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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

府中~日野~横山(八王子)。その1。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-20 18:08:29 | 甲州街道

 3月11日(土)。晴。第2日目。夕方から用事があるので、京王線・府中駅からJR・八王子駅まで。

源義家公とけやき並木
 国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、940余年前、源頼義公・義家公父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大国魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平5年(1062)勝利の報賞として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。
 その後、徳川家康により、補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲9㍍に及んだ大けやきは、頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。その大けやきも、度々の暴風雨と、近くは昭和24年のキティ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。
 義家公は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として、7歳の時、石清水八幡宮で元服、よって八幡太郎と号したが、前九年の役、後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に源氏の武威のの最盛期を迎えた。
 このような大国・武蔵の国の国府であった府中、大国魂神社、けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため、当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するするものである。
・・・
平成4年3月28日 創立30周年記念事業 東京府中ロータリークラブ
 
(8:36)ケヤキ並木。

大国魂神社と馬場大門欅並木」。

・・・なお、徳川家康によるケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。とくに、府中の馬市は戦後時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は5月3日の「駒くらべ」の日から始まり、
9月晦日まで5ヶ月にわたって開催されました。
 ケヤキ並木は国の2番目の天然記念物に地域指定されています。毎年5月の例大祭(くらやみ祭)では、3日にケヤキ並木で夕方から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行われています。

    
                   「万葉集歌碑」。

歌碑に寄せて
 この歌は万葉集巻14東歌の武蔵国の一首です。武蔵の国は東京、埼玉、神奈川にわたる大国であり、その国府が府中にありました。訓読では次のようになります。
武蔵野の 草は諸向(もろむ)き かもかくも 君がまにまに 吾(あ)は寄りにしを
 「草が風になびくように、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」という意味の歌で、自然と共に生きた女性を歌ったものです。・・・

 宮西町へ入ります。右手が昔のお休み処・松本屋。いまも旅館業をやっています。


その付近から進む道を望む。    

 (8:43)その先右手角が問屋場跡で「中久本店」。ここが府中の中心地。店の前が高札場跡になる。
    

    

 「中久本店」は酒座。地酒などお酒やワインなどたくさん扱っている老舗。

(「中久本店」フェイスブックより)

札の辻と問屋場跡」。  

 甲州街道(道中)と鎌倉街道が鍵の手に交わる所に高札場があったところからこの界隈を「札の辻」「鍵屋の辻」と呼び親しまれていました。
 安政6年(1859年)府中宿本町に大火があり、それを機に万延2年(1861年)中久本店の店蔵を防火建築物として再建。
 隣地は問屋場(江戸時代の宿駅・人馬・駕籠などの継ぎ替え所)であったため、大道芸人の辻芸をを楽しむ人々で賑わい、武蔵府中の中心として栄えました。

※ここでいう「鎌倉街道」は、「中久本店」の西側の道だったようです。

 四つ角の向かい側には「高札場」。屋根付きの札懸けが昔のまま残っています。
    府中高札場」。
 府中高札場は、旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地に位置します。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設です。村や宿場などの中心地に設けられ、幕府の威光を示す重要な役割を果たしていました。
 府中高札場は往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられました。天保9年(1838)には10 枚の札が掲げられたことが記録に残っています。その内容は、親兄弟仲良く暮らすように、といった生活態度のことや、宿場駄賃などの生活に密着した内容、切支丹禁止や鉄砲禁止といった幕府の基本政策など内容は多岐にわたっていました。
 以前は街道に面して建っていましたが、昭和40 年(1965)、自動車事故があったため、交通事情に配慮し、交差点に対して斜めに付け替えられました。現在では、当時の姿をとどめる高札場は少なく、この高札場は非常に貴重です。

(以上、HPより)

 「高札場」の裏手は、大国魂神社の御旅所となっています。

※「御旅所(おたびしょ)」
 神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
 御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。

