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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その4。河川敷・ゴルフ場。「等々力大橋」(仮称)建設中。河口(海)まで14K。新丸子駅。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-12 20:19:28 | たまリバー50

陽光の下、のんびりと。

「多摩川の孤独なライオン像」が対岸に(あるはず)。

河川敷の砂利道を歩く。

「東急ゴルフパークたまがわ」。

新しい橋梁の工事中。

                      「等々力大橋」(仮称)下部工事のようです。

       目黒通りが川崎へ「等々力大橋」巨大橋脚が出現中 「橋空白地帯」多摩川に念願の架橋

東京都世田谷区に、多摩川を渡る新たな橋梁「等々力大橋(仮称)」の建設が進んでいます。完成は2025年度の予定です。

この橋が架かるのは、有料道路・第三京浜の約1km東側。目黒通りの延長線となる形です。一般道路としては、二子橋と丸子橋のちょうど中間部分です。両者は5kmも離れているため、ボトルネックとなって慢性的な渋滞ポイントとなっていますが、混雑分散に期待がかかります。

目黒通りが川崎市内に入ったあとは、西下橋交差点から都市計画道路「宮内新横浜線」に接続。そこから子母口まで4車線道路が開通済みです。

名前のとおり最終的には新横浜駅へ直結する計画で、全通すれば都心~新横浜が4車線道路で直結されることとなります。・・・

さて多摩川の現場では、川崎側の橋台と橋脚が2022年夏に完成。東京側の橋脚も、約半分ほどの高さまでコンクリートが打ちあがっています。このあと河道内にもう1本橋脚を立てて、橋桁部分の工事へ移行します。橋の長さは約390m、鋼製の箱桁を主塔からケーブルで支える形式です。 ・・・

(この項、「」HPより)

「等々力」という地名は、川崎市にもあります。

当地は、もともと多摩川の流れが南に屈曲していたところに張り出した、荏原郡等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の飛び地となった。宝暦12年(1762年)の小杉村絵図にも、現在の川崎側の等々力の南側を、多摩川の本流から分流して蛇行した流路が「古川」として描かれている

江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には大岡越前守の名も残っている

明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は神奈川県橘樹郡中原村へと編入された

この付近の今昔。

                     現在のようす。○が飛び地だったところ。

川崎市側は「等々力陸上競技場」等、大きな運動広場になっています。川崎市中原区等々力。

                      1880年代のようす。かなり蛇行する流路。

 

振り返る。

ゴルフ場。

武蔵小杉駅付近の高層マンション群。

「河口(海)まで14K」。

「丸子橋」方向。

対岸(世田谷区)。

今回はここまで。東急・「新丸子駅」に向かいます。途中、

「旧中原街道」。

今年初め、「虎ノ門」から「中原御殿(跡)」(平塚宿)まで歩きました。そのとき、通過したところ。

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京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その3。「宇奈根の渡し」碑。パターゴルフ。「多摩川の孤独なライオン」。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-11 14:29:08 | たまリバー50

両岸とも河川敷は運動広場に。

「河口まで20K」。

「宇奈根の渡し」碑。

「キャンプ場」。

対岸は、東京都世田谷区。

パターゴルフ場。老若男女が楽しんでいます。川崎市高津区。

対岸遠くに東急・二子玉川駅付近の高層ビル。「海から19K」

「平瀬川」が合流。

「新二子橋」と東急線鉄橋。

「二子玉川駅」方向。

対岸は「二子玉川公園」。

「第3京浜道路」。

 

対岸の送電線の下には、

「多摩川の孤独なライオン」。     

どういうわけで、一頭だけ?

この疑問を追求したブログ「デイリーポータルZ」には、その疑問が解決されていく記事が掲載されています。

それによると、

40年近く前、ライオンの近くには

・パンダの遊具があった

・「前後に揺れる遊具」や砂場もあった

・ライオンは台風のたびに埋まる

当時の写真などを発見、ついに、区役所による周囲の発掘作業に立ち会うことになります。そこでの発見は?

事の次第・興味深い話は、下記の記事をご覧下さい。(写真・図を借用しました。)

多摩川に埋まる遊具「孤独なライオン」の発掘調査に立ち会った【完結編】 :: デイリーポータルZ (dailyportalz.jp)

上記のような経緯があり、ライオンだけ撤去されずに残されて、今に至るわけです。

河川敷の野原にポツンと置かれたライオン。が、存在感あり。

以上、都県境歩きのときの記録。こちら側(川崎市側)からは確認できませんでした。

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京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その2。「登戸の渡し」・「堰の渡し」碑。「二ヶ領宿河原堰」・「二ヶ領せせらぎ館」。。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-10 13:59:59 | たまリバー50

「登戸の渡し」碑。 当時のようす。

左岸(東京都狛江市側)を望む。

ワンドになっています。

「二ヶ領宿河原堰」。

400年以前の江戸時代からある二ヶ領用水へ多摩川からの水を取水するための堰で、昭和24年(1949年)の戦争直後にコンクリート堰として完成し、その後、昭和49年9月台風により左岸側の狛江市で迂回流による侵食破堤が発生したことを契機に、平成7年に堰改築工事を着工し、平成11年(1999年)に現在の堰が完成しました。

