おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

芭蕉句碑。石田波郷句碑。釜屋の渡し跡。江東区「小名木川」。その3。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-15 21:38:20 | 鮮魚街道

                      西へ向かいます。所々、川沿いの遊歩道に。

振り返る。

石積みや燈籠などもあり、江戸情緒あふれる川辺づくり。

「小名木川」と交差する「仙台堀川(公園)」と「横十間川(親水公園)」案内図。どちらも、探索したことがあります。変化に富んだ「水辺・親水公園」になっています。

「大島稲荷神社」にある「松尾芭蕉」像。

     「松尾芭蕉翁石造像建立之詞書」

「松尾芭蕉ゆかりの大島稲荷神社」解説板。

由緒

女木(注:小名木)塚の裏に其日菴社中造立とありますが、年代不詳。この句は大坂へ旅立つ2年前の元禄5年(1692)芭蕉50才の時奥の細道に旅立する前の句でありまして、芭蕉は深川から船で川下りをして神社の前を流れる小名木川に船を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中、船を留めて当神社に立ち寄り参拝を致しまして境内の此の森の中で川の流れを眺めながらその際、詠んだのがこの句であります。

秋に添(う)て行かは(ば)や末は小松川

の句を残しております。その後年、其日庵の俳人たちが芭蕉をしのんでゆかりの深い大島稲荷神社に句碑を建立、その面影が偲ばれます。建立は江戸時代といわれ拓本を取る人も多い。松尾芭蕉が奥の細道に旅立って今年元年(注:平成元年)が300年目の年に当たります。

「女木塚」の下に句が刻まれている。

この句碑は、もとは愛宕神社(大島5丁目)にありましたが、後に第二大島中学校に移され、さらに現在地に移されたそうです。のち、「愛宕神社」は、「大島稲荷神社」に合祀されました。また、大島2丁目にある「愛宕神社」は別の神社で、そこに一茶が仮寓していたといわれ、境内に一茶の句碑「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」があります。

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

碑文の「秋に添うて行かばや末は小松川」は、元禄5年(1692)、芭蕉が50歳の時に詠んだ句。『芭蕉句選年考』には、「九月尽の日、女木三野に舟さし下して」の前書で、桐奚(とうけい)・珍碩(ちんせき)の句とともに所収しています。また、『陸奥鵆』(むつちどり)には、「女木沢桐奚興行」の前書で、「秋に添て行ばや末は小松川」とみえます。(注:「女木沢<おなぎさわ>」は東京都江東区北砂町近くの小名木川、「小松川」は小松川村、砂村(江東区砂町)のこと。)

松尾芭蕉奥の細道旅立ち三百年記念句碑

五月雨をあつめて早し最上川 大島稲荷神社 平成元年(1989)9月19日 第6代宮司 佐竹良子建之

先に進みます。

橋の上から川面を眺めていると、向こうから。

             「サーフボード」を器用に操って青年が。

「進開橋」のたもとに「石田波郷句碑」。

雪敷ける町より高し小名木川(「砂町を愛した俳人 石田波郷生誕百年記念碑」」

 ちなみに、江東区の地盤は、海抜ゼロ㍍(-)地帯が多く、地面より川の水位の方が高い。かつては、大雨のたびに浸水していました。亀戸駅前にある水位計では海抜ゼロ㍍のラインが頭上に記されているほど。「小名木川」もそのため、そそり立つようなコンクリート堤防で囲まれていました。現在もこのへんの家々には、土嚢が配布されているとか。

その先に「越中島貨物線小名木川橋梁」。趣のある鉄橋です。

「釜屋の渡し跡」解説板。

釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復していました。名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳 造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに, 対岸の農耕地などへ往来する 「作場渡し」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」 (昭和7年刊行)によれば, 大正7(1518)年7月5日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭とあります。
 「城東区史稿」(昭和17年刊行) には営業の記載があるので, それ 以後に廃止されたものと思われます。

  「椿園について」

昭和61年11月21日、伊豆大島三原山の大噴火によって全島民約1万人が島外避難する有史未曾有の出来事がありました。その際、本区では区立スポーツ会館を避難場所として1,074名の避難者の救援に努めました。この椿の木は、避難者の皆様からお世話になったお礼にと50本の寄贈がものです。ここに、大島島民の厚意を記念するとともに、伊豆大島の繁栄を祈念して椿を植樹したものであります。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「中川船番所」跡。旧小松川... | トップ | クローバー橋。五本松跡。扇... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

鮮魚街道」カテゴリの最新記事