1880年代のようす。
○が「鍵の辻」。カギ型になっています。

現在のようす。
○が「鍵の辻」。広い「府中街道」があるためにはっきりしません。

「甲州街道」碑。その隣に「府中小唄碑」。

府中小唄」について(「府中市史談会」HPより)。

 昭和の初め、府中の町にふさわしい民謡を作ろうという機運が高まり、昭和4年に府中小唄が誕生しました。その後、昭和27年に久保幸江さん、昭和42年には小唄勝太郎さんの歌で録音され、広く市民に親しまれてきました。市制50周年を記念し、演歌歌手の北島三郎さんに唄の吹込みを依頼し、CD化が実現しました。
 歌詞は下記の通りです。作詞:野口 雨情 作曲:中山 晋平 編曲:丸山 雅仁

六社明神さま暗闇祭りヨ
 闇に旅所へ渡御なさる
  あれは灯じゃない空の星    
   星さえ府中を出てのぞく

けさも見ました馬場大門のヨ
 欅並木に立つ風を
  あれは空吹く通り風
  風さえ素通り出来やせぬ

鮎は若鮎早瀬が頼りヨ
 水にせかれて瀬をのぼる
  あれは関戸の川遊び
  府中多摩川見においで

恋のかけ橋金仏さまもヨ
 ひとり渡りはなさりゃせぬ
  あれは身ごり金仏さん
  身重がわるけりゃお詫びする

ここは名高い分倍河原ヨ
 道は鎌倉街道すじ
  あれは新田と北條と
  火花を散らした古戦場

武蔵府中は自慢じゃないがヨ
 萱やすすきの中じゃない
  あれは府中の六社様
  松は憂いもの杉ばかり
 

「府中小唄ゆかりの地」案内図。

沿道の商家。
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その7。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-19 17:46:28 | 甲州街道

いよいよ「府中」入り。

重厚な蔵造り。

 旧町名などの立派な解説板が左右に登場します(気がつかないものもありますが)。

(15:22)
常久
 常久(つねひさ)は、現在の若松町1丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
 幕末の地誌には、「民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒」(新編武蔵風土記稿)とあります。もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され万治年間(1658~61)に、ハケ上に移動したと伝えられています。
 地名の起こりは、人名によるようで、古くは常久(恒久とも)という人を名主とする名田であったようです。「新編武蔵風土記稿」には「村名の起こりを尋ぬるに、むかし恒久と云し人居住せしによりて唱えしと云う、今村内の農民嘉右衛門なるものはその子孫と云う」とあります。 

「旧甲州街道」案内板。

 左手に廃墟と化した工場。どういういきさつがあるのか? 街中に。
    

(15:41)「国府八幡宮」参道。

その脇に「八幡宿」。
 八幡宿(はちまんしゅく)は、現在の八幡町1,2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。この村落は六所宮(大国魂神社)の社領に属しており、「新編武蔵風土記稿」(幕末の地誌)には「六社領」の小名としてその名が見えます。
 もともと八幡宿は、国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、甲州街道が開設(慶安頃=1648~52)されたのに伴って街道筋に移動したものです。宿場町のような村名ですが、八幡宿は農業を中心とした村落でした。
 地名の起こりは、この地に国府八幡宮が鎮座していたことによります。国府八幡宮は由緒深いお宮で、聖武天皇(在位724~749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。
 
「八幡宿東」バス停。

(15:55)本日の終着地は「大国魂神社」。

 「大国魂神社」は、景行天皇の代(111年)に創建。出雲臣天穂日命の末裔が武蔵国の国造(みやつこ)に任ぜられて以来、代々の国造が祭祀しました。その後、大化の改新(645年)の際には、ここ府中に武蔵国府が置かれ、神社も国衙の斎場として武蔵総社と呼ばれました。六所宮、六所神社とも。
 府中は古代から重要な地位を占めていたわけです。周囲には古代遺跡が多く残されています。

1880年代のようす。

現在のようす。

「観光案内図」。

 次回はここから。京王線「府中」駅から乗車。「水戸街道」や「日光街道」の時と比べて、帰宅には思ったよりも時間がかかりました。
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その6。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-18 13:17:24 | 甲州街道

 住宅街を進みます。

下石原公会堂。屋上には半鐘がある火の見櫓。

(14:25)その先、左手には「常夜燈」。

 (14:35)「西光寺」仁王門の左側に腕をくんで座っている近藤勇像があります。西光寺は、旧甲州街道沿いにあり、慶応4年(1868)3月、近藤勇が甲陽鎮撫隊をひきいて甲府へ向かった時も、この寺の前を通りました。に近藤勇の座像の案内板。
    

