おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

2017-05-05 13:38:09 | 甲州街道
 5月3日(水・憲法記念日)。三連休初日。晴時々薄曇り。
 相模湖駅から上野原駅まで。山ガール、山じじばばで一杯の車内。街道歩きらしい方は見当たらず。道中でも地元の人がちらほらいるだけで、人とも会わず、な旅です。
 いや、国道を軽快に飛ばす(坂道で悪銭苦闘する)サイクリングの若者達、じじ様にはかなり出会います。水戸街道や日光街道でもよくすれ違いましたが、甲州街道でもけっこう楽しむ人が多いようです。小仏峠の一部以外は(そこも国道20号線経由なら問題なし)行程はほとんど舗装道路で、自転車で行き来できます。笹子峠もトンネルがあって越えやすいし、・・・。
 歩き人としては、中央道、国道20号線を行き交うたくさんの車の列を横目で見ながら、晴れた空の下、眼下に相模湖を眺め、頭上に山並みを仰ぎ、相州甲州国境を越える、気分のいい旅。

 相模湖駅着9:30前。たくさんの人が下車。

 前回、相模湖駅の手前、国道20号線(現「甲州街道」)から右に上がる坂(地元の表示では「甲州古道」)を行きそびれたので、そこから今回の歩きです(9:49)。

道標。
 ただし、小仏峠から下ってきて、国道の左側を歩く旅人には見えにくい。
 さらに先達のレポートですと、目印として「ひらの」という旅館がある、とのことでしたが、見当たらず。整地された跡があるだけ。
 坂道を歩いていた方に尋ねたら、ああ、そこね、廃業して、借地だったので更地にしてどこかに移ったようだ、サクラなどの古木もあったのだが、すっかり伐られてしまってね。・・・

現状。

振り返って望む。 

(9:52)ツツジが満開の坂道を上る。

遠くに富士山の頭が見えてきて、眺めのいい坂道が続きます。


塚本水道店。

(10:01)下って行くと、眼下、左手にJR線のトンネル。


また緩やかな上りになった先に、アパートなど建物が何軒か。その先の交差点を左に進みます。


(10:05)直線の下り坂の途中、右手に階段。この階段から続く坂が「えんどう坂」。



「甲州道中はこの階段を降り、えんどう坂を下り、桂北小学校前へ出る。」

階段を振り返る。

正面にJR中央線と「相模湖駅」。


振り返って望む。

(10:11)こうして国道20号線と合流します。
道標。

振り返って望む。

再び「相模湖駅前」交差点まで戻り、駅前のコンビニでおにぎりなどを買って、いよいよ本日の出発。

(10:24)「東京から65㎞」ポスト。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その7。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-27 19:25:45 | 甲州街道

いよいよ「小原宿」入り。「小原の郷」という観光施設が右手に。

小原宿
 甲州街道の9番目の宿場町(注:「甲州街道37宿」とした場合)であり、現在の相模原市緑区小原の一部に相当する。江戸より16里。
 東西に2町半(約270m)と小さかったが、難所である小仏峠の甲府側に位置するため、重要な宿場であった。
 西隣に位置する与瀬宿と対応して片継ぎの宿場となっており、江戸・小仏方面から来た人や荷物は当宿から与瀬宿を通り越して2つ先の吉野宿へと継ぎ立てるが、信州・甲府方面から来た人や荷物は与瀬宿から当宿を通り越して小仏宿へと継ぎ立てられた。つまり江戸方面から甲府方面に向かう場合のみこの宿場を利用できる。
 旅籠は7軒あり、一般の旅人だけではなく身延山や富士山への参拝客も泊まっていたという。


(14:39)「日本橋より63㎞」ポスト。

 (14:41)その先、右手に豪壮な建物。「小原本陣」です。
    
                          「甲州街道小原宿本陣」。

建物の概要
・建物構造 4層のカブト造りの入母屋風の建物
・建築年代 19世紀初期(江戸時代後期)
・規模 間口13間、奥行7間、91坪
・部屋数 15畳が2間、12.5畳が1間、8畳が3間、6畳が3間、4畳が3間、2畳が1間

「小原本陣パンフレット」より
 与瀬村に属していた小原宿は、江戸より16里、14番目の(布田5宿を1宿とすると9番目)の宿場として設置されました。宿場には本陣と脇本陣、7軒の旅籠と宿内29軒が軒を並べていました。 
 宿東端に御高札所があった小原宿は、西方与瀬宿を通り越し小仏宿へ継ぐ宿場で、小原宿、与瀬宿ともに片継宿場でした。家並みは街道の両側にあり、用水は大久保沢川の樋谷路沢より240間の樋を懸けて渓水を引き宿中を流しました。飲料水は水道のように各戸に導水し管理していたことは、他の宿場にはみられない事でした。中野、底沢は枝郷であり、千木良村、寸沢嵐村、若柳村は助郷村で、他に13村が加助郷村として伝馬人足を供給しました。往時の甲州道中の人馬継ぎ立は、25疋25人でした。ちなみに東海道は100疋100人でした。
 現在の本陣は、往時と変わりなく4層のカブト造りの入母屋風の建物で、定紋のついた敷居の高い玄関がある間口13間、奥行7間91坪の純日本風の豪華な建物です。小原本陣は、神奈川県下26軒あった本陣で現存する唯一の建物です。平成8年2月13日、神奈川県教育委員会より神奈川県重要文化財に指定されました。
 現在の建物の建造年代は定かではないが、およそ200年経過しているものと思われます。大名止宿の本陣らしい特色として、お座敷風の厠(便所)、湯殿(風呂)、大名が使用した「上段の間」には欅の1枚板が使われていた床の間があり、縁の下からはずせる忍の止宿の動静を探る仕組みになっていました。上段の間に続く部屋が、側近や家老などの「控えの間」です。さらに、畳が敷かれた15畳が1間、8畳が3間、6畳が3間、4畳が3間、2畳が1間と15畳ほどの板敷きには、かつては馬を繋いだといわれる広い土間があり、勝手には古色蒼然とした自在鍵のさがる囲炉裏があります。
 上段の前庭には松の木、泰山木、木蓮などの老樹、檜、かや、ドウダンツツジの巨木が由緒ある本陣の生証人のごとく見守っています。

補足1:この本陣を利用したのは信州諏訪藩、高遠藩、飯田藩の大名と甲府勤番の役人で、本陣に泊まりきれない家来などは脇本陣や別の旅籠などに泊まった。
補足2:甲州街道で現存する本陣は、「日野本陣」「花咲本陣」とここの3つ。

    

小原本陣(旧清水家住宅)
 この小原本陣は、江戸時代に信州の高島・高遠・飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、江戸との往復の時宿泊するために利用したという古い歴史をもった建物です。
 この建物の当主清水家の先祖は、後北条の家臣清水隼人介で、後に甲州街道小原宿が設けられてからは、代々問屋と庄屋を兼ねていました。
 この建物の年代に関する資料は不明ですが、「甲州道中宿村大概帳」(天保14年・1843年)によると、「本陣凡そ建坪八十四坪門構二而玄関之無宿人口壱軒」とあり、現在の建物の建築様式から推測しても、江戸時代後期の18世紀末期から19世紀初期の頃の建築と思われます。
 規模は、間口12間、奥行き7間で土間妻側の裾を兜とした入母屋造りです。東側居住部分は天井が低く中二階があり、二階三階共に養蚕室として使われました。
 西側奥座敷は、三部屋に区切られその外側を入側縁で囲み、築山のある庭に面しています。奥座敷の北側の部屋が「上段の間」で大名が止まった部屋です。
 このように、旧清水家住宅は、本陣特有の座敷構えを示すと共に、津久井郡の典型的な大型養蚕農家の構造をしており、県下に26軒あった本陣の中で、唯一現存する貴重な建物です。

                                 平成8年2月13日指定  相模原市教育委員会

正面玄関。

駕籠。

    

本陣の前には高札場が復元されています。

「小原宿」の街並み。

                             旅籠風の建物がチラホラ。
    

左手、広場に向かう道に「与瀬宿」への道標があり、それに随って広場を横切り、右に進むと、国道に復帰します。
             

その先、すぐに国道を渡り、旅館「ひらの」がある坂道を上がって行くのが旧道ですが、見逃してそのまま国道を歩いてしまいました(次回はここからに)。

相模湖のダムサイト。

中央道方向。

 左手の奥の山上に、かつて何回か来たことがある旧「さがみ湖ピクニックランド」の観覧車が見えます。今は名称も変わって「さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト」というそうです。いろんなアトラクション、遊具、キャンプなどもできるそうです。

「与瀬」。

(15:11)ここで「旧道」が合流します。

(15:13)「相模湖駅前」交差点。右折すれば駅に。

 次回は、「鳥沢」駅までではけっこうあるので、「上野原」駅までにします。それほど時間もかからないようなので、少しゆっくりと出かけしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その6。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-26 20:22:19 | 甲州街道
 (13:35)しばらく下ると、高圧電線の鉄塔のところに出てきます。


