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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

今を盛りのタチアオイ、咲き始めたアジサイ。そして、満開のツツジ。隅田公園。

2020-06-01 20:37:08 | 隅田川

隅田公園。サクラ、ウメばかりではなく・・・。タチアオイ。

「梅雨葵」とも言われます。

「アオイ(葵)」というと、つい葵の御紋、徳川家の家紋と思ってしまいがちですが、まるで違う植物の葉をデザインしたもの。

 葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもの。

  

 フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるように賀茂氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。 その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきた。これにより三河武士である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏(河内源氏)系新田氏流世良田氏(得川氏)の末裔ではなく賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。 
 豊臣家が滅んだ後、徳川家康の権威が上がると徳川家使用紋の葵紋は特別な家紋となっていった。家康が征夷大将軍となった後、次第に徳川将軍家以下一門に制限され、他家に使用禁止となったは、享保8年(1723年)。 
 天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い桐紋を徳川家にも与えようとしたが、徳川家はこれを固辞したため、葵紋の権威が上がったともいわれる。

(この項、「Wikipedia」参照)

アジサイ(紫陽花)は、これからが見所。

     

        

「山の宿の渡し跡」。

山の宿の渡し跡            台東区花川戸1丁目1番
隅田川渡船の一つに,「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。 明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は, 隅田川に船路を描き, 「山ノ宿ノ渡,枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は 吾妻橋上流約250メートル。 浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を, 命名。 別称は, 東岸船着場が 枕橋橋畔にあったのにちなむ。 枕橋は 墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は, 江戸中期ごろから墨堤と呼ばれ, 行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く, 山の宿の渡しは それらの人を墨堤に運んだであろう。したがって, 江戸中期以降の開設とみなせるが, 天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」は この渡しを描いていない。

(明治の古地図「goo」より)

 渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、その町名をとって命名されたようです。また、「花川戸の渡し」と称されたり、東岸(対岸)の船着場が北十間川・枕橋のたもとにあったので「枕橋の渡し」とも。
 ただgoo提供の明治古地図(年代不明)には、「枕橋の渡し」「山の福の渡し」と表記されています。「福」は「宿」の誤りか。その地図には、少し北の隅田川沿いに「山の宿郵便局」と記載された郵便局があります。 

        

そして満開のツツジ。

出かけたのは、5月28日(木)。もうちょっとアジサイが見頃になったら、梅雨空の下、来てみましょう。

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2020春。「春は名のみの風の寒さや」。隅田公園のサクラ。その2。

2020-03-26 20:10:20 | 隅田川

                        「言問橋」を渡って、再び墨田区側に。
                       

2階建てバスもお客がパラパラ。

橋の上から手が届くところに花びら。



橋のたもとにある「小梅 埼玉屋」さんで、桜餅と草餅を買います。

墨田区側は、池のある庭園風に。

             



小梅邸と明治天皇行幸」解説板。
 江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が明治の初めに歩兵工廠となったため、この小梅邸が本邸(当主・徳川昭武:15代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。
 江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年(1875)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治29年(1896)には洋館が造られました。

注:江戸時代から明治の後期にかけては、「水戸街道」は日光街道の千住宿から分岐していたので、ここで言う「水戸街道(現国道6号線)」は存在していません。旧街道と現街道は葛飾区新宿(にいじく)で合流します。


公園内には、記念碑もあります。

花びら越しのスカイツリー。



根元に一輪。

築山風のところにもサクラの木々。

       

ここからのスカイツリー。

                

お目当ての枝垂れ桜はまだつぼみ。

 ところで、長い間工事中だった南側。東武線と接する道路や線路下のお店、さらに北十間川と大がかりな工事がほぼ完成。広々とした芝生広場などが開放されています。


            

          東武スカイツリーライン線の電車。

 さっそく春の陽気に誘われて家族連れやカップルがそれぞれくつろいでいます。


広場からのスカイツリー。

                     

 「春は名のみの・・・」は「早春賦」の一節。

 「早春賦」は、1913年(大正2年)に発表された吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌。
 『尋常小学唱歌』の作詞委員会代表であった吉丸一昌が、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』全10集として発表した中の一作。
 長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある。
 題名の「賦」とは漢詩を歌うこともしくは作ることを指し、「早春に賦す」が原義である。

歌詞
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か


 作詞の吉丸一昌(よしまる かずまさ)は、東京府立第三中学校(現両国高校)教諭(当時の教え子の中には芥川龍之介もいた)の経験もありました。その関係で、今も歌い継がれている「東京府立第三中学校・両国高校」の校歌(石原重雄作曲)を作詞しています。

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2020春。「春は名のみの風の寒さや」。隅田公園のサクラ。その1。