    

新撰組局長 近藤勇
 近藤勇は天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌2年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
 文久3年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年6月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
 然しながら世情の移り変わり激しく、慶応3年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
 その年3月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応4年4月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月25日江戸板橋で刑死、時に僅か35歳波瀾万丈の人生を閉じた。
 会津藩主、松平容保は【貫天院殿純忠誠義大居士】の法号を贈りその功績を称えている。
 調布市『近藤勇と新撰組の会』は、没後130年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。
 奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。

   平成13年10月8日           近藤勇座像建立委員会代表 土方貢・発起人一同

 その先で、「中央道」の高架下を抜けます。
    

りっぱなお屋敷。

「飛田給」地区になると、右手奥に「味の素スタジアム」。

 (14:48)その先、左手には、「行人塚」。


 この塚は、松前意仙の入定塚(にゅうじょうづか)です。意仙は元仙台藩士でしたが、出家して諸国をまわり、遍歴の末、この地に庵を結びました。意仙は自ら石造の薬師如来像を彫り、大願成就の後、薬師像の傍に穴を掘り、中に入って、鉦をたたきながら、お経を唱えて、そのまま入定(死去)したと伝えられています。意仙の死後、村人たちによって、塚が築かれました。昭和47年(1972)、塚の改修の際に遺骨が確認され、もとどおりに埋葬されました。

蔵造りの建物がいくつかあります。
    

長い直線道路。振り返る。

東海道や日光街道でも見かける石造りの蔵。

(15:07)西武多摩川線の踏切を通過。
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その5。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-16 19:57:35 | 甲州街道

 再び「国道20号線」へ。

「日本橋から21㎞」ポスト。

右手には「金子のイチョウ」(奥に顔をのぞかせている) 。推定樹齢:約250年。  

沿道には広い敷地の家が残っています。

 「柴崎駅」を過ぎて、「野川」に架かる「馬橋」を渡ります。
    

野川(のがわ)
 国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発し、南へ流れる。西武国分寺線・JR中央本線と交差し、真姿の池湧水群からの湧き水を合わせ、東へ向きを変える。小金井市に入り、武蔵野公園にさしかかるあたりから南東に流れ、西武多摩川線と交差し、野川公園に入る。小金井市と調布市の間を何度も縫ってその後三鷹市を流れ、再び調布市に入る。
 京王線と交差し、調布市と狛江市の境を何度も縫い、調布市入間町付近で支流の入間川を合わせる。世田谷区に入り、神明の森みつ池からの湧水を合わせて、小田急小田原線をくぐり、東名高速道路と交差する。世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、東急田園都市線・東急大井町線二子玉川駅のホーム下をくぐった後、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流する。
 野川は、南岸が平坦なのに北岸が急斜面となっている。北の崖は、武蔵野段丘面を多摩川が削りこんで作った国分寺崖線である。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの清水も多く湧き、都内でも珍しい自然が残っている。
・・・
                                                                   (以上、「Wikipedia」参照)
 「野川公園」には数年前に昔の仲間と出かけたことがあります。
    

 橋を越えてすぐに左折し、「布田五ヶ宿」へ向かいます。
    

注:布田五ヶ宿(ふだごかしゅく)
 国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿の宿場。通行大名が少なく、9軒の旅籠だけという小さな宿場で、本陣・脇本陣は無かった。


1880年代のようす。

現在のようす。京王線北側の道が旧道。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

右に進む国道沿いには大きなケヤキ並木。

旧道。  

 さすがにここまで来るとお腹もかなり空いてきたので、明るく開けた「国領」駅前のお店に入って食事・休憩。
再開。

 「調布駅」前の賑やかな通りを進みます。ここで、「調布」という地名の由来を
 「調布」という名称は昔の税制である「租庸調」の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来します。そのため以前は当地の他にも都内に幾つかの「調布」地名がありました。「田園調布」は元は荏原郡調布村(のちの東調布町)であり、小泉八雲の「雪女」に出てくる「調布」は西多摩郡調布村(現在の青梅市長渕地区)にありました(南多摩郡にあって現在の八王子市という説も)。
 「調布」と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいた(調布市の総合文化施設の名称が「たづくり」なのもそれに由来する)。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在します。
 江戸時代までは多摩川で布をさらしていた記録が残っています。
 万葉集・東歌の「多摩川にさらすてづくりさらさらに何ぞこの児のここだかなしき」(かなし=愛らしい)という歌碑が「布多天神」境内にあるようです。

