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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武日光線「下小代」駅~「下今市」駅。その2。「日光例幣使街道」。第7日目。)

2018-09-20 21:23:41 | 日光例幣使街道
                               
          来た道を振り返る。

先に見える信号までは「車両通行止め」区間が続きます。

                   
                        よく見ると、杉並木には細い木や傾いた木などのばらつきが。
 
(10:51)ここまでが「車両通行止め」区間。振り返って望む。

 ここから車両も通行する杉並木街道に。それほど車の台数は多くないですが、道路脇に身を寄せて車を回避。


                 

(11:00)左が開けてきて家々や田畑が見えてきます。

           

道ばたには、土に埋もれた「庚申塔」など。

 どこまでも続くかのような杉並木。

この付近では右側の杉並木が街道から少し離れています。はて?

振り返って望む。

(11:15)「地震坂」にさしかかります。
 

 昭和24年12月26日、今市市《注:合併→日光市今市》を中心に突如大地震が起こり、地すべりにより杉並木が移動した坂で別名「地すべり坂」とも呼ばれる。
 本来の街道は、この上にあった。 日光東照宮

 カーブしていた道がまっすぐになってしまったようです。

 つい先日、北海道で起きた震度7の大地震。胆振地方での大規模な山崩れが想起され、辺りを見回すと、杉の巨木が並んでいます。ここで、大地震に遭遇したらひとたまりもない、くわばらくわばら。自然と足早になります。



この先も、心なしかかなり上の方に杉並木。


 その先で急に曲がって下り坂になり、車は日光方面と鹿沼方面とに分かれます。なお、それまで街道の左側奥を走っていた「東武日光線」はこの付近で短いトンネルを通過し、今度は街道の右側遠くを進み、さらにJR線を越えて、「下今市」駅に向かうことになります。

右か左か迷いましたが、一方通行の道路標識に従って左の道へ。

                                   

右手を回り込むように下り、再び道が一つになります。
 
    振り返る。
                      杉並木は右手の道(写真では向かって左)に沿って続いているので、右に行くべきでした。

(11:27)前方に「日光宇都宮道路」が見えてきます。


緩やかな下り坂が続きます。「日光宇都宮道路」方向を振り返る。

右側が開けてきます。「JR日光線」が右手に。


 (11:33)その先、左手に「室瀬一里塚跡」碑があります。「日光例幣使街道」最後の一里塚。「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十八里」と書かれていますが、実際は31里目のようです。
 
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東武日光線「下小代(しもごしろ)」駅~「下今市」駅。その1。「日光例幣使街道」。第7日目。)

2018-09-14 21:54:40 | 日光例幣使街道
                           (9:40)前回の交差点。左右に伸びる道(画面上は見えず)が「日光杉並木街道」。

「日光道中」との追分まで残りわずか、ということで。やってきます。
 9月8日(土)。曇りのち雨。しばらく土日が忙しいので。出かけられるときに、と。今回で最終回。

 
              前回と同じように、杉並木に沿った左側に小道が続いています。今回の方が歩きやすい。

道ばたには草花がチラホラ。

              さらに雑木林も。

(10:00)一面のそば畑。

 

(10:15)ここで広い道に出て、「杉並木」(例幣使街道)に合流します。

その先、右手に「板橋一里塚跡」碑。

                          

碑には「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十七里」と書かれていますが、実際は30里目のようです。

杉並木を振り返る。向かって右手から街道に復帰。

「日光杉並木街道 ←特別保護地域・普通地域→」。


 「板橋宿」に入ります。道の両側を杉並木で覆われていた街道が、杉並木もなくなって道も広くなり、宿場町らしい雰囲気に。
 しかし、本陣1、脇本陣2、旅籠25という宿場だったようですが、その面影はどこにも見当たらず(気がつかず)過ぎてしまいます。


             
                       右手遠くに「日本ロマンチック街道」の看板。「日光道中」のときにもありました。      

     
 長野県上田市より軽井沢町を過ぎ、群馬県草津町、沼田市を経て、栃木県日光市までの全長約320kmの街道を日本ロマンチック街道と称する。
上信越高原国立公園と尾瀬国立公園、日光国立公園を結ぶ横断道路で、浅間・白根・日光白根などの火山が創り出した造形美、すなわち高原、滝、湖沼、湿原を内蔵し、近世の城下町、温泉町、宿場町、門前町を通過する。
 日本に於ける最もドイツ的自然景観を持ち、同時に日本ロマン詩人達が多くの作品を残した、日本に於て最もロマンにあふれた街道である。この街道を日本ロマンチック街道と呼ぶ理由はドイツロマンチック街道に範をとった。
 ドイツ・バイエルン地方のヴュルツブルクから、オーストリア国境のフュッセンに至る全長362kmの街道をドイツロマンチック街道と呼んでいる。ドイツロマンチック街道にはドイツローマン派の詩人たちが住み、あるいはこの街道筋を訪れて作品を残しているが、日本ロマンチック街道も日本ロマンの歌人詩人たちが住み、または訪れていて多くの作品を残している。
 1988年11月25日、日本ロマンチック街道協会とドイツロマンチック街道協会は姉妹街道の締結をした。新しい時代に対応して両街道は人的交流、文化的交流を推進し、百年後千年後に評価を受ける街道づくりを推進している。
HPより)

(10:27)「板橋」交差点。その先を左に曲がり、道なりに右に進みます。

「例幣使街道(左の道)車両通行止め」の標示。
 あれ、工事中なのか? ということは通行不可。
 実は、昨年から「杉並木」保護のため、車の通行は1㎞ほど不可となったようです。歩行者はOK!

けっこう存在感のあるおうちが右手に。

「日光杉並木街道 ←普通地域・特別保護地域→」。

 再び本格的な杉並木。車の行き来を気にならず、杉並木の下を歩けそうなので、期待感、大。
「この先車両通行止め」の標示。

                    

 国道121号旧道(例幣使街道)の一部通行止めについて
 日光杉並木保護のため、国道121号旧道(例幣使街道)の一部について、以下の日程で車両通行止めとすることとなりましたのでお知らせします。ご理解とご協力をお願いします。
 日時:平成29年3月21日(火曜日)午後3時から
 (「日光市」HPより)

(10:38)約1㎞にわたって通行止めとなります。

 国道(舗装道路)には杉の落ち葉や枯れ枝が落ちています。行き交う人もなく(1ヶ所、杉林を手入れしている職人たち数名の他、通行人には一人も会いません)、道の中央を歩きます。
  

 黄色いセンターライン、道脇の白線も消えかかっていて、わずか1年余。春夏秋冬、雨・風・雪、車、・・・厳しい(自然)環境にあることを改めて感じさせられます。

       風雪に、排気ガスに耐えてばらしい景観を保つ、杉の大木。

日光杉並木
 日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに渡り、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。江戸時代の徳川幕府が五街道をはじめとする主要な街道に松や杉などの並木を整備したが、そのなかでも現存する旧街道の並木として特に有名である。
 徳川家康、秀忠、家光の三代にわたって将軍家に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年あまりの歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。
 周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、「日光杉並木街道 附 並木寄進碑」として、日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。・・・
 現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、これを打開すべく保護活動も盛んに行われている。 ・・・

歴史
 1617年(元和3年)に徳川家康の霊廟として日光東照宮が創建されると、将軍家や諸大名が日光参詣が実施されるようになり、江戸から日光への道路が急速に開けるようになり、江戸から宇都宮へ続く奥州街道も日光街道へと呼び改められるようになった。
 日光杉並木は、若くして家康に仕えた松平正綱が、その恩に報いるために、1625年(寛永2年)から20年以上の歳月をかけて、紀州から取り寄せた杉の苗木を植樹したもので、1648年(慶安元年)、家康の33回忌に参道並木として東照宮に寄進した。言い伝えでは、日光東照宮の造営に際し、正綱が杉の苗木を寄進すると申し出たところ、諸大名からは「東照宮に対して何とケチなことよ」と非難を受けたが、正綱は「末をご覧あれよ」と返したといわれる。その後、正綱の息子である松平正信が、スギを植え足して今日に伝わる約1万5000本の並木となった。
 正綱が、当時の街道の並木として一般的に植えられた松ではなく杉を選んだ理由は、一説には天を突く杉の姿に神気を感じたためといわれており、また、雨の多い日光の気候や地形に合わせて、湿気の多い地質に生育の適する杉を、正綱が選んだのだろうともいわれている。
 植えられてすでに390年以上が経過するが、現在は高さ30 - 40mほどに成長し、日光東照宮へ向かう道は厳かな景観を作っている。近年では、風雨や自動車排気ガス等による倒木や枯損を抑止するため、バイパス建設や杉並木オーナー制度を導入して樹木保護のための基金を設立して、保護対策活動に乗り出している。1999年(平成11年)12月には二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けた。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 ただ杉は、もともと根をしっかりと地中に縦横に張らない樹木。その代わり、すっくりと上に伸び、落葉もほとんどないので、並木としてそれほど間隔を置かず、植えることができる。江戸時代はそれでよかったのでしょう。
 しかし、現在、両側に並んで植えられた杉は、道路側をガッチリとガードされ、道路の法面よりもかなり高い位置になっている木も多い。さらに裏手は盛り土も崩れて、なくなっているケース(宅地開発、道路整備、歩道などで削られている。こうして杉の根元の脇道を歩く私たちも杉をいじめている。)が目立ちます。
 車の排気ガスとも関連して、古くて背が高く、幹が太いものへの悪影響は、なおさらな印象。
 杉を植えた傾斜地では、大地震などのときには根こそぎ倒れ、地崩れ・山崩れの原因になるとも言われています。
 実は、それを如実に実感したところがこの先にあります。
   
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その6。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-12 21:10:26 | 日光例幣使街道
                                    杉並木。

 車の行き来が激しい国道。その左側、小高いところに街道に沿った細い遊歩道があります。その道を歩くことになります。杉並木の下を歩くことは出来ませんが、安心して歩けるのが一番。ただ、けっこう夏草に覆われていて、足下が不如意なところもあります。
 
                                    左手が時々開け、田んぼや山々が。

杉並木の下を通過する「例幣使街道(国道)」を下に望む。

 時々街道に降りて雰囲気を味わう。
 
                                          振り返る。木洩れ日が。

街道のすぐ右側をJR日光線が通っています。木の間を通過中の電車。

 (15:32)しばらく進むと、路傍には、朽ちて根元から倒れてしまった「一里塚」碑。
  
小倉一里塚跡
 倉賀野宿からの「例幣使街道」歩きで、はじめて「一里塚(跡)」に出会います。他はすでに失われているようです。
 「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十六里」と書かれていますが、実際の里程は異なり、29里目らしい。

 (注:「壬生道」と「例幣使街道」とが合流するかなり前、「壬生道」に25里目となる「北赤塚一里塚」がある。その一里塚からここまでは相当の距離がある。このかんの一里塚は現存していない。そのため、現在残されている塚の順番で「26里」と表記したのではないか。)     