2020-03-25 20:13:37 | 隅田川

                      都内は満開、というニュース。そこで隅田公園へ。
3月24日(火)。晴れ。北風寒し。
ソメイヨシノは、ほぼ満開? でも、古木が多いせいか、元気がなさそう。

それでも足下には菜の花。そしてサクラ。




そぞろ歩きの人びとも寒そう。川面がきらきら光って春らしいが。
    コロナ騒動で屋形船も元気がない。

「鬼平情景 みめぐりの土手」。 
         大川(隅田川)の土手下にある「三圍(囲)=みめぐり神社」にまつわるお話。

雪洞も大きく揺れて。
                   華やか気分にはなれます。



 「桜橋」を渡って浅草側へ。


                  

スカイツリーを借景に。



                       

          

洒落たカフェテリアが出来たんですね。

紅色の衣をつけたスカイツリー。

スズムシ等の観察用の竹林。

「TOKYO2020」も「1年程度延期」に。トランプとスポンサーの意向(威光)で、アベさんもやっと決意。
今度はコロナにかこつけて「非常事態宣言」か。

思惑通りにいくかどうか。

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隅田公園。梅めぐり散歩道。2020。

2020-02-10 21:14:52 | 隅田川

                     2月7日(金)。晴れ。寒し。
隅田公園の梅を観に行きました。6日の寒さが引き続き、けっこう寒い中での。でも、北風ではなくて幸い。
隅田公園はサクラで有名ですが、台東区側の北に梅が植栽されているところ=「梅めぐり散歩道」があります。
去年初めて訪問。今年はどうかな、と。少しずつ整備されているようですが。

上空の寒気で、飛行機雲が幾筋も。

満開に近い梅も。

バックにはスカイツリー。



                   

見物客もほとんどいない。公園全体も少なそう。雷門界隈ははたして?


     



      

正岡子規・句碑
             雪の日の 隅田は青し 都鳥(明治廿五壬辰年)
『寒山落木』明治十八年ヨリ同二十五年マデ
明治十八年 夏郷里松山ニ歸ル○嚴嶋ニ遊ビ祭禮ヲ觀ル○九月上京
仝 十九年 夏久松定靖公ニ扈從シテ日光伊香保ニ行ク○九月歸京
仝  廿年 春腸胃ヲ病ム上野ヲ散歩ス○夏歸省○九月上京
仝 廿一年 夏牛嶋月香樓ニ居ル○九月歸京常盤會寄宿舍ニ入ル
仝 廿二年 四月水戸ニ遊ブ徃復一週間○五月咯血 七月歸省九月上京不忍池畔ニ居ル後再ビ常盤會寄宿舍ニ入ル 十二月歸郷
仝 廿三年 一月上京七月歸郷 九月三井寺觀音堂前考槃亭ニ居ルコト七日直チニ上京
仝 廿四年 春房總行脚十日○六月木曾ヲ經テ歸郷 九月上京途中岡山寒懸ニ遊ブ○秋大宮ニ居ルコト十日 冬駒籠ニ居ヲ遷ス○川越地方ニ遊ブコト三日
明治廿五年 一月燈火十二ケ月ヲ作ル其後何々十二ケ月ト稱スル者ヲ作ルコト絶エズ 春根岸ニ遷ル 夏歸省ス 九月上京 十一月家族迎ヘノタメ神戸ニ行ク京都ヲ見物シテ上京○此年夏ヨリ日本紙上ニ投稿十二月ヨリ入社

【説明】隅田公園の北側の端に、大正時代まで「竹屋の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。近くにある待乳山聖天からの眺めを詠んだものと思われます。(Untitled - 上野観光連盟)

そして、「花」歌碑。
                春のうららの 隅田川
           のぼりくだりの 船人が
           櫂のしづくも 花と散る
           ながめを何に たとふべき

           見ずやあけぼの 露浴びて
           われにもの言ふ 桜木を
           見ずや夕ぐれ 手をのべて
           われさしまねく 青柳を

           錦おりなす 長堤に
           くるればのぼる おぼろ月
           げに一刻も 千金の
           ながめを何に たとふべき


 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。この碑は、羽衣自筆の歌詞を刻んだもの。



                       

サクラの古木と。



メジロが1羽飛んできました。梅の蜜を吸いに。



                    

吾妻橋を渡って墨田区側へ。

            

 例の騒ぎで、「スカイツリー」に向かう人は(特に外国人)少ない印象。     

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隅田公園。サクラ。さくら。桜。その3。

2019-04-08 19:03:19 | 隅田川

                       春風とはいいがたい冷たさの中で。
この付近の今昔。


1880年代のようす。右上の堀割は「山谷堀」。下の流れは「北十間川」。「隅田川」の両岸が現在の隅田公園。



2010年代のようす。隅田川に架かる橋は、上から「桜橋」、「言問橋」、「東武線鉄橋」。

 
                              「菜の花」。
                         
雪洞が揺れる土手沿い。



「牛嶋神社」の常夜燈。




竹屋の渡し (注:上の古地図では「今戸の渡し」とも表記)
 「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。

「言問だんご」。解説板。
言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振る舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群集で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