対岸には「多摩川決壊」碑があります。以下は、「都県境」歩きのときの記録。多摩川左岸(東京都狛江市側)。

「多摩川決壊の碑」。

         

碑文。

昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心にした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取り付け部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が浸食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらせました。・・・被災住民は、国家賠償法に基づき、提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。

狛江側から「二ヶ領宿河原堰」。

再建された家屋。

ところで、この水害をもとに、今も話題に残るドラマができました。

『岸辺のアルバム』

1974年多摩川水害が背景にある。この水害で多摩川の堤防が決壊して19棟の家屋が崩壊・流出したが、家を失ったことのほかに家族のアルバムを失ったことが大変ショックであったという被災者の話を脚本の山田太一が聞き、そこから作品の構想が生まれた。ラストの水害で家が流されるシーンは、実際の報道映像が使用されている。

主演の八千草薫は、和泉多摩川駅の向かいのホームに佇む美しさに惹かれたといって電話をかけてきた竹脇無我と家族に隠れて不倫する主婦を演じ、それまでの良妻賢母的なイメージを打ち破り、新たな役どころを開拓。関川夏央は「貞淑を絵にかいたような八千草とラブホテルの組み合わせは衝撃的だった」と評する。小説では39歳だったが、脚本では42歳に直されている。八千草の実年齢は46歳だった。八千草はテレビ大賞主演女優賞を受賞。また、この作品でデビューした国広富之はゴールデン・アロー賞放送新人賞等を受賞した。

当時の平均視聴率は14.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)とそれほどでもなかったが、その後評価が高まり、テレビドラマ史に残る名作という評価が定着している。山田は「脚本家を志す学生から『早春スケッチブック』と並んでこの作品が最も質問を受ける」と語っている。

このドラマは、前述のように実際に東京都狛江市で起こった水害を題材に、平凡な中流家庭の崩壊を描いた作品である。それまでの「家族で食卓を囲んで最後はハッピーエンド」というホームドラマの殻を打ち破り、辛口ホームドラマというジャンルを確立した点で、革命的な作品であり、日本のテレビドラマ界に与えた衝撃は大きかった。

そのストーリーと共に特筆すべきは、オープニングの映像である。平穏に見える川がある日突然濁流に変わり平凡な家庭を飲み込んでいくという、この作品のテーマを見事に象徴している。特にジャニス・イアンの甘く気だるい歌声と、マイホームが濁流に飲み込まれていく実際のニュース映像が鮮烈に印象に残る。

(「Wikipedia」より)

           

              

            

1977年に放送されたTBS制作のドラマ。

一見平和で幸せそうな中流家庭の崩壊と再生を描く。

出演:八千草薫、杉浦直樹、中田喜子、国広富之、竹脇無我、風吹ジュン、新井康弘、村野武範、原知佐子、津川雅彦、沢田雅美、山口いづみ ほか          

山田太一脚本のテレビドラマ史に残る名作「岸辺のアルバム」。淡い水彩画のような、おっとりしたタイトルとは裏腹に、このドラマはあえて「衝撃の家庭ドラマ」と銘打っている。激情的な人間模様、生臭い話、どろどろした性の問題を内包した作品だ。またその一方で、このドラマは「家庭とは何だろう?」「親と子の関係はどうあるべきか」といった普遍的な難問と正面から取り組んでいる。東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭を舞台に、初回放送当時のホームドラマでは一切タブーとされてきたエピソードが次々と展開される。

【ストーリー】
東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭。一見すると幸せそうに見える家族4人。しかし、実はそれぞれが問題を抱えていた。
母・則子(八千草薫)は良妻賢母型の専業主婦。だが、見知らぬ男から電話がかかってくるようになる。はじめは知らん顔をするも、やがてその男と会うようになり…。父・謙作(杉浦直樹)は有名大学出の商社マン。しかし、実のところ会社は倒産寸前の状態だった…。娘・律子(中田喜子)は大学生。なかなかの秀才で大学も簡単に合格したはずだったが、ここ一年は家族に対して心を閉ざしている。やがて、アメリカ人男性と交際するようになるのだが…。息子・繁(国広富之)は大学受験を控えた高校生。決して勉強のできる方ではないが、心の優しい性格の青年だ。だが、両親や姉の異変に気付き、思い悩むことに…。

(この項、「TBSチャンネル」HPより)

                

      

          (「YouTube」より)

・・・

「川崎市二ヶ領せせらぎ館」。

右岸から望む。 

         下流方向。

 

「フットサルコート」 

「海から21K」。 

「東名高速道路」。   

「堰の渡し」碑。  

「東名高速道路」をくぐる。

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京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その1。くさふじ。二ヶ領上河原堰。「中野島の渡し」。「多摩川水道橋」。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-07 20:42:27 | たまリバー50

5月5日。こどもの日。晴れ。

「京王稲田堤」駅から多摩川土手に出ます。水面が大きく広がっています。

サーフボードに乗って手漕ぎで下る! 二人。

くさふじ」。

土手にたくさん生い茂っています。外来種の「なよくさふじ」?