 この先も2ヶ所、一里塚(跡)が残されています。江戸時代からしっかり保護されてきた日光杉並木の中だからなのでしょう。

 右側の塚ははっきり確認できます。
 
 左の塚は、今、歩いている歩道のために切り崩されてしまったのか。

 しだいに木の間越しに家が見えてきます。「文挾(ふばさみ)」宿にさしかかってきたようです。


                     

(15:44)右手にJR「文挟」駅。
注:JRの駅名は「文」、宿名は「文」と旧字体。

文挾の地名の由来
 文挾の地名については、江戸時代以前の中世からすでに記されています。文(手紙)の受け渡し場所との由来がありますが、定かではありません。
確実な資料は存在しませんが、戦国時代には、『日光山往古社領六拾六郷』のひとつ文挾郷として、随仙坊の所領であったと記されています。
(参考:日光山常行三昧堂新造大過去帳)

文挾宿
 文挾宿のおこりですが、元和2(1616)年4月17日に徳川家康が死去し、元和3(1617)年3月に日光山に東照社(後の東照宮)が竣工されました。このときの資材の輸送路として使われた日光道中壬生通りが日光への街道として整備されたとき、文挾宿としての家並みが整えられたといわれています。
 天保14(1843)年の『壬生通宿村台帳』によると、江戸から29里32町余(約120㎞)、32軒、人数156人、本陣1軒(建坪82坪、玄関付、門構えなし)、脇本陣2軒(建坪63坪、玄関付、門構えなし・建坪99坪、玄関付、門構えなし)、旅籠屋14軒(大5、中5、小4)、宿内町並み3町14間(約350m)、宿建人馬は、13人・13匹と通常の宿(25人・25匹)より少くなっています。これは、隣の板橋宿との距離が短く、板橋宿と合わせて1宿の扱いとなっていたためです。そのため、文挾宿から板橋宿への継ぎ送りはなく、今市宿と鹿沼宿への継ぎ送りが原則でした。
(参考:杉並木物語、今市のむらの歩み、日光山麓の戦い)

鹿沼御成橋での宇都宮藩と農民一揆の衝突
 不安と混乱の渦中に起こったのが農民一揆です。
 明治元年、県南の石橋宿問屋役人に対する賃割渡し不当の争いは、従来、幕威をかさに高圧的態度に出ていた宿役人に対して、農民の不満が爆発し、ついに、問屋宅を破壊するという暴挙になりました。
 勢いに乗った農民たちは、徒党を組んで雀宮宿に進み、さらに次々と勢力を増して沿道の富豪の家や宿駅問屋を打ちこわし、4月3日には、三千余名の一揆勢が世直しの大旗をたてて、宇都宮の八幡山に集まって気勢をあげました。
 宇都宮藩は、約三百名の兵力を繰り出し鎮圧に当たりましたが、一揆勢は北上し、田原村、白沢宿、笹沼、上横倉、徳次郎、古賀志村、武子村を次々と打ちこわしました。
 宇都宮藩は鹿沼宿北の御成橋に出陣し、一揆勢と戦闘状態となり、6名の死者と1名の怪我人を出すことになりました。
 そして一揆勢は、反転、例幣使街道を北上し、文挾宿に向かうことになりました。

文挾宿本陣襲撃事件
 例幣使街道を北上した一揆勢の一部は、玉田村、見野村に行き、村中焼き討ちにすると村人たちを脅かし、勢力を増していきました。
 そして、明治元年4月5日ついに御神領文挾宿に突入し、同宿名主の中屋善左衛門宅を打ちこわしました。(建坪八十二坪、玄関附、門構無)
 当時の様子は、中屋善左衛門の玄孫に当たる田中義久氏(故人)が、「一揆勢の中には大工や鳶職人などが加わり、敷居や鴨居などの肝心なところを切り離してしまったので、後で修繕することも困難だったと子供のころ、よく聞かされた」と話しています。
(参考:日光山麓の戦い)
(以上「文挾二荒山神社 - 日光例幣使街道文挾宿」https://fubasami.jimdo.com/bunkazai/HPより)

「文挾交差点」右手にある「回国供養塔」(道標)。
 ここから、大谷経由で宇都宮に至る大谷道が分かれています。宝暦12年(1762)に建てられたもので、「右 鹿沼 出流/岩船」「左 大谷 田下/宇津宮」とあります。

「文挾宿」の家並み。

根元から焦げている杉の大木。

「日光ろばたづけ」。

 (15:56)宿場のはずれにある「二荒山神社」。神社の脇にある木造の倉。

文挾宿郷倉(社倉)【日光市指定文化財】
 江戸時代、飢饉対策として米・麦・粟・稗などを貯蔵するために郷倉が建造されました。山崎闇斎が宋の朱熹による社倉法を紹介し、寛政改革に際し設置が奨励されました。
 この郷倉によって慶応年間の凶作時には、板橋・文挾宿等九か村の飢民が119石を拝借し餓死を免れました。間口3間、奥行2間で建坪6坪の建造物です。すべて栗材で建てられていましたが、栗の割木で葺かれていた屋根は大正10(1921)年にトタン板に葺き替えられました。
 幕末期、民衆の共同扶助という思想を示す建造物であり、旧日光領内に現存するものでは唯一であります。
(この項、「同」HPより)

東武日光線「下小代」駅まで歩くことにします。

(16:05)路傍に石碑が二基。
 左の低い方は最近のもののようで、「岩見重蔵之碑」とあり、右の大きいものはどうやら「聖徳太子」と刻まれています。どういう関係があるのか? この場所に設置されているわけは? 
 なお、「岩見重蔵」を伝説の剣豪「岩見重太郎」と関連づけている道中記録もあるが、疑わしい。 

 (16:10)思ったよりも足下の悪い細道を歩いているうちに「下小代」駅へ向かう道とぶつかりました。
 

今回は、ここまで。左折して駅方向へ。 
(16:24)ようやく「下小代」駅。

 上りの発車時間に間に合わず。かなり待つことになりそうです。
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その5。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-11 19:57:45 | 日光例幣使街道
                             次第に「日光」に近づきます。



                       街道筋らしい古い家並み。

(13:36)「例幣使街道 日光(まで)27㎞」。


堂々たる門構えのおうち。

奥には土蔵つくりも。

 (13:44)「黒川」に架かる「御成橋」を渡って、次の「文挟(ふばさみ)宿」に向かいます。


                      

「例幣使」一行のようすが描かれたタイル。

「黒川」の流れ。

遠く左手には日光連山。

左手の緩やかな坂を上って行きます。「日光(まで)18㎞」。
                                  さきほどは「27㎞」と標示されていました。ルートの違いでしょうか?

眼下には「黒川」。

「十割そば・炭そば 黒い瞳」。


(13:53)ようやく杉並木(この付近は他の樹木お混在)に出会います。

屋台収蔵庫で何やら作業中。

こちらは「特許 石打真空ねりそば」。ユニークなおそば屋さんが多いところです。

右手奥に独特の山容の「古賀志山」が見えます。

そば畑。

(14:19)ここにもありました、かえるの置物。

営業停止中の「かぬま特産物農産物例幣使街道直売所」。

(14:24)車道を歩かずにすむよう、歩道が続いています。

右手には雑木林。車の喧噪がない分、ゆっくり歩けます。

待望の本格的な杉並木へ。雨が降り出してきます。

古賀志山」。
 この山は知る人ぞ知る、の山のようです。
古賀志山は、栃木県宇都宮市の北西郊外に在る標高582.8mの低山である。俗に、最も高い古賀志山(582.8m)のほか、御岳(標高546m)、赤岩岳(標高536m)が一体の山塊を成して見えるため、これらをまとめて『古賀志山』と呼ぶこともある。低山ではあるが日光の入り口に位置しその独立した見事な姿の故に、低山としては北関東屈指の名山とも云われている。
 御岳山頂には石製祠があり、御嶽神社が祀られている。
 周辺はレジャー施設として利用されており、御岳には屹立する奇岩を利用してのロッククライミングの練習場、赤岩山山頂にはパラグライダー出発場、また山麓東南側の赤川ダム周辺には国際大会の開催が可能なロードレースコースなどが設けられている。このうち、ロードレースコースでは国内唯一UCIプロツアーチームを招待できる日本国内最高峰の自転車ロードレース『ジャパンカップサイクルロードレース』が毎年10月に行われている。レジャー施設以外にも、古賀志山山頂には携帯電話の電波塔が設置されている。
 古賀志山頂上は電波塔のある南面は開けており比較的展望が良好であるが、他の方角には木々が茂って見晴らしがあまり良くない。古賀志山の東側のピークにある東稜展望台や西側のピーク御岳からは北西から北東にかけて日光連山、高原山、那須連山と鞍掛山、東に多気山と宇都宮市街(遠くに筑波山)、南に鹿沼市街(遠くに富士山)が眺望される。
古賀志山の山名は『男体山山頂遺跡』からの出土物に『故賀志』とあるのが初出で、その由来としては崩落崖を意味する『扱がす』ないし『転かす』『倒かす』が転訛したものとの説がある。

(以上、「WIkipedia」参照。)

 初心者や家族連れ向けのコースとしては、森林公園側から登るコースが一般的。他にもいくつかあるようですが、コースによっては鎖場があるような切り立った岩場を上り下りしなければならないハードな地点もあるため、けっしてあなどってはいけない山のようです。

こんなガレ場もある、とか。
いっちゃんさんフォロー
「所属する久喜山歩会の1月、古賀志山山行」のときの写真です。(HPより)

(14:55)「鹿沼こんにゃく」。建物が街道にマッチしています。

(14:58)「日光市」に入ります。

その先、右手に「並木寄進碑」。

                            

 碑の内容は日光街道のものと同じです。また、「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」の碑もあります。

並木寄進碑
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑。並木の起点となる神橋および街道の切れる日光市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4ヶ所に建っています。この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれています。

日光杉並木
 江戸時代、寛永・正保の頃(1624~1648年)に松平正綱により日光東照宮への街道(日光、例幣使、御成、会津)の両側に植栽された杉並木。
・総延長約30km、約1万7千本。
・寄進碑は1648(慶安元)年に各街道の入口と神橋そばに建てられた。
・日光街道(国道119号):日光市日光~大沢間 19.2km、約5000本
・例幣使街道(国道121号):日光市今市~小倉間 13.9km、約6300本
・会津西街道(国道121号):日光市今市~大桑間 3.9km、約1000本
                          
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その4。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-10 20:16:59 | 日光例幣使街道
                            メインストリート。