郡司成忠大尉
 万延元年11月17日~大正13年8月15日(1860~1924)
 東京生まれ。海軍軍人。父は幕臣、弟は小説家幸田露伴。明治5年(1872)海軍兵学寮に入校。26年(1893)海軍大尉として予備役に入り報効義会を組織し、千島樺太交換条約により日本領とされた千島列島を探検。最北端の占守島(シュムシュ島)に入植し、漁場の開拓にあたった。翌年日清戦争従軍のため帰還。日露戦争ではカムチャツカに侵入しロシア軍に捕われ、戦後帰国。第一次大戦にはシベリアで特殊任務に従事した。
                          

(写真は「Wikipedia」より)

この付近の今昔
1880年代のようす。○が「言問団子」と「墨堤通り」付近。
2010年代のようす。かつての墨堤通りを残している。上はアサヒビール関連会社。

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隅田公園。サクラ。さくら。桜。その2。

2019-04-05 20:38:49 | 隅田川

                             サクラの他の草花も咲き、・・・。

     



     「春のうららの隅田川・・・」

「上り下りの舟人が・・・」
 
「言問橋」を渡って墨田区側へ。。



               

                        





               



                     

 隅田公園は台東区側(浅草側)と墨田区側と「隅田川」をはさんでつくられています。「桜橋」「言問橋」「吾妻橋」を行ったり来たりしながらの散策。

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隅田公園。「梅めぐり散歩道」。そして「向島百花園」へ。

2019-02-25 18:41:06 | 隅田川

                                 白梅。

ただ今整備中、という雰囲気。枝垂れ。

                   



それでも見応えがある梅も。

                        

公園内をうろうろ。西側の通りから。



                            

 さて、一通り歩いて、桜橋を渡って、対岸(墨田区)にある「向島百花園」へ行くことにします。
          振り返る。

こんな記念碑があります。「平成中村座発祥の地」。

 2000年(平成12年)11月、18世中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)が中心となって、浅草・隅田公園内・山谷堀跡に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりです。その前から勘九郎の追っかけをやっていたので、その時、ここまで観に来ました。もう20年近く経ちます。
 翌年(2001年(平成13年))以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていました。勘三郎死去の後も、その遺志を継いだ長男の6代目中村勘九郎が座主を引き継いで平成中村座を復活させました。

 当時の「平成中村座」は仮小屋スタイルで、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を模しています。正面にはお大尽席があったり、舞台の内側にも席があったり(そこで観たこともあります。舞台上の準備や芝居のやりとりがまさに目と鼻の先に。)、外の幟なども芝居小屋風で、ここに建設中の頃から時々立ち寄ってそのようすを見に来ていました。

 その時上演されたのは、 
  ・『隅田川続俤 法界坊』
  ・『義経千本桜』

 さらに、浅草浅草寺本堂裏手広場で上演した時も。
  ・『加賀見山再岩藤』
  ・『弁天娘女男白浪』
  ・『本朝廿四孝』
  ・『人情噺文七元結』


 勘九郎(勘三郎)については、「歌舞伎座」での野田秀樹の芝居などを含め、けっこう通いました。   

その小屋跡広場からのスカイツリー。

 むろん、「東京スカイツリー」は2012年(平成24年)5月に開業ですから、当時はまだありませんでした。

「桜橋」からの隅田川。

「ユリカモメ」が等間隔に並んで、       

           羽を休めています。  

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隅田公園。「梅めぐり散歩道」。

2019-02-22 19:58:14 | 隅田川

                              春風に誘われて、隅田公園(台東区)の梅見。
 「言問橋」の先に、最近、整備されたというので出掛けてみます。隅田公園といえば、何といってもサクラ。ウメの方はどうか?
 と、その前に。
                   「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」。
戦災によって亡くなられた方々の碑
 隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年ごとに薄れ、平和な繁栄のもとに忘れさられようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。

昭和61年3月 台東区

「言問橋の縁石」。
 ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。
    

隅田川以東の惨状。中央の丸い建物は、旧国技館(のち、日大講堂)。左手前は両国駅。

当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

死亡:83793人
負傷者:40918人
被災者:1008005人
被災家屋:268358戸

 人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。
 また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている。
 この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。
 当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
 爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。
 焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。
 これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。
                 
(以上、「Wikipedia」参照。写真は、石川光陽撮影)

 今も香華が手向けられています。

水原秋桜子句碑」。
                   羽子板や子はまぼろしのすみだ川


正岡子規句碑
                 雪の日の隅田は青し都鳥  

花の碑」。  
          春のうららの隅田川
          のぼりくだりの舟人が・・・
 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年11月3日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。
 武島羽衣は、明治5年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣28歳、廉太郎21歳の時であった。
 滝廉太郎は、作曲者として有名であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年6月29日、24歳の生涯を閉じた。
 武島羽衣はその後、明治43年から昭和36年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和42年2月3日、94歳で没した。
 手漕舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。

春のうららの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

見ずやあけぼの露浴びて
われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤に
くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき

 余談ですが、JR「錦糸町」駅北にある総合商業施設「オリナス」はここから採ったものと思われます。「錦」(きんしちょう)と「おりなす」は巧みな取り合わせ。職・住・遊が融合して「織り成す」とも。  

