おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

平塚宿。お菊塚。平塚の里歌碑。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その3。)

2014-09-29 20:09:59 | 旧東海道

 旧東海道は「平塚駅前」の交差点を過ぎると、平塚宿の核心部へ入っていきます。


 その前に、ちょっと寄り道。

「お菊塚」。「紅谷町公園」の一画にある。

説明板。

 番町皿屋敷・お菊塚

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
 昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
 平塚市観光協会

お彼岸で香華が手向けてあった。小さな公園ですべり台がぽつんとある、その脇にあった。

「平塚宿の江戸見付跡」碑(「市民プラザ」前)。

説明板。


 平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
 平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1.5Km)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
 一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
 平塚宿江戸見附は、長さ約3.6㍍、幅約1.5㍍、高さ約1.6㍍の石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見つけは東西に少しずれた形で設置されていました。
 平成十三年(2001)十月 平塚市



「平塚宿史跡絵地図」。

平塚宿

 最盛期には、二千人もの人口と五四軒の旅籠屋を抱えた宿。
 平塚は古くより、東海道から八王子道などの分岐点で、相模各地からの物資や人の交流が盛んで、交通の要所として栄えた。女性や足の弱い者は、江戸からの第二夜を平塚泊まりとした。
 平塚見附先の街道沿いに、脇本陣跡 、高札場跡、東組問屋場跡、本陣跡、西組問屋場跡の標柱と説明板が次々と立っている。 

 現在の駅前付近の賑やかさを少し過ぎた西辺りが、かつての宿場の中心街。

 また、平塚市一帯は1945(昭和20)年7月16日(終戦のわずか1ヶ月前)に米軍機の空襲を受け、ほぼ壊滅的状態になってしまった。その後の区画整理等でかつての遺跡はほとんど残ってはいない。「・・・跡」の碑が当時を物語るのみである。

※平塚空襲
 太平洋戦争末期、アメリカ軍が神奈川県平塚市、中郡大野町(現在は平塚市に編入)に対して行った空襲。
 当時、この地域には平塚市~大野町にかけての広大な土地に海軍火薬廠(現在の横浜ゴム平塚製造所)があったほか、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場(現在の平塚競輪場周辺)、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場(現在のJT平塚工場周辺)、日本国際航空工業(現在の日産車体本社工場・第一地区周辺)などの戦争遂行に不可欠な軍需工場が多く存在していた。
 アメリカ軍はこれらを破壊すべく空襲の主要目標都市として平塚をリストアップしていた。平塚空襲とは一般的に1945年7月16日から17日日にかけて行われた攻撃をさす場合が多いが、同年2月16~17日、7月30日にも空襲があり死傷者が出ている。
 7月16日夜、マリアナ基地を発進したB29爆撃機138機の編隊が伊豆半島方面より侵入。花水川河口へ照明弾が投下される。その後、22時30分の空襲警報発令と同時に焼夷弾が投下され始める。大磯駅周辺や高麗山、相模川対岸の茅ヶ崎など旧市の外周部より投下が始まり、次第に第二海軍火薬廠などのある旧市中心部へと攻撃が移る。空襲は翌17日午前0時35分まで続いた。
 死者数は調査により異なり228名(米国戦略爆撃調査団報告)、237名(神奈川県警調べ)、343人(平塚市調査)などの数字がある。当時の市域10,419戸中の約8,000戸が消失した。投下された焼夷弾447,716本、1,173トンは一夜に投下された量としては八王子空襲に次ぎ国内2番目の多さと言われる。(以上、「Wipedia」より)

 ただ、軍事施設があったため、というよりも、米軍の本土上陸地点として先制的に空襲を行った、という説もある。

写真は、「Wikipedia」より。

 しばらく進むと、

「平塚の里歌碑」(「平塚市民センター」内・中庭)。

歌碑。

 平塚にて
  あわれてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里
  このひらつかのかたへにて そのかみ三浦遠江入道定可 世を遁れてみまかりしと いひつたふばかりにて しれる  もの なかりけり
 ・・・ 

 この歌は、太田道灌の作とされる紀行文「平安紀行」に載るもので文明12年(1480年)6月、太田道灌が京都への道すがら平塚に来たときに詠んだ歌とされています。
 平塚へ来た道灌は、その昔、この地に三浦遠江入道定可という人物が隠棲していたことを思い起こしました。しかし、誰ひとりその遺跡を知る者がいなかったことを哀れみ、「哀れてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里」と詠みました。
 なお、三浦遠江入道定可とは平塚に居を構え、平塚氏を名乗った三浦為高のことと考えられます。(平成26年 平塚市民センター改訂)

「江戸城の井戸枠」。

 さらに西へ進む。静かで落ち着いた街並みになっていく。

 

「平塚宿脇本陣跡」碑。

 江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが、脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801~03)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830~44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。

「平塚宿脇本陣高札場」蹟 。

 高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約5メートル)、横一間(約1.8メートル)、高さ一丈一尺(約3メートル)でした。平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。

 道路をはさんだほぼ反対側に「東組問屋場跡」碑がある。

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