 脇をすり抜けるようにして、斜面をジグザグに下っていきます。健脚ならトントン飛ぶように下りていけますが、けっこう膝にきました。それでも足下は枯れ草があって少しは、楽。
 そのまま下って行くと、舗装道路に出ます。
    

  (13:55)指導標と案内板。←小仏峠1.8㎞
    

「底沢」とありますが、バス停はもっと下の方に。

案内板の通り、広い車道を下って行きます。周囲が開けてきます。


(14:05)頭上には中央道。左下にはJR線。
    

 (14:11)分岐点。右は「美女谷温泉」への道。「小原宿」へは左に下りて行きます。
    

照手姫ものがたり
 浄瑠璃や歌舞伎で知られている「小栗判官と照手姫」の物語。
 照手姫は、小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来になったとも言われています。
 北面の武士だったという父とやさしい母から生まれた照手姫は美しい娘に成長し、美女谷川上流の七ツ淵で豊かな黒髪を梳くその姿は、まばゆいばかりの美しさを放ち、里の若者を魅了したと言います。
 しかし不幸にも両親が相次いでこの世を去り、いつしか照手姫の姿は美女谷から消えてしまいました。
 その後、数奇な運命をたどった照手姫は相州藤沢宿で小栗判官満重と劇的な出会いをしますが、満重は毒殺されてしまいます。姫の必死の思いが通じたのか、満重は遊行上人という瞑想のお陰で蘇生し、常陸国の小栗城に帰り、照手姫を迎え、末永く幸せに暮らしたといいます。
    

 このお話にはいろいろなバリエーションがあるようです。以下「Wikipedia」より。

 小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し、一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり、浄瑠璃や歌舞伎などになった。
 常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子・小栗助重がモデルとされる。
 「小栗の判官」「おぐり判官」「をくりの判官」「をくり」「おくり」などの名でも伝えられる。伝承は多く残っており、後に創作されたものもあり、それぞれにかなりの相違が見られる。説経節や浄瑠璃、歌舞伎など多くに脚色されている。また縁のある土地にもそれぞれの伝承が残っており、小栗の通った熊野街道は小栗街道とも呼ばれる。
 人物としての小栗判官は、藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ、83歳で死んだとされるが、15、16世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされる。

①長生院(藤沢市)に残る小栗判官・照手姫の伝説
 応永22年(1415年)、上杉禅秀が関東において乱を起こした際、満重(他の資料では小栗判官(小栗助重)の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す)は鎌倉公方足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。その途上、相模の国に10人の家来とともに潜伏中に、相模横山家(横山大膳・横浜市戸塚区俣野に伝説が残る)の娘・照手姫を見初め、結婚の約束を交わす。横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。照手姫は本来上皇や法皇の御所をまもる武士である北面武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、理由あって横山大膳に仕えていた。
 小栗の行為に怒った横山庄司親子は、小栗を人食い馬と言われる荒馬「鬼鹿毛(おにかげ)」に乗せ噛み殺さようと企てるなど、さまざまな計略を練るものの失敗。しかしついには権現堂にて酒に毒を盛り、家来もろとも殺してしまう。横山は小栗の財宝を奪い、手下に命じて小栗と家来11人の屍を上野原に捨てさせる。この事実を知った照手姫は密かに横山の屋敷を抜け出すが、不義の罪により相模川に沈められかける。危ういところを金沢六浦の漁師によって助けられるも、漁師の女房に美しさを妬まれてさまざまな虐待を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。姫は売られては移り、移っては売られて各地を転々とするが、最後まで小栗への貞節を守り通す。
 一方、小栗は地獄に堕ち、閻魔大王の前に引きずり出されるが、裁定により地上界に戻されることができた。しかし異形の餓鬼阿弥の姿で、癩病にかかっており、歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺(清浄光寺)の大空上人の助けを蒙り、地車に乗せられて東海道を西進する。小栗が殺された夜、遊行寺では大空上人の夢枕に閻魔大王が立ち、「上野原に11人の屍が捨てられており、小栗のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの体に戻すために力を貸せ」と告げていた。上人はそのお告げに従って上野原に行き、死んだ家来達を葬るとともにまだ息のあった小栗を寺に連れ帰ったのであった。
 小栗を乗せた車は大垣青墓の宿で偶然照手姫に行き会うが、2人はお互いの素性に気づかない。小栗は照手姫の手によって大津まで引かれて行く。病はさらに重くなるが、遊行上人の導きと照手姫や多くの善意の人々の情を受けて熊野に詣で、熊野詣の湯垢離場である湯の峰温泉の「つぼ湯」の薬効によりついに全快する。
 小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に帰った小栗は兵をひきいて横山大膳を討ち、家来の菩提を弔う。さらに小栗は美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出す。こうして2人はようやく夫婦になることができた。小栗の亡くなった後、弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に小栗と家来の墓を建てた。照手姫は仏門にはいり、永享元年(1429年)に遊行寺内に草庵を結んだという。

②説経節にみる小栗判官伝説]
 正本として、延宝3年(1675年)「おぐり判官」(作者未詳)、年未詳「をくりの判官」(佐渡七太夫豊孝)その他がある。
 鞍馬の毘沙門天の申し子として生を受けた二条大納言兼家の嫡子小栗判官が、ある日鞍馬から家に戻る帰路、菩薩池の美女に化けた大蛇の美しさに抗し切れず交わり、妻としてしまう。大蛇は懐妊するが、子の生まれることを恐れて隠れようとした神泉苑に棲む龍女と格闘になる。このために7日間も暴風雨が続き、小栗は罪を着せられ常陸の国に流された。この場所にて小栗は武蔵・相模の郡代横山のもとにいる美貌の娘である照手姫のことを行商人から聞かされ、彼に頼んで照手に文を渡す。照手姫から返事を受け取るや、小栗は10人の家来とともに、照手姫のもとに強引に婿入りする。これに怒った横山によって、小栗と家来達は毒殺され、小栗は上野原で土葬に、家来は火葬にされる。照手姫は相模川に流され、村君太夫に救われるが、姥の虐待を受け、千手観音の加護により難を逃れたものの人買いに売り飛ばされ、もらわれた美濃国青墓宿の万屋でこき使われる。
 一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。餓鬼阿弥が小栗の墓から現われたのを見た上人は手紙を読み、餓鬼阿弥と化した小栗を車に乗せると胸の木札に「この車を引くものは供養になるべし」と書きしたためた。多くの人に引かれた車は美濃の青墓に到着する。常陸小萩の名で働いていた照手姫は餓鬼阿弥が小栗であると知らずに5日間に渡って大津まで車を引き、ついに熊野に到着する。熊野・湯の峰温泉の薬効にて49日の湯治の末、小栗の業病は完治し元の体に戻ることができる。その後、小栗は京に戻り天皇により死からの帰還は珍事であると称えられ、常陸・駿河・美濃の国を賜ることになる。また、車を引いてくれた小萩を訪ね彼女が照手姫であることを知り、姫とともに都に上った。やがて小栗は横山を滅ぼし、死後は一度死んで蘇生する英雄として美濃墨俣の正八幡(八幡神社)に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた。

 どちらも「熊野信仰」との関わりが濃厚のような気がしますが・・・。この地の「照手姫」伝説は、「美女谷」という地名伝承にかこつけたもののようです。

家並みも見え始めます。

中央道の高架橋をくぐった右手に道標と「馬頭観音」。「板橋」とあります。
    

 小仏峠からのジグザグ道を下って、車道に出た後の旧道は消滅しているようです。↓の鉄塔からここまで下ってきました(14:18)。


JR線路に沿って進みます。旧道ではなさそうです。

(14:24)ガードをくぐります。

「甲州道中 長久保」。

先ほどの分岐点にあったものと同じ案内板。

ようやく「底沢」バス停に着きます。「底沢橋」。

 (14:34)「国道20号線」と合流です。「20号線(甲州街道)」は西浅川からけっこう曲りくねりながら「大垂水峠」を越えてここまで来ます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その5。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-24 18:54:21 | 甲州街道
 まだしばらくは舗装道路が続きます。 左手に「寶珠寺」。門前に「カゴノキ」の碑があります。どれが「カゴノキ」なのか?


