三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

鹿児島・夫婦強殺:無罪 裁判員裁判、死刑求刑で初 地裁「指紋鑑識不十分」

2010年12月11日 | 死刑

鹿児島・夫婦強殺:無罪 裁判員裁判、死刑求刑で初 地裁「指紋鑑識不十分」
 鹿児島市で09年、高齢夫婦を殺害したとして強盗殺人罪などに問われた同市の無職、白浜政広被告(71)の裁判員裁判で、鹿児島地裁(平島正道裁判長)は10日、無罪(求刑・死刑)を言い渡した。判決は「現場から見つかった指紋とDNA鑑定の一致だけでは、被告を犯人と推認するには遠く及ばない。ほかの状況証拠を含め、犯人と認定することは『疑わしきは被告人の利益に』の原則に照らして許されない」と述べた。
 判決はDNAについて「鑑定は信用できるが付着場所が断定できない。過去に網戸を触った事実にとどまる」と認定。たんすの指紋は「被告が過去に触った事実は動かないが、その後に別人が物色した偶然の一致も否定できない」と述べた。ガラス片の指紋も「割れたあとに付着したとは断定できない」とした。
 判決は、弁護側が主張した指紋の捏造やDNAの偽装については否定。「被害者宅に行ったことはない」と述べた白浜被告の証言も「うそ」と認めたが、「その一事をもって直ちに犯人と認めることはできない」と述べた。すべての検討の結果を踏まえて「本件程度の状況証拠で被告を犯人と認定することは許されない」と結論付けた。
(毎日新聞2月10日

100%無実だという判決ではないようである。
指紋とDNAは一致し、「被害者宅に行ったことはない」という被告の証言も嘘だと認定してる。
だけども、裁判員は無罪推定の原則に照らして無罪判決を出したわけである。
有罪の立証をするのが検察の仕事で、弁護側に無罪を立証する責任はなく、検察が有罪の立証ができず、有罪とすることに疑問が残るなら無罪にしなければならない、というのが無罪推定の原則である。
「検察官が有罪だと言うその言い分が、本当に間違いなく正しいか」ということを皆で考えるのであって、「検察官と弁護人とどちらが正しいか」ということを決めるのではない」(川副正敏日弁連副会長)

そうはいっても、無罪判決には納得できない、犯人かもしれないのに無罪放免するのかと感じる人は多いだろうし、私も正直なところ、ほんとのところはどうかなとは思う。
また、真犯人かもしれない人間がのうのうとしているんじゃ安心できない、と考える人もいるだろう。
だが、伊藤真『なりたくない人のための裁判員入門』に、
「刑罰はただでさえ強力な人権制限ですが、もし真犯人ではない者を処罰してしまったら、これ以上の人権侵害はありません」とあるが、無実の人を死刑にしたのでは取り返しがつかない。
伊藤真氏は「社会のために個人を犠牲にしてはならない」と言う。

個人の人権と社会の秩序について、村井敏邦・後藤貞人編『被告人の事情 弁護人の主張』に、アメリカ第二代大統領ジョン・アダムスのこんなエピソードが紹介されている。
ジョン・アダムスは、アメリカ独立直前の1770年に起こったボストン虐殺事件で、イギリス兵の弁護をした。
イギリス軍による群衆への発砲によって多数の市民が死亡したこの事件で、8人のイギリス兵が殺人罪で起訴された。
ボストン市民の怒りはイギリス軍や被告人に向けられ、さらには被告人を弁護しようとする人間にも向けられた。
「被告人をリンチにかけるといううわさも流れるなか、弁護人の身にも危険が及ぶおそれがあったため、あえて弁護人を引き受けようとする者がいない」
光市事件を連想させるような状態だったわけである。
そんな中で危険を顧みずに弁護人を引き受けたのがジョン・アダムスと友人の弁護士である。

ジョン・アダムスはこう言っている。
「弁護人は、自由な国家において告発されている人が必要とする最後のものです。法曹というものは、どんなときにでも、また、どのような状況下でも、独立しており、公平なものでなければなりません。生命の危機にさらされている人は、その人が望む弁護人をもつ権利があります」
村井敏邦氏はこう説明する。
「もし、ここで弁護を引き受ける人が1人もいないということになると、これから独立しようとするアメリカには人権意識がないということになる。アダムスたちは、そのように考えたようである」
人権を大切にしない国は他国から相手にされないということか。

ジョン・アダムスは「1人の無罪者を処刑するよりも、多数の有罪者が処刑を免れるほうが、社会にとって有益である」と論じた。
個人の人権を重んじることが社会の秩序を守ることにつながるということである。
その結果、陪審員たちはイギリス兵ら9人のうち2人を除いて無罪の判決を下した。
「このように、陪審員をはじめとして、裁判が行われている地域住民すべてにとって憎むべき敵と思われる人間を弁護した弁護士の弁論に感銘を受け、冷静に無罪推定の原則に沿って判断をした、当時のボストン市民の持つ冷静さと公平性は、現在の日本において果たしてあるだろうか」と村井敏邦氏は書いている。
今回の裁判の裁判員は「冷静さと公平性」があったように思う。
個人を大切にしない社会は、みんなを幸福にしない社会である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 死刑執行人の哀しみ 3 | トップ | 死刑と人権 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

死刑」カテゴリの最新記事