取り壊した屋根の跡が残る土蔵。宿場独特の間口が狭く奥行きのある敷地。


(13:13)「石橋」交差点手前にある「鈴木内科」が本陣跡。

裏手には重厚な土蔵などがあります。

鈴木石橋先生旧居」解説板。
 先生名は之徳、字は沢民、通称四郎兵衛
 累世豪農である、年少にして昌平黌に入り学成り国に帰り家を継ぐ傍ら子弟を教えて麗沢の舎と号す。蒲生君平は先生の門より出ず、天明の飢饉には私財を投じて窮民を賑恤す。晩年心を易学に潜め周易象儀その他の著書あり。
 文化12年1月25日病を得て没す。寿62才大正の初め正五位に浴せしは「惻隠余情」に記述さられし如く社会的功績によるものである。今尚遺稿、蔵書など多数現存す。

注:「賑恤(しんじゅつ)」=貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること。「賑給」ともいう。

  「蒲生君平」=明和5年〈1768年〉ー文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)。江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。

 なお、「蒲生君平」については、「日光道中」を歩いたとき、「蒲生君平旌碑」が宇都宮宿の手前、東武宇都宮線のガードをくぐった右手にありました。
        


 
                      「屋台の町 鹿沼」。白い花が咲く百日紅(サルスベリ)。

日光例幣使街道」碑。
                       地元では「日光西街道」あるいは「壬生街道」とせずに、このように呼称しているようです。

地元の工業高校生たちが制作した「常夜燈」。木工細工の盛んなところです。

「まちの駅・新鹿沼宿」。

 入口付近にある芭蕉と曾良の木彫作品。「芭蕉と曾良像  チェーンソーカービング
 
・・・鹿沼は「木のまち」です。この像の素材は鹿沼産の杉、市内のチェーンソーアーティスト小林哲二さんに、みちのく東北に思いをはせながら彫ってもらいました。東武新鹿沼駅、JR鹿沼駅、屋台のまち中央公園、光太寺にも小林さんが作った私(注:「芭蕉」をさす)の像があります。
 皆さんにも、句碑や笠塚を訪ね、お蕎麦やこんにゃく料理を食べながら彫刻屋台等の伝統文化や美しい自然を満喫する旅を楽しんでください。
 平成23年12月設置   鹿沼地区木材需要拡大協議会

注:チェーンソーカービングとは
 「チェンソーカービング」とは一言でいうと「チェンソーを駆使した彫刻」を指します。
 「チェンソー(チェーンソー・チェインソウ)」は木を切る道具であり、鎖状の刃をエンジンもしくは電気モーター、またはエアーの力で回転させて物を切断するための道具です。(動力式ノコギリ)
 チェンソーカービングの材料となるのは「木」や「氷」で私たちチェンソーアート・ジャパンでは主に木を使っています。その木(主に丸太)を数種類のチェンソーだけを使用し、彫刻作品を生みだしていきます。
 また、作品だけでなく、制作過程をエンターテイメントとして楽しんでいただいています。
 彫る姿そのものをチェンソーアート・ジャパンでは「チェンソーアート」と定義付けています。
 たいへん危険な作業でもあるため「世界で一番危険なアート」とも呼ばれています。
 「チェンソーアート」=「ワイルドなエンターテイメント」と言われます。
 「チェンソーカービング」は人によっては「チェンソーアート」とも言われ、それをおこなう人を「チェンソーアーティスト」または「チェンソーカーバー」と言います。・・・
(この項、HPより)

 ところで、「奥の細道」紀行文を通して、芭蕉と鹿沼宿との深い縁が知られています。「石橋町」交差点から東武線を越えたところにある「光太寺」には、「芭蕉の笠塚」があります。
 また、鹿沼宿での句としては、二句残されています。

 ・鐘撞かぬ里はなにをか春の暮れ
  入相の鐘を撞かないこの里では、里人は何を頼りに春の夕暮を迎えるのであろう。

 ・入相の鐘も聞こえず春の暮れ
  入相の鐘も聞こえぬまま春が暮れていく。

 ただし、「奥の細道」では記されていません。

 元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、室の八島を訪れた芭蕉は、葵生(けぶ)から壬生へ出て壬生街道に入り、楡木、鹿沼、文挟、板橋、今市を経由して4月1日正午ごろ日光・鉢石宿に到着しました。

室の八嶋に詣す。
同行曽良がいわく、「この神は木の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習(よみならわ)しはべるもこの謂れなり」。
はた、このしろといふ魚を禁ず。縁記(えんぎ)のむね世に伝ふこともはべりし。

卅日(みそか)、日光山の梺(ふもと)に泊まる。
あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。よろず正直をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜の草の枕もうとけて休みたまへ」といふ。
いかなる仏の濁世塵土に示現して、かかる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固の者なり。
剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気禀の清質もっとも尊ぶべし。

卯月(うづき)朔日(ついたち)、御山に詣拝す。
往昔(そのむかし)この御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改めたまふ。千歳未来をさとりたまふにや。
今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。
猶憚り多くて筆をさし置きぬ。
  あらたうと 青葉若葉の 日の光

 芭蕉に随行した曾良の「随行日記」によると、もう少し詳しく行程が知れます。
『曽良随行日記』
・・・室の八島へ行(乾の方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る(毛武と云ふ村あり)。此間三里といへども、弐里余。
 一 壬生より楡木へ二里。よぶより半道ばかり行て、吉次が塚、右の方廿間ばかり畠中に有。
 一 にれ木より鹿沼へ一里半。 
 一 昼過より曇。同晩、鹿沼(より火(文)ばさみヘ弐里八丁)に泊ル。(火ばさみより板橋ヘ廿八丁、板橋より今市ヘ弐里、今市より鉢石へ弐里。)
 一 四月朔日 前夜より小雨降。辰上尅、宿を出。止ては折々小雨す。終日曇、午の尅、日光へ着。雨止。

・・・室の八嶋へ行く(北西の方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る。(毛武<癸生>という村あり)。この間三里というが二里余り。
 一 壬生より楡木ヘ二里。壬生より半道(半里)ばかり行くと、金売吉次の塚、右の方二十間ばかり畑の中に有り。
 一 楡木より鹿沼へ一里半。
 一 昼過ぎより曇り。同晩、鹿沼(より文挟へ二里八丁)に泊る。(文挟より板橋へ廿八丁、板橋より今市へ二里、今市より鉢石へ二里。)
 一 四月一日 前夜より小雨降る。午前7時半頃、宿を出る。止んでは折々小雨降る。終日曇り。正午頃、日光へ着く。雨止む。

 鹿沼宿ではどこに宿泊したのかは定かではありません。「笠塚」のある「光太寺」だという説もありますが、無住のお寺に宿泊するとは思えません。

「仲町屋台公園」内にある「屋台展示収蔵庫」。

 みごとな白木彫刻の「仲町屋台」が展示されています。


     


 鹿沼市には、鹿沼の秋祭りに繰り出される今宮神社氏子町の屋台が27台あり、これ以外にも、楡木町(にれぎまち)に3台(うち1台は山車)、上大久保(かみおおおくぼ)に1台、口栗野神社大祭に繰り出される7台を含め、計38台の屋台が現存しています。
鹿沼の屋台は、江戸の屋台の系統を引く「踊り屋台」から発展したものと考えられ、その構造は、唐破風(からはふ)の屋根を載せた単層館型(たんそうやかたがた)で、四輪を内車式に付けたものです。屋台本来の機能は氏神へ奉納する芝居や踊りのための移動舞台ですが、現在では囃子方(はやしかた)が屋台の中に乗り、演奏する構造となっています。
 鹿沼の屋台の最大の特徴は、日光山社寺の豪華な彫刻の影響からか、全面が豪壮な彫刻によって飾られている点で、江戸時代に建造された13台と当時の彫刻を付ける1台、合わせて14台が市の有形文化財に指定されています。

 鹿沼屋台が記録に初めて見られるのは安永9年(1780年)。このころの屋台は、簡単な屋根付きの移動できる舞台で、「踊り屋台」と呼ばれていました。
 寛政(1787年~)に入ると付け祭りは盛大になり、各町は、踊りや狂言を競い合って、屋台を造り変えていきました。屋台の中に囃子方(はやしかた)が入るため、かつての「踊り屋台」に比べて踊り場が狭くなるとともに、一部彩色(さいしき)彫刻で飾られた黒漆塗(くろうるしぬり)の屋台となり、彫刻屋台の祖形ができあがったのです。
 文化・文政(1804~1829年)の江戸文化爛熟(らんじゅく)期、付け祭りは芸能を主体にますます盛大になり、華やかな舞台背景としての黒漆塗屋台は、華麗な彩色彫刻で飾られていきました。
 その後、文政・天保の改革によって「祭礼を質素に、在郷(ざいごう)芝居が禁止」されたため、各町の付け祭りに対する意気や力の競い合いは、いつしか屋台を質実豪壮な白木(しらき)彫刻で飾ることや、囃子を奉納する神社への繰り込みへと向けられ、幕末には白木造りの屋台が主となり、重量感のある豪壮な彫刻屋台になっていきました。
 鹿沼の古くからの彫刻屋台は、漆塗(うるしぬり)や彩色(さいしき)の有無によって、概ね次の種類に大別されます。
■彩色彫刻漆塗屋台(さいしきちょうこくうるしぬりやたい)(7台)
 車体は黒漆塗(くろうるしぬり)、錺(かざり)金具付きで、彩色された彫刻を付けた屋台。
■白木彫刻漆塗屋台(しらきちょうこくうるしぬりやたい)(1台)
 車体は黒漆塗、錺金具付きで、白木のままの彫刻を付けた屋台。
■白木彫刻白木造屋台(しらきちょうこくしらきづくりやたい)(19台)
 車体も彫刻も白木で造られた屋台。
(以上、「」HPより)

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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-07 23:06:34 | 日光例幣使街道
                               「大門宿」交差点。

 「大門宿」は「日光御成街道」の宿場町として存在していますが、ここにある「大門宿」とは?
(11:38)「大門宿」バス停。

次の「鹿沼宿」まであともう少し。「まちの駅 新・鹿沼宿 2.4㎞」の看板。

「○道」? 2ヶ所くらい目にします。 

 左手に「私の美術館」。
 
                       私の美術館
駅長の作品を中心とした、絵画の展示ギャラリーです。
場所 322-0045 栃木県鹿沼市上殿町280
電話 0289-64-3190
駅長 小林 一行
営業時間 10時から17時
定休日 不定休(駅長不在時は閉館)
こんな「まちの駅」になりたい
気軽に立ち寄れる美術館。私の作品を展示して皆さんに芸術鑑賞と憩いの空間を提供します。

(以上、「鹿沼市経済部観光交流課観光施設係」の紹介記事より)

