おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新川西水門遺構。火の見櫓。中川・荒川。江戸川区「新川」。その3。(「鮮魚街道」。番外編)

2020-12-07 18:52:35 | 鮮魚街道

桜の他にも。ピラカンサの赤い実が鈴なり。

解説板。

新川

新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から現在の古川親水公園を経て中川(旧中川)に通じていました。寛永6年(1629)に三角から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmにわたる今の新川が生まれました。

この新川は、銚子や行徳から年貢米、味噌、醤油等を江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、江戸中期には人の往来も増え、成田詣の人々を乗せた行徳船が行き交うようになりました。

明治時代を迎え、通運丸などの長距離の定期蒸気船が就航し、さらに大正時代には小型の定期船である通船が地元の人々の足となりました。また、この頃の新川は白魚が群れをなし、子ども達は川を泳ぎ廻るなど生活と密着したものでした。しかし、江戸川や中川に橋が架けられ陸上交通が盛んになると輸送の主力は陸に移り、昭和19年(1944)に通船が廃止され、輸送路としての役割を終えています。

その後は、周辺の地盤沈下により堤防を高くしたため水面を眺めることができなくなるとともに、工業排水や生活排水が流れる川になってしまいました。そこで、昭和47年(1972)に新川が再び私たちの生活に身近かで安全な川となるよう整備計画をたてました。

まず、昭和51年(1976)には東西の水門を閉鎖し、川の水位を周辺の土地より低く調整して安全性を向上させました。そして、旧江戸川から浄化用水を取り入れ中川に排水しています。

一方、下水道計画では新川の中流域にポンプ所を建設する予定であったため、大雨のたびに汚水の混じった雨水が新川に流れ込みきれいな水質を保つことができない状況にありました。そこでこの計画を変更し、これらの雑排水を直接中川に放流できるよう第一製薬(株)用地を一部買収して現在の位置に新川ポンプ所を建設しました。その後、周辺地域の下水道施設完備により、新川はきれいな水が豊かに流れる一級河川にふさわしい親水空間として甦ることができました。

平成5年(1993)からは念願であった堤防の撤去をはじめとする環境整備工事が始まりました。

かつて舟運路として栄えた河川の姿から様々な歴史を経て今日ここに再びゆとりある親水河川として生まれ変わりました。

平成9年6月

「新川」の西端。「新川排水機場」。

火の見櫓」。奥に見えるのがかつての「新川西水門」遺構。

東方向を望む。

 

「新川」と「中川」を仕切る水門。

橋の一覧。木橋風のものが多い。

名所江戸百景 中川口」歌川広重

手前が小名木川で、左下に中川番所の建物や石段が描かれています。中央を左から右に中川が流れ、その奥が新川です。江戸時代から昭和中期まで、水運の動脈でした。この絵にも材木筏や船の運航が盛んであった様子が描かれています。

「新川西水門」跡。

解説板。

新川西水門跡

高度経済成長時において、工業化による地盤沈下が進み高潮に耐えられなくなったため、昭和37年から40年にかけて東西の水門を、昭和41年から43年にかけては、新川排水機場を設置しました。台風等の高潮や異常潮位に際しては、排水機場から中川に排水していました。昭和51年以降は東西の水門を常時閉鎖して新川の水位をAP+0.5㍍まで低下させて安全性を確保しました。そして、水門の役目を終わった新川西水門がここにあったことを記憶に留めておくために、その柱の一部を残しました。

櫓の上に上がってみます。

四方が見渡せます。

中川の向こうの流れは「荒川」。

遠くに「スカイツリー」。

船堀駅方向。

    

十月桜」。 

中川沿いにあるテラスへ。

   荒川と旧中川との間に設置された「荒川ロックゲート」(↓)。その少し上流(右手)に「小名木川」があります。

首都高中央環状線

            

次回は、「小名木川」を探索します。

(「今昔マップ」より)

「荒川放水路」開削前。          赤い線が「新川」の旧流路。青い線が「小名木川」。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新川さくら館。船堀タワー。... | トップ | 中川船番所資料館。江東区「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

鮮魚街道」カテゴリの最新記事