『あの世の話』で、佐藤愛子氏が江原啓之氏に「死後の世界はどうなっているのか」「霊とのつき合い方はどうすればいいのか」などと質問し、江原啓之氏が明解に答えている。
「講釈師 見てきたような嘘を言い」というのが私の感想。
霊についての細かい説明はいかにももっともらしいし、江原啓之氏自身の超常体験(小学校では人のオーラがまぶしくて黒板の字が読めなかったなど)は、主観的には実体験かもしれない。
指導霊が天狗だと傲慢になりやすい(鼻が高くなる)、狐霊はずるい一面を持つ、龍神だときつい性格などの説明はほほえましくもある。
また、江原啓之氏によると、人は15%ほどの霊能を持っているし、霊媒の体質は家の跡継ぎに多いというが、長男の私はそんな能力はなくまことに残念である。
それくらいならいいのだが、江原啓之氏はトンデモなことを言ってる。
たとえば、精神分裂は憑依現象であり、ノイローゼ、躁うつ病も憑依体質が出すものだ、病院に行くよりも心霊の治療をすべきだといったことである。
精神をわずらっている人が霊能者のもとへ行けば、よくなるものも悪くなる。
さらに江原啓之氏はこんな発言をしている。
例えば、自分は殺されたとします。自分が殺されることができるというのは、人がいるからだと。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる。
この暴言に対して、あの口の悪い佐藤愛子氏は「なるほど」としか言わない。
ええ~、信じられますか。
オウム真理教のポアとまったく同じ考えである。
殺した人に感謝しなさいなんてお説教を被害者遺族が読んだらどう思うだろうか。
「人を殺す経験をしてみたかった」というので見知らぬ人を殺した高校生がいたが、江原啓之氏に弁護してもらえばよかったのに。
佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』2
北海道・浦河にべてるの家という精神障害者の人々がつくるコミュニティ(作業所、社会福祉法人)があります。そこでは、当事者みずからがさまざまな発言をしています。幻聴や幻覚があることを否定されず、仲間と愉快なコミュニケーションをしていくうちに幻聴も愛嬌のあるものに変わっていくそうです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4260332104/ref=pd_bxgy_img_2/250-9009850-0921823
私たちでも、睡眠時や飲酒時、麻薬服用時(笑)、交通事故に会う瞬間などは脳の状態が変化し、通常の意識とは違うモードに入ります。それを、その人が属している言語圏、文化圏という「社会的文脈」の中でいろんな解釈がなされるものと思います。で、江原さんもそういう方面の知識をお持ちになれば、別の説明も可能だということが、おわかりになると思いますが、そうなるとショーバイができなくなると思います。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/%7ehirukawa/anthropology/intro.htm
江原さんたち自称「霊能者」は、たとえば
http://www.shunjusha.co.jp/book/32/32213.html
あたりの「古典」を底本に霊界のことを語っています。だからそこに書かれてないことは、「わからない」というんですよ(笑)。30年ほど前にこの手の話をウンザリするほど調べた私が言うんだから間違いない!(笑)。
事物ははたして実在するのか?
過去の記憶ははたして実際に体験したことなのか?
私が「赤い」と思っている色は他の人にも「赤い」のか?
などなどの問題提起がされてまして、結局のところわからない、不可知論という印象です。
答えを出すよりも、新たな問いを出し続けることが大切なんでしょうが。
他者との意志の疎通ができるのか、言わんとすることを理解しているのか、たしかに怪しいものです。
妻と私との会話なんて、もろそんな感じです。
そして、変なことを言う人はいくらでもいるわけですが、はたして本当に変なことを言っているのか、それとも私の受け取り方がおかしいのか、おかしいのはどっちなのか、疑問ではあります。
妻とだと、もちろん妻のほうがおかしいのは自明ですが。
ま、それはともかく、やはり人に迷惑をかけちゃいけないと思うわけです。
で、江原啓之とか、その手の人は悪気はないかもしれないけど、人を迷わせ惑わせていることは間違いないわけで、きちんと弾劾すべきです。
本願寺もこういうのを放っておくべきではないと思うのですが、クレームに弱い本願寺のことですからねえ。
「あの世の話」を読みますと、やはりかのスウェーデンボルグの受け売りから始まり、日本の八百万の神々が登場しと、プロジェクト卍さんほどではないにしても、この手のものが好きな私にとって目新しいことはありませんでした。
それにしても思うのは、同業者の棲み分けですね、大川隆法とか飯田史彦とか織田無道(すでに過去の人ではありますが)といった似たような死後観、霊魂観をお説教する人とはどのように競合せずにやっているのでしょうか。
このような、神仏は一切いないと答える人。全部いらっしゃるけれど、霊位に差はないと答える人。真言系統の行者さんなので、大日如来を筆頭にあげる人とまあ、こんな具合で住み分けておられます(笑)。