道標。

 (12:06)曲がりくねった車道を進みながら、次第に高度を上げていきます。峠付近はまだしも、これが江戸時代の旧道だとは思えませんが。
   

 まもなく駐車場。そこで、昼食・小休止。しばらく林道を歩き、その先は、本格的な山道になります。
    

(12:27)林道の途中にある水場。

  
           「浅川」の源流付近。石ころだらけの道でけっこう歩きにくい。

(12:49)道がゆるやかになると、「小仏峠」。

狸の置物。標高548㍍。

峠の地蔵、庚申塔など。

案内図。  

来た方向を振り返って望む。 

小仏峠
 武蔵の国と甲斐の国を結ぶ路は、その境界線上の峠を介して幾つかあり、時代によって様々に変化したようです。
北から、雁坂峠、柳沢峠、大菩薩峠、松姫峠、そして笹尾根の幾つかの峠や、相模の国を経て和田峠、そしてこの小仏峠と続き、現在一般道では最も交通量の多い大垂水峠となります。
 標高548メートル。
 北の景信山と南の高尾山からの尾根と鞍部で、戦国時代の武田信玄の家臣、大月岩殿城主、小山田信茂が、武州滝山城を攻めた時に、この山路を越えて廿里の砦を急襲した頃から峠路として利用するようになったようです。
 室町時代末期に、北条氏照の八王子城の前進防衛基地として小仏峠の頂上に砦を設けて富士関役所と称していました。
 その後北条が破れ、関東を秀吉の命により家康が治めるようになって、小仏峠には家康の命で関所が設けられたのです。家康は、広い関東の西の端を治めるのに、当時武田や北条の残党を雇い入れて、屯田兵のように半農の千人同心を組織し、八王子に住まわせた千人同心にこの関所を守らせます。
 その後、関所は、山麓に移されてしまいました。

 小仏峠は、1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたのが峠の命名の由来となっています。

 以前は、この小仏峠にはきのこや山菜、野草の店があり、飲み物が売っていたのだが、残念ながら廃業されてしまったよう。とりあえず、今はベンチやテーブルはあるので休むには便利だ。

 さて、この小仏峠には、明治天皇や太政大臣・三条実美の歌碑が建っている。
これらは、明治13年(1880)に山梨巡行の際に、明治天皇の通行を記念して建てられたものだ。歌碑に刻まれている和歌は、三条実美が、命を受けて高尾山薬王院で詠んだものといわれている。

来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ

こかひはた織とは、蚕飼ひ機織り のことで、当時の多摩や甲州が養蚕や製糸、機織業でにぎわっている様子がわかる。

                                           (以上、HPより)

「明治天皇小佛峠御小休止址及野立所」碑。 

「三条実美歌碑」。

新聞記事と傍らに地蔵。

「甲州道中歴史案内図」。

 (13:02)「高尾山」や「景信山」に向かうハイカーを尻目に、道標・案内板に随って西へ下りて行きます。ほとんど行く人はいません。
    

 下りになって膝に痛みが。道は上りより歩きやすいのですが。かなりのペースダウン。
    

 (13:34)道標が随所に立っているので、安心です。
    
                             ←底沢バス停2.3㎞  小仏峠1.2㎞→

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その4。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-21 21:17:51 | 甲州街道

 

 頭上高くには「圏央道」、「中央道」の橋脚。
    

左手には「エス・オー・エスこどもの村」。

未来をつくるこどもたちのために
 児童福祉法第1条は「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ且つ、育成されるように努め、すべての児童はひとしくその生活を保障され愛護されなければならない」、第41条は「養護施設は、乳児を除いて保護者のない児童、虐待されている児童、その他環境上養護を要する児童を入所させて、これを保護しあわせてその自立を支援することを目的とする施設とする」と規定しています。
 私達は父と母の愛情のもとに育まれ成長しました。しかし世の中には、この児童福祉法第1条に定めるような環境にない保護する人を無くした要養護児童がいつもたくさん発生します。
 「エス・オー・エスこどもの村」ではこのようなこども達を預かり、未来を作るこども達として健やかに、逞しく育つように養育、自立支援、家庭支援活動をしている施設です。

 ・・・エス・オー・エスこどもの村のSOSは Save Our Souls の頭文字からなり、「魂を救う」という意味合いが込められています。
HPより)

 春らしい穏やかな風景が広がります。
    

(11:18)するさしの豆腐を製造販売する「峰尾豆腐店」。

 「するさし」を漢字で書くと「摺差」。「寄せ豆腐」とか「おからドーナツ」が人気で、その「おからドーナツ」を買いました(5ヶ入りで350円)。

???

すてきなお庭。

                  木々の向こうには中央道の橋脚。

 (11:27)左手に大きな池。「浅川国際マス釣場」。
    

道標「右 小仏峠 景信山」。

 JR中央線のガードをくぐると、「小仏宿」。
    

小仏宿
 日本橋から12番目の宿場。本陣と脇本陣がなく、旅籠が何軒かありました。この先は難所の一つ、小仏峠へと続き、峠の向こうにある「小原宿」となります。

 注:甲州街道の宿場町は小さくて合宿が多いため、44宿とも45宿とも数えられています。「小仏宿」は、日本橋から13番目という説もあります。また、「上下高井戸」「布田5宿」などを一つと数えて、37宿という数え方もあります。それだと「小仏宿」は8番目となります。8番目ですと、「東海道」では「大磯」、「中山道」では「熊谷」。それらと比べてみて、「小仏宿」は、日本橋からは比較的短い距離で、宿間が短いことが分ります。「甲州街道」には、山道が多いことや沿道には寒村が多かったことがいえます。

 現在の「小仏宿」は特に当時の史跡も見当たらず、ゆっくりと「小仏峠」目指して上って行きます。左はJR線路。


振り返って望む。

 「JR小仏トンネル」口付近にコンクリー製の工作物。はたして?
    

 (11:48)高尾駅からの京王バスの終点・小仏バス停にようやく着きます。
    

案内図。←が「小仏峠」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その3。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-20 21:27:06 | 甲州街道

(10:43)「小仏関所」跡。
国指定史跡 小仏関跡
 小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州街道の重要な関所として現在地に移されると共に整備された。
 この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。
 関所の通過は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番所の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
 特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の積みが課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって自由な面もあったらしい。明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取り壊された。

          平成10年7月1日 八王子市教育委員会


 これで、「五街道」のそれぞれの「関所」をクリアしたわけです。
・東海道にある関所:箱根関、新居関。
・中山道にある関所:碓井関。
・日光・奥州道中にある関所:栗橋関。
そして、・甲州道中にある関所:小仏関。という具合。
 江戸の周囲を固めているのが、以上の関所。特に、上にもある「入鉄砲に出女」といわれるように、江戸へ入る鉄砲と江戸から出る人質の大名の奥方を警戒しました。

手形石と手付石。

当時の位置関係と解説文。
    

左の絵図:小仏関所絵図
 関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたものです。残念ながら戦災により焼失し、現存していません。
 小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていました。北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人々を厳重にチェックしていたようです。
右の絵図:駒關要樞
 千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のものです。
もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏関と呼ばれるようになり、関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていたようです。

跡地は広場になっています。

そこには「駒木野宿」の碑があります。

「川村」姓のおうち。

 「駒木野宿」は、「小仏関」に付随した宿場で、特に遺構はなさそうです。街並み。
    

 この先辺りから道は下り坂になります。
    

 (10:48)坂の左手に石仏群と「「念珠坂」碑。
    

「思源庵」。

「浅川」の流れ。サクラが満開。

廃校になった浅川小学校・分校跡。現在は保育園。

次第に渓谷風になった「浅川」。

 バス停「蛇滝」付近にある旧旅籠。軒下には蛇滝で水行を行う人達の家紋や氏名などが記された札が並んでいます。その隣には「上行講」と彫った道標。
    

右手の足下に「湯の花(いのはな)慰霊碑」への案内板。

 (11:00)線路の方に上がっていくと、線路際に地元の有志が建てた「慰霊碑」があります。
    

慰霊の碑
 終戦間近の昭和20年(1945)8月5日 真夏の太陽が照りつける午後12時20分頃、満員の新宿発長野行419列車が いのはなトンネル東側入口に差しかかった時、米軍戦闘機P511機または3機の銃撃を受け、52名以上の方々が死没し 133名の方々が重軽傷を負いました。この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。 私どもはこの戦争の惨禍を決して忘れることができません。ここに確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。