注:租庸調

 田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。


 正丁(21歳~60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。庸を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した。人頭税の一種といえる。
 庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。

調
 正丁・次丁・中男(17歳~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品34品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。
 正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って、当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。

「布多天神」参道。  

 「小島町一丁目」交差点先に「一里塚跡碑」があったはずですが、見逃してしまいましたので、HPから拝借。


 ここは江戸時代の初めごろ、甲州街道に築かれた一里塚のあったところである。江戸日本橋を起点として、およそ6里(24キロメートル)の距離にある。
 一里塚は街道の1人ごとに、その目じるしとして道の両側に築かれたものである。たいていは塚の上にエノキが植えられ、遠くからでも望見できるようにして旅行者の便がはかられた。
 ここにも樹齢200年余と推定されるエノキの大樹があって、その昔がしのばれたが、危険防止のため昭和40年頃に伐られた。
                                        (調布市教育委員会の解説板)
 
 なお、地図で確認すると、一里塚碑のある敷地の駐車場が「えの木駐車場」となっています。大いに関連がありそうです。

右手には大きなお屋敷。「旧甲州街道」。

ケヤキの大木。

 賑やかな通りから住宅地の道になっていきます。春先らしい木々の花が庭先に。
    
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その4。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-15 19:09:40 | 甲州街道

 旧道らしい道。沿道はすっかり変わっていますが、道筋はかつてのまま。
    

 南烏山から給田へとつづくこの道はかつての甲州街道です。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていませんが、、この道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません。道の由来を知れば、その時代、時代の道筋の風景を脳裏に浮かべることもできます。(「せたがや百景」)
 「烏山」には「下宿」「中宿」「上宿」という地名が残っています。間の宿だったのでしょうか?

ゆるい上り坂を行くと再び「国道20号線」へ合流。

(12:02)その手前、右手に「新一里塚」。
里程標(新一里塚)
 銘文( 
 (正面)内藤新宿より三里 品川県
 (左右側面も同じ銘文)
 (背面)明治三庚午年八月 武蔵国多摩郡給田村
 伝承
 甲州道中には、江戸時代日本橋を基点とした一里塚が、4キロメートルごとに築かれていた。
 この里程標は明治3年に内藤新宿(現新宿御苑内にあった高遠藩内藤家下屋敷)を基点とした甲州街道に建立された一里塚で、記録によれば芝生に覆われた3メートル位の塚の上に建てられてあったという。
 この標石は、上馬1丁目の前川鉄郎氏によって保管されたのち、昭和51年12月、同氏から世田谷区区立郷土資料館に寄贈された。その後、同59年2月、元位置に近い現在地に復元した。・・・

                                  昭和60年3月  世田谷区教育委員会

 この碑にある「品川県」は、1869年(明治2年)に武蔵国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県で、おおむね現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、いわゆる多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部を管轄した。
 1871年「明治4年)、廃藩置県を経た第1次府県統合において廃止され、品川県の管轄した区域は主に入間県と東京府が占めることとされ、翌年、 多摩郡全域は神奈川県が占めることとされ、1872年(明治5年)には、多摩郡のうち、東京府に移管された区域が神奈川県に編入された。

    