 「駅長」というのはどういう人物? どうもこの街道歩きでは気になる(疑問符が付く。興味を引く)ものが多くあります。

「勝善神」。

「押原神社」参道。

いよいよ「鹿沼宿」に近づいてきます。
「鳥居跡(とりいど)町彫刻屋台蔵」。


「芭蕉そば餅」の看板。
 鹿沼産米粉、鹿沼産そば粉を主原料にそばの風味を大切に仕上げた生菓子で「山帰来」と言う葉で包まれています。
芭蕉が大のそば好きであったことから“芭蕉のそば餅”と命名しました。
 (HPより)

(12:11)「新鹿沼駅前」交差点。

そろそろお腹も空いてきます。駅方面に向かい、右手にある「みっちゃん蕎麦」屋さんに入ります。 


「芭蕉そば御膳Aセット」。
(「Bセット」はニラ蕎麦。)
 これに、味噌田楽が付きます。

 地酒を一合追加して、食します。新そばの香りがすばらしい。付け汁は少し甘くておとなしい感じ。それもまた、よし! 
 それにしても「みっちゃん」というネーミングが大衆食堂風で、手打ち蕎麦屋さんらしくないのが、面白い。由来は? けっこう混んでいます。

 (13:00)さて再開。その前に「鹿沼」のことをお勉強。

 北関東のほぼ中央、東京から100キロメートル圏に位置する鹿沼市は、東北縦貫自動車道を動脈とする県内物流の拠点となっています。
 江戸時代、現在の鹿沼市の基礎となった鹿沼宿も、日光への交通の要衝として整備されてきました。
 古峰ヶ原を含む前日光高原一帯は、日本古来の山岳信仰と仏教が結びついた「修験道」の道場とされてきました。奈良時代にこの地で修行を重ねた勝道上人が日光山を開きました。
 さらに江戸時代、徳川家康を祀る東照宮が造営され、江戸と日光を結ぶ道が重要性を持つようになる中で、鹿沼の歴史は日光との深い関わりを持ちながら形作られてきました。また朝廷から日光への例幣使の街道の要所として、鹿沼宿は発展を遂げました。
 日光西街道・例幣使街道を往来する人・物は、地場産業を発展させ、文化の向上をもたらしました。
 当時、鹿沼の村々で生産された麻、朝鮮人参などの特産物は、江戸・大阪・京などの大都市へ出荷され、豊かな商品経済とともに文化が鹿沼の地に根付き始めました。彫刻屋台もこの頃つくられ、その精緻な彫物は現在にまで守り継がれています。
 当時の最高学府・昌平黌(しょうへいこう)に学び、天明の大飢饉の際には宿場内の裕福な家や家庭に米や金の供出を呼びかけて貧民救済を行うなどの社会事業を施した鈴木石橋の存在なども、鹿沼宿の経済・文化の水準の高さを裏付ける一例といえるでしょう。

   
 鈴木石橋肖像                戦後の町並み

 幕末には家数800件を超したといわれる大宿にまで発展した鹿沼宿を核に、明治の廃藩置県、市・町村制の施行などを経て、鹿沼は近代的な商工都市へと歩みを進めていきました。
鹿沼の中心的な産業である木工業は明治23年の日光線開通、26年の日光電力創設により電柱の需要が急増し、丸のこを使った水力製材機の開発などによってその礎が築かれました。
 昭和23年鹿沼市は市制を施行、30年までに1市9村の合併を行い、現在の鹿沼市が誕生しました。39年の木工団地、44年の工業団地の完成などは、鹿沼市の発展の重要な基盤となっています。
 また昭和47年の東北縦貫自動車鹿沼インターチェンジ開設は、現在の‘物流拠点・鹿沼’を生み出しました。
 人が集まり、物が行き交う「にぎわいのまち・鹿沼」は、江戸時代の鹿沼宿のなごりを随所に残しながら今、21世紀の扉を開き、新しい時代への第一歩を踏み出していきます。

(以上、「教育委員会事務局 文化課 文化財係」HPより)

 「新鹿沼駅前」交差点まで戻ります。
 ここで、街道は二手に分かれます。右が「田町通り」、左が「内町通り」と呼ばれていました。その分岐点は「鳥居跡(とりいど)」と呼ばれ、小さな祠と鳥居。「旧一ノ鳥居跡」の石碑と解説板があります。 


                          
史跡)鳥居跡(とりいど)
 奈良時代に勝道上人が日光開山後、この地に4本のえのきを植えたと伝えられ、また、鎌倉時代に、源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原66郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居を建てたと言われているように、古い伝承のある地である。後年、鳥居の跡が地名になって鳥居跡になったと言う。江戸時代のはじめ、日光へ街道が整備され、鹿沼宿がつくられた際、鳥居跡から分岐造成された新道が現在の大通りであると鹿沼古記録にある。その頃、鳥居跡に植えられた4本のけやきは次第に枯れ、大きな空のあった最後の一本も、戦後まもなく姿を消してしまった。その跡に、昭和32年、日光二荒山神社から御神体を迎え、二荒山神社を建立した。鳥居跡町名は、由緒ある地名「鳥居跡」から命名されているが、町内発展の契機となったのは、昭和4年に東武日光線が開通し、東武新鹿沼駅が開業したことである。
■ガイドマップには・・・
鹿沼の由来を記録した「鹿沼町古記録」によると、日光開山の勝道上人が、日光山守護のために四天王を表す松、杉、梅、紅葉の4本を植えたとあり、また、「押原推移録」によると、源頼朝が日光山に神領66郷を寄進したとき、神領の入り口に当たる所に「遠鳥居」を建てたといわれ、その跡に大欅があったが、昭和22年9月台風で倒壊、伐採された。その後、日光二荒山神社から勧請された「二荒山神社」が建立された。(鳥居跡町)

(以上、HPより)

左の広い通りを歩きます。

 「彫刻屋台」の幟。 
 この先、「仲町屋台公園」には「屋台収蔵庫」に「仲町屋台」が展示されています。

右手に旧家らしい「中野屋酒店」さんの建物。三層風な屋根が趣あり。


(13:09)左手には「雲龍寺」。鹿沼宿本陣を勤めた鈴木家の菩提寺。

その先の交差点を過ぎると、電柱がなくなりすっきりした街並みになります。街灯もしゃれたものに。 

 
  趣のある大きなおうち。                           「こんにゃく」屋さん。   
 
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その2。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-06 18:43:08 | 日光例幣使街道
                            (10:28)「壬生街道」との合流地点にある「追分道標」。

 「追分」に向かう途中で見かけた、「生子(いきこ)神社」の「泣き相撲」のポスター(左)。この先、「壬生街道(日光西街道)」沿いの所々にこのポスターが貼ってあります(右)。この風習は、TVなどでも取り上げられて有名です。9月23日(日)にやる予定、とか。
 

いよいよ「壬生街道(日光西街道)」との合流地点が近づいてきます。右手からの道が、「壬生街道」。合流して日光に向かいます。


「追分道標」(「左 江戸道 右 中山道」)。

 左の道は「江戸道」=「壬生街道」。「小山宿」で「日光街道」と合流し、江戸に向かいます。「日光西街道」と言われています。
 右の道は「中山道」=「例幣使街道」。「倉賀野宿」で「中山道」と合流し、京へ向かいます。
  
    「壬生街道」。                     「例幣使街道」。

ここで合流して「日光」に向かいます。

                      


「追分」交差点を振り返る。右が「例幣使街道」左が「壬生街道」。

 厳密にはこの追分までが「例幣使街道」で、この先は「壬生街道」=「日光西街道」となります。
 ただし、「Googleマップ」では、このまま日光まで「例幣使街道」と表記し、小山からここまでの「壬生街道」を「日光西街道」としています。また、「歴史的農業環境閲覧システム」では、どちらも「𦾔(旧)例幣使街道」と表記しています。

雲行きが怪しくなってきます。洒落た街灯。

沿道には古くて頑丈そうなおうち。

二本の国道「293号線」「352号線」が合わさって標示されています? 

 この先、鹿沼宿に入り、「下材木町」交差点では右から「国道121号線」が合流し、「293号線」「352号線」と合わさり、三本の国道が一緒になります。その三本のうちで、「下今市」に向かうのは、「国道121号線(「国道352号線)」になります。
 ちなみに「121号線」は鬼怒川から会津田島方面へ。「352号線」は、檜枝岐から越後へ続く峠越えの「酷道」とも言われているようです。

「大谷石」造りの建物が目立ちます。

(10:44)???

路傍に古い石塔がいくつか並んでいます。

花壇も咲きそろって。

街道歩きで初めて出会った並木、ただし数本。

かつては並木道だったのか、道の両側に緑が続く。

「日本のすみずみまでむろつくり 製麹室 設計・施工 日東工業所」。

むろ=物を保存、または育成のために、外気を防ぐように作った部屋。氷室 (ひむろ) ・麹室 (こうじむろ) など。

 なるほど。杉玉も入口にありましたが。

「奈佐原宿」入口付近? 

「ゆば製造直売 たまのや」。店構えもなかなか。

 ちょっと立ち寄って店内を。いろいろ工夫され、おいしそうな「ゆば」が店頭に。

 「これを買いたいんですが」「いつお帰りですか?」「今日の夕方ですが」「保冷剤かクーラーボックスをお持ちですか?」「いや、持っていません」「じゃあ、ここの湯葉製品は、すべて要冷凍の商品なので、お売りできませんね」。・・・
 ここは、いちいち保冷剤やクーラーボックスを持ってお土産を買いにくるようなお店なんでしょう。
 たしかに「ゆば」は痛みやすい食べ物ですが・・・。

 
                       「例幣使街道」の宿場によくある直線道路が続く街なみ。
 「奈佐原宿」はどこからどこまでなのかよく分かりません。間の宿だったようですが。

右手に「奈佐原文楽用具収蔵庫」案内板。
 (11:08)右に折れると、収蔵庫があります。


                      
国選択無形民俗文化財 栃木県指定無形民俗文化財
 奈佐原文楽
 栃木県に現存する唯一の3人遣い人形浄瑠璃です。
 江戸時代、奈佐原は例幣使街道の宿場町として栄えており、この文楽は、上方からの文化の影響を受けて始められたと考えられます。
 詳しい記録は火災で焼失してしまいましたが、現存する引き幕などから、文化年間(1804~)には一座があったとみられています。その後、一時中断していましたが、明治25年に大阪文楽座の人形遣いの名人吉田国造によって再興されました。
 上演の日時と演目は一定していませんが、「絵本太功記十段目」「傾城阿波の鳴門巡礼歌の段」「壺坂霊験記 沢市内より山の段」をお家芸としています。
 また、この文楽に使用される人形頭のうち20頭が昭和33年8月29日に県の有形文化財に指定されています。
 これらは、現在、奈佐原文楽座・奈佐原文楽保存会の人々の手によって保存伝承されています。

   鹿沼市教育委員会

 去年、「甲州街道」歩きのとき、猿橋で「笹子追分人形芝居」を見ました。
 
                     「追分人形式三番叟」。

 「笹子追分人形芝居」と同様に、地元の有志の方々の努力で、人形浄瑠璃が残されていることに感心しました。ぜひ観劇したいものです。

「北押原地区史跡案内図」。
 ここには「生子神社古式泣き相撲」と「奈佐原文楽」のいわれが記されています。

「文楽もなか」。その先には「文楽そば」という看板も。 

道脇には勢いよく流れる「用水路」。

「スギ」ではなく「ヒバ」?  