     平成4年8月5日         いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

 注:手前の慰霊碑は、昭和25年に地元の青年団が建てたもの。左側には犠牲になった氏名が刻まれている。

湯の花(いのはな)トンネル列車銃撃事件
 第2次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現、八王子市裏高尾町)内の国鉄中央本線、湯の花トンネルでアメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。
 東京周辺には帝都防空用として、陸海軍ともに比較的まとまった数の航空機が配備されていたが、この時期にはすでに弾薬や燃料が底をつき、また、操縦士も極端に不足していたため、予想された本土決戦に備え飛行可能な機体を地下壕や掩体壕に温存する措置が取られるなどの惨状であった。一方、日本軍の迎撃のない中イギリス軍やアメリカ軍機は、やすやすと本土進入を果たし、鉄道施設及び列車に対しても攻撃が行われるようになっていた。そうした列車攻撃の中でも最悪の人的被害を出したのが、中央本線湯の花トンネルにおける機銃掃射事件である。
 新宿発長野行きの下り419列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。この列車には軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されていたが、富士演習場に向かう19名だけで、殆どが非戦闘員の一般乗客であった。
 8月5日に全面開通したこの日2本目の列車であり、また八王子駅で419列車が出発する前の列車が発車しなかったため大変な混雑だったとされていた。
 419列車は八王子駅が八王子空襲により焼失していたこと、単線区間での列車交換に手間取ったことなどの事情があり、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れの午後0時15分に出発した。この時点ではすでに空襲警報が発令中であったが、停車中に乗客から「早く出せ」と怒声が飛んでいたこと、更なる遅延を回避するためや、湯の花トンネル、小仏トンネルに入った方が安全と考えたため、駅員や乗務員は発車させたものと見られている。
 その後、419列車は第一浅川橋梁を通過した後、湯の花トンネルの手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機のいずれかだったと言われている)に捕捉され、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した。この措置はトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒される結果となったため、犠牲者を増加させることとなった。
 犠牲者の数については、国鉄の資料によると49名となっているが、慰霊碑では52名以上(氏名判明のみ)としている。また、事件の慰霊会は65名以上が犠牲になったとしている。負傷者は130名以上であったと言われているが、戦時体制下のため、当時の正確な記録が残されていないという。
 この列車には筑摩書房創業者の古田晁が乗っており、古田が車内で目を通していた原稿用紙に、近くにいた人物から吹き出した血が付着した。この「血染めの原稿用紙」は現在、塩尻市にある市立古田晁記念館に展示されている。
 なお、419列車は送電線が機銃掃射で切断されたため、蒸気機関車に牽引されて浅川駅へ回送され、この事件によって不通となった中央本線は当日夕方までに送電線の再接続を完了し、全面復旧した。
 戦後、この事件に係る慰霊碑が建立され、毎年8月5日には現在でも地元の住民が主体となって慰霊祭が行われている。

「湯の花トンネル」。

                                          (以上、写真を含め、「Wikipedia」による)

トンネル方向。頭上は、「中央道」と「圏央道」とのジャンクション。

「甲州街道」方向を見下ろす。

 終戦末期(あと10日で終戦)に米軍機による列車銃撃事件。春爛漫の、のどやかな雰囲気の村里にそんな悲劇があったとは知りませんでした。
 前回、八王子宿に入る手前の「大和田橋」歩道上に残された投下された、たくさんの焼夷弾の跡も強く印象に残りました。
 太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その2。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-19 19:07:06 | 甲州街道

まずは高尾駅前まで向かいます。イチョウ並木が続きます。

 (9:32)「長房団地入口」交差点を右折し、すぐ左折します。その角には大きな道標。
    
 左側は道標で右高尾山、左真覚寺とあります。右側の石碑はイラストが描いてあり、昭和2年(1927年)に新道(「国道20号」)が出来て路が真っ直ぐになったときの様子が描かれています。
 また、ここは「散田一里塚」跡でもあり、日本橋より13番目の一里塚があったといわれています。

この通りが旧道です。

立派なお屋敷。

しばらくして国道に復帰します。「日本橋から49㎞」ポスト(9:48)。

「多摩御陵」入口。ケヤキ並木が続きます。

 この先には、大正天皇陵(多摩陵たまのみささぎ)、貞明皇后陵(多摩東陵)、昭和天皇陵(武蔵野陵)、香淳皇后陵(武蔵野東陵)の四つの陵墓があります。

(9:56)その少し先を右手に入ります。

 案内板が立っています。                     車の喧噪から離れた静かな旧道。
    

サクラも見頃。

手入れの行き届いた庭。

 長い板塀などに囲まれた大きなお屋敷がチラホラ。通り沿いには勢いよく流れる用水も。
        

    

振り返って望む。

「国道20号線」に合流する手前にほんの少し旧道が残っています。

 (10:14)しばらく国道を進むと、左手に「高尾」駅。駅前には大勢のハイカーが。バスを待つ人、待ち合わせをしている人。トイレ休憩して、駅前のベンチで小休止。


 さていよいよ「小仏峠」めざして出発。国道をしばらく進み、「西浅川」の交差点で国道から右折して向かいます。角に目印となっていた「ポプラ・コンビニ」は改装中? ここでおにぎりなどを買うつもりだった人は、また駅前に戻るしかありません(10:34)。
    

 なお、現在の「国道20号線・現甲州街道」の原型である「旧国道・甲州街道」は、明治後期より「高尾」付近から「大月」付近までほぼ相模川・桂川沿いに進むことになり、上野原宿、鳥沢宿、猿橋宿など一部を除き、江戸時代の甲州街道・旧道と宿場は急速に廃れてしまいました。また、その国道も相模川をせき止めてできた「相模湖」によって一部は水没しています。
 地元の案内では江戸時代の甲州街道を「甲州古道」と表示していますが、その「古道」も「中央道」建設、土地開発などによってほとんど寸断されています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その1。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-18 20:29:45 | 甲州街道
 4月15日(土)晴れ。一時にわか雨。

 久々の甲州街道歩き。今回は、街道歩き最初の難関「小仏峠」越え。ハイカーが行き違う中での街道歩きです。じじばばと山ガールがけっこう目につきます。途中であった80歳代の老夫婦。爺さんはさっさと歩き、後からお婆さんが。
 その小仏峠。登りは歩けたが、下山は膝に負担が。けっこう時間がかかる始末。途中で雨も降り出して、カサを出したり、たたんだり。で、何とかJR「相模湖駅」まで。「八王子駅」から「相模湖駅」まで、約30,000歩(18㎞)。

八王子宿
 甲州街道の宿場であり、八王子十五宿、八王子横山十五宿とも呼ばれる。現在の東京都八王子市の市街地の元となった。飯盛旅籠が置かれ、戦後まで続いた。
 1590年、後北条氏が豊臣秀吉と敵対し、八王子城は上杉景勝・前田利家らの北陸勢の猛攻を受けて落城した。その後小田原城が降伏し、北条氏照が兄の北条氏政とともに敗戦の責任をとって切腹すると、没収されたこの地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられた。家康もまた後北条氏と同じく、家康の居城が置かれる江戸を甲州口から守るための軍事拠点として八王子を位置付けた。
 しかし徳川氏は後北条氏のように八王子に支城を置かず、八王子城を廃城とした上で八王子を直轄領とした。八王子には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発を担当した。長安は甲州街道を整備し、八王子城下より東の浅川南岸の街道沿いに新たに八王子町を設けて旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させた。
 徳川氏による八王子の開発の結果、1650年代までに現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し、「八王子十五宿(八王子横山十五宿)」とよばれるようになる。八日市・横山・八幡などの地名は滝山城の城下町から八王子城の城下町へ、そして八王子町へと受け継がれたものである。また徳川氏は武田氏や後北条氏の遺臣で軽輩の者を取り立てて八王子宿周辺の農村に住まわせ、普段は百姓として田畑を耕し、日光警護など特別な軍事目的の場合には下級の武士として軍役を課す八王子千人同心とした。
 八王子宿への代官の駐在は1704年に廃され、関東御料の代官は江戸に移住する。なお、八王子宿は幕府直轄の天領であったが、江戸近郊の常として周辺の村には旗本や小大名の相給地も多く、一元的領域支配は行われていない。
                                                          (以上「Wikipedia」参照)

(8:41)宿場の中心地であった「横山」町。

郵便局の角には「野猿街道」起点の標識。

野猿街道
起点:東京都八王子市横山町 横山町郵便局前(国道20号〔甲州街道〕交点)
終点:東京都国立市谷保 青果市場東交差点(国道20号〔日野バイパス〕交点)

 起点となる甲州街道直前は南向き一方通行の1車線の道路ですが、八王子市の打越交差点(国道16号交点)から国立市の青果市場東交差点までは4車線(片側2車線)という広い道路として整備されています。八王子市子安町五差路交差点から同市北野町南交差点(国道16号交点)からまでは2車線(片側1車線)。
 「野猿街道」の名前は、同街道上にある八王子市の野猿峠(標高160m)に由来します。野猿峠は古くは猿丸峠や猿山通りと言い、旧由木村と八王子の中心部を結ぶ峠道。峠で休憩するために馬や牛に水を飲ませる水飲み場がありました。
                                                 (以上、「Wikipedia」参照)

 旧道沿いらしい建物はほとんどありません。
    

 (8:51)通りの右手、「夢美術館」前に「八日市宿跡」碑。
    

八日市宿跡について
 戦国時代の終わりごろ、それまで関東を治めていた後北条氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の命を受け、徳川家康が新たな領主となりました。
 家康の統治下となった八王子では、それまでの八王子城下(現在の元八王子)から現在の市街地へ街が移転され、新しい街づくりが始められました。まず東西の道(甲州道中)が整備され、東から横山・八日市・八幡の三宿が開かれました。
 江戸時代に入ると、八王子は甲州道中の宿場町として、また地域経済の中心都市として発展しました。なかでも八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣がおかれ、山上家や新野家が本陣役を務めるなど、八王子の中心的な役割を担っていました。
 四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で六斎市が立ち多くの人々で賑わいました。 

