三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

政治の宗教利用

2017年11月26日 | 戦争

大昔になりますが、2004年4月7日、小泉首相の靖国参拝は違憲であるという福岡地裁の判決について、「産経抄」には次のように書かれていました。

裁判官に対する不信を強く感じた。一体、死者の慰霊や鎮魂ということへの日本の伝統文化をどう考えているのか、常識を疑ったからである。
国のために死んだ人々は英霊となり、靖国神社にまつられて“神”となる。おまいりすることはいわゆる宗教活動ではない。先祖をうやまう人間的で自然な儀礼なのだ。

毎日新聞でも岩見隆夫「粗雑すぎる靖国・違憲判決」と題したコラムに、「首相参拝がなぜ宗教的意義を持つかわからない」とありました。
神道は宗教ではないという国家神道の亡霊が今も生きているわけです。

慰霊や鎮魂、そして死者を神として祀ること、そして宗教法人に参ることが伝統文化であり、宗教とは別物だという主張に、神道関係者は抗議したのでしょうか。
靖国神社に参拝することは「宗教活動」ではなく、「宗教的意義」がないという新聞記者の無知は、宗教教育をおろそかにした戦後教育のせいかもしれません。

戦死者が靖国神社や護国神社に神として祀られることによって遺族が安心するという心情を政治が利用し、国のために死ぬ人を再生産する役割を靖国神社ははたしてきました。

島薗進氏は中島岳志氏との対談でこういうことを話しています。

大正デモクラシーの時代というのは立憲政治が整っていく一方で、社会史的に見ると結局天皇と一体感を持つ臣民を育てて、いわば下からの国家神道がどんどん育っている時代でもあった。(略)
とくに戦争が始まると、我が身を犠牲にするような軍人・兵士をマスコミは褒め称え、さらに民衆が喝采を送り、軍人・兵士も帰隊されたように振る舞うという循環構造になっていったわけですよね。(『愛国と信仰の構造』)

宗教を利用して国民の心を支配してきたわけです。
英霊は靖国に祀られると言って特攻に送り出すことと、殉教者は天国に生まれると教えられて自爆テロをする人とどう違うのか。

井上亮『天皇の戦争宝庫』は、皇居にある御府(ぎょふ)について書かれた本です。
日清戦争、北清事変(義和団の乱)、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、済南事件・満州事変・上海事変・太平洋戦争の戦利品や戦死・戦病死者の写真・名簿を収蔵した5つの建物が皇居内にあり、天皇が英霊に祈りを捧げていると伝えられていました。

井上亮氏は小川勇『全国大社詣』(1944年)から引用しています。

苟しくも殉国した者に対しては其(その)霊は神として靖国神社へ合祀せらるゝのみならず、一々生前の写真を一室に保存し随時陛下に親しく玉歩を其(その)室に御運び遊されて、写真の傍に附記してある説明と引合はせて其(その)者の勲功を嘉し給ふと云ふ真に勿体ない事実を拝聞し、此でこそ吾々日本国民は国に殉ぜんとする際、必ず天皇陛下万歳を絶叫して死ぬ事が出来わけであると実感した。

御府は明治天皇の思し召しによって作られました。
天皇は臣民のことを常に考えている、ありがたいことだ、だから天皇のために尽くさなければならないという宣伝をしていたわけです。

一身を大君に捧げまつることは、もとより私ども臣民の本分である。更に、武人として戦場の華と散ることは、この上ない栄誉といはなければならない。しかも皇恩のありがたさ臣下の霊を神として靖国神社にまつらせたまひ、その遺影をさへ、高く御府に掲げたまうてゐるのである。この事を思ふ時、私どもは、たゞ感涙にむせぶほか、全く言ふべきすべを知らない。(1944年の高等科修身教科書)

戦没者が靖国神社に合祀された後、遺族は御府を拝観していました。
御府は「皇居の靖国」だったのです。

井上亮氏はこのように書いています。

天皇のために死ぬことが栄誉であるとかつてないほど強調されたアジア・太平洋戦争期、戦没者の霊は靖国神社に祀られ、遺影は御府に納められることがその栄誉の裏付けだと教育されていた。御府は靖国神社とセットで国民を戦争へ動員する装置になった。

敗戦になると、写真や戦利品は処分され、御府は廃止されました。
現存している建物は倉庫として利用されているそうですが、御府地区には立ち入ることはできません。

「戦争犠牲者は戦後の平和と繁栄の礎だ」という考えを、一ノ瀬俊也氏は「礎論」と名づけて批判しています(伊藤智永『忘却された支配』)。
戦争で命を落とした人たちは、自分がこの業苦を受忍すれば、日本は平和に栄えるはずと信じて死んだのか。
「礎論」は、生き残った者たちがやましさを取り繕い、因果をすり替えて唱和しているのではないか。
そこには、罪と責任から逃げたい心理が潜んでいる。
これは靖国神社に対する心情と同じだと思います。

追悼と謝罪は、折り合いが良くない。純粋に死者を悼む、その気持ちだけでは、謝らねば、という心境までたどり着かない。祈るなら、まず謝るべきだ、という主張は、往々にして素朴に悼む人たちを遠ざける。追悼は大衆の俗情で、謝罪は思想が陥る過剰な倫理なのか。どちらも和解への手順なのに、互いの道筋が交わらず、日本の中で分裂している。さらに和解の相手が、どちらが「正しい」かを言い出すと、反発が起き、分裂は過熱する。


村山富市首相は戦後五十年談話を出す前、文案を橋本龍太郎通産相に届けると、橋本龍太郎氏は「これでいい」と即答し、一つだけ、文中に「敗戦」と「終戦」が交じっていたのを、「潔く敗戦に統一したほうがいい」と注文したそうです。

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