(11:32)ここでささやかな杉並木に出会います。  

「生子神社」への案内板。      

泣き相撲
 生子神社境内の土俵において、子供の健やかな成長と無病息災を祈願して開催される伝統行事。
 役員氏子がまわし姿の力士に扮し、東西から幼児を抱きかかえ土俵に上がります。そして、掛け声と共に頭上高く3回ほど持ち上げて、元気な泣き声を競います。
 「泣く子は育つ」という縁起をかついだ習俗が奉納相撲に取り入れられたもので、全国的にも珍しい行事です。
【 国選択無形民俗文化財 】
開催日:平成30年9月23日(日) [ 雨天決行 ]
※毎年9月19日以降の最初の日曜日に開催されます。
時 間:午前9時~午後4時(受付は午前8時~)
会 場:生子(いきこ)神社
住 所:栃木県鹿沼市樅山町1167 【電話無し】
参加費:4,000円
【当日のお申し込みで、ご参加いただけます。】
対 象:首の据わった6か月位~3才位まで
主 催:生子神社氏子
問合せ:鹿沼市観光物産協会(屋台のまち中央公園内)
    鹿沼市銀座1丁目1870-1 電話:0289-60-6070 休園日:「月曜日(祝日を除く)」・祝日の翌日 
HPより)
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代(しもごしろ)」駅。その1。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-05 19:50:32 | 日光例幣使街道
                                 (9:08)旧「金崎宿」の街並み。

 9月1日(土)。曇り時々雨。暑さもほどほど、曇りの予報ということで出掛けます。しかし、けっこう蒸し暑く、汗だくだくの歩きでした。ときおり雨が降って、かえって少し楽に。

 どうも残りの行程が中途半端な感じ。かといって、今回、1日で行くのは距離がありそうだし(健脚なら行けるでしょうが)、と。

①JR高崎線「倉賀野」駅~東武伊勢崎線「境町」駅 (「日光例幣使街道」)

②東武伊勢崎線「境町」駅~「太田」駅 (「同」)

③東武伊勢崎線「太田」駅~「福居」駅 (「同」)→午後4時過ぎから

(注:②、③は、炎天下の歩きだったため途中で挫折、2回に分けた。)

④「福居」駅~JR両毛線「岩舟」駅。 (「同」)

⑤「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅(「同」 

 そして今回⑥「東武金崎」駅~「下小代」駅 (「同」+「壬生街道」)

 最終回⑦「下小代」駅~「下今市」駅。(「壬生街道」+「日光道中」)という予定。7日目(最終回)は余裕の行程となります。

 JR線「小山」駅から東武線「楡木」駅まで、電車を利用しての「壬生街道(「日光西街道」とも)歩きは、別の機会に譲って。

立派な屋敷門。航空写真だと緑におおわれたお屋敷があるようですが。

その先、右手に門構えの立派なおうち。

                      

「日光例幣使街道」の標示。

道沿いには間もなく収穫時期を迎えそうな田んぼ。

(9:16)本陣を勤めていた古澤家。

お隣の門構え。この付近では立派な門のおうちが目立ちます。

「例幣使街道」はこの先で右手の直線道路に入って行きます。
                       

道の脇には道標。 


正面が「思川」に架かる「小倉橋」方向。

(9:28)「思川」という標識のところで県道に合流し、右手の橋へ。

「思川」下流方向。右手が「金崎」。

 旧道は「思川」で失われているようです。土手道を進もうと思いましたが、深く草に覆われて通行できず。
 (↓)

 その先にも北に向かう道路(「googleマップ」ではこの道が「例幣使道」と記されています)。しかし、その道には降りられません。


 そのため、橋を渡り終えた先にある交差点を左折し、「国道293号線」を進みます。そこから振り返って望む。
                      行き止まりの舗装道路。

土手からの道も通行可のようす。

気を取り直して、「国道」を進みます。

 (9:48)右手に「磐裂根裂神社(いわさくねさくじんじゃ)」。その神社の裏手には「女人講十九夜塔」が並んでいます。「日光まで36㎞」と。
  

東武日光線特急が通過中。

「国道293号線」の標示。

ここにも店先に大きなカエルの置物。

「磯町」交差点。

(10:13)「東北自動車道」の高架下を通過します。

右手奥に小山からの「壬生街道(日光西街道)」が見えてきます。

ここにも「馬力神」。最近、再建されたもののようです。

「屋敷門」。

「長屋門」。

こちらの門も質素ながら趣きあり。

「殉国之碑」の隣に小さな「勝善神」。
勝善神については、
『おおひらの野仏』(中島昭/著 出版者不明 1979)p66-67より
 「勝善は正しくは蒼前(または聡〔馬偏に前〕)で、つまり葦毛で四本の足の膝から下が白い馬のことをさし、葦毛の馬は七聡八白といい八才になると白馬になると信じられている。
 従って東北地方では「ショウデンサマ」と呼び、蒼前のような名馬の誕生を祈って祭った信仰である。
  この信仰の本宮は、岩手県水沢市の駒が岳にある駒形神社で、この神社の絵馬にも葦毛四白の名馬が画かれている。
  つまり、普通の馬頭観音信仰が馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であるといえよう。
 もちろん、勝善もショウデンも蒼前=〔ソウゼン〕がなまったものである。」
・・・

(以上、「」HPより)

 日光道中(日光街道)宇都宮宿を出た先に、「勝善神」の大きな石碑がありました。
       
     勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
 「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。


これは再建された(と思われる)「馬頭観世音」。
                「馬力神」「勝善神」「馬頭観音」と馬にまつわる石塔に出会います。 

(10:21)この先で、いよいよ「壬生街道(日光西街道)」との追分になります。     
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その7。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-31 19:43:38 | 日光例幣使街道
                               見事なつくり。蔵造りを現代風に。

「家中」で見かけた食事処「そば割烹 川蝉」。

旧道らしくほぼ北に向かってカーブする広い道。

                     
 特に史跡もなくただひたすら歩く県道。が、バス停の経路図が役に立ちます。一日に二本しか運行しない路線バスですが、バス停とバス停との距離も3、400㍍という感じで、あといくつ、あといくつ、という具合に先が読め、単調な道歩きでは励みになります。

いくぶん傾きかけた太陽。田んぼが広がっています。

                           

 (15:37)「北関東自動車道」の高架が見えてきます。
 

街道沿いには大きなおうちが目立ちます。

見事な石庭のあるおうち。

このおたくも超豪華なつくり。

十九夜塔」が何体も。
 「月待行事」の一つ。十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。
 台座に「女人講中」とあるように、特に「十九夜講」はほとんどは女人講、念仏講で、子安講ともいい、安産を祈願することもあるという。

思ったほど車の行き交いが少ない。

                       

(16:05)左手に大きく広がった田んぼが見えます。左手には「東武日光線」。

「重要文化財 鉄造薬師如来座像」への道標。

金崎宿」へ入ります。「金崎宿」は例幣使街道最後の宿場。
 
金崎宿は本陣1軒、旅籠十数軒の小さな宿場でした。

大きなカエルが鎮座しています。

「木の宮キムチ」。はて? 
 全工程手づくりにこだわった安全・安心なおいしいキムチを製造しています。
 韓国産唐辛子の辛みと野菜の甘みが漬け込んでいるうちに発酵され、酸味とうま味と塩辛さが複雑に入り交じった絶妙な風味を醸す当店のキムチを、是非皆様ご賞味ください。

地元のニラを使用したニラキムチ

自家製ヤンニョムが決め手の白菜キムチ
(以上「西方商工会」HPより)

 「ニラキムチ」は食べてみたいです。しかし、民家の塀にあった幟で、どこに販売店があるのか分かりません。残念!

 あともう少しで「東武金崎」駅に着きます。
 

(16:26)「東武金崎駅」。

今回はここまで。気がついたらけっこう歩きました。

 下今市での「日光道中」との出会いまで、あと2回で完歩になるかな?
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その6。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-30 20:04:41 | 日光例幣使街道
                            東武日光線。「新栃木」駅方向を望む。

 「栃木環状線」を突っ切っていきますが、信号が右も左も遠いので、車の途切れるのを待っていると、右手に「吉野家」。「牛丼の吉野家」じゃなくて「おそばの吉野家」。そこで、おそばを食べながら、休憩。
(13:41)通りを渡って先に進みます。

「県道3号線」に合流します。大谷石造りの倉庫。

東武日光線の跨線橋を渡ります。遠くに筑波山がはっきりと。(↓)

反対方向。

(14:01)「合戦場宿」への道。

 初めて見た「馬力神」。
 「馬力神」と刻まれた石塔は、栃木県や宮城県で見られるようです。その大部分は愛馬の供養のために造立されたもの。幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された、そうです。「馬頭観(世)音」は旧道歩きでは、けっこう見かけます。それと同じ種類です。

りっぱな「大谷石」造りの蔵。  

合戦場宿」に入ります。      
合戦場宿
 戦国時代の大永3年(1523)、宇都宮忠綱と皆川宗成が合戦した川原田合戦に由来する。街道時代は本陣、脇本陣があり、飯盛女もいたことからそれなりに賑わった宿場であったが、宿場時代が終わると他の宿場と同様に静かな町並みに変わってしまいました。

 右手の民家の前に石碑。「小平浪平生誕地碑 日立製作所の創業者小平浪平翁はこの地で明治7年1月15日生まれた。この碑はこれを記念して昭和35年に建立されたものである。」とあります。
 

解説板。
・・・小平浪平は東京帝国大学工学科卒業後、秋田県の小坂鉱山に入社、その後数社を転職して最後の日立鉱山を辞し明治43年(1910)日立製作所を創設した。
 日本の工業技術を世界に高めた日立製作所の社是は「以和為貴」であり、これは日立精神の柱として現在も息づいている。・・・

街並みを振り返る。

(14:20)左に折れると、東武日光線「合戦場」駅。
 上りの電車がもうすぐ来るようですが、帰る時間にはまだ早い、もう少し歩こうと、再び街道に戻り、コンビニのところで休憩し、再開。

 (14:40)本陣などがあったので、何か手がかりはないかと。案内表示もなくどこか分からないままに進みます。


                      