振り返って望む。

 通り沿いには現代風なつくりにかつての意匠を取り入れた建物。
    

 また、どっしりとした蔵造りの建物も見受けられます。
    

「長安祭」ポスター。

 ここで大久保長安について

・武田信玄・徳川家康の家臣として
 天文14年(1545)、猿楽師の次男として生まれた長安は、甲斐国にて武田信玄に見出され、士分として武田家に仕え、民政や農政に従事しました。武田家滅亡後は、徳川家康に仕えますが、家康の重臣である大久保忠隣に庇護を受け、信任を得て、姓が「大久保」となります。家康支配下の甲斐国にて、民政のみならず幅広い分野で成果を挙げ、家康から高い評価を受けていました。

・大久保 長安の経緯
1545 天文14年 猿楽衆大蔵太夫の次男として生まれる
1573 元亀4年 このころ信玄の家臣となる
1582 天正10年 甲斐武田氏が滅亡
1590 天正18年 八王子城落城、徳川家康江戸入城、長安も家康に従う
1591 天正19年 多摩をはじめ周辺地域の検地を行う、髙尾山薬王院に禁制を出す
1592 文禄元年 八王子小門陣屋竣工、八王子のまちが元八王子から現在の場所に移る
1600 慶長5年 同心衆を千人とする(八王子千人同心のはじまり)関ヶ原の合戦で徳川秀忠に従い出陣、大和国の総代官に任ぜられる
1601 慶長6年 伊奈忠次らと東海道の整備を行い宿場を整える、石見銀山の奉行 となる、岐阜の総代官にも任命される
1603 慶長8年 家康が征夷大将軍に。佐渡一国を支配する、信濃の川中島藩の付家老を兼任、 官途名を「石見守」とする、東海道などに一里塚をつくる
1605 慶長10年 このころから家康の年寄衆として全国支配の基盤固めの諸政策を 行っている
1607 慶長12年 角倉了以を京から招聘して富士川の開発を行う
1610 慶長15年 福島藩(のちの高田藩)の付家老に就任
1613 慶長18年 駿府の地で中風により死去(69歳)

・長安が行った八王子の町づくり
 天正18年(1590)、秀吉の命により関東に国替えになった家康に付き従い、武蔵横山領(八王子市)を中心とした幕府直轄地を統治しました。宿場の造成により、町を急速に発展させ、また、町の治安維持のために千人同心を組織しました。江戸を守る西の拠点として、八王子の新たな町づくりを行ったとされています。また、代官頭として関東一帯の統治も行い、検地や新田開発、寺社支配等、長安の活躍は多岐に渡ったと言われています。

・各地での長安の活躍

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に従軍、食糧・武器・弾薬輸送などの後方支援や戦後処理に活躍しました。家康の天下統一後も全国をまたにかけて手腕を振るいますが、中でも石見・佐渡・伊豆の鉱山奉行としての活躍は目覚ましく、これにより幕府の財政基盤は整えられました。さらに山林の管理による町づくりの基礎となる大量の木材の供出など、徳川幕府の礎となる働きをしました。

                                                 参考文献:はちとぴNO.21
                         (以上、HPより)

(9:01)「日本橋から46㎞」ポスト。


  「こんにゃく屋」さん。

 (9:08)その先が「追分」となります。
    
                                     歩道橋の上から。左の道が「甲州街道」。
「甲州街道」。

 道標。
    

追分の道標について
 この道標は文化8年(1811)、江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。
 その後、昭和20年(1945)8月2日の八王子空襲によって4つに折れ、一部は行方不明となってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館に展示されていました。
 このたび、地元の要望を受け、この道標が復元され、当地に建立されました。2段目と4段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。

      八王子市教育委員会 平成15年5月
        
左 甲州道中 高尾山口  右 あんげ道(注:案下道・「陣馬街道」のこと)

 「八王子千人同心屋敷跡」碑。
    

八王子千人同心
 江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。
 寛政12年に集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、現在の苫小牧市、白糠郡白糠町の基礎を作った。
・・・千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを輩出した。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、組織内にある程度習うものもいた。
 千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。この事から、千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至った。
・・・千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。
 八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられた。現在の八王子市千人町に、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。
 千人同心が武士身分であったかについては疑問も多い。従来は千人同心だったもの達の主張に従い武士(御家人)だったというのが通説であったが、近年に入り現存する史料などの研究が進むと、武士身分としての実態が伴っていなかったことが判明してきている。
・・・
                                       (以上、「Wikipedia」参照)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中~日野~横山(八王子)。その8。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-30 19:33:14 | 甲州街道


1880年代のようす。



現在のようす。↓が旧道。当時に比べ、道筋は拡幅・整備で少し変化しているようです。

 「大和田橋」のたもとに「大和田橋焼夷弾の跡」碑。
    

焼夷弾・弾痕の保存について
 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
 大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。
 車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。
 建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し、太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。
 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、他15箇所は色タイルでその位置を示してあります。

         平成9年10月     建設省関東地方建設局相武国道工事事務所

透明板で覆われた弾痕。

色タイル。点在しています。

    

 「大和田橋」を渡ると、横山(八王子)宿に入ります。「浅川」の下流を望む。


上流、橋のたもとには結婚式場。

 橋を渡り終えると、すぐ右折します。その先、八王子市立第五中の脇を左折する道が旧道。


 右手の公園に「一里塚跡」碑があります。
    
新町竹の鼻一里塚跡
 一里塚は、慶長9年(1604)に日本橋を起点として1里(約4㎞)ごとに塚を築き、榎を植えた場所です。旅人の距離の目安となったり、木陰が憩いの場になったともいわれています。
 ここ、新町の一里塚は甲州街道中八王子宿の東の入口に位置し、江戸から12里目にあたります。
 明治30年(1867)の八王子大火で焼かれるまでは、大榎が涼しい木陰を作り、往時をしのばせていたようですが、現在は付近で鍵の手で曲がる道筋が、昔の面影をわずかに残しています。

平成21年3月1日    八王子市教育委員会

来た道を振り返って望む。

右手に永福神社。

芭蕉の句碑あり。蝶が飛ぶ ばかり野中の 日かげかな

 この句は、貞亨2年(1685)、芭蕉42歳のときの作句。愛知・鳴海にて。(『野ざらし紀行』)

正面が鍵の手になっていて、左に折れます。

  
  
1880年代のようす。↓が一里塚碑付近            現在のようす。同

 この先、市守神社の前辺りで時間切れ。そのまま「JR八王子駅」に向かい、帰途につきました。次回はここから、小仏峠方向に向かうことになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中~日野~横山(八王子)。その7。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-29 18:54:42 | 甲州街道
 ガードをくぐった後、JR線に沿って左に曲がり、「大坂」という急な坂をたどります。けっこう長く続きます。途中で「中央道」の下を行き、さらに住宅街を進みます。しばらく進むと、「都道256号(甲州街道)」に合流、西へ向かいます。途中、右手には広大な敷地の「日野自動車」の工場があります(12:20)。このかん、ひたすら歩いたため、写真はなし。



 (12:34)しばらく進むと、「コニカミノルタ」の工場。「日野自動車」工場内には「一里塚」と「上人塚」、「コニカミノルタ」には「富士塚」がある、とのことですが、パス。「上人塚」と「一里塚跡」は「日野自動車」側を歩いていれば発見できたようです。
 そこで、HPより写真をお借りしました。

「上人塚」。古墳。

「日野台一里塚跡」。日本橋から10里目。

 なお、「日野自動車」工場には2011年に古河への移転問題が惹起しました。その後の経過はどうなのでしょうか?

日野自が本社工場閉鎖へ 地元に波紋、跡地活用も焦点に(「日本経済新聞」2011/1/21付 より)

 多摩地域の産業界を代表する日野自動車が2020年までに東京都日野市の本社工場を閉鎖することを発表し、波紋が広がっている。同社に部品などを納める中小企業は多く、約2300人の従業員の配置転換などによる商業売り上げの減少など地元経済に影響が出そうだ。約30万平方メートルの工場跡地の活用も今後の焦点となる。
 日野自動車と取引がある多摩地域の中小企業の多くは、同社が茨城県古河市に建設する新工場と部品加工、一部組み立てなどの契約を継続する見通し。ただ輸送コストなどで不利になる面があり、一部企業は古河市周辺に移転するところもでてきそうだ。ある企業は多摩で生産を続ける考えだが、「受発注や仕様変更などの情報入手が遅くなる難点がある」と話す。
 日野自動車は跡地について、街づくりに貢献できる形での活用を検討する方針。日野市では09年に閉鎖したレジャー施設、多摩テックの跡地約20万平方メートルを明治大学が買収する調整が進んでいるものの、10年には東芝が携帯電話端末の開発拠点だった日野工場の閉鎖を決めており、相次ぐ閉鎖でイメージダウンは避けられない。
 馬場弘融・日野市長は20日、「大変ショックであり、身体の一部をもぎとられるような寂しさを感じる。日野という名前を持つ会社の主要工場が日野からなくなる。一つの工場がなくなるということを超えた影響が出てくるのではないか」とコメント。これからの街づくりを根本的に見直す考えを示した。
 日野自動車の本社工場は東芝の府中事業所などと並ぶ多摩地域を代表する大規模事業所。日産自動車が01年に村山工場(武蔵村山市と立川市)での車両生産をやめ、その後完全撤退したあとは多摩地域に生産拠点を持つ自動車産業のシンボル的な存在となっている。


