡を横断し、現在のダリエン県都ラ・パルマがあるサン・ミゲル湾で太平洋を「発見」したことに端を発します。
一説によると、その後1515年に現代のパナマ・ビエホ地区を訪れたアントニオ・グスマンという探険家が、砂浜で出会った青年漁師に地名を問うたところ「パナマ」と答えたことからその沿岸地域一帯をスペイン領パナマと命名したといいます。
後になってパナマとは現地インディヘナの言葉で「海産物が豊かに取れる場所」という意味であることが分かっています。
その後1519年8月15日にスペイン王室からパナマ地方の総監兼総督に任命されたペドロ・アリアス・デ・アビラ によって、現在のパナマ・ビエホに太平洋沿岸で最初のスペイン植民都市が成立しました。
16世紀初頭は300人程度のスペイン人のみを抱える都市として始まりましたが、17世紀後半の海賊襲撃時には人口は12,000人にも膨れ上がりました。当時から友好的なインディヘナたちをキリスト教化しながら、また一方ではスペイン人統治に反対する者には黄金輸送などの強制労働などを課した。混血も早い時期から進み、町の人口増加に拍車をかけました。
パナマの町は、成立初期はバルボアの部下としてパナマにやってきたフランシスコ・ピサロが、現地インディヘナたちの情報を元にパナマから3艘の船に乗って南米のインカ帝国を滅亡させるなど、政治的にもより多くの黄金獲得と植民都市成立のために中米や南米諸国に探検家たちを旅立たせる拠点としての役割も担い、その後、南米からの大量の黄金やボリビアのポトシ銀山の銀を海路で、また陸路でカリブ海へ運ぶ中継地点として栄えてきました。
1671年1月28日、町に侵入したイギリスの海賊ヘンリー・モーガン一味は当時、黄金交易でにぎわっていたパナマの町に火を放って(諸本によると、パナマの総督が逃げ失せるために自ら町に火を放った)、黄金を略奪しました。
海岸線に建物がひしめき合うように立地するパナマの町は、殆ど防御施設を持たなかったために2月24日まで(現地をみた他の海賊の証言では4週間以上)町全体が火に包まれたとの記録が残っています。
その後、町は復興されることなく、2年後に高台で以前から移転計画のあった西に約11km離れた現在のカスコ・ビエホ地区に町の機能をすべて移転させました。このときに焼け残った公共建物や宗教施設で使用されていた石材が持ち運びだされ、再利用されています。
現在でも見られるものとして、西端に位置するメルセー教会正面の彫刻が施された化粧石、大聖堂の正面壁面の石材などがあります。 町の再建が断念された理由としては海賊の襲撃が致命的であったこと。しかし、それ以前の1621年にパナマを襲った地震の被害が甚大であり、復旧を援助してもらうためにスペイン王室に費用負担を申し出る書類が確認されています。
再建が断念されたかつての町は、後に各宗派が新しい町での施設再建のために残存建物から建築部材を切り出す作業に従事するインディヘナたちの居住地となりました。危険を伴う作業であったために解体石材の下敷きになる事故が多発しました。切り出された部材は満潮時に近くの海岸から筏に乗せられて運ばれました。一連の工事が終了した後は、パナマ建国までのおよそ300年間、スペイン人がやってくる前の状態に戻っていきました。
(以上、ウィキペディアによる)
鐘楼。
雨期のせいか、一日に一度は雨が降ります。じきに雨模様になりました。けっこう激しい雨です。
海岸沿いの遺跡。遠くに見えるのは、パナマ国際空港に向かう高速道路。翌日の帰り。高速道路から鐘楼が思いがけず身近に見えました。
ホテルからのけしき。対岸にカスコ・ビエホの街並みが見えます。教会の尖塔を中心に赤茶色の瓦屋根が続き、南欧的な雰囲気の町です。
パナマの新市街地。高層ビルが建ち並んでいます。工事中のビルも目立つ反面、廃墟となったような建物も目立つ、新旧ごちゃごちゃの町です。海岸際にはスラムも。
パナマ・ビエホ付近にもスラム街があって、昼間でも外国人観光客は単独ではけっして足を踏み入れてはならないところもあるとのこと。貧富の差は激しい。
日本にもあるようなショッピングモール。ヨーロッパのブランド店も多く出店していました。
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