おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「日暮れて道遠し」などとうそぶいているつもり? そんな余裕などないはずなのに。

2013-07-22 00:01:52 | 格言・ことわざ
海江田代表、続投の意向=「改革は道半ば」【13参院選】(時事通信) - goo ニュース
 「改革は道半ば」って言っても、誰が支えるの? そもそも、いったい何を改革してきたの? 道半ばって、前途はなくなってしまうほどの大敗北! 国民向けのアピール度も最低、政治家としての魅力もなし! 
 東京、大阪、埼玉など大都市では議席0。四国では議員が0。その責任を幹事長にだけ押し付けて、自分は代表の地位に恋々としようとするの? 
 プロ野球のコミッショナーや柔道連盟の会長など、居座る御仁が目立つ昨今。
 しかし、政治は結果がすべて。いさぎよく辞任すべきなのに、都議選に引き続く大・大惨敗の党内、次のなり手がいないまま、責任のなすり合いが始まっている様相。それを見越しての発言か。
 こうして、民主党。ついこの前の政権党の面影の片鱗すらまったくなくしたまま、あだ花のごとく消え去る運命に、嗚呼・・・。
 待てよ! 中国通のこの方、さては、「日暮れて道遠し」にあやかって、自ら、悲壮な覚悟を披歴したものか!
吾日莫途遠、吾故倒行而逆施之。
◦莫 … 暮と同じ。
◦途 … 道。塗とも書く。
◦倒行 … 倒れるほどに急いで進むこと。
◦逆施 … 道理に逆らって行動する。

 伍子胥は、既に死んでいた平王の墓を暴き、死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥が言ったことば。
 この逸話。司馬遷の「史記」に「列伝」の一つとして記録されています。

 伍子胥は、楚国の出身。伍子胥は九尺(約2m)を超える身長と盛んな意気を持っていた。
 楚の平王は父の伍奢を捕え、都から離れていた子である伍尚と伍子胥に父の命で「都に来るように」と使者を送った。平王の無道ぶりを知っていた伍子胥は自分たちを殺すための罠と見破り、復讐を誓って鄭に脱出し、さらに呉に逃亡した。伍奢と伍尚は処刑されることになったが、伍奢は伍子胥が逃亡したのを知ると「楚の君臣は兵の難に苦しむことになるだろう」と言い残した。
 呉で伍子胥は公子光に仕えた。その後、公子光は呉王僚を暗殺、公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。伍子胥は、楚の隣国の呉王の側近という立場を得た。また、伍子胥は孫武の著した「孫子兵法」を献上し、孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。
 伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。紀元前506年、楚に出兵した。十分な準備に加え、兵法の天才孫武・楚の地理と内情を良く知る伍子胥という人材が揃い、連戦連勝して遂には楚の都郢を陥落させた。
 父を処刑した平王は既に死んでいたが、伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした(これが「死屍に鞭(むちう)つ」の語源になる)。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。「自分はもう年を取っているので、やり方などは気にしておれないのだ」あるいは「時間は無いのにやるべきことは沢山ある。だから非常識な振る舞いをしたのだ」と。
 首都陥落直前に楚王(廃太子の異母弟である昭王)は逃亡していた。放っておけば地方の兵などを使って再興しかねないため、徹底的に探させたがなかなか見つからなかった。
 その間に越王の允常が呉に攻め入ってきたため、兵の半分を帰した。更に申包胥が秦の援軍を取り付け、形勢は悪化。闔閭は楚に留まっていたが、将軍として従っていた闔閭の弟夫概が勝手に帰国し呉王を名乗ったため、楚から引き上げてこれを討った。
 呉に戻った伍子胥は再び闔閭の補佐に努め、呉を天下に並ぶもの無き強国にまで押し上げ、中原に進出していく前に隣国の越を攻めるよう進言した。闔閭はこれを聞き入れ、呉の富国強兵に尽力した。紀元前496年、伍子胥の進言により、自ら兵を率いてこれを衝いて越を討伐した。しかし、呉軍は越軍に大敗した。この時、闔閭も越軍の放った矢によって、片足を負傷し破傷風を起こして容態が悪くなり床に伏せるようになる。
 闔閭の容態が芳しくなくなると、数人の公子のうちのひとりの夫差が伍子胥の元を訪れ、自分を後継者に推してくれるよう頼んだ。伍子胥は闔閭の元を訪れ夫差公子を太子に推すが、闔閭は「夫差は情に薄く君主の器に足りないのではないか」と憂いた。これに伍子胥は「足りない所は周囲が補えばよいのです。それより早く後継を明らかにしないと、権力闘争が起こりかねません」と答え、闔閭はこれを認めた。闔閭は夫差を呼び「越王・勾践が父の仇と忘れるな」と言い、夫差も「3年以内には必ず仇を取ります」と答えた。
 間もなく闔閭が死去して夫差が後を継ぎ、父の復讐を誓う。伍子胥もそれを補佐し、着々と準備を進めた。紀元前494年に越軍が呉に攻め入るが、越軍は大敗。呉軍はその勢いのまま越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めた。
 勾践は使者を送り「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては必ず災いとなります」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許した。
 これ以降、越は恭順したふりと賄賂で、警戒を次第に解かせていく。これを上辺と見抜き、越に対する警戒を忠告する伍子胥と、越など置いて一刻も早く中原へ進出したいと願う夫差との間は上手く行かなくなってきた。范蠡が密偵を使い、夫差の耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われる。また、西施という美女を送り込んで、夫差を骨抜きにさせて越を警戒しないように仕向けたとも言われる。
 夫差は北方の斉が幼少の君主に代替わりし政情が不安定なことを知ると、侵攻を画策した。伍子胥は「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言したが、夫差はそれを退けて、かえって呉軍は艾陵において斉軍を撃破したこともあり、以後夫差は伍子胥の進言を軽視するようになった。
 また伍子胥を疎ましく思っていた宰相伯嚭への越からの贈賄工作も重なって、様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられたこともあって、両者の不仲を増大させた。 その後も夫差は越など眼中になく、中原へ進出し覇者になろうとした。諸侯との覇を巡っての戦費や外交費は呉の財政を逼迫させ、度重なる出兵や重税は民を疲弊させ、呉はその国力を急速に消耗させていった。
 これではいつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、斉に使者に行った際に息子を斉に預けた。しかし先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられないと戻り、この事が本国に帰った後に問題になって、伍子胥は夫差から剣を渡され自害するようにと命令された。
 その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。
 伍子胥が死んだ後、越を警戒する者がいなくなった。
 その後、国力を蓄えた越に呉は滅ぼされた。越の使者に対して夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません。伍子胥の言葉を取り上げずに、自分自身がこんなに陥ったのは残念です」と言い残して自決した。

 伍子胥ほどの迫力と胆力を有しているならば、起死回生の行動に打って出るということもあろうが、はたして・・・。
 「まだまだ泥水をすすらないといけない」などと発言しているが、それほどの根性がありそうにも思えない、という印象を持ってしまう。「落ちた犬は叩け」式のマスコミからの攻撃に耐える以上に打って出る(反撃する)肝っ玉があるかないかが試されている。
 
 

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