さて、やってきました。整備が終わったばかり、という雰囲気で、新しく植えられたウメの木が目立ちます。
 

                  
 
 右は広い通り、左はグランドと立地条件はあまりよくありません。現状、ベンチなどもなくゆっくり鑑賞する、また、何か飲みながら、語らいながら、というスペースもなさそうです。 

満開のウメ。そぞろ歩きのじじばばもちらほら。

        



道路の向かいは「待乳山聖天」。

隅田川の対岸には「スカイツリー」。
梅めぐり散歩道 梅と日本文化
 梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました平安時代になり、梅は上流社会の流行花木になり、和歌などに多く歌われました。
 梅にまつわる話では、菅原道真が太宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」有名です。安土桃山時代には中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして、鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に創られるようになりました。
 江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し「梅めぐり散歩道」を整備しました。
                 
  

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隅田公園。さくら。サクラ。桜。3月28日(水)午前。その2。

2018-04-03 21:34:19 | 隅田川

                                 遠くには墨田区役所の庁舎。
「ヤエベニシダレ」。
 エドヒガンザクラの枝垂れるタイプで、八重咲き。

 土手側に移動します。この付近の今昔。


1880年代のようす。右上の堀割は「山谷堀」。下の流れは「北十間川」。右下が現在の隅田公園。



2010年代のようす。隅田川に架かる橋は、上から「桜橋」、「言問橋」、「東武線鉄橋」。

「言問橋」上から北側を望む。

        

南側を望む。正面は墨田区役所。

   

隅田川上流。向こうの橋は「桜橋」。

まさに桜花爛漫。

「首都高」の下。

桜並木に沿って雪洞が提げられています。

あでやかな名入り。

対岸は台東区(浅草・今戸)。

「桜橋」から上流を望む。

「桜まつり」。地元の茶店も営業中。


               昼過ぎから夜まで。

               「・・・上り下りの船人が櫂のしずくを・・・」。
  

菜の花。 

  



          「ミヤビ(雅)」。

振り返って望む。

上流。遠くの橋は「言問橋」。

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隅田公園。さくら。サクラ。桜。3月28日(水)午前。

2018-04-02 20:58:01 | 隅田川

 3月28日(水)。晴れ。じじばばがそぞろ歩きの隅田公園。桜を愛でる人々。そんな隅田公園(墨田区側)を。

 
 序詞 野口雨情
                 都鳥さへ
                 夜長のころは
                 水に歌書く
                 夢も見る
  

立札
 ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唄われたものである。
 東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
 昭和63年10月9日 墨田区

 何とも仰々しい「立て札」ではあります。

 ついでに台東区側の隅田公園にある歌碑、句碑。
「花」(滝廉太郎)の碑。「春のうららの隅田川・・・」

「羽子板や子はまぼろしのすみだ川 秋櫻子」水原秋櫻子の句碑。

 さて、墨田区側。
「住民が育てた墨堤の桜」。
 江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1880年代から、地元の村の融資らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
 墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
 墨堤の桜が地元の人々に愛された桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

「墨堤植桜の碑」。

こちらは「平成植桜の碑」。

早咲きの「河津桜」。すでに葉桜になっています。

 隅田公園には土手に植えられた「ソメイヨシノ」の並木の他にも、単体でさまざまなサクラが植えられています。
「オオシマザクラ」。
 「長命寺の桜もち」のお店のそばにあります。
 ここは、正岡子規の仮寓の地でもあったようで、解説板があります。

 向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉

 近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の二階を3ヶ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次のような句を詠んでいる。

 花の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ
 
明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も

 から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん

 と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。
 子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴き声は悲壮で、「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。

「エドヒガン」。

「ベニユタカ」。

 「シロタエ」。 

「ヨウコウ」。

 
                        「ヤエシダレザクラ」。

「センダイヤ(仙台屋)」。
 原木は高知市内の仙台屋という店の庭にあったことから、牧野富太郎が命名した。
              
「ソトオリヒメ(衣通姫)」。
  ソメイヨシノとオオシマザクラの自然交雑で生じた。

他にもたくさんの種類のサクラ。咲き終わったのや、これからのものも。撮り損ねたのもまだまだありそう。

公園内もソメイヨシノが満開。
                     
ソメイヨシノ」。

 「ソメイヨシノ」は、江戸末期から明治初期に、江戸・染井村の造園師や植木職人達によって育成されました(ただし、「吉野」とあるが、吉野山に多い「ヤマザクラ」とは別種)。
 「ソメイヨシノ(染井吉野)」は「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交配によってできたかなり限られた数の原木を始源とするクローンであることが判明しています。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)挿し木などによって増やしたもので、ソメイヨシノ同士の自然交配による純粋な子孫はありません。そのため、すべての個体が同一に近い特徴を持ち、一斉に咲き、一斉に花を散らす理由になっています。よくTVで見る「桜前線」は、そうした特徴をよく表しています。
 しかし、病気や環境の変化に負ける場合には、多くの株が同じような影響を受け、植樹された時期が同時期ならば、同時期に樹勢の衰えを迎えようです。
 公園や街路樹などでソメイヨシノばかりが植えられている現状にはこれでいいのかとうなってしまいますが・・・。