   「二ヶ領上河原堰」。

                 二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)」。

二ヶ領上河原堰(にかりょう かみがわらぜき)

二ヶ領用水の取水のために多摩川に設けられた取水堰です。住所は右岸側が川崎市多摩区上布田、左岸側が調布市染地二丁目になります。

はるか上流の奥多摩湖から流下した多摩川は、両岸を東京都に囲まれて西に流れてきますが、上河原堰の約2km上流で、右岸側は神奈川県川崎市に変わります。

上河原堰は多摩川に設置された初めての取水堰として知られており、堰と多摩川とが織りなす雄大な景観が「多摩川50景」に選定されました。
この上河原堰は、東京湾河口から約26kmの位置にあります。

※二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領稲毛領にまたがって流れていたことに由来する。農業用水として多摩川から水を引いて造られ、かつては近隣の農業を支えた二ヶ領用水だが、時が流れて現在の沿川は宅地化が進んでおり、工業用水などに用いられるとともに、近隣住民の憩いの場としても親しまれている。

下流側。

「中野島の渡し」碑。

「右岸・海から25K」。対岸は、東京都調布市。

森の左側が多摩川の流れ。

    舗装道路の脇には細道があり、自転車との接触もなさそう。

流れに近い林の中の道。               

       

                   向こうには、「小田急多摩川橋梁」

振り返ると「多摩川水道橋」。

狛江市内で多摩川に架かる唯一の道路の橋であり、東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線の起点側(多摩川の左岸)が東京都狛江市、終点側(右岸)が神奈川県川崎市多摩区となる都県境の橋となっている。なお、この道の愛称は東京都側が「世田谷通り」、神奈川県側が「津久井道」と都県境をもって変化する。

この場所にはもともと「登戸の渡し」があったが、東京都内の水不足対策として、川崎市の長沢浄水場から相模川の水を都心へと送る「導水管」の建設が行われることとなった際に、歩道と車道の架橋計画が行われ、1953年(昭和28年)12月に先代の道路及び水道管の併用橋として開通することをきっかけに、同年8月に廃止された。なお、この「登戸の渡し」は、廃止時点で多摩川の渡し船としては最後に残っていた区間であった。

運動広場で小休止。

 運動を楽しむ親子連れ、読書する人、サイクリング、そぞろ歩きのグループ、・・・穏やかな春のひと時をのんびり。

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立夏。5月5日。端午の節句。こどもの日。五月晴れ。「目に青葉・・・」。「夏は来(き)ぬ」。「背(せい)比べ」。

2025-05-05 15:32:57 | 二十四節気

                 一面、麦畑。緑が目に染みるようです。(「日光東往還」歩きにて)

5月5日(こどもの日)は、24節気の7番目「立夏」。春分と夏至のちょうど中間にあたる。

暦の上での夏の始まり。この日から立秋の前日までが夏季になる。

「立夏(りっか)」とは夏の始まりの時期。一年のうちで、もっとも過ごしやすい季節。

むしろ、温暖化で季節が早まっています。すでに真夏日が出たところも。

東京地方も晴天で、じわじわと暑い。

5月1日(木)が八十八夜」でした。八十八夜は、立春から数えて88日目にあたる日を指し、茶摘みや稲の種まきの目安となる日とされてきました.

七十二侯でいうと、

・初侯 5月6日〜5月10日頃

蛙始鳴 かわずはじめてなく

春先に冬眠から目覚めた蛙がウォーミングアップを終え、元気に活動し始める頃。オスの蛙の鳴き声は、メスの蛙を恋しがって鳴く声だともいわれています。

・次侯 5月11日〜5月15日頃

蚯蚓出 みみずいづる

冬眠していたミミズが土の中から出てくる頃。他の生き物は「啓蟄」の頃に出てきますが、ミミズはマイペースに活動を始め、土を肥やしてくれる影の努力家です。

・末侯 5月16日〜5月20日頃

竹笋生 たけのこしょうず

たけのこがひょっこり顔を出す頃。伸びすぎないうちに収穫しなければ、美味しいたけのこは味わえません。種類によって収穫期は異なるので、三月から六月頃まで収穫できます。

(この項、「暦生活」HPより)

                      

最近は、筍も早め早めになっているようですし、銚子街道歩きでは、ミミズもけっこう道ばたに這い出しています。カエルの鳴き声も聞こえてきます。

5月に入って最近の東京地方の天気のように晴れると、「爽やかな」「五月晴れ」といったりますが、この表現が気になることも。

※「爽やかな」は、秋の、まさに澄んだ空に用いたように思うのですが。5月頃は「薫風」「風薫る」というような表現が適切だったような・・・。

※「五月晴れ」も本来は「梅雨時の合間の晴天」(旧暦の5月の、じめじめとうっとうしい雨が続く中、時に、すかっとした晴れ間がある。)を指していました。ところが、いつしか「5月」の晴れの日でも使われるようになり、今や、この言い方がすっかり定着したようです。

たしかに、二つとも、あまりこだわることはなさそうですね。

しかし、「梅雨」を指す「五月雨(さみだれ)」と、「梅雨のころの夜の暗さ」などを表す「五月闇(さつきやみ)」は、本来の意味で用いられています。

「立夏」というと、山口素堂(寛永19年~享保元年)の「目に青葉山ほととぎす初鰹」。

正しくは「目に」だそうですが。「青葉」も「ほとどぎす」も「初鰹」もいずれも夏の季語ですね。

「初鰹」に因んだ芭蕉の句碑が神奈川県の戸塚宿にあります。

「芭蕉句碑」(旧東海道歩きの際)

 「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお)  芭蕉翁」

 当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。

さらに、作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により1896年に発表された歌「夏は来ぬ」。こういう季節感、風物詩は、都会ではまったくなくなりました。

卯の花の 匂う垣根に
時鳥 早も来鳴きて
忍音 もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗 植うる 夏は来ぬ

橘の 薫る軒端の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

楝ちる 川べの宿の
門遠く 水鶏声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月やみ 蛍飛びかい
水鶏鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

つい口ずさんでしまう名曲。卯の花、時鳥、さみだれ、玉苗、橘、蛍、楝、水鶏、五月やみ、夕月、・・・季節感あふれる詩情。しかし、これらの風物も、すっかり忘れ去られてしまった感がします。

この歌すらも、忘れ去れてしまって・・・。

    (「Wikipedia」より)

また、今日(5日)は、「こどもの日」。五節句の一つ「端午の節句」です。

以前ほど鯉のぼりをあげているおうちは少ないようです。ご時世でしょうか。

旧暦では午の月は5月に当たり、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初のの日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった

 
端午の節句に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある

日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる

端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。

(この項、「Wikipedia」参照)   

そうそう、こんな歌も思い出しました。

「背(せい)くらべ」海野厚作詞・中山晋平作曲

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ

粽たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ

きのうくらべりゃ 何のこと
やっと羽織の 紐のたけ

柱に凭れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ

雲の上まで 顔だして
てんでに背伸していても

雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山     

いよいよ田植えも盛んに

                                    (水郷にて)。向こうは、利根川。

次の二十四節気は「小満」。5月20日になります。

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薫風薫る5月の「向島百花園」。さんざし。せんだん。すずらん。しらん。たにうつぎ。ぼたん。みやこわすれ。・・・かるがものつがい。

2025-05-04 13:53:00 | 向島百花園

すっかり春爛漫の「向島百花園」。さんざし。 

栴檀(せんだん)。                                 

※香木の栴檀はインドネシア原産の白檀(ビャクダン)を指し、「栴檀」は特別な香りを持たない

鈴蘭(すずらん)。

紫蘭(しらん)。

                      

「たにうつぎ」。

和名の由来は谷などに多く自生していることによる。     

  「姫卯木(ひめうつぎ)」

牡丹(ぼたん)。

「都忘れ(みやこわすれ)」。

  • 承久の乱で佐渡に流された順徳帝が、庭に咲いていた紫色の花を見て、「都を忘れることができた」と感動し、その花を「都忘れ」と名付けたという説があります。
  • 京を去る際にこの花を見て、「都を忘れることにしよう」と思ったことから、この名前になったという説もあります。

カルガモの番(つがい)。

水中にもぐり水草を採る。

スカイツリー。木橋の下にカルガモ。

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わたらせ渓谷鉄道トロッコ列車。浅草~相老~通洞。通洞駅。足尾銅山。鉱毒。廃村。・・・

2025-05-03 19:03:37 | 歴史・痕跡

4月29日(祝)快晴。孫を連れて、わたらせ渓谷鉄道「通洞」駅まで出かけました。孫と前々から行く約束を果たすことに。

「浅草」から8:40分発・特急「りょうもう5号」。

「相老」で、わたらせ渓谷轍道に乗り換え、大間々から「トロッコ列車」に乗って、「通洞」に12:23着。

けっこう混んでいます。

少し寒いくらい、風が吹き抜ける。新緑の渓谷を行く。

「トロッコわっしー号」

新緑がまぶしい。

足尾駅に向かうトロッコ列車。

通洞駅。

通洞では、足尾銅山の廃坑へ。洞内をゆっくり見て回る余裕がなく、実にあわただしい旅でした。

 

                              廃坑内奥までトロッコで入っていきます。

同じルートで帰ってきました。「通洞」を13:33発。「相老」から「リバティりょうもう30号」で 浅草には16:55に着きました。

小学生の孫にはトロッコに乗ったこと、暗い坑内を歩いたことなどが思い出になったようです。

小生、足尾へは3回目。谷中村跡の遊水地へは1度行きました。・・・。

1610年、江戸幕府直轄の鉱山として、ここで「寛永通宝」などの銅銭・通貨の鋳造などが行われ、全盛期には年間1200トンもの銅が産出されました。明治以降は古河財閥の出資によって急速に発展。鉱員らが掘り進めた足尾銅山の坑道は総延長1200キロメートル以上といわれている。

地元では、「世界遺産」登録を目指しているようです。しかし、「足尾鉱毒事件」として知られる日本初の公害事件が発生した場所でもあり、その後も運営が続くものの、荒廃しきった山肌、下流への甚大な汚染・鉱毒。100年公害とも呼ばれるほどに汚染してしまいました。鉱山経営の「光と闇」をどうとらえるかが、大きな課題。

1970年代のようす。

                                                                                    (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

そして、現在のようす。

治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつある。平成8年(1996)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われている。

足尾銅山本山製錬所大煙突。

痛々しい岩肌。

               銅の採掘・精錬が終了した後も、まだ鉱毒除去の作業が続いている。

水管橋。

足尾の山々を振り返る。

・・・そして、旧谷中村跡(「渡良瀬遊水池」)探訪記。

遊水池(ゆうすいち)とは、洪水時の河川の流水を一時的に貯留させる土地のこと。

「渡良瀬遊水池」も大きな湖と一面に茅が生い茂っている草原だが、足を踏み入れられるのは、ごく一部に過ぎない。

      屋敷と背後に田畑が広がっていた。

盛土(「水塚」)。

その上にかつての屋敷跡。小さな祠が残されています。

足尾鉱毒事件

明治中期以降は、渡良瀬川が氾濫するたびに板倉町などとともに足尾鉱毒の被害を受けるようになり、以後、鉱毒反対運動の中心地となる。

1902年(明治35)、政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てる。しかし、予定地の埼玉県北埼玉郡川辺村利島村(現在の加須市北川辺地区)は反対が強く、翌年には予定地が谷中村に変更になる。

1903年1月16日、栃木県会に提案されていた谷中村遊水池化案が廃案となる。この時点で谷中村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年7月30日から実質的に谷中村に移住した。

1904年、栃木県は堤防工事を名目に渡良瀬川の堤防を破壊。以後、谷中村は雨のたびに洪水となった。同年12月10日、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。このとき、谷中村遺跡を守る会によれば、人口2500人、戸数387戸。面積1000町歩。

鉱毒により作物が育たなくなった時点での価格が基準とされたため、買収価格は1反歩あたり田が20円、畑が30円と、近隣町村に比べ非常に安かった(約5分の1といわれる)。

末期には鉱毒で免租となったために多くの村民が選挙権を失い、村長のなり手がなくなった。このため、最後の村長は下都賀郡の書記官である鈴木豊三が管掌村長という形で兼任した。鈴木は税金の未納などを理由に村民らの土地を差し押さえるなど、廃村に協力した。

栃木県は1906年3月、4月17日までに立ち退くよう、村民らに命じた。3月31日、村に3つあった小学校のうち2つが、谷中村会の議決を経ることなく強制的に廃校になった(残りの1つは藤岡町立となり、1913年3月末まで存続)。4月15日、谷中村会は藤岡町への編入合併案を否決。5月11日、栃木県は7月1日をもって谷中村を藤岡町に編入すると発表。7月1日、管掌村長の鈴木は、栃木県に、谷中村は藤岡町に編入したと報告。谷中村は強制廃村となる。この時点での人口は島田の推計で1000人、戸数140戸。しかし、一部の村民は村に住み続けた。

1907年1月、政府は土地収用法の適用を発表。村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出た。多くは、近隣の藤岡町や茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)などの親類宅に身を寄せた。この年、島田による推計で村の人口400人、戸数70戸。最後まで立ち退かなかった村民宅は6月29日から7月2日にかけ、強制執行により破壊された。破壊された戸数は16(堤内13戸、堤上3戸)。しかしこの16戸(田中正造も含む)はその後も村に住み続けた(のちに1戸減)。

1908年7月21日、政府は谷中村全域を河川地域に指定。

1911年、旧谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始。この地は現在の常呂郡佐呂間町栃木である。しかし、移住民のほとんどが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷することになる。

1912年、買収額を不当とする裁判の判決が出る。買収額は増やされたが村民らは不満として控訴。1919年には買収額を5割増しとする判決が出たが、村民達には既に裁判を続ける気力が残っておらず、そのまま確定した。

1914年、残留村民らが田中正造の霊を祀る田中霊祀を建設したところ、河川法違反で連行され、裁判で罰金刑を受けた。なお同様の裁判はこれ以前にも数例ある。いずれも、仮小屋に住んでいた元村民が小屋の修理をした際に河川法違反に問われたものである。

1917年(大正6)2月25日ごろ、残留村民18名が藤岡町に移住。ほぼ無人状態となる。田中霊祀も同年3月に藤岡町に移転した。

2022年10月31日現在、旧谷中村の大字に当たる栃木市藤岡町下宮と同市藤岡町内野に若干名が住み、かつての藤岡町恵下野は無住となっている。栃木市藤岡地域内に旧谷中村合同慰霊碑が、渡良瀬遊水地内に谷中村役場跡・雷電神社跡などの遺構があり、見学することが可能である。

《村民の主な移転先》

大字ごとに傾向が分かれ、下宮からは茨城県古河市、内野からは藤岡町、恵下野からは野木町への移転数が最多であった。全体での移転先は多い順に下記の通り。

(この項、「Wikipedia」より)

※足尾銅山跡、旧谷中村跡・渡良瀬遊水地は2023年秋に続けて訪問しました。

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西武線・競艇場前駅~京王稲田堤駅。その2。菜の花。多摩川原橋・多摩川原水道橋。川崎市へ。(「たまリバー50キロ」第3日目。)

2025-04-30 14:36:42 | たまリバー50

河原一面に菜の花。見事です。

保育園児たち。

「多摩川原橋」の上流付近。

振り返る。

「たまリバー50キロ 案内図」。

「多摩川原水道橋」。アーチ型の水道専用の橋。

「多摩川原橋」。下流方向。

上流方向。

橋は東京都稲城市と調布市を結んでいます。

※「多摩川原水道橋」=たまがわげんすいどうきょう  「多摩川原橋」=たまがわらはし

東京都道・神奈川県道19号町田調布線鶴川街道)を渡す。右岸は稲城市、左岸は調布市である。右岸下流は200m足らずで神奈川県川崎に入る。旧橋は1935年(昭和10年)に架けられた。現在の橋は、旧橋の老朽化と交通量の増大のために架け替えられた。2車線の橋が上流側に1998年(平成10年)に、下流側に2006年(平成18年)に完成し計4車線を通す。

渡り終えて下流に向かうと、神奈川県川崎市多摩区になります。

この先から、多摩川が東京都と神奈川県の都県境になります。

※都県境歩きの時は、多摩川の左岸(東京都側)を歩きました。

今回は、右岸(神奈川県側)を河口まで歩くことに。

矢野口の渡しは矢野口と調布を結ぶ渡船場で矢野口村と菅村で運営されていた。渡し場は多摩川原橋のやや下流にあった。昭和10年の多摩川原橋の完成で下菅の渡しと統合され菅の渡しとなった。矢野口の渡しは新田義興が謀殺された矢口の渡しとする説もある。

※多摩川にあった渡し場

 川に橋を架けるということは、近代以前では大変難しく、有力な街道の渡河点でも橋がなく、多くは渡し舟によっていました。
 1600(慶長5)年に東海道が多摩川を渡る六郷では、長さ120間(約218m)の六郷大橋が架けられましたが洪水のために何回も流れ去り、一時仮橋の時代があったものの、結局明治7(1874)年まで六郷の渡しとして橋のない状態が続きました。また、甲州街道の日野の渡し、日光街道の拝島の渡しのほか、大山街道の二子の渡し、津久井往還の登戸の渡しのような脇往還の渡船場も発達していました。このように主に旅人がわたる渡船場が多く、また発達していたことが江戸に近い多摩川の渡船場の特徴であったといえます。しかし一方で、多摩川で最後まで残った菅の渡し(昭和48年廃止)などの生産物の出荷や対岸の田畑耕作に主として利用された作業渡しがあったことも忘れてはなりません。
(参考文献:「多摩川誌」建設省京浜工事事務所)

(この項、「」HPより)

※渡し場のうちで、「旧東海道」の「六郷の渡し」、「甲州街道」の「日野の渡し」、「日光街道(日光八王子同心街道)」の「拝島の渡し」は、それぞれ、歩いたときに通過しました。

下流を望む。

この先、都県境は90度曲がり、多摩川が都県境となり、河口まで続きます。

稲城市方向を望む。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。

線路は、JR南武線。破線が都県境。

                     1880年代のようす。「矢野口の渡し」がある。

赤い線が都県境(右から左へ)。

ただし、多摩川両岸の真ん中をたどるわけではなく、河川の中をけっこう屈折しています。(赤い線)

対岸は東京都調布市。

河川敷への下り口がなく、車が激しく行き交う道路を歩き始めますが、身の危険を感じて土手下の道を歩くことに。

川崎市のマンホール。

中央に市の花「ツツジ」。上部に市章。周囲に7つの市の木「ツバキ」。ツバキの数は7つの区。

ここで、多摩川歩きは終了。「京王稲田堤」駅に向かいます。

JR南武線「稲田堤」駅。

            賑やかな街並み。

「京王稲田堤」駅。

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西武線・競艇場前駅~京王稲田堤駅。その1。親水公園。稲城大橋。北多摩1号水門。(「たまリバー50キロ」第3日目。)

2025-04-29 13:58:20 | たまリバー50

4月18日(金)。曇り。

西武線「競艇場前」駅下車。前回のところから歩きを再開。

JR「武蔵境」から西武線「是政」行きに乗り換えると、若者がたくさん乗車、多摩駅でほとんどが下車。東京外国語大の最寄り駅になっています。沿線には住宅地も広がり、けっこう乗り降りする人が多い路線。

下流の「多摩川原橋」に向かって歩き始めます。

「親水公園」。

平日午前中のせいか、人は見当たらず。

「稲城大橋」。

かつて、この道路橋を含む東京都府中市中央自動車道稲城IC付近から、稲城市東京都道19号町田調布線鶴川街道)までの区間は稲城大橋有料道路と呼ばれる一般有料道路であったが、2010年(平成22年)4月1日に無料開放された。

         

「北多摩1号水門」。

前方の河川敷一面に菜の花がたくさん。

保育園児が遊ぶ。

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多摩モノレール・柴崎体育館前駅~西武線・競艇場前駅。その4。南武線・武蔵野貨物線。是政橋。「競艇場前」駅。(「たまリバー50キロ」第2日目。)

2025-04-28 14:04:53 | たまリバー50

「府中多摩川かぜのみち」。

「東京都還暦軟式野球連盟」。

       頑張って投げて打って走って。

    武蔵野貨物線橋梁。

左は「南武線」。

振り返る。

「是政橋」。

昭和16年に木造橋、鉄筋コンクリート橋は1957年(昭和32年)に竣工・完成したが、慢性的な交通渋滞、交通量増加や橋の老朽化のために1998年(平成10年)に第1期工事が竣工・完成して掛け替えられ、引き続き、第2期工事が行われ2011年(平成23年)3月に竣工・完成した。これにより車道は上下線が合わせて4車線となった。車道と歩道がある。

【構造諸元】

国内では実績が少ない橋梁形式である

対岸は、稲城市。

            「是政の渡し」モニュメント。

膝が痛くなってきた! 