(12:37)八王子市に入ります。

 街道筋らしく大きなおうちが目立ちます。
    

 (12:45)しばらく進むと、「南武線」跨線橋先で分かれた「国道20号線(日野バイパス)」と合流します。


八王子市大和田町。甲府、大月の地名も。

「JR八高線」。

住居表示。

 (12:55)何だかしゃれていて古風な建物のお店。「とうふ」の文字が。
    

ABOUT US とうふ屋うかい 大和田店について

 のれんをくぐればそこは江戸下町の賑わいを感じるお座敷でとうふ料理に舌鼓

 時を超えて現れる、江戸の下町情緒溢れる街並み。
粋と風情が織り成す、非日常の時間。
庭園を流れる水音に耳をそばだて、安らぎの中で食事を楽しむひと時。
穏やかな空間で、大和田の銘水が生んだ珠玉のとうふ料理を、どうぞ。

・・・

 足を踏み入れれば、活気にあふれた江戸・下町の賑わいがお出迎え。
 母屋造りの窓から見える朱塗りの鮮やかな橋、
 清らかな流れの水車や四季の草木が、美しい和の趣をたたえています。
 奥座敷の個室では、喧騒から離れゆったりとしたひと時をお過ごしいただけます。

・・・
 創業より伝わる、うかいの心。
 料理も空間も、人の温もりを感じられる“おもてなし”があってこそ真の価値が生まれるものだと考えております。
 心からの感動の時間を味わっていただくためには、常にお客様と喜びを分かち合えるような料理であり、接客でなければならない……
 それが、うかいの考えるおもてなしの心です。

・・・


「とうふ屋うかい 大和田店―とうふ料理―」
〒192-0045 東京都八王子市大和田町2-18-10 TEL 042-656-1028

つい宣伝をしてしまいました。

東京タワーのそばに「芝店」があるようですが、お値段はけっこう・・・。下町にしては敷居が高そうな・・・。


(12:58)「日本橋から43㎞」ポスト。

 (13:04)「国道16号線」(「大和田4丁目」交差点)のガードをくぐってすぐに左の道に入ります。
    

 旧道らしい道筋。「大和田橋」に向かいます。
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中~日野~横山(八王子)。その6。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-28 19:52:43 | 甲州街道
日野宿
 甲州街道の5番目の宿場町であり、日野市の前身である。
 宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれている。甲州街道は幾度か経路の変遷があるが、1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越え、東京都道149号立川日野線を南下し、新奥多摩街道入口信号で右折して東京都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側の日野不動産裏を左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋だった。
 本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。その前の現在駐車場になっている辺りにあった長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた。この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。この向かいに問屋場と高札場があったが、現在は石碑が建つのみである。
 1889年(明治22年)に町村制が施行された時点では、日野宿という名称のまま神奈川県南多摩郡の自治体となったが、東京府への移管後に日野町へ改称されている。

本陣1、脇本陣1、旅籠20軒。

 (11:12)橋を越えた右手には「市民の森公園」。ここでトイレ休憩。

 (11:26)その先、右手にログハウス調の建物。「クレアホームアンドガーデン」。
    

 この先で、右に曲がります。いよいよ「日野宿」。


 左側に大きな旧家らしい建物が並んでいます。
    

 交差点の左角に「高幡不動」へ向かう「道標」。川崎街道の道筋でもあります。
    
                                写真では右手に行く道。

 (11:32)その先、左手に「日野宿本陣」の看板が見えてきます。
    

解説板。   

日野宿本陣跡
 日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を勤めていた下佐藤家の住宅として建てられた物である。下佐藤家は正保年間(1644~48年)頃に名主に取り立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に名主を勤めてきたといわれる。また正徳6年(1716年)に上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永2年(1849年)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久3年(1863年)4月には上棟し、元治元年(1864年)末に完成したものである。
 日野宿本陣は瓦葺きの建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物の保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に遺る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。

                     日野市教育委員会

日野宿脇本陣跡
 日野宿は、甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には、日野本陣の名主と日野宿問屋役人を兼帯し世襲する、二軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤家」)は本陣を、東側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤家」)は脇本陣を務めました。本陣は、公家・大名・旗本や幕府役人の専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割をもっていました。なお、この脇本陣は19世紀初冬以降、本陣と同様の機能を担っています。
 本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪であったといい、甲州道中で本陣・脇本陣などの二軒共に100坪を越える例は犬目宿(山梨県)と日野宿だけであったとされます。
 嘉永2年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は、元治元年(1864)に完成しました。北西中央に式台玄関を備え、屋根は瓦葺きであり、一般的な名主屋敷と異なり、脇本陣としての格式を備えた建物です。また、本屋敷は新撰組とも深いかかわりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。
 東京都内には、江戸時代に五街道を中心に10余りの宿場が設置されていましたが、敷地外屋敷が現存しているのはこの脇本陣のみです。

                          平成24年3月 建設 東京都教育委員会
    

    

 「日野宿本陣」は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。
 今の建物は嘉永2年(1849)正月18日の大火で焼失してしまった主屋にかわるものとして建設されました。幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として翌元治元年(1864)12月から使用された建物です。
 大火をきっかけに自衛の必要を痛感した佐藤彦五郎は八王子千人同心の井上松五郎から天然理心流を紹介され、近藤周助に入門し、自宅に道場も開きました。佐藤彦五郎は卓越した技量からか4年後には免許皆伝をとっています。
 この道場には、やがて近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになり、日野出身の土方歳三・井上源三郎らを交えた新選組と日野の人々との物語の幕が開けられたのです。まだ、この建物が完成する前のことです。
 建物は文久3年(1863)4月に上棟され、翌年完成しています。上棟の少し前、同じ文久3年2月には徳川14代将軍家茂が上洛。その警護のために新選組の前身となる浪士組が京都へ向っています。この浪士組に近藤勇や土方歳三、井上源三郎、沖田総司らが参加しています。本陣の建物の準備には10年に及ぶ歳月を費やしたと言いますから本陣建設の槌音を聞きながら、同じ敷地内にあった道場ではのちに新選組になる面々が木剣の音を鳴り響かせていたことになります。
HPより)

 ところで、いったいこの建物は「本陣」なのか「脇本陣」なのか? 「脇本陣」の方は「・・・跡」という解説になっていますし、建物は、ここ一つしかないようですし、・・・。
 解説板も日野市と東京都で別々に建っています。結局推するに、「脇本陣」だったものが「本陣」格になった建物ということなのでしょう。「脇本陣」よりか「本陣」の方が格式は高いし、観光的価値も高いのでしょう。
 上・下両佐藤家(どちらも「佐藤」姓?)の由緒争いもあるのでしょうか?
 こっちの方がよほど興味深いですね。



道路を挟んだ右側に日野市図書館の古風な雰囲気のある建物。

その前に「日野宿問屋場・高札場跡」碑。

図書館脇も整然と落ち着いた雰囲気の道。

本陣以外には宿場町当時を偲ばせる建物はなさそうです。古い商家。

(11:57)「天然理心流奉納額」。
 安政5年(1858)天然理心流近藤周助の門人であり、佐藤道場で稽古に励んでいた25名によって八坂神社(牛頭天王社)に奉納。欅板に大小2本の木刀が架けられていある。
 最後に嶋崎勇とあるが、後の近藤勇のことである。最後から2番目に名がある沖田惣次郎は後に総司と改めている。正式入門が安政6年の土方歳三の名前はない。
 八王子の千人同心、井上松五郎と弟の 井上源三郎の子孫は今でも日の出近藤勇の子孫と共に「天然理心流勇武館」を組織し、流派を継承している。

天然理心流とは
 天然理心流は、寛政年間(1789年~1800年)に近藤内蔵之助が創始した武術で、鹿島神道流を淵源としています。
 その内容は、剣術、居合術、柔術、棍法(棒術)、活法、気合術等を含む総合武術です。
 また、幕末期には四代目の近藤勇と、門人の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが京都において「新選組」を結成し、有名な池田屋事件の際には京の町を焼き 払う計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救ったことでも知られています。

公式HPより)

 現在活動している会派としては、松崎和多五郎から井上才市へ伝承された天然理心流剣術の全伝を伝える心武館を大塚篤が主催している。また、同系の高鳥天真が試衛館を主宰している。(この項、「Wikipedia」より)

 もともとの「甲州街道」はそのまま正面の坂道を進んで行きました。現在はJR線でさえぎられてしまうので、「日野駅東」を右に折れ、ガードをくぐり、左折します。信号先の左手にあるお寺が「宝泉寺」(12:00)。


そのまま坂道を上がると、JR線の手前、右手に「坂下地蔵堂」があります。
 立ち寄らなかったのでHPより拝借します。





1880年代のようす。「大坂」に続く。



現在のようす。JR線で分断されているが、旧道がつながっていることが分かる。

 (追記:4/17)4月15日(土)、「甲州街道」を久々に歩きました。中央線での朝方の人身事故のため、電車は遅れ気味。遅れついでに「日野駅」のホームに立ち寄り、ホーム上から「坂下地蔵堂」付近をを撮りました。補足します。
    