     根元にも花が数輪。

「明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯」の碑。

 「隅田公園」は、関東大震災後の復興計画の中で、、三大公園(あとの二つは「浜町公園」と「錦糸公園」)の一つとして計画されました。隅田公園は、隅田川の両岸にあって、徳川吉宗以来、桜の名所であった隅田川堤と旧水戸藩邸の日本庭園(墨田区側)を取り込み、和洋折衷の大規模な公園として整備されました。

  
    「ユリカモメ」が数羽、羽を休めています。

 主人公として在原業平が想定されている『伊勢物語』の「九段 東下り」に登場する「都鳥」は、ユリカモメを指しています。

 なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。・・・さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 ここでの「都鳥」は「ユリカモメ」だとされています。当時、京の都には飛来していなかった鳥のようです。
「ミヤコドリ」。(「Wikipedia」より)

                   

               

                 

「ゲンペイモモ(源平桃)」。

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浅草から浜離宮(水上バスの旅。その1。)

2014-04-07 20:40:10 | 隅田川

 春休み。孫達二人に約束していた「水上バス」。春休みに入ったので、さっそく28日に、消費税アップの前には、という事もあって出かけました。水上バスに乗って、浜離宮まで。そこでしばらく遊んで帰りは、電車に乗って。
 吾妻橋の西のたもと・隅田公園入口が乗船場。いっぱいなのかと思ったら、案外スムーズに乗れました。けっこうたくさん待ち人がいましたが、船内はゆったりと座って、出発! 40分ほどの船旅。
 もっとはしゃぐかと思いきや、小学生の孫達、乗ったとたんに「妖怪ウォッチ」攻略本を取り出して見る始末。でも、それが後で役立った! 「浜離宮」、特に遊具はなく小高い丘や池が広がる庭園。妖怪探しだとか言って、二人で駆け上ったり駆け下ったり・・・、楽しそうに遊んでいました。「水上バス」乗船経験はどうなったのだろう?

 こちらは、そういう連中の相手もせずに、いつものように携帯で写真を撮りました。これまで探索してきた風景を隅田川から眺めるのもいいものでした。

スカイツリー。
「三味線堀」から始まる「鳥越川」と「隅田川」との合流点。朱塗りの欄干の橋があざやか。
「日本橋川」河口にある「「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
霊岸島と佃島を結ぶ「中央大橋」橋脚部にある彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像。
「月島の渡し」築地側。
勝鬨橋を遠くに望む。
船内のようす。お酒でも飲みながらゆっくりという気分になりますが、孫連れではそれも出来ず・・・。

 「浜離宮」に到着。突堤を回り込んで築地川に入ったところに船着き場があります。遠い昔に来て以来。
奥に見える川が「築地川」。
「将軍お上り場」跡。
灯台跡。
樋の口山。

  
 富士見山からの遠望。


1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」)より。上の写真部分。直線の広い部分は「馬場」(現在は立入り禁止区域)。
 現在もほぼこの当時のようすをとどめている。


ほぼ同じ場所の1970(昭和45)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

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勝鬨(かちどき)橋。(隅田川の歴史をたどる。その3。)

2013-12-18 23:27:10 | 隅田川

 久々に「東銀座」へ。そのついでに、「晴海通り」を「勝鬨橋」まで。実は、初めて。
 「隅田川」に架かる橋の中で、最下流にある橋で「晴海通り」が通る。この先は、東京港(少し南西にある「浜離宮公園」付近が河口)。

 日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)だが、1980年に機械部への電力供給が終了、可動部もロックされ、跳開することはない。
跳開したときのようす。
www.zenitaka.co.jp/bridge/kachidoki.html)‎より。

 1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置された。築地と対岸の月島の間を結ぶ渡船だった。
「かちときのわたし」碑。
 説明板によると

 明治38(1905)年、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「かちどきの渡し」と名付けて渡船場を東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。・・・
 設置されたかちどきの渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあってこの間を渡船が運搬していました。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。稲荷社(赤丸)がある。当時は、月島はまったく市街地の形をなしていない。北の石川島には、監獄があった(北から「石川島」「(新)佃島」「月島」の三つの島・埋め立て地から構成されていた。)

大正時代、勝鬨橋がないころのようす(「今昔マップ」より)。「かちどきの渡し」、「月島の渡し」、「佃の渡し」があった。「海軍兵学校」、「経理学校」、「軍医学校」等の施設が記されている(現在の「築地市場」)。
勝鬨橋架橋のころのようす(「同」より)。「月島の渡し」「佃の渡し」は、まだ健在。

 大正12(1923)の関東大震災後、架橋の運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。・・・かちどきの渡しは昭和15(1940)年6月勝鬨橋の開通とともに廃止されました。