 (12:10)「仙川」を越します。
    

仙川(せんかわ)
 多摩川水系野川の支流である。「せんがわ」と称されることが多いが正式名称は「せんかわ」。
 現在の上流部は人工的に作られたもので、狭い幅・浅い深さ・枯れ川に等しい水量・曲がり角が蛇行でなく直角であるなどにその証拠を残す。
 東京都小金井市貫井北町三丁目の新小金井街道直下が「上端」と定められ、東京都による立札が設置されている。
 現在、仙川の源流は消滅している。コンクリート垂直三面張りの改修が施された流路の大半も、すでに20年以上にわたって常時水のない状態が続いている。
 源流域からおおむね東に向かい、公務員住宅の横を流れ、市街地(北大通り北側歩道と重複する箇所は暗渠)を曲がりながら武蔵野市に入る。亜細亜大学や桜堤団地の近くを流れ、南に向きを変え、武蔵境駅の少し東でJR中央本線の下をくぐり、市街地(一部暗渠)を曲がりながら抜けてゆく。このあたりでもふだん水のない状態は変わらない。やがて三鷹市に入る。
 三鷹市をしばらく行くと野川宿橋の所から川幅が広がり、流れも自然な蛇行となる。ここで地下から汲み上げた水を放流する。ここが21世紀現在確立された最初の水源である。少しずつ蛇行しながらおおむね南東方向に流れてゆき、調布市に入る。
 少し下流で再び三鷹市の境界に触れるが、そこで三鷹市東部下水処理場の高度処理水が放流される。水量もある程度のものになったところで、住宅地の広がる緑ヶ丘や仙川町を抜け、国道20号や旧甲州街道と交差し、世田谷区に入る。
 京王電鉄京王線と交差し、両岸に祖師谷公園を見て通り抜け、成城に達して成城学園の横を流れる。小田急小田原線をくぐり、成城の東を流れ、世田谷通りと交差して大蔵住宅の横を流れ東名高速と交差する。世田谷区鎌田で北西から流れ来る野川に合流する。
(以上、「WIkipedia」参照)

注:現在の上流(上端)部分は、かつて探索したことがあります。

「国道20号線」を進みます。

 (12:22)「仙川駅東」交差点の右手、「セブンイレブン」脇に「一里塚」の案内碑があります。日本橋より20㎞地点。
    

市旧跡 仙川一里塚跡
 この地は、仙川一里塚の跡である。江戸日本橋を起点にして5里(約二十キロメートル)の距離にあり、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。この塚は、徳川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度ができ、慶長7年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれたものである。
 一里塚は、街道を行く旅人が、正確な里程を知る目じるしとして築かれた。塚は、普通5間(約9㍍)四方、高さ1丈(3㍍)の規模で、エノキが植えられたが、地方によってはマツやケヤキを植えたところもある。旅人にとっては空腹をいやしたり、木陰のもとで疲れをとる場所でもあった。
 この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚となる。現在、昔のおもかげはまったくみられないが、土地の人は今でもこのあたりを塚とよんでおり、地名に当時の名残りをとどめている。

 平成6年3月吉日        調布市教育委員会    


右手にある大きなおうち。

下り坂にさしかかります。

(12:37)その先、右手に「瀧坂旧道」碑。側面に「馬宿 川口屋」。
    
 甲州街道が武蔵野段丘崖を上下する坂で、その高低差は15m。市内の同街道で最も高低差があるところであり、平野部を走る江戸~八王子間でもやはり有数の坂で、東上する通行の人々や物資の輸送に当たる馬方等に難所の一つとして数えられたものらしい。特に登りは人を乗せ、荷を着けた馬・車にとっては大変で、車の場合は下りも楽ではなかった。また、この坂の名は、大雨の時雨水が路上を滝のように流れ下ったから付いたと言われる。

一気に急坂を下るようす。

坂上の石仏(薬師如来坐像)付近。 

振り返って望む。

道沿いには「滝坂」の名を持つ工場。

旧道らしい道筋。
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その3。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-10 19:48:09 | 甲州街道
 「明大前」駅を眼下に見て進みます。上・下高井戸宿へ向かいます。

高井戸宿
 かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。
 通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。
 当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。
 周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
 助郷村は、久我山村、和泉村、松庵村、田端村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年))、成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年)、久我山村代助郷)。

下高井戸宿
 日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。

上高井戸宿
 日本橋から4里12町40間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。
                                 (「Wikipedia」参照)

「下高井戸商店街入口」。

相変わらず首都高の下を歩く。

(10:57)通りの向こうに面白い建物。

「薪ストーブ専門店・TOKYO STOVE」とあります。

 東京・杉並区にある薪ストーブ屋のInstagramです。毎日を素敵に、そしてちょっと贅沢にしてくれる“薪ストーブのある暮らし”をご提案します。メンテナンスもお任せください! #東京ストーブ www.tokyo-stove.com


        (blogより)