線路の反対側、大坂を望む。直線でつながっていたことが分かります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中~日野~横山(八王子)。その5。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-27 21:12:43 | 甲州街道

 これまでの喧噪から静かな道になります。
    

 (10:43)ここを左折、多摩川方向へゆっくり下って行きます。
    

1880年代のようす。↓のところ。現在も当時と同じようにほぼ直角に曲がっています。北へ進む道は拝島方面へ向かう道。

↑に「日ノ渡シ」とある。

現在のようす。

↓が左折するところ。

解説板。  

旧甲州街道
 この体育館の脇を通っているのが昔の甲州街道です。江戸時代に幕府が主要なかいどうとして整備した五街道のひとつで、江戸と甲州を結び、甲州道中ともよばれました。
 街道はここで多摩川を渡り、日野の宿場へ続きます。当時は多摩川に橋がなかったので、旅人たちは舟や人力で川を渡っていました。
 この渡し場は「日野の私」ともよばれ、現在下水処理場脇に記念碑があります。
 また体育館北側の道は拝島方面へ通じる道で、分岐点には昭和30年代まで道標がありました。現在、この道標は富士見町の歴史民俗資料館に移設されています。

 沿道の右手は「立川市立柴崎体育館」などの施設・緑道公園風に整備されています。その緑道脇に句碑。
    
 「初日さす 松はむさし野に のこる松  秋桜子
 水原秋桜子(明治25年10月9日~昭和56年7月17日没)俳誌「馬酔木(あしび)」を主宰。
 この句は、第八句集の「蘆刈(あしかり)」の中のお気に入りの一句で昭和14年の作です。
 戦前の立川には、まだ赤松林や雑木林があり、武蔵野の尾風景がありました。こんな絵画美を詠んだ俳句をたくさん残され、すぐれた俳人を門下に育てられました。

 平成13年9月8日 立川市


都道との交差点から振り返って望む。

(10:54)渡った左手、「下水処理場」角に「日野の渡し」碑やモニュメントなどが建っています。
    

多摩川の渡し跡なるわが住まひ 河童ども招びて酒酌まむかな  芳
            

 江戸時代初期、五街道のひとつとして整備された甲州街道(当時は甲州海道)は、当初、府中分倍河原から多摩川の低地を通り、多摩川を万願寺で渡っていました。しかし、多摩川の氾濫で街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移 されました。
 それと共に、貞享元年(1684)、それまでも多摩川の対岸、柴崎村(現立川市)への農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道の正式な渡しとして決められ、以後、大正15年(1926)年まで240年あまり、使われ続けました。
 渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ定められていました。僧侶、武士、そして宿の人々は無料で利用ができました。その経営と管理は、日野宿が行い、渡船料は宿場の収入源ともなっていました。
 現在に模していえば、新しいバイパスが開通し、そこに架けられた有料橋を地元の自治体が管理運営するようになったわけです。
 渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていました。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められています。
 船に使った船は歩行船(長さ6.4m、幅1.2m)1艘、馬船(長さ11.8m、幅2.7m)2艘があり、渡し賃は資料によると、延享年間(1744〜48)の一人3文から4文、文政7年(1824)には10文、天保5年(1834)には13文、慶応4年(1868)には30文となっています。これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金となりました。  江戸時代が終わり明治になると、渡しはの経営は宿場から町へ移され、毎年入札により決められた請負人が渡し船を運行し、定められた一定額を町に納入する方法になりました。
 明治22年(1889)甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると渡しの通行量が減少し始めました。また、大正時代に入り自動車が輸入され、通行するようになると橋がないことが問題になり始めます。
 「馬船2艘並べ、その上に横に長い板を敷き並べ、その上に自動車を乗せて対岸へ運んだ」と伝えられるような不便が生じてきたのです。
 大正15年(1926)日野橋とその取り付け道路が完成し、日野の渡しは長い歴史を閉じています。
HPより)

 「記念碑」のある場所は、↓の位置。現在は旧道や渡し場はっきりしません。

現在のようす。

正面が多摩川の土手ですが、立入り禁止。

 迂回して土手に向かいます。同じ道を抜きつ抜かれつで、先生に連れられた学生たちが歩いていました。このグループとは「日野本陣」でもご一緒しました。


    
 (11:02)多摩川では釣り人がチラホラ。右手に見える「立日橋」を渡ります。橋の上には「多摩モノレール」。

多摩都市モノレール線
 東京都東大和市と多摩市を結ぶモノレール路線。
 南北方向の交通手段の整備が望まれていた多摩地域を縦断する路線である。元々鉄道空白地帯だった地域とターミナル駅間の輸送が主力だが、接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際には、代替経路として振替輸送に利用される。
 基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅となっている。
 沿線はおおむね住宅地であるため、通勤・通学客の多い朝夕は非常に混雑する。また、周辺には大学などの教育機関が点在するため、その最寄り駅や他線との接続駅は学生で賑わっている。採用しているモノレールの仕組み上、悪天候に弱く、降雪や台風などによる強風の影響で遅延や運休が発生しやすい(改札付近に、運休の可能性がある旨の告知がしばしば見られる)。
 上北台駅から甲州街道駅の区間では高層建築物の多い立川周辺を除き南西方向に見える富士山の眺望が良い。(以上、「Wikipedia」参照)

《駅名》
上北台―桜海道―玉川上水―砂川七番―泉体育館―立飛―高松―立川北―立川南―柴崎体育館―甲州街道―万願寺―高幡不動―程久保―多摩動物公園―中央大学・明星大学―大塚・帝京大学―松が谷―多摩センター

    

 橋の上からも遠くに富士山が肉眼では見えますが、写真でははっきりせず。
    

来た道(対岸)を望む。

 (11:10)橋を渡り終えると、「日野宿」。「新撰組」の名があちこちに。
 ようこそ 「新撰組」のふるさと 日野へ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中~日野~横山(八王子)。その4。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-24 22:05:28 | 甲州街道
 「甲州街道」は道幅も広く、交通量も多い。反対側の歩道沿いに史跡や案内板らしきものがあってもなかなか気づかず、また横断歩道や歩道橋を渡るのもけっこう面倒。そのため、見過ごすものも。そんな道を西へ向かって進みます。

南側が開けてきて、遠くに山々が。

歩道橋から西方を望む。

右手のおうちの脇に何やら解説板が。さっそく反対側の歩道に(10:06)。

       

潤澤学舎跡
 潤澤学舎は、国立第一小学校の前身です。
 明治5(1872)8月に学制が制定され、各村に学校の設置が義務づけられると翌年9月25日、青柳村で私塾を開いていた杉田吉右衛門氏を首席(校長のこと)とし、この地に開校されました。
 校舎は杉田氏の私邸内にある3間×5間(約50平方メートル)の茶室を譲り受け、仮校舎として教室にあてました。当初は職員1名(杉田氏)と児童30名前後でした。
 その後、明治9年に「谷保小学校」と名前を改め、明治16年に現在の位置に移転しました。

                                     平成22年10月 国立市教育委員会
 
馬頭観音。 

(12:12)渡りかえしたその先に「常夜燈」。
    
元上谷保村の常夜燈
 常夜燈は「秋葉燈」とも呼ばれ、江戸時代に村を火事の事故から守るために、油屋近くに建てられたものです。火伏せの神を祀る秋葉神社(浜松市)への信仰です。
 この常夜燈は市内に残る三つの常夜燈のうちの一つで、竿(灯身)には「秋葉大権現」「寛政六甲寅四月 上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」と彫られ、寛政6(1794)年に建てられたことがわかります。
 元々は上谷保村の油屋(屋号・現在の甲州街道北側の原田家)東隣に建てられたもので猛られたもので、昭和6(1931)年から行われた道路改修時に現在地に移されました。
 大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられています。

                 平成23年1月 国立市教育委員会
        


(10:17)道路の反対側に「五智如来」。
    
「五智如来」
 矢川と甲州街道が交差する付近は、「はしば」と呼ばれ、大正の初めごろまでは「矢川橋」が架かっていました。橋のたもとには五智如来の祠があり、江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられています。・・・


 この付近では、道路を右に左に横断して確認するほど史跡があります、前後にある歩道を行ったり来たり。

石倉造りが並ぶ。  

(10:26)左側には「元青柳村常夜燈」。 

大きな「馬頭観音」。 

 道の左側は、多摩川沿いの低地につながる、けっこう急坂になっています。甲州街道は丘陵上(ハケ上)を進んでいることが知れる。
       

(10:32)立川市に入ります。 

(10:37)日野橋交差点。ここで道は4本の道に分かれます。「甲州街道」は、左折して日野橋へ、「新奥多摩街道」は左斜め前方へ。右折するのは立川駅へと向かう「立川通り」。 旧甲州街道は「旧奥多摩街道」へと入って行きます。「甲州街道」という表示に惑わされないように。(「国道20号線」は、この交差点のずっと手前、「JR南武線」を越えた先で「バイパス」として左折していきます。)