※1 「かちどき」は、中世の戦などの勝負事で勝ちを収めたときに挙げる鬨(とき)の声で、士気を高める目的で多数が一緒に叫ぶ声。「いざ!出陣」のときに「エイエイ(エイ)」に呼応して「オー」と三回繰り返すのは知っていたが、勝ち戦ののときのかけ声「ときの声」は何と叫ぶのだろう?
※2 この橋も関東大震災の復興事業と関連した。

 明治25(1892)年、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されたが、月島側の発展とともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態に。
「月島の渡し」碑。
 当時は隅田川を航行する船舶が多かったので、3千t級の船舶が航行させるために中央部分を開く可動橋として架橋されることになり、1933年に着工し、1940年6月14日に完成。


勝鬨橋之記
 明治三十八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄付す。昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
昭和十五年十二月 東京市長大久保留次郎 撰書

 1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった「日本万国博覧会」へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。博覧会そのものは日中戦争の激化などもあって中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。
 橋の両端部はアーチ橋で、中央部が上方に開く構造。開く角度は最大70度、約70秒で全開になる。片側だけ開く操作も可能であった。橋梁の歩道の上部には、4つの建屋があり、それぞれ運転室、見張室、宿直室などとなっている。

信号機がまだそのまま。
上部・梁の部分。
 橋が開く際は、両岸アーチ部にある信号器が赤になり、橋上の往来を停止させた。
 設置当初は1日に5回、1回につき20分程度開いていた。この回数はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量が増大したことで、次第に回数は減少、特に上流に「佃大橋」が建設された1964年以降、船舶通航の需要は限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになった。1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため開いていたが、航行する大型船舶がなくなったことや交通量の著しい増加などの理由で1970年11月29日を最後に開閉が停止となった。

橋梁。
河口を望む。右が「築地市場」。その奥が「浜離宮」にあたる。
上流方向。
月島方向。
 1998年より夜間にライトアップが行われている。
 橋のたもとの築地側には、開閉のための電力を供給していた変電所を改装し、財団法人東京都道路整備保全公社が運営する「かちどき橋の資料館」が2005年4月に開館した。


 2007(平成19)年、清洲橋・永代橋と共に勝鬨橋が国の重要文化財(建造物)に指定された。


現在の橋が完成した年。但し、「駒方橋」は「駒形橋」。(「錢高組」HPより。)
 この他に
「千住大橋」(旧)1927(昭和2)年(新)1973(昭和48)年、「白鬚橋」1914年(大正3)年、「水神大橋」1989年(平成元)年がある。

「海軍経理学校」の碑。橋の西詰のたもとにある。

海軍経理学校
 大日本帝国海軍で庶務・会計・被服・糧食を受け持つ主計科要員育成のために置かれた軍学校としての養成学校である。主計科士官の基礎教育を行う初級士官養成校の機能と、主計科の専門教育を主計科士官および下士官・兵に施す術科学校としての機能を兼ね、さらに研究機関でもあった。
 1907年(明治40年)に創設され、第二次世界大戦終結後に日本海軍が解体されるまで続いた。主要校舎所在地は現在の東京都中央区築地。海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校の一つ。略称は海経(かいけい)。
 高校の先輩(「旧制中学」出身)でこの学校を出たあと、しばらくして終戦。「ポツダム中尉」だった、という話を聞いたことがある。

 ちょっと上流、隅田川に流入する川に架かる橋で、関東大震災復興事業にかかわる橋がある。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。

 創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋(旧弾正橋)朱塗りの橋。現在は歩道橋として利用。菊の紋が見える

についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。   
 平成十四年三月 中央区教育委員会
 

 ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。

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両国橋~隅田川河口まで(隅田川の歴史をたどる。その2)

2013-04-17 22:55:24 | 隅田川

 両国橋の下流、隅田川とを結ぶ竪川(人工の堀)で遊歩道は途切れて、ぐるっと回り道。
竪川(一之橋)側からみた水門。
 一之橋から東にかけて、竪川に架かる橋は、二之橋(清澄通り)、三之橋(三ツ目通り)、四之橋(四つ目通り)と続き、五之橋はJR亀戸駅付近を通る「明治通り」に架かる橋となっています。
新大橋西詰めにある大正12年に起こった関東大震災「避難記念碑」。碑文によれば、神の助けと人智により、隅田川に架かっていた橋の中で焼け落ちなかった「新大橋」上で九死に一生得たことを記念したもの、と。
見上げるほど大きな碑。
「日本銀行」発祥の地。永代橋西詰付近。
 碑面には 「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられています。
碑文 日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

 日本橋川、隅田川、新川に囲まれたこのあたり一帯は、「霊岸島」と呼ばれた地域。今は一大商業地域ですが、そこここに歴史的な記念碑などが多くありますが、今回は省略。
日本橋川河口(隅田川との合流点近く)に架かる「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
解説版。由来とともに、永井荷風の「断腸亭日乗」の一節が記されています。
「日本橋川」の西側を望む。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。