ようやく首都高が大きく右へ曲がって行きます。

通りの向こうに「鎌倉街道入口」の標識。

(11:13)「甲州道中一里塚跡」解説板。
 江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。
 この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、飯田藩の三藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もありました。
 この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて4里目(約16キロメートル)を示す「一里塚」がありました。
 当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。
 塚は5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えられてありました。

 昭和54年2月1日          杉並区教育委員会

    
                              街道・旧道(「国道20号線」)は左方向に進みます。

 頭上の圧迫感がなくなって、ホッと。
      

「八幡山駅」を過ぎ、「環八通り」陸橋の下を進みます。その手前にある交番には「上高井戸」とあります。


(11:28)「日本橋から17㎞」ポスト。

 陸橋をくぐったあと、すぐ「国道20号線」から分かれて左に入り、芦花公園、烏山方面へ進みます。
    

「長泉寺」入口にある石仏群。

材木屋? 廃屋? 

木工所。

うだつがある建物。「山本農機」。
 かつて農村地域だったことを彷彿とさせます。

旧道らしい道筋を歩く。

「烏山下宿」バス停。

 その先、左手に橋の欄干を模した大きな碑。「大橋場跡」。他に「庚申塚」など石仏が何体か。奥に由来碑がありますが、判読不能。
    


この付近の、1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央付近に川があります。この川に架かっていた橋?

 実は、由来碑にまつわる記事がありました。関東大震災の時に起こった「朝鮮人虐殺事件」にかかわるものです。

烏山の惨行
9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。
 この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。
 朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の朝鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
 時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の一同1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)
 加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。
(「東京日日新聞」1923年10月21日付。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)
※ 読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開き、句読点を打った。「鮮人」も「朝鮮人」に直している。

(2014年2月23日記)

・・・

 荒川の河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方から、会でまとめた資料集をいただきました。そのなかに、東京日日新聞1923年10月21日付の「府下版」が掲載されていました。そこには、この「烏山事件」で負傷、死亡したすべての朝鮮人の名前が列挙されていたのですが、それによれば、病院まで送られた人が3人で、死者は洪其白さん1人となっていたのです。
 追悼する会に確認したところ、「新聞によって幅はあるが、おそらく1人が正しいだろう」との答えをいただきました。たしかに、死者、負傷者について、名前を明記しているのですから、この「府下版」の記事がもっとも信頼できると考えるべきでしょう。死者3人とする史料もあり、入院した3人のうち2人が亡くなった可能性もありますが、冒頭に掲載した東京日日新聞の記事の「被害者中の一同」が死亡したという記述は「被害者中の1名」の誤字と考えるのが妥当だと思われます。つまり、『世田谷、町村のおいたち』は、死者数については誤りだということになります(その場にいた朝鮮人労働者全体の数についても史料によって幅があります)。
 しかしそうなると新たな疑問がわいてきます。烏山神社の椎の木は、ではいったい何の目的で植えられたのか。
 この疑問を率直にぶつけると、「追悼する会」の方から、今度は87年に発行された『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』を送っていただきました。「編者は世田谷区の文化財保護委員や調査員などをやった方で、事件の地元の人です。椎の木は誰のために植えられたのかについて今の時点ではこれ以上に信頼のおけるものは見ていません」というメッセージつきでした。そこには、あのとき起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳しく書かれていました。
 まず、事件は、旧甲州街道を横切る烏山川にかかる石橋で、朝鮮人労働者を載せたトラックが崩落箇所にはまり、自警団に包囲されたところから始まったとあります。このブログ記事冒頭の写真(「事件があったと思われる附近」)をよく見ていただくと、左右に小道が横切っているのが分かりますが、これが今は暗渠となっている烏山川であり、事件の現場です。石橋の崩落箇所に…という事件のディティールは、内田良平の記録にも出てきます。その後に起きたことについては、おおよそ東京日日新聞の伝えるとおりです。
 そして、烏山神社の椎の木については、『大橋場の跡』は次のように説明しています。

「結局12人の被害者に対して12人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」
「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」

 この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚であるということです。苦い結論ですが、そのように受け止めざるを得ません。

 現時点で分かっているのは以上の内容になります。

 釈放された人々とともに椎の木を植えたとき、村の人々の心にどんな思いが交錯していたのか、本当のところはわかりません。なぜ一部で「あの椎の木は死んだ朝鮮人の供養のために植えられたのだ」という話が伝えられてきたのか。それもわかりません。