「庚申塔」「大先祖中島霊神」。

 
これは「馬頭観世音」                      通りの向こうにも石塔。けっこう目につきます。

(14:50)「升塚」の案内表示。

 案内板に従って右へ入ると小山があります。ここは「升塚」と呼ばれる戦死者を弔った塚。


解説板。
 今から483年前大永3年(1523)11月3日、皆川城主宗成とその嫡子成勝は川原田を中心に陣を張り宇都宮城主忠綱の軍勢1800余を迎え討った。両軍は譲らず大混戦となり、その雌雄決せず、翌日小山、結城、壬生の援軍を得て、宇都宮勢を敗走させた。この戦いで、皆川勢は宗成以下37人、小山勢13人、壬生勢10人、宇都宮勢は250人の死者を出し、里人はこの戦死者をを一箇所に集め弔ったと伝えられている。・・・

平成18年1月1日作成 都賀町教育委員会

 

 升塚のちょっと先から旧道に入っていくが再び県道に合流。(15:00)合流直前に 「地蔵堂」があります。宿の出入口に赤いお堂がある、というのがこの付近の宿場の特徴のようです。
 

県道に合流すると、田んぼが広がってきます。

所々に古い建物。

実り始めた稲。

(15:15)「家中」に着きます。左手に東武日光線の「家中」駅。もう一駅「東武金崎」まで進むことにします。

     
     
      
1880年代のようす。                    2010年代のようす。下方の一部以外は、県道3号線が例幣使街道にあてはまる。 
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その5。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-29 20:48:36 | 日光例幣使街道
                                左手、「舘野家住宅店舗」。昭和7年建設。

 (13:01)「万町」交差点を左に曲がり、すぐ右手に入って行きます。その角に大きな案内図。
                 
                    「嘉右衛門町重要伝統的建造物群保存地区」案内図

 保存地区は、栃木市の中心部(旧栃木宿)の北に位置し、天正年間(1573年~1592年)に新田開発され、その後発展した嘉右衛門新田村を起源としています。
 地区の西側には巴波川が流れ、地区の中央には南北に日光例幣使街道が通り、江戸時代から商家が軒を連ねていました。
 保存地区は、日光例幣使街道に沿って形成された敷地割をよく残し、江戸時代末期から近代にかけて建築された見世蔵や真壁造り店舗、土蔵などの伝統的建造物が残り、街道沿いに発展した在郷町の特色ある歴史的景観を伝えています。

 「東海道」にもあったような宿場通りという印象で、なかなか落ち着いた風情の家並みが続きます。電柱がなければ、なおすばらしい。
 
                                             洒落た郵便受け。
建築中のおうちも伝統に沿ったつくり。「昔の仕事を今に伝える とちぎ蔵の街」。意気込みやよし。

「岡田記念南館」。

                             

道の曲がり具合も旧道らしく。振り返って望む。

苺問屋 いちご屋」。
 一年を通じて生苺を販売!蔵の街とちぎの【いちごの専門店】
 いちごの出荷組合協賛の直売所です!店内には通年販売の生いちごをはじめ、苺ジャム・地元産旬野菜・県内産万能ソースなども並びます。シーズンには夏季専用なつおとめのかき氷も登場!いちご王国とちぎのいちご、季節を問わず一年を通じてお楽しみください
  (HPより)


(13:07)すぐ右手に岡田家の大きな屋敷。畠山氏の陣屋となっていました。現在は「岡田記念館」。
                        畠山陣屋跡」碑。

 当岡田家は遠くは京都三条の出と言われています。後醍醐天皇が滋賀に行幸なされお病気になられた際、オオバコを煎じて献上したところ、たちどころに病がお治りになった功績から、天皇から家紋を賜わりました。下の写真がその家紋でオオバコを意匠としたものです。
           
 武士として後醍醐天皇に仕えていましたが、天皇が隠岐の島に流された後、足利幕府に仕えました。江戸時代慶長の頃帰農し、士豪として栃木に移住しました。栃木の荒地を開墾し、徳川家から「嘉右衛門新田村」という名称を賜り、以後代々の当主は嘉右衛門を襲名し、当代で26代となります。当地の嘉右衛門という地名の由来となっております。
 日光例幣使街道の開設に伴って名主役を、また畠山氏の知行となると屋敷内に13ケ村の陣屋が設けられ代官職を代行するなど、地域発展のために寄与しました。
 一方歴代当主は芸術面にも関心が深く、巴波川の舟運や街道の往還を通して、文人、墨客が訪れていました。明治時代には画家富岡鉄斎との特別な親交があったのは特筆すべきことです。蔵には、この鉄斎作で栃木県文化財の韓信堪忍図をはじめ、文人の松根東洋城、陶芸家の板谷波山、竹芸家の飯塚琅斉等の作品が展示してあります。
 また、宝暦10年から146年分の日記も保存されています。この、岡田家の古文書から、幕末に江戸城大奥に「美恵」「るい」という二人の娘が行儀見習いに上がったことが記されていました。大奥には幕臣の子女が奉公に上がることがほとんどだったのですが、地方の豪農商の娘が礼儀作法や高い教養を身に着けるために江戸城に奉公することは稀ながらあったそうです。ちょうど「篤姫」の時代でした。
 岡田家の中興と言われる22代の当主は雅趣に富み、隠居後70歳で別荘建築を発起しました。銘木を吟味し、練達の工匠が技を競い合って作り上げた別荘が翁島です。大正建築を代表する建物で国の登録文化財に指定されています。
 この岡田記念館は25代当主が、邸内を広く一般に開放し、岡田家所蔵の品々を展示することにより栃木市の観光に寄与しようと昭和53年6月に開館しました。現在まで多数の観光客が訪れました。、また近年はテレビ、映画のロケ地としても利用され、西田敏行さん、宮沢りえさん、黒木瞳さん、本木雅弘さんなど、数多くの芸能人の方が撮影にいらっしゃっています。
                         

(以上、「岡田記念館ホームページ 旧家の魅力」 〒328-0072 栃木市嘉右衛門町1-12TEL0282(22)0001より)

 なお、岡田家の現当主・26代嘉右衛門氏は、栃木駅前で「岡田皮フ科耳鼻咽喉科クリニック」を開業しているそうです。

先に進みます。 

その先には、道標を兼ねた「庚申塔」。「右 小作道 日光道 左 三日月道」とあるとのこと。


                  「日光例幣使道」。

 (13:21)左手に「味噌・田楽 油屋傳兵衛」。創業天明元年(1781年)とあります。通称「あぶでん」。


                       

 江戸天明元年に油屋として創業し、江戸末期より味噌の製造をはじめました。天然醸造の味噌を使った田楽は深みのある味です。
 (投稿より)

来た道を振り返る。すてきな散策路。

大島肥料店」見世蔵。
 大島家は、江戸末期から肥料商を営んできた旧家で、旧日光例幣使街道に面した見世蔵(店舗)は、棟札より初代元平が明治15年に建設したことがわかる。・・・1階内部には帳場・箱階段及び押入を設け、その他は土間としている。・・・栃木市の商業の最盛期に当たる明治前期に建設された典型的な見世蔵は、市内でも数少ない事例であり、大変貴重なものとなっている。・・・

 (13:21)その先が二股になっていて、「日光例幣使街道」の新しい道標があります。「→日光道 ←足尾道」とあります。
 
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その4。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-27 20:08:50 | 日光例幣使街道
                                 新旧混じった家並み。

 度重なる大火、特に幕末の戦乱などによって市街地(特に南側)はほとんど焼け尽くされてしまい、江戸時代の建物、遺跡はほとんど残っていません。もともと栃木宿の規模は、本陣1,旅籠8ほどの宿場としては小規模だったようです。
 建物の多くは明治に入ってからのもの。それにしても見事な蔵造り、見世蔵が数多くあります。水運の街として栄えた当時が偲ばれます。現在は、「小江戸」として観光中心にシフト、外国人観光客など賑わっています。  

 明治時代の見世蔵や新しい建物に混じって、昭和初期にはやった看板建築(木造モルタル造り)も残っているようです。
   

街巡りの観光案内板。
                   街道筋から少し横道に入ったところに見所があるようです。次の機会に譲り、メインストリートを歩きます。

さて一休みと、手近な「観光総合案内所」に。

(12:29)地ビールを飲んで、おにぎりを。



                     (12:45)「阿部呉服店」。

八百熊」。

蔵の街観光館」。元「八百金」見世蔵。脇の道の突き当たりには「神明宮」。

あだち好古館」土蔵倉庫。

好古壱番館」。元は「足立呉服店」店舗。
                          このおそば屋さんに入ろうと思っていたのですが、満席で、かなりの時間待ち。残念!

 その向かい側には、「山車会館」、隣が「蔵の街美術館」と並んでいますが、残念ながらパス!

旅館「かな半」。 
 栃木市の中心に位置する「かな半旅館」は、江戸安永年間創業の歴史のある旅館です。 大正7年、陸軍大演習が栃木中学校(現:栃木高校)で行われる際に、士官を泊めるために建てられた建物が、客室では一番古い建物になっております。その後、閑院宮もお泊りになりました。
 館内にはその歴史を偲ばせる蔵や建築が所々に見られ、懐かしさを感じながらゆったりとお過ごしいただけます。
 歴史と気品ある旅館ですが、女将が笑顔でお出迎え。ほっと癒される安心感があり、気軽に立ち寄っていただけるフレンドリーなお宿です。
 当館は蔵の街栃木のほぼ中心にあり、観光めぐりの拠点に大変便利です。是非、ご利用くださいませ。お待ち致しております。
 
(「かな半」HPより)

 ここの昼食もよさそうですが、要予約でした。



         山本有三ふるさと記念館」。
                       「山本有三生誕の地」碑。

文豪山本有三(1887~1974)は、栃木町に生まれ、栃木尋常高等小学校に学びました。実家は、記念館に隣接する蔵造りの家といわれています。商人だった父に、呉服屋へ奉公させられながらも、勉学を志して上京し、文学の道に励みました。
 人間を愛し信じ、真実一路の人々を戯曲や小説に描き、人々に生きる力や勇気を与えて親しまれました。また、国会議員として国語国字の改良を断行し、生涯にわたって青少年の育成に情熱を傾けました。1965年に文化勲章を受章しています。
 有三は今、近くの寺のお墓に静かに眠っています。
 山本有三ふるさと記念館は、有三の精神を顕彰しつつ、青少年の健やかな成長を願って、地域文化の向上をめざして、有三自筆の原稿や手紙、初版本、愛用の調度品などを展示しています。

三鷹には山本有三の旧居が「山本有三記念館」として残されています。(「Wikipedia」より)

                                