創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。   
 平成十四年三月 中央区教育委員会
 

 ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。

「中央大橋」にある彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像。
 隅田川とフランスのセーヌ川とは、1989年(平成元年)に友好河川を提携し、中央大橋を架ける際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼しました。主塔および欄干部分は、「兜」を意識したデザインになっている、ということです。
(「Wikipedia」より拝借。)
 彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからしか正面が見えません。
遠くにスカイツリー。
銘板。
月島方向を望む。

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両国橋~隅田川河口まで(隅田川の歴史をたどる。その1)

2013-04-16 19:21:09 | 隅田川

 といってもなかなか河口にたどり着きません。久々に隅田川の旅を試みました。今回は吾妻橋から東側(左岸)を。まだまだ歴史の古さを感じさせるものがあって。やっと「永代橋」の下流の橋「中央大橋」まで。往復約3時間30分の自転車の旅。「勝鬨橋」までまだまだ遠い。
 テラスには、区立の小学校や中学校の卒業制作の作品が展示されています。また、歴史を偲ばせる浮世絵や写真が掲示されています(「東京江戸博」所蔵のもの)。総武線の鉄橋が見える。
隅田川のボートレース。昭和29(1954)年の全日本選手権にケンブリッジ大学からも参加したときのものらしい(言問橋上空から上流を望む)。右岸(西側)に見える川筋は「山谷堀」。現在の桜橋・西のたもと付近。
安政の大地震後に新しく架けられた両国橋渡り初め。親子三代の一家を先頭に渡るのが慣わし。
こちらも同じだが、夫婦揃っての三代の一家という。遠くに筑波山。
川沿いのフェンスには、相撲の48手が描かれている。
両国橋のたもとの広小路の賑わい。
かつての橋は現在の橋よりも少し下流にあった。その説明板。
「赤穂浪士休息の地」。実際には、両国橋を渡らずに一之橋から永代橋を渡って泉岳寺に向かった。
「春日野部屋」。堂々とした建物。かつての広小路付近。

ここで、「春日野部屋」出羽の海一門の相撲部屋(名門に属するか)。 
 1925年(大正14年)5月場所に現役を引退した出羽海部屋所属の第27代横綱・栃木山が、引退に伴い自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡である年寄・春日野を襲名して、当時「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許されて春日野部屋を創設した。8代春日野は横綱・栃錦などの関取を育て上げた。
 8代春日野は1959年(昭和34年)10月に死去し、それに伴い、春日野部屋所属の横綱・栃錦が現役力士のまま二枚鑑札で9代春日野を襲名して部屋を継承した。9代春日野は1960年5月場所に現役を引退して年寄専任となり、以降、師匠として横綱・栃ノ海や大関・栃光、関脇・栃東、関脇・栃赤城、関脇・栃乃和歌などといった多くの関取を育て上げた。
 約30年にわたり師匠を務めた9代春日野は1990年(平成2年)1月に死去し、それに伴い、春日野部屋の部屋付き親方である中立親方(元横綱・栃ノ海)が10代春日野を襲名して部屋を継承した。10代春日野は関脇・栃乃洋や小結・栃乃花などといった関取を育て上げた。
 その後、10代春日野の定年退職を1ヶ月後に控えた2003年2月に、春日野部屋の部屋付き親方である竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が10代春日野と年寄名跡を交換する形で11代春日野を襲名して部屋を継承した。11代春日野はこれまでに栃煌山や栃ノ心、栃乃若などといった関取を育てている。
 春日野部屋の力士には、開祖の栃木山に因んで四股名に「栃」の字が付けられた力士が多い。1938年(昭和13年)5月場所以降、1967年9月場所を除いて幕内力士を絶やしていない。2012年2月13日に田子ノ浦部屋の師匠である田子ノ浦親方(元幕内・久島海)が急逝したため、同年3月場所前に幕内・碧山を始めとする力士3人が田子ノ浦部屋から所属力士として加わった。
(以上、「Wikipedia」による。)
 我々の世代にとっては、何と言っても9代春日野親方(第44代横綱の栃錦)。またその跡を継いだ第49代横綱の栃ノ海ですね。

その前の道路。現在は問屋街。むやみに幅広い道。広小路の名残り?
けっこうな広さの道筋。
「尾上町」跡。隅田川と竪川との合流点付近。
竪川の水門。
箱崎に向かう首都高。



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中洲の渡し。永代橋。霊岸島。佃島。・・・(隅田川の渡し跡をたどる。その6)