死者は死んでも、生前と同じ肉体感覚を持つから、自分が死んだことにしばらくは気がつかない、あるいは交通事故で亡くなった方など特に自覚がないと、江原さんは何かで発言していたと思います(「マイヤーズ通信」にも霊媒に対して死者がそういうメッセージを送っています)。丹波哲郎さんの映画『大霊界』などでは、生前、視覚障害者だった人が目が見えるようになると描かれてました。果たしてヘレン・ケラーの霊は、死んで目が開き耳が聞こえるようになったとして、では視力や聴力はいったいいくらなんでしょう。
私は脊髄損傷の人の介護をしていましたが、
交通事故で身体は何の欠損もないのですが、首から下の感覚を失っておられました。逆に、事故で腕を切断された方の、いまはもうないはずの腕が痛む「幻肢痛」という症状があります。これらの症状は、霊界ではどうなるのでしょうか。認知症で床に就いた私のオヤジは、どの年齢まで回復するのでしょうか。
野矢さんの『哲学の謎』『ここにないもの』『はじめて考えるときのように』などの、対話形式でやさしく書かれた哲学本などを読むと、生きてるこの世界でさえ、よくよく考えると謎
に満ち満ちている(言語では説明しきれない現象、当たり前だと思っていることも少し考えれば、言葉を使って首尾一貫した説明をしようとすれば、たちまちパラドックスに陥る)ことがわかります。野矢さんは、固有名を出さずに、歴代の哲学者たちの「懐疑、問い、学説」を提出されます。そして、それには様々な哲学者の答えがあります。
スピリチュアル派の人々にも一度読んでもらったら、再び人生や死後の世界が不安になること請け合いです(笑)。
こんな本をよくご存じですね。
いやはや、プロジェクト卍さんの情報量には驚きます。
死んだらどうなるかですが、肉体はなくなり、精神的存在となる、という考えが今時の風潮だと思います。
そうそう、このことについてブログに書けますね。
ネタ切れで書くことに苦労しています。(笑)
>生前、視覚障害者だった人が目が見えるようになると描かれてました。
ヘレン・ケラーは先天的な視覚障害者ではありませんから、見えるというのがどういうものかわかっているでしょうが、先天的な視覚障害者は見える経験をしてませんから、目が見えるようになるのは無理じゃないでしょうかねえ。
だって、肉体がないんだから眼球も視神経もないわけだし。
>野矢さんは、固有名を出さずに、歴代の哲学者たちの「懐疑、問い、学説」を提出されます。
それが私にはいささか不満でもあります。
たとえば、思考の過程を語っていくよりも、こういう説があるんだと、まず箇条書きにでもしてあればわかりやすいように感じました。
で、言葉と事象との関係がどうなのかについても『哲学の謎』で論じられています。
事物があって言葉(名前)がつけられるのか、言葉が生まれて事物が存在するのか、文の中で言葉と事物が結びつけられるのか、という考えが示されています。
その部分を読みながら、井筒俊彦『意識と本質』を思い出しました。
「花」と言えば、いろんな花があるにもかかわらず、花一般のことだとわかります。
それは花には花性というようなもの、花の本質があるからだ、花の本質に「花」という言葉が名づけられた、というところから『意識と本質』は始まります。
ところが、仏教は無自性だから、本質というようなものは認めない。
つまり、仏教は言葉と事象との一対一の対応は認めないということになるんでしょうか。
だったら、どうして「花」という言葉で花一般を指すとわかるのか。
『哲学の謎』では、語の意味を学んで文を組み立てるのではなく、文のやりとりの中で語の意味を理解するようになる、という考えが話し合われており、なるほどと思ったわけです。
それは、私自身がトンデモさんだからです(笑)。
>事物があって言葉(名前)がつけられるのか、言葉が生まれて事物が存在するのか、
故・丸山圭三郎さんによれば、前者は言語名称目録説といってアウグスティヌス以来、西洋のオーソドックスな言語観で、後者がソシュールの考え方だそうです。
>たとえば、思考の過程を語っていくよりも、こういう説があるんだと、まず箇条書きにでもしてあればわかりやすい
う~ん、それをするとゴチャゴチャした哲学史みたくなるんじゃないでしょうか。たとえば、これはソシュールの考え方だけど、インドでは6世紀にディクナーガという人が似たアイデアを出していて。。。とやりだすと一冊に納まらないような。
でも、信仰って何でしょうね。仏さんや神さんや霊、あるいは天国や浄土や霊界の実在を信じることでしょうか。この情報化時代、聖書や仏典の文献学も進んでるし、そこに書いてあるから信じるっていうのもどうですか。。。
たとえば、世界の中心に須弥山がそびえていて。。。というヴァスバンドゥの須弥山世界説。これをそのまま真に受けるか?私たちが学校で教わる科学的な宇宙像とどう折り合いをつけるのか。。。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/shumisen.htm
須弥山はやっぱり、モデルはヒマラヤでしょうし、贍部州はインドだし。それぞれの民族の文化、風習、伝統は大切にしなきゃらならないと思うのですが。また、スピリチュアリズムもたとえば、霊媒に死者が霊界の模様を語ったものをストレートに記しているというより、(進化論者の)ウォーレスの思想が混入していたりするのではないでしょうか?