三鷹で「山本有三、作家の遍歴」展 晩年までの多彩な活動紹介
08月22日 23:05(みんなの経済新聞ネットワーク)より

 三鷹の山本有三記念館(三鷹市下連雀2、TEL 0422-42-6233)で現在、リニューアルオープン記念の企画展「山本有三、作家の遍歴」が開催されている。(吉祥寺経済新聞)
 同展は小説家・山本有三が明治・大正・昭和を、劇作家、小説家、参議院議員としてどのように生きたかに注目。「遍歴」として足跡を紹介するもの。主催は公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団と三鷹市。
 学芸員の三浦穂高さんは「山本有三は劇作家から出発し、新聞小説で国民的作品を発表した。戦後は文化人として社会的な役割を果たそうとし、最後は未完のまま絶筆となった小説『濁流』の執筆にたどり着くまでを『遍歴』としてまとめて伝えたかった」と企画を手掛けた理由を話す。
 展示は2階で数々の自筆原稿や初版本を並べた3部構成となる。旧洋室書斎の展示室Cには「戯曲作家、有三」と題して、遍歴の出発点となる戯曲を書き始める経緯を説明。1920(大正9)年に発表した戯曲「生命の冠」などを展示する。
 旧書庫の展示室Dには「新聞小説作家として」と題して劇作家ゆえに分かりやすい文章が書けることを見込まれ菊池寛の勧めで1926(大正15)年に書き始めた小説「路傍の石」、「女の一生」、「真実一路」などを紹介。創作活動以外で取り組んだ山本有三編集の国語教科書も展示する。
 妻と次女・三女の部屋だった展示室Fには、「晩年作『濁流へ』」として参議院議員の任期を1953(昭和28)年に終えた後1973(昭和48)年に小説「濁流 雑談 近衛文麿」を毎日新聞に連載するまでの背景などを解説する。
 三浦さんは「『君たちはどう生きるか(吉野源三郎著)』は山本有三が編さんした子ども向けの教養書シリーズ『少国民文庫』」」(全16巻)に収録された本。山本有三の小説には普遍性があり、今読んでも共感できる。企画展を見ることで、本を手に取って読む人を増やしたい」と来館を呼び掛ける。
 同館は山本有三が1936(昭和11)年から1946(昭和21)まで家族と共に暮らした家。玉川上水沿いに立つ2階建て洋風建築で、マントルピース(暖炉)が3つある。三鷹市文化財指定で、今回のリニューアル工事では応接間に壁を追加するなど耐震を強化した。受け付けでは「路傍の石」(1,050円)、「真実一路」(767円)、「心に太陽を持て」(594円ブラウザーゲーム文豪とアルケミスト限定プレミアムカバー)などの文庫本を販売する。

 開館時間は9時30分〜17時。月曜休館(祝日の場合開館、翌日・翌々日休館)。入館料300円。2018年9月2日まで。 

 通りを渡って西に行くと、「巴波川」沿いに蔵造りのすてきな風景が広がりますが・・・。



                         

「栃木信用金庫本店」の通用門。

とちぎ歌麿館」。
「古久磯提灯店見世蔵」を活かし、歌麿とその時代の関連資料(浮世絵の復刻版など)を展示する「まちなか美術館」として設置された、とのこと。

 喜多川歌麿は、葛飾北斎と並び称される浮世絵師。美人画の大家。実は、生年、出生地、出身地など不明で、特に出身地に関しては、川越と江戸市中の2説が論争されており、他にも京、大坂、栃木などがあるようです。
 栃木とのつながりでは、

 栃木は江戸時代に京都から日光東照宮への奉幣使が毎年通る例幣使街道の宿場町として、また江戸へ通じる巴波川の舟運の要所としても栄えました。江戸と交流のあった栃木は、文化でもその影響を受け、狂歌が盛んになりました。狂歌とは、5・7・5・7・7の音で構成された短歌に、風刺や滑稽を読み込んだものです。自らも筆綾丸の狂歌名を持つ歌麿は、栃木の豪商と狂歌を通じて交流を持ち、歌麿の浮世絵版画の中には、栃木の狂歌師の狂歌が入ったものがいくつか見受けられます。
 歌麿は、豪商釜喜の4代目善野喜兵衛(狂歌名:通用亭徳成)と親しく、その叔父にあたる善野伊兵衛(初代釜伊)の依頼で、肉筆画大作「深川の雪」・「品川の月」・「吉原の花」を描いたと伝えられています。画面の大きさや制作年代は少しずつ違いますが、いずれも紙本着色の大幅で、遊廓での様子が描かれています。
 明治12年(1879)11月23日、定願寺(現在の栃木市旭町地内)において、近隣諸家の所有する書画の展観があり、「雪」「月」「花」が出品されました。
 その後明治の中頃に「雪」「月」「花」は栃木を離れ、現在「月」はフリーア美術館、「花」はワズワース・アセーニアム美術館、「雪」は箱根の岡田美術館に収蔵されています。
 (HPより)

(「Wikipedia」より)

下野新聞社栃木支局」。

付記
 本建物は元肥料豪商で知られた毛塚惣八が建てた蔵屋敷を修復したものである。毛塚家は、江戸中期後半から昭和初期まで続いた県内きっての肥料・麻苧の豪商であり「栃木の毛惣」とまでいわれた。表通りの「見世蔵」は2代目惣八が1861(文久元)年6月に建築したもので、直径40センチを超える長さ9メートルの松の梁には「文久元年辛酉六月吉日、毛塚二代目惣八建立 棟梁鈴木七右衛門作 仕事使関口幸助」と記してある。
 1999年3月の創刊115周年を記念して当見世蔵を支局とした。


                       

 その向かいにある「栃木市役所」は、2014年に「福田屋百貨店栃木店」が撤退した建物に全面移転したもの。「TOBU」が同居しています。
 

 
栃木市散策ガイドアプリ 蔵ミュゼ~蔵の街まるごとミュージアム~
㉚旧足利銀行栃木支店

(12:58)そろそろ栃木宿は万町交番前の交差点で終わりになります。蔵造りの「万町交番」。

櫻井肥料店」。

                      

 駆け足での栃木宿通過。涼しくなった頃にゆっくりと散策することにしましょう。



1880年代のようす。○が万町から嘉右衛門町(「例幣使街道」)への分岐点付近。右に伸びる道は「宇都宮」への道。



2010年代のようす。嘉右衛門町通りは今もはっきりしています。
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-24 21:21:04 | 日光例幣使街道
                       見世蔵。「五十畑荒物店」。手前には「井岡荒物店」。明治中期の建物。

 栃木宿「蔵の街」に期待しながら進みます。
  

右手に「東武日光線」の高架が。

(11:23)引き続き「JR両毛線」の高架下を通ります。

 ①道なりに進み、突き当たったら、左に折れます。
 ②広い「県道31号線」を渡り、その先を右に少し進み、小さな水路のところを左に曲がります。
 ③その先に、「例幣使街道」と木製の案内板があります。その指示に従って右に折れていきます。

「県道31号線」。

右手には「とちしん」のすてきな店舗。

水路脇の大谷石造りの建物のところを左折。


                   来た道を振り返る。


(11:36)りっぱな木製の案内板。
 「東へ(約三百メートル)旧沼和田村川間の分去れから左へ巴波(うずま)川大橋を渡り栃木町を経て日光・宇都宮方面へ 右へ 小林村・乙女河岸を経て江戸みちあり 西へ 富田・犬伏・梁田宿から木曽路を経て京都に至る 大平山神社に至る旧参道・一里(約四キロ) 」とあります。

 そこで、右に折れますが、そのまま少し進むと、「巴波川綱手道」に出ます。
 「日光例幣使街道」歩きでは「巴波川」に接するのは、宿入口にあたる「開明橋」しかないようです。じっくり歩き回るのは別の機会にしておくことにします。そこで、ちょっと紹介を。

                           

            「巴波(うずま)川」

「ウズを巻き、波を立てて流れる」という意味に由来する。近世には「字津間川」、「鶉妻川」などとも表記された。
 中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、栃木市内には蔵造りの建造物が多く残り「蔵の街」として親しまれている。舟運の始まりは、江戸時代に徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際に、日光御用の荷物を栃木河岸に陸揚げしたことが端緒である。その後、物資の集散地として江戸との交易で隆盛を極めた。現在は、錦鯉が放流されており、船頭による舟歌が楽しめる観光用の舟が行き来する。
 ナマズの民話があり、そのナマズを模したしゃもじの郷土玩具がある。
明治時代に堤防が築かれる以前はたびたび氾濫し、橋をかけても2年ともたないと言われたほどであった。氾濫を鎮めるために人柱を立てたという伝説も残っており、「巴波川悲話」として栃木市の塚田歴史伝説館などで紹介されている。また、1947年(昭和22年)のカスリーン台風襲来の際には大洪水となり、多くの被災者を出した。
(以上、「Wikipedia」より)

栃木の歴史の中心
 幕末期から昭和初期に栄えた問屋町、北関東の商都と呼ばれた栃木市を支えた巴波川(うずまがわ)。
 巴波川舟運の発達により、東京、埼玉、千葉、茨城などへの物資輸送だけでなく、関東と南東北の流通を結ぶ結節点として、問屋業、製造業発展を支えた。
 栃木市の発展に大きな役割をはたしてきた巴波川(うずまがわ)の舟運は、元和3年(1617)、徳川家康の霊柩を久能山から日光山へ改装した際、御用荷物などを栃木河岸に陸上げしたことにはじまる。
 その後、物資の集散地として、部賀舟(べがぶね)などが往来し、江戸との交易を盛んにした。
    (「栃木市観光協会」HPより)

 具体的な舟便の経路は、以下の通り。

巴波川舟運
 巴波川舟運とは、現在の栃木地域栃木河岸(上流の平柳河岸、片柳河岸、栃木河岸の三カ所をまとめて栃木河岸といいます)から現在の藤岡地域にあった部屋(へや)・新波(にっぱ)河岸までの間を、部賀(べか)舟《都賀(つが)舟とも》という底の浅い小舟を利用して、荷物を輸送することをいいます。
 栃木河岸で積み込まれた荷物は、部屋、新波河岸で大型の川舟(高瀬舟)に積み替えられて、思川(おもいかわ)・渡良瀬川を経て利根川を通り、江
戸川を南に下り、船堀川・小名木川を通って、隅田川沿岸にある江戸の河岸に陸揚げされました。

(「栃木市のあゆみ」栃木市教育委員会から)

川越、栃木、香取から江戸・日本橋への水運。

巴波川 綱手道
 かつては、湧水もあり流れも速かったため、江戸からの帰路は麻綱で舟を曳いてきました。川沿いの曳道が綱手道です。川沿いには甍を並べる舟積問屋や豪商の倉庫が当時の面影を漂わせています。(「栃木市観光協会」HPより)

 また街道に戻って案内板を左に折れると

(11:43)その先にも黒塗りの案内表示。「東(約二百五十メートル)川間の分去れから左へ。栃木町・日光・宇都宮方面 右へ 江戸みち 西 犬伏宿佐野街道と木曽路・京都へのみち 太平山神社旧参道 北 境橋・相生橋を経て栃木町に至る」とあります。
 「例幣使街道」は、指示通り直進します。


次は「みつわ横丁 歌麿と歴史の道」への標柱

この小路は「歌麿通り」とも。

さらに駅から来る大通り手前にも案内表示があります。
                              「例幣使街道」はそのまま突っ切って行きますが、右に折れると、「栃木駅」。