2012-11-15 18:44:22 | 隅田川

「新大橋」から「永代橋」。そろそろ河口近く。川幅も広くなり、日本橋川や亀島川が西から流入。小名木川が隅田川と旧中川・荒川を結ぶ。さらに下流は、佃島をはさんで東西に広く分かれ、隅田川本流は西に流れ、「浜離宮」へ向かいます。
「旧新大橋」(明治時代)。この図柄に見える「親柱」が東詰に残されています。
絵の右側に描かれているものか?
装飾的にも趣のある柱です。
「大はしあたけの夕立」(安藤広重作)のモニュメント。
小名木川・万年橋からの隅田川・清洲橋。
 「小名木川」は、徳川家康が江戸を開く際、行徳塩田(現在の千葉県行徳))からの塩を運搬するために運河を開削させたのが始まりで、名称 は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名から起こっています。
 その後、「塩の道」小名木川は塩のみでなく、江戸市中への物流の重要河川となりました。中川、新川、江戸川、利根川を経由する東廻り航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となります。
 開削とほぼ同じ頃から、川の北側を深川八郎右衛門が開拓して「深川村」が、南側は埋め立てられ「海辺新田」となり、江戸時代を通じて埋め立てが進みました。やがて、小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、東部地域の開発・発展が進んでいきます。
 小名木川と旧中川の合流地点には「中川船番所」が置かれましたが、当初は、隅田川と小名木川の合流点近くにも「船番所」が置かれた。
「万年橋」近くにある「川船番所跡」の説明板。

 「万年橋」の北岸は松尾芭蕉が居を構えた場所で、隅田川と小名木川の合流地点付近の住居跡は芭蕉歴史庭園として整備されています。また北には「江東区芭蕉記念館」があります。 
芭蕉のブロンズ像。遠くに見えるのは「清洲橋」。
芭蕉の句碑。
「芭蕉資料館」入り口脇にある「バショウ」

「清洲橋」。
「清洲橋」からのスカイツリー。
「清洲橋」。この上流あたりに「中洲の渡し」がありました。
「永代橋」を望む。
「豊海橋」。「日本橋川」が隅田川に注ぐ地点。
「日本橋川」の西側を望む。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。


創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。   
 平成十四年三月 中央区教育委員会
 

 ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。
当時の技術が偲ばれます。
上部の装飾部分。
説明板。こちらには、永井荷風の一文が記されています。
「旧永代橋」が描かれたモニュメント。
「永代橋」からのスカイツリー。
 
 永代橋の西側一帯。「日本橋川」、「亀島川」に囲まれた地域は、旧名「霊岸島」と言いました。「霊岸島」の名は寛文元年(1661年)、この地に霊厳寺が建立されたことによります。霊厳寺は明暦の大火ののち、深川に移転し、跡地は町地となって以後埋め立てによる拡張工事が行なわれました。昭和46(1971)年、住居表示制度の実施により現在の形となり、行政地名としての「霊岸島」は消滅しました。
 その一画、「新川」という現在の地名はこの地に流れていた新川に由来します。亀島川から隅田川にかけて東西に流れていた新川は、万治3年(1660年)に豪商の河村瑞賢が開削したといわれています。江戸時代には川沿いに酒問屋が多く集まって繁盛していました。新川は水路として活躍していましたが、辺り一帯が戦災で壊滅的状態になり、戦後、残土処理のために埋め立てられ完全に消滅しました。
「霊岸島」。(「記念碑散策・中央区」より)。けっこう見所の多い地域です。
「永代橋」から「佃島」方向を望む。「永代橋」の少し下流に「大川口の渡し」がありました。右の橋は、「中央大橋」。その先が「浜離宮」。左が「相生橋」、その先が「春海橋」へと続きます。
明治13年頃のようす。左上が亀島川。
 
 徳川家康が関東へ下降する折の1590年8月30日(天正18年8月1日)、摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、1645年に元々あった名前のない砂州に百間四方の土砂を埋め立てて拡張し、築島して定住することとなり、この島を故郷にちなんで「佃嶋」と命名しました。古い地図には「田」の字の島が描かれ、現在の地図においても同様の形状が佃一丁目の一部に確認できます。
 一方、佃島の北側にあった島は森島、鎧島などと呼ばれていましたが、江戸初期に石川八左衛門重次が徳川家光から拝領したため石川島と呼称されるようになりました。佃島とは独立した島でしたが、伊能忠敬江戸実測図(1817年)では一体となっており、それまでに何らかの形で地続きとなったものと推測されます。
 現在の佃1丁目・佃2丁目北部は、上記の佃島と石川島の場所を継承しています。
 水戸藩により創設された石川島造船所が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、それが1979(昭和54)年に操業停止するまで、旧来の佃島の部分を除いて、佃の多くの部分はその敷地でした。
 その跡地において1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で、大規模住宅群「大川端リバーシティ21」の整備が開始されました。現在では開発主体の一つである三井不動産(マンション分譲・賃貸)の広告に度々使用されるなど、都心部における住宅地整備の成功事例として評価されるに至っています。また、超高層マンション群そのものの景観に加えて、第二次世界大戦前からの古い町並みや釣り船と超高層マンション群が隣接する独特の景観でも知られるようになりました。(以上「wikipedia」より)
「永代橋」からの夜景。(「Wkipedia」より拝借。)

「春海橋」のすぐ南にある旧貨物線の鉄橋。廃線後もそのまま残されています。
西を望む。

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