 今も、烏山神社の正面の鳥居をくぐってすぐのあたり、参道の左右に、4本の椎の木がそびえているのを確かめることができます。
(2014年2月23日記)

(「9月、東京の路上で」関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト
tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/1... より)

                                 
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その2。(「甲州街道」をゆく。第1日目。)

2017-03-08 21:30:46 | 甲州街道
 「国道20号線(現甲州街道)」に沿って歩きます。道路沿いには史跡やお堂などが出てきます。
白水学校跡」。
 明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。
 忠蔵は、明治維新に東京市内から代々木村に移り住んだ教育家、これより6ヶ月前に白水学校の本校を和泉村(杉並区)に開校しています。
 当時の白水分校には尋常科と簡易科があり、尋常科では主として漢文・数学・習字を教授し、簡易科では毎日通学できない児童のために、各科目を速習方法で教授しました。また、簡易科には、農閑期だけ通学する児童や、裁縫・礼儀作法を習うために通学する女児がたくさんいたのです。
 明治15年(1882)2月、白水分校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し、同8年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転しました。
 
                                    渋谷区教育委員会

 「現渋谷区立幡代小学校」の前身です。どこかのお騒がせ小学校理事長よりも、はるかに教育者としての識見がありそうです。

案内図。首都高・高架下。

左手には暗渠になった「玉川上水」の緑地が続きます。

    
子育地蔵尊」。
 地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦難のときに身代わりに現れるとか、冥界(みょうかい)と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくれるとか、いろいろと考えられていました。
 この地蔵は子育地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。
 この地蔵は江戸時代の貞享3年(1686)の造立で、もとはすぐ前にお堂がありましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人びとの浄財によって立派なお堂が作られました。

                                    渋谷区教育委員会
     古い解説碑。

    
 地下から地上に顔を出した「京王線」がすぐ脇を進んでいます。都営新宿線と直通運転する京王新線は京王線よりも地下深く通過し、「笹塚駅」手前で合流します(右の写真)。

 (10:08)「幡ヶ谷駅」(京王新線・地下駅)を過ぎて、「中野通り」と交差する手前、左手に「道供養碑」「牛窪地蔵尊」があります。
    

    
道供養碑
 この道供養碑は、文化3年(1806)11月に造立されたことが、銘文からわかります。これにより、江戸時代の道供養信仰をある程度知ることができます。道祖神、地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとする珍しい供養碑です。
 中野通りの先は駒場道(鎌倉道)の一部で、この道供養碑はもとはそれに面してたてられていて、駒場道の供養碑であったことがわかります。
 なお、中野通りに甲州街道が交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞い行事を行う場所、という言い伝えもあるようです。

                                   渋谷区教育委員会
      
「笹塚駅」(地上駅)を過ぎていくと、「環七・大原交差点」。

 (10:27)「代田橋駅」近くで「玉川上水」が顔を出します。
    

「代田橋」ホーム下を流れています。


1880年代のようす。

現在のようす。右下が「京王線・代田橋駅」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 この付近は、「玉川上水」を水源から断続的に何日かかけて新宿まで歩いたときに紹介したことがあります。久々の再会。「玉川上水」は甲州街道を越えたあと、しばらく街道の北側を遡上し、次第に離れて北西の羽村方向へ上っていきます。

「沖縄タウン」。「小さい沖縄、生まれタウン」。

沖縄タウン化計画とは
 寂れた商店街を活性化させるために、商店街の強みである『個店の連なり』を最大限活かして街を再生させようとする、全国初の試みです。
 杉並区は、『沖縄学の父』と呼ばれる『伊波普猷(いはふゆう)』や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいたこともあり、23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多いという背景に加え、昨今の物産ブームで商品力のある沖縄に着目し、街おこしのテーマを『沖縄』としました。

 コンセプトは・・・都会の人が出会ったことのない沖縄の発見&体感できる街!!
 沖縄を一過性のブームにしないために、沖縄の食材・文化を都会の人々の生活の中に当たり前に存在させていく、それが『沖縄タウン』の役割と考えています。