 そこで、栃木駅に寄って、少し休憩。(11:50)駅前広場には山本有三の文学碑。
            

                     たったひとりしかない自分を、
                たった一度しかない一生を、
                ほんとうに生かせなかったら、
               人間、生まれてきたかいがないじゃないか。

                     山本有三作 路傍の石より


(12:02)さて再開。「みつわ横丁」の入口。

 さきほどの案内表示の指示通り、大通りを横切り、細い道へ。しばらく行くと、「県道31号線」に合流。少し先の交差点を左に折れていきます。

その先には「巴波川」に架かる「開明橋」。

(12:12)「開明橋」のところには、「栃木宿」の木戸が設けられていたそうです。

橋の向こうには古民家があります。いよいよ「栃木宿」に入ります。

栃木宿
 日光例幣使街道で倉賀野から13番目の宿場である。栃木河岸(とちぎかし)があり、巴波川(うずまがわ)の舟運の拠点として栄えた。現在の栃木県栃木市の市街地付近にあった。
 天正19年(1591年)、皆川広照によって栃木城(現在の城内町のあたり)が築かれると、広照による城下町の建設が始まった。栃木町も当初はその城下町として発展したが、慶長14年(1609年)に広照が改易されると、栃木城も廃城となり、城下町としての機能は消失した。
 天保4年(1647年)に日光例幣使の派遣が始まると、栃木町は栃木宿として街道の宿場町に定められ、人の往来がさらに盛んになった。また、脇街道によって宇都宮につながったり、会津方面へ通じたりする要所にもなった。
 幕末は多難であった。弘化3年(1846年)、嘉永2年(1849年)、文久2年(1862年)の3度にわたり大火に見舞われ、元治元年(1864年)6月6日には水戸天狗党の田中愿蔵による焼き討ちで町の南半分を焼失した。これらに加えて物価の上昇もあり、民衆は苦しい生活をしいられた。
 慶応3年(1867年)12月、小川節斎(竹内啓)を首領とする一団が出流山満願寺で挙兵した際、そのうちの数名が軍資金の要求に来て、脇本陣に滞在した。愿蔵火事の二の舞が危ぶまれたが、陣屋を預かっていた善野司や関東取締出役渋谷鷲郎らの対応によって騒動は鎮圧された(出流山挙兵)。
 巴波川の流域にある栃木河岸は、徳川家康の遺骸を日光へ移した際、江戸からの荷物を舟で運んだのが始まりという。栃木から本澤河岸を経て部屋河岸及びその対岸の新波河岸までは都賀舟、それより下流は高瀬舟を使った。明治時代になると、鉄道の開通により舟運は下火になった。

(以上、「Wikipedia」参照。)

     
     
1880年代のようす。○が「分去れ」。→が「巴波川」。      2010年代のようす。→が「開明橋」。宿場時代はその下方に橋。
              中央のメインストリート沿いが、今も昔も市街地の中心です。

 室町交差点を右折すると、「蔵の街大通り」に入っていきます。

 
(12:17)「三桝屋本店」。創業嘉永元年(1848)の人形店。
                          
                                「毛塚紙店」。創業江戸中期の老舗。

 という具合に見所、満載です。ちょうど昼時なのでちょっとどこかで、と探しながらの探索。
  「巴波の川風 蔵の瓦波」。
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その2。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-23 21:07:35 | 日光例幣使街道
                                  旧「大平下病院」。

 さて、再開。車はけっこう通りますが、人通りはなし。新しい住宅も目立ちますが、空き地も。宿場特有の間口が狭く、奥行きがかなりある土地。
    
    
1880年代のようす。               2010年代のようす。○が「富田」交差点。右に、東武「新大平下」駅。

「売物件」。使い勝手は悪そうですが。

「八坂神社」前のある見事に? 曲がった樹木。

ところどころに残る古いつくりのおうち。

(10:08)洋館風の「早乙女醫院」の建物。

その先にも古風な洋館建て。「旧大平下病院」。


左手にある建物。重厚な趣き。

「大平山(太平山)」への道。ここには、何度か登ったことがあります。

“陸の松島”といわれる眺望 四季の風情を楽しみながらのハイク
HPより)
 県立公園にも指定されている太平山は、標高約340mの関東平野の切れ目に位置する小高い山です。標高自体たいしたことはありませんが、南がすべて関東平野であるためその眺望は抜群。
 戦国時代、関東管領上杉氏を襲名した戦国武将上杉謙信も、その眺望の見事さに感嘆し、現在も、謙信平の地名が残されています。また、渡良瀬川・古利根川の合間に丘陵が見えることから、その眺望は“陸の松島”ともよばれました。また、太平山が人を魅了するのが花。特に桜は“日本桜の名所百選”にも選ばれ、“あじさい坂”のあじさいも有名です。そして太平山は味でも有名。玉子焼、焼き鳥、太平だんごは訪れる人が何度も求める逸品ばかりです。

 そういえば、あじさいを見に来たことがあります。(「太平山神社」HPより)



                       街道筋らしい建物。

 その先、交差点の右手に赤いお堂。宿場の入口にもあったようなお堂。このあたりが「富田宿」の終わりなのでしょう。

(10:19)そこから宿内を振り返る。

 この先は「ぶどう団地入口」交差点で、県道11号線バイパスの広い道路に合流します。旧道は「永野川」の手前まで、右の住宅街(かつては田んぼ)の中を進んでいたようですが、・・・。左手に電気店や薬屋さんなど大型店舗が立ち並ぶ県道を進むことにします。

広い駐車場の向こうには「太平山」。山麓には「ぶどう園」がいくつも。

           向こう側、正面の細い道が旧道?

    
    
1880年代のようす。道はくねくね曲がっています。   2010年代のようす。造成地は現在、住宅地に。右上に現「永久橋」。

 (10:44)「永野川」に架かる左手の古い橋「永久橋」を進みます。その先も旧道は不明なので、土手に沿って歩きます。


                     「永久橋」。



    まもなく実りの季節を迎える田んぼ。

右手遠くには筑波山が見えます。(↓)。

 (10:57)日差しの強くなってきた道をしばらく進むと、右手に森が。「川連(かわつれ)天満宮」が見えてきます。


この一帯は、「川連城」があった場所で、説明板があります。

                   
大平町史跡 川連城跡
 町内川連の一部と栃木市片柳町にまたがって位置する川連城は、応仁年間(1467頃)川連仲利が築城したが、永禄6年(1563)皆川俊宗によって占領され、その後修築されたといわれる複郭の平城で、東西380㍍、南北500㍍という大規模なものである。俊宗は川連城を占領すると太平山の中腹にあった星住山円通寺を川連へ移した。そして幾多の戦いに討ち死にした家臣菩提のため川連村の阿弥陀堂で常念物を供養した。その後、天正年間(1573~1591)に徳川氏の政策によって2ヶ寺は栃木に移された。現在の栃木市円通寺と定願寺がそれである。
 城の南側には城下繁栄策により村が形成されたが、江戸時代になると例幣使街道が通過し、富田宿と栃木宿をつなぐ中継点となった。
 川連城跡は昭和56年の県道宇都宮ー藤岡線バイパス道路工事や土地改良などによって、現在その遺構の大半は消滅した。

 その県道を渡ってしばらく進むと、東武日光線の踏切が見えてきます。(11:07)その手前、「栃木翔南高校入口」信号を左に折れていきます。
 

「栃木宿」への道。


1880年代のようす。「川連天満宮」は記されていません。


2010年代のようす。今も周囲には田畑が広がっています。
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その1。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-22 21:33:04 | 日光例幣使街道
                                 (8:39)道標。「岩舟停車場 犬伏佐野方面 栃木小山方面」とあります。

 ホームステイの青年もいよいよ我が家から勤める高校近くのアパートに引っ越し。そんな慌ただしい(はずの)本人は、それでもいたってマイペースな8月18日(土)。

 明けて、19日(日)晴れ。

 長く続いた熱波も少しおさまったようで、歩きやすい空模様。気温も30℃を下回る予定。
 再び、「日光例幣使街道」の続き。JR両毛線「岩舟」駅から東武日光線「東武金崎」駅までと、でかけます。

 3ヶ所、県道から左へ入る旧道があります。その2番目。「岩舟中学校←」の看板から左の小道へ。


                       

「岩船山」が左手奥に。

3番目はコンビニの先を入ります。コンビニで買い物。

                       

(8:58)県道との合流点に「御菓子司 蛸屋」。

 「和泉」交差点の先を左に入ります。街道は今まで西から東に進んでいましたが、ここからは日光を目指し、ほぼ北向きに歩くことになります。


                              

(9:07)「ふじや」さん。立派な蔵があります。

               

   
   
1880年代のようす。○が左折点。             2010年代のようす。

住宅地を進みます。



      葉っぱが真っ白に縁取りされ、印象的。何という植物? 

 左手にある神社の脇を進む。
  

 「県道11号線」に合流。横断して左斜めに進みます。
来た道を振り返る。

                        左手、弓形にカーブする道。

周囲に運輸倉庫などが続く中、里山が残っています。

栗の実がたわわに。

 (9:35)しばらく進み、再び県道と合流。横断してコンビニの脇を進みます。
 
                                              来た道を振り返る。
田んぼの緑が鮮やか。

日光例幣使街道」の標識(↓)。

しかし、この道ではなく、旧道はその先の公園のところを左折します。

   
1880年代のようす。             2010年代のようす。↑が旧道にあたる。

そのまま進み、左からの道との合流点・右手に、赤い屋根のお堂。ここが「富田宿」の入口にあたるところで、木戸が設けられていました。


                      

(9:45)「富田(とみだ)宿」。
注:「富田」を「とんだ」と読む資料もある。現在の地名表示では「とみだ」、JR両毛線の駅名は「とみた」。

 富田宿が例幣使街道の宿駅となったのは、公式には正保3年(1646)からであるが、実際には元和3年(1617)徳川家康の霊柩を日光に埋葬する為、3月29日霊柩を奉護する行列がこの地を通行したときにはじまるということが出来る。
 富田村の中を通過する往還の長さは「25町58間」(約2.83㎞)、そしてこの内富田宿を形成するのが「12町12間」(約1.33㎞)、宿の入口と出口にそれぞれ木戸が設けられた。

宿内の家並み。

                           

 (9:55)「日光例幣使街道 富田宿本陣跡」(碑)。和久井家。
 

 「富田」交差点にベンチがあるので、そこで小休止。この交差点を右に行くと東武「新大平下」駅。「大平山ハイキング」で利用したことがあります。
注:「おおひら」の表記がものによって「平」と「平」と二つある。ちなみに神社の表記は「平山神社」。東武線、JR両毛線の駅名はどちらも「平」、町の名も「平」。        
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