                  「旧奥多摩街道」が「旧甲州街道」となります。     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中~日野~横山(八王子)。その3。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-23 20:59:28 | 甲州街道

 踏切を過ぎると、「旧甲州街道」は落ち着いた住宅地を進みます。合流します。手前右手にはりっぱな門構えおうち。その先、左手には「本陣」格のような門構えのお屋敷が目に入ります。

    

(9:09)格式の高そうな門構えの大きなお屋敷。

「本宿交差点」で「国道20号線」に合流して、西に向かいます。


1880年代のようす。


現在のようす。斜めの道が旧道。

 (9:19)国道に入って、その先の交差点の角に「常夜燈」。「東海道」ではよく見かけた「常夜燈」をこの付近でよく見かけます。
    
由来書
 甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並みが出来たのは17世紀半ば、慶安から寛文の頃であった。しかし台地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだと云う。
つに本宿村では「講」を作り遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政4年(1792)、この地に常夜燈を設けた。
 村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点けて無事を祈り隣へと引きついだ。
 爾来1世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。
 このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。
                                             平成2年2月

 すぐその先、右手に「武蔵府中熊野神社古墳」。以前来たことがありますが、道路を横断して近づいてみます。


 武蔵府中熊野神社古墳について、少し長くなりますが「Wikipedia」より。

 1990年(平成2年)、熊野神社の山車の新調とともに、収納庫も神社内にあった小山の一部を削り、規模を拡大して建て替えることにななり、遺跡の発掘調査の結果、熊野神社敷地内の小山は、土を突き固める版築という方法で築造されたことがわかった。また小山からは河原石が大量に見つかった。
 2003年(平成15年)5月、熊野神社の小山の発掘が開始され、三段築成の上円下方墳であることが確認された。翌2004年(平成16年)には石室内や周辺の発掘が行われた。
 古墳の主体部は複室構造の横穴式石室で、全長は約8.7メートルにおよぶ。玄室内から被葬者の歯と見られる永久歯が3点発見され、いずれの歯も壮年期の初期か前半期のものである。
 「上円下方墳」という墳形は、武蔵府中熊野神社古墳を含めて全国で5例しかなく、きわめて稀少な墳形で、最大のものであり、先進的な畿内の政権と密接な繋がりを持つ、武蔵国の有力な在地勢力が造営したものと見られている。
 築造年代は7世紀中葉から後半にかけて造営されたと思われる。
 古墳造営と前後して古墳東方約1キロメートルのところに東山道武蔵路が開かれたとみられ、7世紀末から8世紀初頭にかけては、現在の府中市中心部に武蔵国府が設置されたと考えられる。そのため在地の有力者であった武蔵府中熊野神社古墳の被葬者が、武蔵国府が現府中市に設置されるにあたって重要な役割を果たしたのではないかとの説が有力である。
 2005年(平成17年)7月14日、国の史跡に指定された。

    

(9:33)JR南武線を越す。

「日本橋から33㎞」ポスト。


右手には大きなお屋敷が続きます。
    



右手に「常夜燈」。

(9:50)「谷保天神」。

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)
 社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。
 東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれています。
 南武鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまいましたが、本来の読み方は「やぼ」です。
 江戸時代の狂歌師の大田蜀山人(南畝)が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝えられています。

野暮(やぼ)」
 洗練されていない様を表す。「いき」の反対。

野暮天
《「天」は程度の高い意を表す》たいそうやぼなこと。また、その人。

・・・
 湯島、亀戸と並び、関東三大天神の一つの谷保天満宮は「やぼ」を名乗り、極めて融通のきかないことを意味する「野暮(やぼ)天」の語源ともいわれる。時は江戸。神様が出雲に集まる神無月の十月、谷保天神のご開帳が目白であった。大田蜀山人に「神ならば 出雲の国に 行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」とからかわれた-。
 天満宮の権禰宜(ごんねぎ)菊地茂さん(54)は「土地の人は『やぶ』とも言う。参勤交代の行程表に屋武村、百年前の新聞には藪村と書かれている」。濁音が疎まれてか、いつのまにか駅名や、行政上の地名は「やほ」になった。
 天満宮前を知らせる交差点の標識のルビには「YAHO」。菊地さんは「(YABOが正しいと)訂正を求めるようなやぼなことはしません」と笑った。 (末松茂永)
HPより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中~日野~横山(八王子)。その2。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-21 18:24:24 | 甲州街道

 西へ、「分倍河原」駅方向へ進みます。
番場宿」。
 番場宿は現在の宮西町2・4・5丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場はもとの名を茂右衛門宿といいます。これはこの土地が名主茂右衛門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永3年(1636)のことといわれています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』」には「家数103軒、(甲州)街道の左右に甍を連ね」とあります。もともと番場宿は、ハケ沿いの甲州古街道筋にありましたが新街道の設置(慶安頃=1648~52)に伴って移転したものです。
 地名の起こりは、不明ですが、馬場の転訛とか番所があったからとの説があります。
 この地域には、高安寺、長福寺などの古刹があります。                                                 

沿道には立派なおうちも。

          
 (8:49)その先、右手に宿場時代の建物? その名も「番場屋」。実は50年くらい前につくられた、お酒や食事のできるお店のようです。外見は江戸時代の宿屋風。けっこう風情があるつくり。はたしては店内は? 「食べログ」に詳しく探訪記?がありますので、ご参照を。

鹿島坂」。
 坂の名は、大国魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれます。5月の例大祭に「国造代奉幣式」という古式があります。これは国造代(奉幣使)が神馬に乗って拝の宮におも向き、神輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉幣を行うというものです。この式は古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に名前の一部をとって、「鹿島坂」となったようです。

 少し行くと、南北に突っ切る緑道と交差します。「旧国鉄下河原線」の線路跡。
    図で、南北に進む緑道。
下河原線の歴史」 
 ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
 明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町3丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1932)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)国分寺~東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺~東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され66年間にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。
                                                                       府 中 市

    
南を望む。                                 北を望む。

 この廃線・緑道は、4年前の2月に探訪しています。約7キロの道のり。そのときの写真を二つ紹介。
    
                                          踏切事故者の供養碑。

(8:51)「高安寺」。藤原秀郷の館跡といわる。

 ここに源義経と武蔵坊弁慶たちが立ち寄った、という伝説があります。街道沿いにはこの先、それにちなんだ史跡が残されています。

片町」。
 片町は、現在の方町1、2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
この集落は番場宿に属しており、幕末の地誌『身辺武蔵風土記稿』には、番場宿の小名としてその名がみえます。
 片町は、徳川家康が江戸に入場後、新しく整備された甲州街道の開通(慶安頃=1648~52)に伴ってできた町です。
 地名の起こりは、街道の南側に名刹高安寺があり、町場が北側の片方だけに発達したことによります。
 この辺りには、国府に関連する片町・高倉遺跡などがあり、発掘調査の結果、住居址が数多く発見されており、古代にはかなりの規模の集落が存在していたようです。


    
弁慶坂  (べんけいざか)
 『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架する所の橋をも弁慶橋と号(なづ)け、 東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。
 この坂は、 高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。 これは、高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、大般若経を書写したと伝えられるものです。 高安寺は、往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵国の安国寺として中興した名刹です。 この地は、武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています。
                             
「弁慶橋」。「石橋供養塔」。  
 ここに、野川に架かる弁慶橋がありました。名は、「弁慶坂」と同様、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来しています。

棒屋の坂(ぼうやのさか)
 坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれたためといわれています。
 この道は、徳川家康が江戸幕府を開いてから開設された甲州街道です。江戸幕府にとっては軍事的・経済的に重要な街道でしたが、府中にとっても一宿場として往古の繁栄をとりもどる役割を果たした道です。この街道が開設される以前の甲州方面への道は、もっと南寄りの狭いハケ道で、今でも所々に残っており、往時の面影を伝えています。
    

(8:59)京王線の踏切を越えます。左手に「分倍河原」駅。

 「分倍河原」駅。最初の駅名は、「屋敷分」。当時の地名(屋敷分村)から名付けられたもの。
 改名された分倍河原は「分倍」と「河原」の複合地名で過去の歴史に基づく。1333年(元弘3年)5月に鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞と、幕府側の北条泰家が戦った「分梅古戦場」(分倍河原古戦場)という古戦場跡があり、駅前ロータリーには新田義貞の像がある。なお、1454年(享徳4年)にもこの地で鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉氏を破った合戦が行われている。
 なお、地名表記は「分倍」と「分梅」があり、由来は「この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説から分倍」、「梅にまつわる土地が多い事から分梅」などと諸説あるが、なぜこの地名になったかは資料がなく未だに不明である。かつては分配(ぶんばい)とも読まれていた。
 住所表記上の地名は、駅舎を含む京王線の東側は府中市片町、西側は南武線の北側が美好町、南側が分梅町である。南武線の北側はかつての屋敷分村で、上記の通り旧駅名の由来となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする