4月29日(祝)快晴。孫を連れて、わたらせ渓谷鉄道「通洞」駅まで出かけました。孫と前々から行く約束を果たすことに。
「浅草」から8:40分発・特急「りょうもう5号」。
「相老」で、わたらせ渓谷轍道に乗り換え、大間々から「トロッコ列車」に乗って、「通洞」に12:23着。
けっこう混んでいます。
少し寒いくらい、風が吹き抜ける。新緑の渓谷を行く。
「トロッコわっしー号」
新緑がまぶしい。
足尾駅に向かうトロッコ列車。
通洞駅。
通洞では、足尾銅山の廃坑へ。洞内をゆっくり見て回る余裕がなく、実にあわただしい旅でした。

廃坑内奥までトロッコで入っていきます。

同じルートで帰ってきました。「通洞」を13:33発。「相老」から「リバティりょうもう30号」で 浅草には16:55に着きました。
小学生の孫にはトロッコに乗ったこと、暗い坑内を歩いたことなどが思い出になったようです。
小生、足尾へは3回目。谷中村跡の遊水地へは1度行きました。・・・。
1610年、江戸幕府直轄の鉱山として、ここで「寛永通宝」などの銅銭・通貨の鋳造などが行われ、全盛期には年間1200トンもの銅が産出されました。明治以降は古河財閥の出資によって急速に発展。鉱員らが掘り進めた足尾銅山の坑道は総延長1200キロメートル以上といわれている。
地元では、「世界遺産」登録を目指しているようです。しかし、「足尾鉱毒事件」として知られる日本初の公害事件が発生した場所でもあり、その後も運営が続くものの、荒廃しきった山肌、下流への甚大な汚染・鉱毒。100年公害とも呼ばれるほどに汚染してしまいました。鉱山経営の「光と闇」をどうとらえるかが、大きな課題。
1970年代のようす。




(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
そして、現在のようす。
治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつある。平成8年(1996)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われている。
足尾銅山本山製錬所大煙突。
痛々しい岩肌。
銅の採掘・精錬が終了した後も、まだ鉱毒除去の作業が続いている。
水管橋。
足尾の山々を振り返る。
・・・そして、旧谷中村跡(「渡良瀬遊水池」)探訪記。
※遊水池(ゆうすいち)とは、洪水時の河川の流水を一時的に貯留させる土地のこと。
「渡良瀬遊水池」も大きな湖と一面に茅が生い茂っている草原だが、足を踏み入れられるのは、ごく一部に過ぎない。

屋敷と背後に田畑が広がっていた。
盛土(「水塚」)。
その上にかつての屋敷跡。
小さな祠が残されています。

足尾鉱毒事件
明治中期以降は、渡良瀬川が氾濫するたびに板倉町などとともに足尾鉱毒の被害を受けるようになり、以後、鉱毒反対運動の中心地となる。
1902年(明治35)、政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てる。しかし、予定地の埼玉県北埼玉郡川辺村・利島村(現在の加須市北川辺地区)は反対が強く、翌年には予定地が谷中村に変更になる。
1903年1月16日、栃木県会に提案されていた谷中村遊水池化案が廃案となる。この時点で谷中村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年7月30日から実質的に谷中村に移住した。
1904年、栃木県は堤防工事を名目に渡良瀬川の堤防を破壊。以後、谷中村は雨のたびに洪水となった。同年12月10日、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。このとき、谷中村遺跡を守る会によれば、人口2500人、戸数387戸。面積1000町歩。
鉱毒により作物が育たなくなった時点での価格が基準とされたため、買収価格は1反歩あたり田が20円、畑が30円と、近隣町村に比べ非常に安かった(約5分の1といわれる)。
末期には鉱毒で免租となったために多くの村民が選挙権を失い、村長のなり手がなくなった。このため、最後の村長は下都賀郡の書記官である鈴木豊三が管掌村長という形で兼任した。鈴木は税金の未納などを理由に村民らの土地を差し押さえるなど、廃村に協力した。
栃木県は1906年3月、4月17日までに立ち退くよう、村民らに命じた。3月31日、村に3つあった小学校のうち2つが、谷中村会の議決を経ることなく強制的に廃校になった(残りの1つは藤岡町立となり、1913年3月末まで存続)。4月15日、谷中村会は藤岡町への編入合併案を否決。5月11日、栃木県は7月1日をもって谷中村を藤岡町に編入すると発表。7月1日、管掌村長の鈴木は、栃木県に、谷中村は藤岡町に編入したと報告。谷中村は強制廃村となる。この時点での人口は島田の推計で1000人、戸数140戸。しかし、一部の村民は村に住み続けた。
1907年1月、政府は土地収用法の適用を発表。村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出た。多くは、近隣の藤岡町や茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)などの親類宅に身を寄せた。この年、島田による推計で村の人口400人、戸数70戸。最後まで立ち退かなかった村民宅は6月29日から7月2日にかけ、強制執行により破壊された。破壊された戸数は16(堤内13戸、堤上3戸)。しかしこの16戸(田中正造も含む)はその後も村に住み続けた(のちに1戸減)。
1908年7月21日、政府は谷中村全域を河川地域に指定。
1911年、旧谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始。この地は現在の常呂郡佐呂間町栃木である。しかし、移住民のほとんどが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷することになる。
1912年、買収額を不当とする裁判の判決が出る。買収額は増やされたが村民らは不満として控訴。1919年には買収額を5割増しとする判決が出たが、村民達には既に裁判を続ける気力が残っておらず、そのまま確定した。
1914年、残留村民らが田中正造の霊を祀る田中霊祀を建設したところ、河川法違反で連行され、裁判で罰金刑を受けた。なお同様の裁判はこれ以前にも数例ある。いずれも、仮小屋に住んでいた元村民が小屋の修理をした際に河川法違反に問われたものである。
1917年(大正6)2月25日ごろ、残留村民18名が藤岡町に移住。ほぼ無人状態となる。田中霊祀も同年3月に藤岡町に移転した。
2022年10月31日現在、旧谷中村の大字に当たる栃木市藤岡町下宮と同市藤岡町内野に若干名が住み、かつての藤岡町恵下野は無住となっている。栃木市藤岡地域内に旧谷中村合同慰霊碑が、渡良瀬遊水地内に谷中村役場跡・雷電神社跡などの遺構があり、見学することが可能である。
《村民の主な移転先》
大字ごとに傾向が分かれ、下宮からは茨城県古河市、内野からは藤岡町、恵下野からは野木町への移転数が最多であった。全体での移転先は多い順に下記の通り。
(この項、「Wikipedia」より)
※足尾銅山跡、旧谷中村跡・渡良瀬遊水地は2023年秋に続けて訪問しました。