 

                                「海から31K」。

今回はここまで。

「BOAT RACE多摩川」。

「競艇場前」駅まで歩いて西武線に乗り、JR「武蔵境」駅で乗り換えます。

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多摩モノレール・柴崎体育館前駅~西武線・競艇場前駅。その3。「分倍河原の戦い」。府中市郷土の森バーベキュー広場。(「たまリバー50キロ」第2日目。)

2025-04-27 14:31:00 | たまリバー50

新聞社の建物やマンションなどが続く。

         

「関戸橋」。

この付近の今昔

                             (現在)流路が自在な印象。

                             (1870年代)河原と流路が不明確。

「分倍河原」に戦場のマークがある。

※「分倍河原の戦い」(ぶばいがわらのたたかい)

鎌倉幕府が滅亡に至る節目となった合戦。鎌倉時代後期、現在の東京都府中市にあたる武蔵国多摩川沿いの分倍河原で、「北条泰家」(ほうじょうやすいえ)率いる鎌倉幕府と、「新田義貞」(にったよしさだ)率いる反幕府軍との間で起きた。分倍河原の戦いで、反幕府軍の新田義貞が勝利したことにより、北条執権は滅亡、鎌倉幕府は倒壊することとなった。

「府中市郷土の森博物館」。

「海から33K」。

バーベキュー広場。

                                                                             たくさんのテント。

駐車場も満杯。

満開の桜の下、少年野球も盛んに。

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多摩モノレール・柴崎体育館前駅~西武線・競艇場前駅。その2。「国立市」→「府中市」→「調布市」と。「五本松」。府中四谷橋。京王線。関戸橋。(「たまリバー50キロ」第2日目。)

2025-04-26 14:34:40 | たまリバー50

市境」表示。

           「国立市」→「府中市」→「調布市」と市境が移っていく。

    

「水樋管」。地中にある。

左手に大きな松の木。

「五本松の由来」。

この松は、江戸から明治 大正にかけて、水防林として植林されたもので、以前から「下堰の松」と称され、長く地域の人々に親しまれてきました。その後、大正の初めに護岸工事のために四つ谷村で今も「中隠居」と呼ばれている市川家から国に無償で提供され、大切に保護されてきました。・・・

「海から37K」。

           

「府中四谷橋」。斜張橋。

  塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える。広義では吊り橋の一種。魅力的な橋。

「海から36K」。

遠くに「京王線」の鉄橋。

対岸は、「聖蹟桜ヶ丘駅」。

「関戸橋」。

※地名の由来 1213年鎌倉幕府によって作られた霞ノ関南木戸柵が由来ではないのかとされている。 1333年に起きた合戦は関戸の戦いと呼ばれている。

関戸橋(旧橋)は、1937年の架設で、75年が経過し老朽化が進んでいるため、現在新橋梁への架け替えが予定されている

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多摩モノレール・柴崎体育館前駅~西武線・競艇場前駅。その1。「立日(たっぴ)橋」。「日野橋」。「東京賢治シュタイナー学校」。(「たまリバー50キロ」第2日目。)

2025-04-25 13:47:07 | たまリバー50

「たまリバー50㌔」2日目。4月12日(晴れ)。JR中央線「立川」から多摩モノレール「柴崎体育館前」駅まで乗り(実は一駅)、立日橋からスタート。

多摩モノレール「立川南」駅。          

「立日(たっぴ)橋」。   

多摩都市モノレールの建設の為、1989年平成元年)3月に道路橋部分が先行して開通した。

その後、2000年(平成12年)1月に多摩モノレール立川北多摩センター間が開業し、道路橋上のモノレール部分が開通した。

たもとの欄干の端に石製の柱が一本、突き出るように立っている。そのてっぺんに乗っているのは、4羽ほどの鳥の彫刻だ。細く突き出たくちばし、大きく広げた翼も幅は細めで、カモメのようです。 

  • かつてはこの橋の所在地より少し下流に「日野の渡し」があったが、1926年大正15年)8月日野橋通に伴って廃止された。

「残堀川」が流入。 

左岸を歩き始めます。     

  「東京賢治シュタイナー学校」。     

宮沢賢治の精神に根差したシュタイナー教育の実践を通して、子どもたちの生命に最も必要なことは何かを常に考え、その将来も見据えた学びが生きる力を育みます。生命あるものに深い関心を寄せ、学ぶことを愛する子どもたちが、やがて本当に自分自身の目標を見つけ、能力を思う存分生かして未来を切り開いていける人間として成長していくことを目指します。

