「鮮魚街道」復活地点から、本日の出発。 「海上自衛隊下総航空基地」。
(「歴史的農業環境システム」より)。○がその地点。
1880年代のようす。↓が「鮮魚街道」。
2010年代のようす。「街道」は基地内を横切っていた。
ところで。
相変わらずの仕事。炎天下での自転車通勤。今年の夏はそんな中、何とか休まず、月曜から金曜まで・・・。
で、せめて土日には、と思っても。天気がいい、そういうときに限って、予定が入るし、無いときは天気が悪い・・・。コロナ禍だけではありません。
そんなわけで、「房総往還」など、けっこう間のあいた街道歩きとなってしまいました。
今回10/18(日)晴れ。
「鮮魚街道」歩きの2日目。自衛隊の基地で中断され、復活するところから松戸・江戸川河岸まで一気に。
しかし、前半のようなのどかな田園風景は望めず、唯ひたすら舗装道路、にぎやかな街並みの中を歩きます。
右手に大きなおうち。少し遠くから撮影。
その隣に「さつま幼稚園」。
その先の信号を左折。
畑地が広がる。左手に「北部公民館」。
その手前で右折。住宅街。
右手に道標を兼ねた「南無大師遍照金剛」碑。
「左 松戸 江戸道」と。
県道に合流し、「六実駅」北側の踏切を渡る。
ところで、「六実」という地名の由来は?
もともとは、江戸時代の幕府直結の馬牧で、明治期の下総牧開墾事業で誕生した開拓地。
明治2年から旧小金・佐倉牧の開墾が始まり、着手順序を基に開拓地名の字を付けることが取り決められ、
初富(はつとみ)《鎌ヶ谷市》、二和(ふたわ)《船橋市》、三咲(みさき)《船橋市》、豊四季(とよしき)《柏市》、五香(ごこう)《松戸市》、六実(むつみ)《松戸市》、七栄(ななえ)《富里市》、八街(やちまた)《八街市》、九美上(くみあげ)《香取市》、十倉(とくら)《富里市》、十余一(とよひと)《白井市》、十余二(とよふた)《柏市》、十余三(とよみつ)《成田市》
の字名が生まれました。
1880年代のようす。「野馬土手」が見られる。
2010年代のようす。
航空写真でみると、東側の一部を除き、びっしり住宅が建ち並んでいる。左上、街道沿いの「竹村梨園」は健在。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
50年前は開発中、畑地などがまだ。1970年代のようす。○が現在も続く梨園(同上)。
(「同」より)
しばらく直線道路が続きます。
ところでこんな写真が掲載されていました。
(『田中龍作ジャーナルより』)
いま日本で起きていることを一人でも多くの人にお知らせください。 =17日、中曽根元首相・合同葬の会場入り口に整列した自衛隊の儀仗兵 撮影:田中龍作=
まさか「自衛隊の儀仗兵」が整列している、とは思いたくもありませんが。それにしても警備としてはあまりにも、ものものしい風景です。なんのために?
既視感があるのはなぜでしょうか?
向こうから来る車に乗っている人物は? サイドカー仕立てだったら、ますます・・・。晴れていたらオープンカーだった? まさかね。
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