 沖縄タウンは平成17年3月、甲州街道の歩道橋改装に合わせてオープンいたしました。


和泉明店街のプロフィールをご紹介します
 『ひとつ屋根の下』など、多くのテレビドラマのロケが行われた懐かしい街並みを残す商店街。   新宿から京王線で2駅、代田橋駅を降りて5分の立地。環7と甲州街道の交わる大原交差点のすぐ近くにあり、駅と住宅地の中間に位置するため、通勤・通学路になっています。また周辺には企業の進出が目立ち、人口は増加傾向にあります。
和泉明店街は、登録74店舗の商店街で、総延長380メートル。沖縄県那覇市の栄町市場と似た雰囲気の大都(だいと)市場を持つなど遊回性のある構造をしています。

HPより)

(10:31)「日本橋より13㎞」ポスト。
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その1。(「甲州街道」をゆく。第1日目。)

2017-03-06 18:45:11 | 甲州街道

 3月4日(土)。曇り。少し肌寒し。いよいよ「甲州街道(甲州道中)」にチャレンジ。夏までにクリア出来れば、・・・。下諏訪まで53里の道のり。

(甲州街道を歩く - 旧街道ウォーキング www.jinriki.info/kaidolist/koshukaido/HPより拝借。)

 今回、日本橋から新宿(内藤新宿)間は省略し、「新宿3丁目」から西に向けて歩き出します。
1880年代のようす。水路は「玉川上水」。

現在のようす。新宿駅。右下に「天竜寺」、「新宿高」。

現「新宿三丁目」交差点から西南に延びるのが「甲州街道」。西北に延びるのが「青梅街道」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)

 なお、「旧甲州街道」は八王子、高尾までは、概ね、現在の京王線に沿ったように進みます。
 当初、京王線は、新宿駅付近では現在とは異なって、甲州街道上を路面電車で進んで、「新宿3丁目」付近が終点でした。その後、少し位置がずれた後に、現在のように新宿駅構内に乗り入れる線路になりました。(「今昔マップ」より。)



←現在の「京王追分ビル」(「FOREVER新宿店」などがある)。


 (9:03)「新宿3丁目」交差点は、「甲州街道」と「青梅街道」との分岐点(追分)。角の交番にも「追分」とあります。
                        

「青梅街道」方向。

 旧甲州街道は左に折れて「国道20号線」(甲州街道)に合流して、西に向かいます。


新宿駅。

 旧甲州街道と現甲州街道(国道20号線)とは新宿駅の拡幅、改造によって少し南側に変わっているようです。そのため、
甲州街道を歩く - 旧街道ウォーキング では、新宿駅南口を過ぎたあと、いったん右折し最初の角を左折する道を旧道としています。それにならって歩きます。

ここを左折。

   

 その道はかつての角筈・浄水場、現在は都庁などの高層ビル街にぶつかるので、左折して「国道20号線」に出ます。
    


(9:20)「日本橋から9㎞」ポスト。その分、省略。

 これからが本格的な歩きとなります。  
 車が激しく行き来する広い甲州街道の南側に玉川上水の跡地と地下にもぐった京王電鉄線の跡地の上に、広い遊歩道があります。文化学園大学(文化服装学院―かつては、円筒形の校舎。今は素敵な建物に)前を通る、自転車通行禁止の遊歩道。かつてこの辺り、玉川上水と京王線が併行してあったところ。渋谷区立の公園となって、しばらく甲州街道とつかず離れずで続きます。

 歩道に煉瓦造りのモニュメント。
                                  
・・・このモニュメントは明治時代に新宿駅構内の地下に設けられた玉川上水煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、当時の煉瓦を一部使用して、ほぼ原寸大で再現したものです。

向かい側には「佐鳴(さなる)予備校」のユニークな建物。

「勿来橋跡」。
 なこそ橋の由来は、江戸時代に福島の三春藩主であった秋田安房守が、この地に下屋敷をおいたことによる。       
 このように玉川上水に架けられた橋名が残されています。

ここでいったん上水と離れます。

雑踏も途絶えた歩道。振り返って望む。

今歩いている歩道は渋谷区、道路の向こうは新宿区。

「玉川上水」跡の緑地。

頭上は「首都高速」が覆い被さる。

道路の向こう側は「新国立劇場・OPERA PALACE Tokyo」。

全貌が見えないので、「Wikipedia」より借用。
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