私たちが目指すもの

私たちは、どんな時代、どんな環境でも、自らの世界を切り拓く力を育むことで「真の自由を探求する人間」となることを目指しています。

本校のロゴ。子ども(黄色)を真ん中に、教師(青色)と親(赤色)が見守る様子を描いている。

人はみな、自らが天から授かっている内なる力を持っている。

一人ひとりが決して比較し合うことなく生き、自らが天から授かっている内なる力、才を発揮し、この地球上に存在するあらゆるものとつながりあって、自らの目標を見定めて生きていくために、真摯に学び続けることのできる場、「真の自由」を探求する場を、大人の責任として、作り出したい。

創設者 鳥山敏子 

  

    工事中の「日野橋」。

                              仮橋。

  • 2019年(令和元年)10月12日、令和元年東日本台風(台風19号)により道路が陥没し、通行止めとなる。2019年(令和元年)11月末より復旧工事が行われ、2020年(令和2年)5月12日に通行止めが解除された。それに伴い、日野橋を経由するバスの運行も5月13日から再開された。
  • 2020年(令和2年)11月、日野橋架替事業の開始に伴い、仮橋工事開始。
  • 2032年(令和14年)日野橋架替事業が完了予定。

↓練習中。

右手に仮橋。  

土手から離れ、迂回します。  

                                            「貝殻坂」。

住宅地の中を抜けます。車も行き交う。

畑が広がる。

多摩川の土手に復帰します。

「中央自動車道・多摩川橋梁」。

「石田大橋」。

  

日野バイパスの開通に伴い、2003年平成15年)3月に部分開通した。部分開通当初は都道20号線との交差点から先は工事中であったが、 2007年(平成19年)に延伸部分の高架が橋と直結し、都道20号線との立体交差が完成した。

この橋の開通によって従来は直接行き来のできなかった日野市国立市府中市が直接結ばれるようになり、日野、八王子方面からの国立府中インターチェンジへの交通が改善された。

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「呼友」(朝日酒造)。神保町の老舗酒屋・甲子(きのえね)屋酒店さん。

2025-04-24 18:59:55 | じじばばがゆく

久々に神保町まで。帰りに酒屋さんに立ち寄り、お酒を購入。

「呼友(こゆう)」。

「久保田」や「越州」を醸す、新潟県長岡市の朝日酒造さんによる新商品です。販売される酒販店は東京で10軒弱、全国でも90軒ほど。朝日酒造さんに厳選された特約店での限定販売です。
 
そのコンセプトは『人から人へ、情景や笑顔をリレーし、友をつくり、絆を結ぶ日本酒』。地元の米生産者さんから始まり、造り手、伝え手(酒販店)、そしてお客様へとリレーされる“呼友のバトン”が、まさに“友を呼ぶ”日本酒に育つようにとの想いが込められています。
 
原料米は、朝日酒造さんが1990年に設立した独自の農地所有適格法人「あさひ農研」さんによる五百万石。『農醸一貫』の考え方を掲げ、朝日酒造さんにとって最適な品質になるよう、丹精込めて栽培されました。それらを磨き、低温でじっくりと発酵させた純米吟醸は、華やかな吟醸香がほのかに広がり、お米の旨味とコクに酸味が優しく寄り添う調和型の酒質に仕上がっています。「久保田」の美点である淡麗でキレのある酒質を踏襲しつつ、香りや味わいを進化させた完成度の高さが魅力的。そして優れたコストパフォーマンスも特筆ものです。
 
「久保田」の発売から、2025年で40周年を迎えます。弊店も、久保田特約店としての誇りを持つことで地酒専門店への方向性を定め、生業として続けてまいりました。「久保田」が有ったからこそ、今の弊店が有るのは確かです。時代と共に食生活やライフスタイルが大きく変わり、日本酒との関わり方も変化した今、改めて朝日酒造さんから手渡された“呼友のバトン”を、大切に送り届けるのが弊店の使命。このお酒を、多くのお客様に、「友」として受け取っていただければ幸いです。

・分類:純米吟醸
・原料米: 新潟県長岡市 あさひ農研産 五百万石
・精米歩合:55%
・アルコール度数:15%
・日本酒度:+3
・酸度:1.3
・製造元:朝日酒造(新潟県長岡市)

(この項「甲子屋酒店(きのえねやさけてん)」HPより)

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すっかり春(夏?)めいた「向島百花園」。その2。「青崖」。カルガモの番。

2025-04-23 14:10:30 | 向島百花園

「青崖」。

4月初旬に明るい紅色の新芽となり、夏の葉は緑に変わり、秋にかけてまた次第に紅葉していく。

          

「普賢象」。

オオシマザクラを基に生まれたサトザクラ群のサクラで日本原産の栽培品種のヤエザクラ。東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種。室町時代から知られ、名前の由来は、花の中央から出ている雌しべの先端が曲がっており普賢菩薩の乗る白象の鼻に似ているため。

「たむけやま」。

  

「こでまり」。

「かじいちご」。

 西洋たんぽぽ。            

しゅろ(棕櫚)。

 

陽光に輝く水面。

水音がするので近づくと、カルガモの番。

しきりに水中に潜り水草を。

カルガモがやってくる季節になったのですね。

しばらくすれば、カルガモの親子が見られるようです。

いちょうの新しい葉。

今度は、カルガモ親子を見に。

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