三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

正木晃『お坊さんのための「仏教入門」』(2)

2014年11月30日 | 仏教

正木晃『お坊さんのための「仏教入門」』によると、テーラワーダ仏教(上座部仏教)は「私たちの仏教だけが真実の仏教だ」と、ことあるごとに言うそうだ。
しかし正木晃氏によると、テーラワーダ仏教が現行のかたちになったのは5世紀で、ブッダゴーサが正統な仏典だと考えたものをまとめた。
19世紀にスリランカで、テーラワーダ仏教の僧侶がキリスト教の牧師を論破したことによって、欧米でもスリランカの仏教に対する評価が高まった。

現在、世界中で正式な比丘尼がいるのは台湾だけらしく、テーラワーダ仏教には尼僧はいない。
ビルマの尼僧はスリランカの尼僧に戒を授けてもらったと聞いたことがあるが、スリランカの尼僧は在家と出家の中間的な存在で、正式な比丘尼ではないそうだ。
しかも百年ほど前にキリスト教の尼僧を模倣して誕生したという。
ほんまかいなと思ったが、ネットで調べたらその通りらしい。

スリランカから来たスマナサーラ師はよく対談していて、正木晃氏も対談しようと持ち掛けられたが、お断りしたという。

スマナサーラさんは論争好きというか、いささかならず攻撃的というか、自分たちの仏教が正統であることを証明したいあまり、とにかく相手を徹底的に論破しなければならないと思い込んでいるふしがあります。(略)
もともと、テーラワーダ仏教にかぎらず、インド仏教には、論争好きなところがありました。しかも、「ああいえば、こういう」式なので。そのせいでしょうか、論争に関してはひじょうによくできていて、論争をあまり好まない日本仏教の方式では、絶対に勝てません。


論争というか、討論というか、そういうのが仏教の伝統らしく、チベットでは僧侶が問答をし、問答に勝つことによって学位を得られるそうだし、禅問答という言葉もあるし、日本でも問答が中心の法要が行われている。
龍樹の弟子の提婆はあまりに厳しく外道を論破するので、外道に殺されてしまったという。
しかし、議論の勝ち負けは技術によることが大きいから、あるテーマについて議論をし、相手を言い負かしたほうが正しいということにはならないと思う。

正木晃氏の仏教についての考え。

私は、仏教はブッダという方が始めたものだと思っています。以来、約2400年、いろいろな人々の智恵がそこに蓄えられている壺のようなものが、仏教だと考えています。ブッダが始め、そこにさまざまな叡智が結集してきたその歴史、そのすべてが仏教なのです。


なぜテーラワーダ仏教は世界宗教になっていないのか。

宗教にかぎらず、あらゆるものは変容するのです。その変容がよいか悪いか、なかなか解釈が難しい。依って立つ立場によって違うのかもしれませんが、少なくとも、原始仏教とよばれているタイプの仏教が、何も変わらず、そのままのかたちで残ったとしても、世界には広まらなかったと思います。結局、根本仏教・原始仏教は、インドと同じような社会構造をもったところにしか広まらないのです。だから、世界宗教になれませんでした。
仏教は大乗仏教になったからこそ、世界へ広まったのです。


インドやチベットの仏教は輪廻転生を前提としているから、動物以外の植物や自然環境は救済の対象にならないのに、ダライ・ラマが「草木国土悉皆成仏」と言い始めたということを正木晃氏は紹介している。

私がいいたいのは、生まれ故郷のインドの仏教から、いちばん遠いところに展開してきた日本仏教には、本家本元のインド仏教よりもすぐれたところがある、ということです。

このように正木晃氏はまとめている。

私が思うに、テーラワーダ仏教の瞑想にはまる人がいれば、ダライ・ラマに帰依する人もある。
私はA・スマナサーラ『死後はどうなるの?』はニューエイジ的で好きになれなかった。
正しいかどうかということよりも、相性ではないかと思う。

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