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/wallce.html
たとえば、花とは何かを説明するのは難しいですね。
だけど、「その花を取ってくれ」というような文によって、花とはこういうものだなという認識がだんだんと生まれるわけです。
日本の英語教育は言葉と事物の結びつきの積み重ね、つまり単語を記憶することで英語ができるようになるという考えですが、まずは文を聞き取る、その中で単語の意味も理解するようになるのが自然ではないかと思いました。
もっとも、私なんて単語すらろくろく覚えなかったのですから、もうどうしようもありませんが。(笑)
>それをするとゴチャゴチャした哲学史みたくなるんじゃないでしょうか。
野矢茂樹「哲学の謎」は日常の言葉で対話していくわけですから、理解しやすいはずですが、結構難しいと思うんですよ。
ある程度の知識があれば別ですが。
教科書や参考書風に、最初に問題点を整理してあって、そしてその問題点を論じてくれれば、と哲学素人は思いました。
無い物ねだりですが。
>信仰って何でしょうね。
物語を信じる、というのはダメですか。
>たとえば、世界の中心に須弥山がそびえていて。。。
明治維新の際、日本の仏教者は仏教的世界観、つまり須弥山が世界の真ん中にあることを必死になって証明しようとしたそうです。
それがキリスト教から仏教を守ることになるというので。
物語を信じるということはそういうことではなくて、自分なりの世界観を持つというか、うーん。
>スピリチュアリズムもたとえば、霊媒に死者が霊界の模様を語ったものをストレートに記しているというより、(進化論者の)ウォーレスの思想が混入していたりするのではないでしょうか?
これはどういうことでしょうか。
「霊的で目的論的な創造力が進化を導いている」というウォレスの考えが、その後のスピリチュアリズムに影響を与えたということでしょうか。
しかし、「霊的で目的論的な創造力が進化を導いている」ということは神の摂理とどう違うのでしょうか。
>寝たきりにちかかった幼き日、遊び歩くという、子どもにとっては生来の権利・自由も、私にとっては夢のまた夢だった。兄が私に見せようとオタマジャクシやトンボを取ってきてくれると、その目のまえで、オタマジャクシの缶詰めを作ったり、トンボの足をむしって糸をつけ、永久に飛びつづけさせようとしたり。また、あるときは、妹の人形を取りあげて、自分がされたとおなじ手術をその人形に施したりもした。「やめて!」と泣きながら頼む妹の声を聞きながら、メスにみたてたナイフを人形の足に入れたのだった。小さな純子の閉ざされた自由への激しい渇望は、いくえにも屈折して表現されつづけた。
歩けないことが悲しいのではない。車椅子で動くことがつらいのではない。私の絶望と無力感は、障害を持つ女性にたいするさまざまな思いこみと、その思いこみのうえにつくりあげられた社会システム、そうしたものがもたらす抑圧からきているのだ。<
あるスピリチュアル系のブログ。
http://www.paperbirch.com/groupsoul/groupsoul5.html
中ほどに障害者についての<霊訓>があります。安積さんの言葉は、障害を持っていることが悲しいのではない。障害者に対する「偏見」が私を苦しめる、といわれてます。スピリチュアリズムは、本人がその境遇を選んだのだ。不平・不満はこぼすなかれと、「健常者」の側の偏見を問わないわけですね。私は、「死んだ人」の言葉を聴くより、まず「生きた人」の訴え、叫びを聴くことの方が大切だと思います。
やれやれ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050928-00000008-ykf-ent
安積遊歩『癒しのセクシートリップ』は私も読みました。
障害者の性や怒り、あるいは障害者が障害者を差別することなど、率直に語られており、教えられました。
>スピリチュアリズムは、本人がその境遇を選んだのだ。不平・不満はこぼすなかれと、「健常者」の側の偏見を問わないわけですね。
生まれる前に今度の境遇を自分で選ぶという考えは、臨死体験や前世療法から生まれたのかと思っていましたら、プロジェクト卍さんが紹介されたサイトを見ますと、1932年発行の本にすでに説かれているそうで、さかのぼればもっと以前からこうした考えが説かれていたんでしょうね。
この考えを説く本を何冊も書いてベストセラーにしているのが飯田史彦なんですが、
http://kobe.cool.ne.jp/so2002/realaim/Lifeindex.html(「生きがいの夜明け」)
ひろさちや原作のマンガ「浄土の話」でも同じようなお説教がなされています。
恥ずかしい話ですが、孫を亡くした人にひろさちやが話をするという、このマンガを読んだ時、私はなるほどと思いました。
そして、お子さんを亡くされた方たちにこのマンガを差し上げました。
やはり魅力があると思います。
なぜなら「「生きた人」の訴え、叫び」に、魂の成長のためなんだと答えを与えているわけですから。
情に訴えるものがあるんでしょう。
なかなか手強いシロモノです。